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いしぶみ20号(2)

 福岡県太宰府市と多賀城市の友好都市が平成17年11月21日に締結されました。
 今回より「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれた多賀城・大宰府の交流を「いしぶみ」で深めたい思いから「大宰府から」のコーナーを新設しました。
 郷土を愛する思いはみな同じ。太宰府から毎回たよりを送っていただきます。

       「まほろばの里」づくりを願って
                        大宰府観光協会理事 貞刈惣一郎
 
  「倭(やまと)は国のまほろば ただなづく青垣
           山ごもれる 倭(やまと)し美(うるわ)し」
 
 古事記の中で、倭建命(やまとたけるのみこと)がふるさと大和をなつかしみ、よまれたうたです。
 われらが筑紫大宰府も、また、大和におとらず、国のまほろばとよべるふるさとでもあります。
 ご存知のように古くから大陸文化輸入の西の拠点でありましたので、大宰府政庁跡、大野城跡・基肄城跡・観世音寺・大宰府天満宮・水城大堤跡など文化財が残されております。これらの貴重な文化財を保存し、継承すると同時に、生きた文化財として活用すべく「まほろばの里」づくりがすすめられてきました。
豊かな自然を生かし市の均衡ある発展と歴史と伝説あるまちづくりの推進を願ってやまみません。
 福岡都市圏の一隅のまちではありますが、私達が見守ってきた風情・伝統・町並があり、そこにはロマンが漂っています。
 市民みんなが学芸員のつもりで我々の努力と英知ですばらしい史跡の町郷土をつくりたいものです。

          『大陸向けの玄関でした』                

                        大宰府史跡解説員 完 戸  鷯
 
 昨年一〇月一六日、太宰府天満宮南隣りに開館した九州国立博物館は大盛況で、今年八月末までに二〇〇万人が訪れました。その四階の文化交流展示室前ロビーに、黒瓦葺き二重屋根、朱色柱、白壁、正面五間、奥行き二間の堂々とした楼門が展示してあります。大宰府政庁南門、一〇分の一の復元模型です。九州国立博物館のコンセプトは「アジアとの交流による日本文化の成り立ち」。そしてこのアジアとの交流の窓口が「大宰府」でした。

 西暦七〇一年に大和朝廷が施行した大宝律令にもとずく、九州、壱岐、対馬を治める行政府が「遠の朝廷(とおのみかど)大宰府」です。役目は大陸との外交、管内の内政、周辺防備の三つ。役所の数が一七、令が定める役職が五〇ほど、二千人近い官吏が勤め、家族を合わせると一万人近い人が住んでいました。奈良時代から平安時代まで古都大宰府は「人物殷繁、天下之一都会」〔続日本紀〕でした。とくに当初は大陸と対等の折衝をするため、幹部にはエリートが赴任しており、武将で歌人の大伴旅人もその一人です。またこの地域には文化人が集まり筑紫歌壇といわれて、万葉集に三五〇首を超える和歌を遺しています。万葉のふるさとでもありました。

 ところでいまの「大宰府政庁跡」は広さが東西一〇〇米、南北二〇〇米ほど。礎石が整然と並んでいます。ここには政庁の中核の役所が建っていました。正面に南門が聳え、中門から回廊が奥の正殿につながり、両側に脇殿が二棟づつ。朱色の柱、白壁、瓦屋根、中国朝堂院様式の堂々とした建物で、南門、正殿は二重屋根の豪壮な楼でした。平安中期に大宰府に左遷された菅原道真公がここを都府楼と詠んでいます。
 この役所は外交を司るのが役目でした。大陸(当時は唐、新羅)から来た国の使節は南門を通って中門前に待機、中央の広場に導かれ、ここで謁見の儀式が行われました。対等の国交に相応しい威厳のある対応であったと思われます。また平安後期には通商貿易のかなめになりました。まさに大陸向けの玄関、アジアとの交流の窓口がここだったのです。
 昭和四三年(一九六八年)発掘調査が始まり、翌々年に周辺地区も含めた二五ヘクタールが国の特別史跡「大宰府跡」として拡張指定されました。その後一五年ほどかけて整備され、いまは福岡都市圏の史跡公園になっています。いま並んでいる礎石は四四〇個、そのうち古くからの礎石は正殿跡三五個、その他三九個、計七四個です。
 
 鎌倉時代に入り武家政治になるとこの役所は役目を終り、まもなく礎石を残すだけになったようです。そして千年の時を経て、九州国立博物館開館が契機となり、いま古都大宰府は、アジアとの架け橋としてその奥深さ、幅広さを見直されようとしているのです。  
 (古代の役所関連の場合は「大宰府」、場所を示すときは「太宰府」が使われます)


