過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

いしぶみ18号(2)

       大宰府とランビキ
      
                       宮城県考古学会前会長 桑原 滋郎
 
 11月多賀城市と大宰府市は友好都市を締結した。特別史跡平城京跡(奈良市)・大宰府跡(太宰府市)・多賀城跡は『日本三大史跡』といわれる。両市にはそれぞれその一つが有ることが御縁。奈良・平安時代、多賀城と大宰府は一方が東日本、他方は九州全域統治の中心であり、共に支配の範囲は極めて広かった。さらに前者は対蝦夷政策、後者は対中国・朝鮮政策という外交をも司った。宮城県が多賀城跡を継続的に調査する研究所を設立したのは1969年、福岡県は既にその前年大宰府跡の調査を開始していた。程なく、広島県は福山市草戸千軒町(クサドセンゲンチョウ)遺跡(中世の門前・市場・港町)に、福井県は朝倉氏(アサクラシイチジョウダニ)遺跡(戦国大名の城館)に調査機関を設置し、大規模な遺跡を持つ4県の交流が始まった。特に多賀城と大宰府は性格が共通する事もあって、研究所発足当初から親しいお付き合いがあった。
 1972年の正月、私は同僚の平川南君と初めて大宰府見学に訪れた。都府楼=政庁跡発掘調査現場の詳しい説明の後、急速に遺構の所在が判明し、注目を集めていた、大野城跡のご案内を頂いた。大野城跡をくまなく歩き回る遺構確認作業には大変な苦労を伴ったと思われる、加えて調査主任の藤井功さんは口の悪い方だったので、「たやすく遺跡見られると思ったら大間違いだ!お前等には道は歩かせんぞ、ドレ真っ直ぐ行くか」等と呟きながら、都府楼後方から藪を漕いで登山?を開始した。大野城跡は多賀城と違い数百m級の山をすっぽり包み込むような遺跡で、大宰府の後方にそびえ立つ。折りからの霙、寒いし足元は悪い、若輩ゆえ文句も言えず黙して従うのみ。途中の平場には建物跡があり、また多賀城の築地とは比較にならない規模の土塁や、広くて深い谷を跨ぐ石垣を目の当たりにした。この寒中修行?で西日本の代表的山城を実感し、東北城柵が共通項目でとらえられてた頃のこと、印象は強烈であった。
 見学後の友好は当然酒、1次会を終え、薄汚れた居酒屋に流れ、2次会に及んでいたところに、若い二人連れが入ってきた。既に相当入っているらしく、声高な会話、こちらの耳にも入る。「俺なこの間北海道に行って驚いたの何の、言葉が全然通じなくてな、皆ダンベエーよ、それに食い物何もなくて芋ばかりよ、北海道なんてお前!『芋喰ってダンベエだぞ!』と・・・。
 私が北海道と知っているから平川君はクスクス笑うし、藤井さんも「桑原あんな事言わせておいて良いのか」と焚き付ける。私のことを酒癖が悪いという向きもあるが、この程度は北海道育ちのおおらかさで聞き流した。それにしてもはるばる福岡まで来て、こんな有りもしない話を聞こうとは、初めての大宰府見学での小癪な思い出。
 お互い行き来があると、土産物=名物の交流も当然だ。大宰府の方が見えると、福岡の麦焼酎「ランビキ」を持参されることがままあった。私の酒の師匠は工藤雅樹先輩で、日本酒の味わい方をとくとご教示いただき、酒と言えば日本酒と決めて、「焼酎なんか味もない」と思っていたが、アルコール度40のランビキなる焼酎をやってみると実に美味い、後口や酔い覚めが何とも爽やかで、すっかり虜になってしまった。しかし酒屋で探すも見当たらず。そこで「ここは一つ取り寄せ」と言うことになった。79年の暮れ、給料近くに、私がその音頭を取った。当時その話に乗ったのは、進藤秋輝、白鳥良一、高野芳宏君等飲んべえ諸公だ。ところが事も有ろうに中身も確認していない私の給料が盗難にあった。資料館・研究所では例を見ないくらい事件、焼酎の「取り寄せ」は消し飛んだ。
 81年に私は、15年間慣れ親しんだ多賀城を離れ、文化庁に勤務し、埋蔵文化財保護行政に当たることとなった。赴任直後、当時福岡県文化課長の任にあった藤井功さんが見えた。人が少なくなったのを見て、藤井さん曰く、「イイカお前!これからは調査官として全国を回る、担当は勿論、課長・教育長或いは首長とも会うことも多い、そんなとき文化庁風吹かせたら、俺が承知せんゾ!相手はお前に頭を下げるだろうが、それは文化庁の金に下げるんだ、その辺を良く心得ろ!」。突然やや乱暴に言われたこともあって、その通りと感じたが、発言の真意を測りかねていたところ、藤井さんが続けた。「桑原なあ、人間なんて弱いものぞ、今お前は地方に出向いて威張ったりしないと思っているだろうが、調査官・調査官と大事にされ、ペコペコされたら、その気にもなる。実は俺に経験があるんだ。亜先年浩宮(現皇太子)が福岡県にお出でになった、その折り、俺も車の行列に加わった、沿道は日の丸を振る人で溢れている、初めは俺もう恥ずかしくてな、車で小さくなっていた、それがなあ・・・2日3日経つと、気がつけば俺も沿道の人々に手を振っていたんだ・・・、その場に置かれると気持ちが変わる、人間なんて弱いもんだ、良いか桑原この辺のこと忘れずに名!」有り難い忠告の一喝、忘れがたい。
 暫らく後に福岡県に出張した折り、懇親会で焼酎が出た。少々酔って、露と消えた「ランビキ取り寄せ」の悲話?を開陳に及んだ。藤井課長「オーオー気の毒、俺が土産に・・・」と慰めてくれた。帰途飛行場での担当の方が「課長から」と言ってランビキ数本手を手渡してくれた。心弾んでチェックインを済ませ、待合室で一息つく頃、場内アナウンスが「桑原様、東京の桑原様」と私を呼ぶ、「ハテ?」と思い指定の場所へ急ぐと、ニヤニヤした担当の方「調査官上着わすれました」。土産のランビキを右手にしっかり持った時、それまで抱えていた上着が離れたらしい。酒に目がくらんだ愚か者、40度のランビキを一気飲みしたように赤面した。
 



