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大宰府とランビキ
宮城県考古学会前会長 桑原 滋郎
11月多賀城市と大宰府市は友好都市を締結した。特別史跡平城京跡(奈良市)・大宰府跡(太宰府市)・多賀城跡は『日本三大史跡』といわれる。両市にはそれぞれその一つが有ることが御縁。奈良・平安時代、多賀城と大宰府は一方が東日本、他方は九州全域統治の中心であり、共に支配の範囲は極めて広かった。さらに前者は対蝦夷政策、後者は対中国・朝鮮政策という外交をも司った。宮城県が多賀城跡を継続的に調査する研究所を設立したのは1969年、福岡県は既にその前年大宰府跡の調査を開始していた。程なく、広島県は福山市草戸千軒町(クサドセンゲンチョウ)遺跡(中世の門前・市場・港町)に、福井県は朝倉氏(アサクラシイチジョウダニ)遺跡(戦国大名の城館)に調査機関を設置し、大規模な遺跡を持つ4県の交流が始まった。特に多賀城と大宰府は性格が共通する事もあって、研究所発足当初から親しいお付き合いがあった。
1972年の正月、私は同僚の平川南君と初めて大宰府見学に訪れた。都府楼=政庁跡発掘調査現場の詳しい説明の後、急速に遺構の所在が判明し、注目を集めていた、大野城跡のご案内を頂いた。大野城跡をくまなく歩き回る遺構確認作業には大変な苦労を伴ったと思われる、加えて調査主任の藤井功さんは口の悪い方だったので、「たやすく遺跡見られると思ったら大間違いだ!お前等には道は歩かせんぞ、ドレ真っ直ぐ行くか」等と呟きながら、都府楼後方から藪を漕いで登山?を開始した。大野城跡は多賀城と違い数百m級の山をすっぽり包み込むような遺跡で、大宰府の後方にそびえ立つ。折りからの霙、寒いし足元は悪い、若輩ゆえ文句も言えず黙して従うのみ。途中の平場には建物跡があり、また多賀城の築地とは比較にならない規模の土塁や、広くて深い谷を跨ぐ石垣を目の当たりにした。この寒中修行?で西日本の代表的山城を実感し、東北城柵が共通項目でとらえられてた頃のこと、印象は強烈であった。
見学後の友好は当然酒、1次会を終え、薄汚れた居酒屋に流れ、2次会に及んでいたところに、若い二人連れが入ってきた。既に相当入っているらしく、声高な会話、こちらの耳にも入る。「俺なこの間北海道に行って驚いたの何の、言葉が全然通じなくてな、皆ダンベエーよ、それに食い物何もなくて芋ばかりよ、北海道なんてお前!『芋喰ってダンベエだぞ!』と・・・。
私が北海道と知っているから平川君はクスクス笑うし、藤井さんも「桑原あんな事言わせておいて良いのか」と焚き付ける。私のことを酒癖が悪いという向きもあるが、この程度は北海道育ちのおおらかさで聞き流した。それにしてもはるばる福岡まで来て、こんな有りもしない話を聞こうとは、初めての大宰府見学での小癪な思い出。
お互い行き来があると、土産物=名物の交流も当然だ。大宰府の方が見えると、福岡の麦焼酎「ランビキ」を持参されることがままあった。私の酒の師匠は工藤雅樹先輩で、日本酒の味わい方をとくとご教示いただき、酒と言えば日本酒と決めて、「焼酎なんか味もない」と思っていたが、アルコール度40のランビキなる焼酎をやってみると実に美味い、後口や酔い覚めが何とも爽やかで、すっかり虜になってしまった。しかし酒屋で探すも見当たらず。そこで「ここは一つ取り寄せ」と言うことになった。79年の暮れ、給料近くに、私がその音頭を取った。当時その話に乗ったのは、進藤秋輝、白鳥良一、高野芳宏君等飲んべえ諸公だ。ところが事も有ろうに中身も確認していない私の給料が盗難にあった。資料館・研究所では例を見ないくらい事件、焼酎の「取り寄せ」は消し飛んだ。