    「芭蕉の道をたどり、往時をしのぶ集い」を主催して
     
                        仙台郷土研究会員  京野 英一

 はじめに 特別名勝松島に生まれ、育って四十六歳を迎えたのは今から十余年程前、当時松島中学校に在籍の長女の授業参観で『おくの細道』を聴いた。自分も学生時代「古典」の授業で習ったことがある程度で、恥ずかしながら、作品のことも芭蕉の「芭」の字も知らなかった。今思うと、この授業参観がきっかけで「ふるさと松島の芭蕉道」に私は興味を覚えた。先生は確か女性の馬場先生でした。「芭蕉は四十六歳、陽暦で言うと六月二十五日松島に宿泊したのですよ」。私も四十六歳で、偶然にも今度の日曜日が丁度六月二十五日だった。「よし、自分もその道を歩いてみよう」独りで『おくの細道』に記された松島の芭蕉道を歩いてみた。何度も車で走り慣れた道なのに、歩いた印象は新鮮だった。車では道端の草木や石ころの形など目に入らないのも当然なことに気が付いた。やはり自分の足で歩いて、初めて旅と言う風情が沸いてくるのだとこの時実感した。以来松島を「扶桑第一の好風・・・」と記した芭蕉に感謝し、「松島の日本一を発信することが発展につながるはず」と初心を抱いた。この初心を日々積み重ね、「芭蕉の道をたどり、往時をしのぶ集い」を企画・実行して、お陰様で今年五年目を迎えた。

 日本橋より百里 松島町高城は藩政時代、仙台藩宮城郡高城郷高城本郷とよばれた宿場町・高城宿でした。高城郷は現在の松島町より広い十三邑からなり、芭蕉が訪れたころ、高城宿は仙台と石巻を結ぶ脇街道・石巻街道の丁度中間地点・六里三十丁ほどに位置した。さらに気仙道も重なり、涌谷・松山街道の起点となる高札場がおかれた。ここは俗称「札場(ふだば)」とよばれ、現在の勤労青少年ホームにあったことが確かめられた。ここから六丁ほど北上すると松島高校の裏手に、およそ四百年前の一里塚が平成二年まで両脇に残されていた。元禄年間発行の『日本国家万葉記』によると、江戸より福島まで七十一里と記されている。福島・仙台間は二十二里なので仙台・北目町が江戸より九十三里となる。北目町より高城本郷一里塚まで七里なので高城宿は日本橋より百里であることも確かめられた。宮城県公文書館には一里塚地番と実測図が遺されているが、現在地は民家の駐車場と化している。
 郷土の『おくの細道』を教えて頂きたいので宮城県文化財保護審議会委員であった近所の三崎一夫氏を訪ねたのは六年前だった。その時「高城の前後の一里塚はどこにあるのですか」と尋ねた。この質問が後に大変なことを意味することなど知らずに、私は解明するまで約二年間を調査に費やした。九十九里目は松島・長老坂に現存し、県は遺跡登録した。百一里目が現在の国道四五号の松島町と東松島市の郡境に位置し、通説の街道には一里塚が存在しなかったため松島の芭蕉道・石巻街道の解釈が間違いであったことが確認された。この一里塚調査が活かされ、通説の広淵新田の榎木一里塚が、平成十五年に誤った見解であったことも確認された。筆者のような民間人の解明に関係者は大いに興味を示したようだった。
 
 多賀城の芭蕉道 宗久の『都のつと』や道興准后の『廻国雑記』に記された「奥の細道」の初見は塙保己一が記した『群書類従』に収められた。「末の松山」と「雄島」は『小倉百人一首』に詠まれ、中世より陸奥の代表的な歌枕であったことは想像に難くない。芭蕉が訪れた「奥の細道」は岩切・東光寺より西三丁ほどの「十符の池」に通ずる古道と言われているが、初見によると末の松山の北側に位置し、赤沼、西行がえり(長老坂)に通ずる解釈も可能と思われる。それゆえ未だに不詳となっている。
 金沢規雄氏は最近の著書で「一三五七~一六八〇の三二〇年の間に、奥の細道は成立から芭蕉にかけて変動し、容易に解決の付く問題ではない」として東光寺前の碑文【この付近から東へ続く古道に由来している】を疑問視している。
この難題に興味は尽きないのだが、これまで不明であった塩竃から末の松山をたどった多賀城の芭蕉道を調査した結果、今年初めて六十六名の参加者に恵まれた。今後も紀行文に記された「古人の心を閲(けみ)す」ような追体験を切望し、拙文を閉じたい。