      多賀城の地名

                      宮城県地名研究会会長  太宰 幸子
    金堀  かねほり

 縄文時代にはここまで海が入りこんでおり、前期初頭のハマグリ貝塚が発見されている。また、計帳様断簡の漆紙文書が見つかった地として知られる。
金堀の北西、現在の加瀬沼エリアになっている地に、金沢という地名が広がっている。金沢は、カネのある沢。つまり地中に鉱物資源をもつ沢となる。その南側が金堀だから、おのずとその意味が理解できそうだ。この地に金鉱をみつけ、採掘した地が金堀である。
金堀の北東に鎮座する貴船神社は、昔、白山神社であったという。白山修験は、製鉄にも造詣が深く、その技術を各地へ持って歩いたという。製鉄集団は、技術とともに、原料のある地へと転々と移住して歩いた。よく似た集団であった。これら神社も、金堀に関わった人たちの信仰の場であった可能性が強い。
時代的考証は不可能であるが、この付近砂鉄などの鉱物資源を採取していた地といえる。

    龍ケ崎
 現在の中央二丁目の中に取り込まれた地名で、高崎や市役所などの建つ丘陵が多賀城駅の近くまで突出した地形だったが、現在は削られ、それを感じることはできなくなっている。
 サキは、突き出ている地。リュウは水を、特に洪水のときの濁流を示すことが多い。昔は砂押川が岬のすぐそばを流れていて、たびたび氾濫をしていた。氾濫とともに突出していた地形は削られていったかもしれない。
 龍は水が急激に流れる状態を表し、水神としても祭られる。龍神様がそれである。スナオシの地名も、砂が押されて来る状態。つまり川の氾濫により大量の砂が上流から押し流されてくることからの川の名であろう。
 山手に降った雨が集まり、大きな流れを作って下流に押し寄せる。その押し寄せるさまが龍となり、大量の砂を押し流し運んでくる。氾濫常習地帯には、蛇の地名や白髭の地名が多くみられる。これは濁流の様子や水の押し寄せる様子を疑似化した地名である。
 自然は、憤怒のような形相をして、ものすごい勢いで流域の人々を苦しめた。そんな祖の思いを伝え、大雨には思い上がらずに心するようにと地名は知らしめている。
 地名には、自然災害の事実を伝えていることが多々あり、その地名が意味の違ったものに変更されてしまうと、かつての災害を知らせることが不可能となる。地名の改名が、決してよいとはいえない一つとして覚えておいていただけたらうれしい。

いしぶみ18号(1)