81年に私は、15年間慣れ親しんだ多賀城を離れ、文化庁に勤務し、埋蔵文化財保護行政に当たることとなった。赴任直後、当時福岡県文化課長の任にあった藤井功さんが見えた。人が少なくなったのを見て、藤井さん曰く、「イイカお前!これからは調査官として全国を回る、担当は勿論、課長・教育長或いは首長とも会うことも多い、そんなとき文化庁風吹かせたら、俺が承知せんゾ!相手はお前に頭を下げるだろうが、それは文化庁の金に下げるんだ、その辺を良く心得ろ!」。突然やや乱暴に言われたこともあって、その通りと感じたが、発言の真意を測りかねていたところ、藤井さんが続けた。「桑原なあ、人間なんて弱いものぞ、今お前は地方に出向いて威張ったりしないと思っているだろうが、調査官・調査官と大事にされ、ペコペコされたら、その気にもなる。実は俺に経験があるんだ。亜先年浩宮(現皇太子)が福岡県にお出でになった、その折り、俺も車の行列に加わった、沿道は日の丸を振る人で溢れている、初めは俺もう恥ずかしくてな、車で小さくなっていた、それがなあ・・・2日3日経つと、気がつけば俺も沿道の人々に手を振っていたんだ・・・、その場に置かれると気持ちが変わる、人間なんて弱いもんだ、良いか桑原この辺のこと忘れずに名!」有り難い忠告の一喝、忘れがたい。
暫らく後に福岡県に出張した折り、懇親会で焼酎が出た。少々酔って、露と消えた「ランビキ取り寄せ」の悲話?を開陳に及んだ。藤井課長「オーオー気の毒、俺が土産に・・・」と慰めてくれた。帰途飛行場での担当の方が「課長から」と言ってランビキ数本手を手渡してくれた。心弾んでチェックインを済ませ、待合室で一息つく頃、場内アナウンスが「桑原様、東京の桑原様」と私を呼ぶ、「ハテ?」と思い指定の場所へ急ぐと、ニヤニヤした担当の方「調査官上着わすれました」。土産のランビキを右手にしっかり持った時、それまで抱えていた上着が離れたらしい。酒に目がくらんだ愚か者、40度のランビキを一気飲みしたように赤面した。
多賀城の地名
宮城県地名研究会会長 太宰 幸子
金堀 かねほり
縄文時代にはここまで海が入りこんでおり、前期初頭のハマグリ貝塚が発見されている。また、計帳様断簡の漆紙文書が見つかった地として知られる。
金堀の北西、現在の加瀬沼エリアになっている地に、金沢という地名が広がっている。金沢は、カネのある沢。つまり地中に鉱物資源をもつ沢となる。その南側が金堀だから、おのずとその意味が理解できそうだ。この地に金鉱をみつけ、採掘した地が金堀である。
金堀の北東に鎮座する貴船神社は、昔、白山神社であったという。白山修験は、製鉄にも造詣が深く、その技術を各地へ持って歩いたという。製鉄集団は、技術とともに、原料のある地へと転々と移住して歩いた。よく似た集団であった。これら神社も、金堀に関わった人たちの信仰の場であった可能性が強い。
時代的考証は不可能であるが、この付近砂鉄などの鉱物資源を採取していた地といえる。
龍ケ崎
現在の中央二丁目の中に取り込まれた地名で、高崎や市役所などの建つ丘陵が多賀城駅の近くまで突出した地形だったが、現在は削られ、それを感じることはできなくなっている。
サキは、突き出ている地。リュウは水を、特に洪水のときの濁流を示すことが多い。昔は砂押川が岬のすぐそばを流れていて、たびたび氾濫をしていた。氾濫とともに突出していた地形は削られていったかもしれない。
龍は水が急激に流れる状態を表し、水神としても祭られる。龍神様がそれである。スナオシの地名も、砂が押されて来る状態。つまり川の氾濫により大量の砂が上流から押し流されてくることからの川の名であろう。
山手に降った雨が集まり、大きな流れを作って下流に押し寄せる。その押し寄せるさまが龍となり、大量の砂を押し流し運んでくる。氾濫常習地帯には、蛇の地名や白髭の地名が多くみられる。これは濁流の様子や水の押し寄せる様子を疑似化した地名である。
自然は、憤怒のような形相をして、ものすごい勢いで流域の人々を苦しめた。そんな祖の思いを伝え、大雨には思い上がらずに心するようにと地名は知らしめている。
地名には、自然災害の事実を伝えていることが多々あり、その地名が意味の違ったものに変更されてしまうと、かつての災害を知らせることが不可能となる。地名の改名が、決してよいとはいえない一つとして覚えておいていただけたらうれしい。
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