     史都にとどめた道興准后の想い出
     
                        宮城県図書館 館長 伊達 宗弘
  
 道興准后(どうこうじゅんご)は、左大臣近衛房嗣の子で、京都聖護院門跡などをつとめた室町後期の高僧です。室町幕府と密接な関係をもち、延徳二年(一四九〇)には足利義視(よしみ)の病気平癒を祈願し、その翌年には参陣して十代将軍義稙を加持しています。
 さらに明応九年(一五〇〇)には参内して後土御門天皇の玉体を加持、熊野三山ならびに新熊野検校になるなど、隠然たる力を持っていました。
 文明一八年(一四八六)六月から約一年にわたって東国を巡歴し、その後は西国・西国巡歴の途に上るなど全国の名所旧跡を巡っています。東国巡歴の旅行記およびその詩文集は『廻国雑記』一巻として塙保己一編纂の『群書類従』に収められました。
 『廻国雑記』は、北陸路から関東へ入って武蔵国など各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたもので、すぐれた和歌や漢詩などを多く納められています。特に、各地の地名をよみこんだ和歌は注目され、もろおか(利府町)、赤沼、西行がへり(長老坂)などの地名が見られます。
 文明一八年六月上旬の頃、東国への旅のためしばらく留守にするため、前将軍足利義政、九代将軍義尚にお暇ごいを申しお上げ、翌日義政への二首を献じました。
  
       旅衣たつよりしぼる武蔵野の
               露や涙をはじめなるらむ 

 それに対し善政から返歌が贈られました。
       
       思いたつ富士の煙の末までも
               へだてぬ心たぐへてぞやる
 
  将軍義尚からも和歌が贈られました。
   
       思いやれはじめてかはす言のはの
               富士の煙にたぐふ物とは
 
 道興は使者を待たせとりあえず返歌を贈りました。
   
       富士の嶺の雪もおよばず仰ぎみる
               君がことばの花にたぐへて
 
 送別の宴の席で、八十五歳になる父は万感の思いを込めた和歌を道興に贈りました。
   
       身は老いぬまた相見むもかたければ
               今日や限りの別れなるらむ
 
 道興は柴の庵や、別れる心細さを和歌に託しました。
   
       住みなれしこの山水の哀れわが
               誘はれ出づる行方しらずも
 
 大原で皆に別れを告げ、足の向くまま各地を廻った道興は、白河の関を越え各地で和歌をとどめました。

       春は唯花にもらせよ白川の
               せきとめずとも過ぎぬものかは
       ちりつもる花にせかれて浅か山
               浅くはみえぬ山のゐの水
       梓弓(あずさゆみ)矢つぎの里の桜がり
               花にひかれておくる春かな
       かくしつつ故郷人にいつかさて
               阿武隈川の逢瀬(おうせ)にはせむ

       徒(いたず)らに我も齢はたけくまの
               まつことなしに身はふりにけり

 名取では藤原実方中将に思いを馳せました。
       
       桜がり雨のふるごと思ひいでて
               今日しもぬらすたび衣かな
 
 宮城野では時雨に遭い、しばらく雨をしのぎました。
     
       木の下に雨宿りせむ宮城野や
               みかさと申す人しなければ
 
 つつじが岡では、ワラビを見ました。
   
       名にしおふ躑躅が岡の下蕨
               ともに祈りしる春の暮れかな
 
 末の松山を遥かにながめながら、よくもこのような遠いところへきたものだと感慨を覚えました。いつの間にか春爛漫の季節を迎えていました。
   
       春ははや末の松山ほどもなく
               こゆるぞ旅の日なみなりける
       人なみに思ひ立ちにしかひあれや
               わがあらましの末の松山
 
 奥の細道、松本、もろをか、あかぬま、西行がへりなどいふところを通りす過ぎ、松島へ到着しました。松島の美しさは言葉に尽くせません。風情があり、かねて聞き及んでいたとおりの素晴らしい眺めです。
       
       この浦のみるめにあかで松島や
               惜まぬ人もなき名残かな
 
 籬島(まがきじま)を見渡せば、藤、つつじなどが咲き競っており、さらに美しい風情を添えていました。
   
       まがきじまたがゆひそめし岩つつじ
               巌にかかる磯に藤波

 これから塩竈の浦へわたるため舟に乗りました。
 
       松島や松のうはかぜ咲きくれて
               今日の舟路はちかの塩竈

 平泉ではありし日の藤原氏全盛と滅亡に、諸行無常の理(ことわり)に思いを馳せ家路を急ぎました。
       みちのくの衣の関をきてみれば
               霞もいくへたちかさねけむ

          
      
       北と南の「遠の朝廷」が友好都市締結!
    

 福岡県太宰府市と多賀城市の友好都市調印式が平成17年11月21日、太宰府市の九州国立博物館で開かれました。
 調印式には多賀城市からの市民訪問団65人を含め約120人の関係者が見守る中、佐藤善郎太宰府市長と鈴木和夫多賀城市長が友好都市盟約宣言と協定書に調印しました。
 ともに「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれ、国家の軍事、外交の窓口が置かれた歴史的背景が共通している市であり、現在も歴史を活かしたまちづくりを推進しているなど共通点を持っています。両市が結びつきを深めることは、古代の歴史を現代を橋渡しとして未来につなぐ有意義な一歩と言えるでしょう。
 私たち市民もこの機会にお互いの歴史と文化を理解し、未来に向けお互いの交流を通して創造的なまちづくりを展開できるよう努めていきませんか?
友好都市協定書は次の6つの交流事業を掲げています。
1. 市民訪問団の相互交流
2. 文化芸術及びスポーツの相互交流
3. 産業交流及び観光の振興に関する相互協力
4. 歴史、文化、教育に関する情報及び研究成果の交換
5. 災害時の相互応援
6. その他目的達成に必要な事業
  当サークルも歴史を活かしたまちづくりに尽力されている方々との交流を積極的に行っていきます。
今回友好都市締結にちなんで、地元太宰府市で史跡解説員としてボランティア活動を36年間続けてこられ昨年十月には1万回目の史跡解説を行った太宰府市観世音寺の貞刈惣一郎さん(86)を皆さんにご紹介しましょう。
 「雨の日も風の日も根性で頑張り続けた」と同市が大宰府市史跡解説員制度を設けたと同時に当時高校の教師の時代は休日を利用、退職後は毎日行い、国内ばかりでなく海外からの申し込みも多く、52カ国、一三六八団体を案内してきたという。海外の馴染みの添乗員もすっかり貞刈節が身についたというからすごい。ご自宅で民営筑紫児童図書館を運営、大宰府文化懇話会の事務局長としても幅広く活躍されている。
 専門的な質問に答えたいとのことから活動のかたわら佐賀大学で経済史を学び昨年修士号を85歳で取得したというから超人的だ。


   歴史・観光「ほんものづくり」を考える
         
                       太宰府市史跡解説員 貞刈 惣一郎
 
 歴史というものは、常に人を引き付けるものであります。時代によって人によって解釈も違いますから、その扱い方によって、随分多様な楽しみ方ができると思っています。
 私は36年間に一万団体(うち外国1,350団体)延べ504,000人の人々を太宰府や福岡都市圏を中心に歴史・観光ボランティアとして案内してきました。みなさん喜んでくれますが、多分、私の話でいろいろ想像をかきたててくれるだろうと思います。大宰府政庁跡には礎石だけしかないけれど、そこには百済滅亡(六六〇)から平家の滅亡(一一八五)までの古代の歴史があり、いろいろな人物の話題があり、絵巻物のような世界がほんとうにあったからだと思うのです。
 歴史や史跡を観光資源にするには、そしてそれに興味を持つ人を増やしていくためには、そのような歴史のおもしろさをうまく伝えることのできるいろんな仕掛けが必要だと思います。それは人であったり、施設であったり、ネットワークであったり、いろいろだと思います。
 私は九州国立博物館が平成17年10月15日開館を契機として筑紫大宰府の史跡・観光ネットワークづくりをしたいと思います。行革の時代ですから施設は最小限でよいのです。
 例えば水城と大野城・椽城は日本書紀に残る日本最古の山城です。白村江の戦い(六六三)で唐と新羅に破れた日本軍と百済の遺臣達が文字通り技術の粋をつくし、必死になってつくったのです。当時の国民の苦しみが目に映るようです。何か国というものを考える時の一つの原点をも見るような気がします。でも今、水城のすぐそばは車置き場になっています。悲しくなります。当時のように築堤の北側に水を貯めて、一部を再現してはどうでしょう。大宰府政庁跡も観光客をもっと増やす方法がほしい。蔵司周辺は貴重な遺跡が見学されない実情です。
 いくつかの主な史跡についてはわかり易く、楽しく想像力をかきたてることのできる表示スポットをつくってはどうでしょうか。さらに解説する人がいたらもっと魅力が増します。史跡解説者も現在いますが、今後も生涯教育の時代―協力者の増加を求めます。
 宿泊施設―国内・外の観光客を気楽に泊める場所が少ない。歴史観光で筑紫地区のネットワークづくりも必要でないでしょうか。近年観光客の志向の多様化、歴史、伝統文化、自然体験型旅行者の増加を考えると時、地域紹介を行う観光ボランティアの活躍が必要です。
いつでも、どこでも、だれでもをモットーに観光客の心をつかむ。これを機会にまたのおいでを・・・・
笑顔で観光客を見送る人にやさしいボランティア活動を続けたいものです。

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事