いしぶみ20号(1)

         『史都にとどめた天野桃隣の想い出』
       
                        宮城県図書館 館長 伊達 宗弘

 元禄二年(一六八九)松尾芭蕉が『奥の細道』の旅をしてから、その足跡をたどって東北を行脚する俳人が多くなりました。天野桃隣(とうりん)もその一人です。桃隣は伊賀上野の人で芭蕉の甥とも従弟とも伝えられますが、芭蕉が他の門人に対するよりもよりうちとけた記述の書簡が残されていることから血縁関係があった人であると推測されています。芭蕉が大坂で没した時、桃隣は深川の芭蕉庵を預かっていましたが、義仲寺に転じ、追善供養を営むだけで満足せず、三回忌にあたる元禄九年三月『奥の細道』の足跡をたどり『陸奥鵆(むつちどり)』を著しました。
 『陸奥鵆』は、桃隣が『奥の細道』の跡をたどった紀行(巻五)を中心にし、巻一は江戸俳人を主とした連句・芭蕉の四季発句百句・諸家の春の発句を、巻二は 桃隣旅行中の連句や諸家の夏の発句・芭蕉はじめ江戸俳人の画像等を、巻三は同じく桃隣らの連句・諸家の秋発句等を、巻四は芭蕉三回忌追善連句その他及び諸家の冬発句を収録しています。
 『奥の細道』紀行に思いを馳せた桃隣は、
  
        何国(いづく)まで華に呼出す昼狐 桃隣

と一句をとどめ江戸を旅立ちました。
 宇都宮から日光、中禅寺湖、黒髪山、今市、那須、白河を経て岩城の小名浜へ向かいました。小名浜へ想い出を刻んだ桃隣は白水阿弥陀堂を経て二本松へ向かい、鬼婆伝説で有名な黒塚を見て宮城へ入りました。
 斎川(白石市)では佐藤継信・忠信兄弟の妻達が鎧姿になって年老いた義母を慰めたと言い伝えられている妻達の甲冑姿の像を納めた甲冑堂がありました。
  
        軍(いくさ)めく二人の嫁や花あやめ   桃隣 

 白石から岩沼に入り竹駒神社を参拝、二木の松や実方中将に思いを馳せながら仙台に入りました。
  
        もとあらの若葉や花の一位(ひとくらゐ) 桃隣
 
 仙台から今市村へ向かいますが、冠川(かむりがわ)土橋を渡り、東光寺の脇を三丁ほど行くと岩切新田という村があり、百姓家の裏に、十苻の菅(すげ)がありました。近くの道端の脇にもありましたが、どちらも垣を結いめぐらし、この百姓が菅を守っていました。 
        刈比(かりごろ)に刈られぬ菅や一構(ひとかまへ)
 
 ここから再び本道へ戻り、土橋を一丁ほど行くと、左の方に小橋が三つ有りました。中を諸絶(おだえ)ノ橋と云います。この辺の人は轟(とどろき)の橋といっています。ここから市川村入口で、板橋を渡り右の方へ三丁程行くと、壺の碑がありました。神亀より元禄まで千年の歳月が経過をしています。右大将頼朝の古歌が思い出されました。
  
        みちのくのいはでしのぶはえぞしらぬ
                 かきつきしてよつぼのいしぶみ
 
 ここから八幡村へは一里余りです。細い道を分け入ると八幡村の百姓の家に沖の石がありました。三間四方の岩で周りは池で囲まれていました。ここから末の松山に登りますが、海原が身近に見えます。千引の石はこの辺にあるはずですが、この辺の人たちは知らないようです。一里行くと松が浦嶋がありました。これより塩竃への道筋に浮島・野田の玉川・紅葉の橋、いづれも道続きに見られました。奥州一の宮塩竃神社はさすがで、輝くばかりの荘厳な建物です。
 神前に鉄燈籠がありましたが、形は林塔のようです。扉には文治三年和泉三郎寄進と記されています。右の本社は、守護より造営の命があり、工事は半ばです。
  
        祢宜(ねぎ)呼にゆけば日の入る夏神楽
 
 麓は町家が連なり、町の中には塩蒲が四つ有りました。三つはさし渡し四尺八寸、高さ八寸、厚さ二寸五分です。昔は六つ有ったそうですが誰かが盗み出し、海中へ落としたると伝えられています。この側に牛神といわれる牛に似た石が有りました。明神の塩を運んでいた牛が化けてこのような姿になったとということです。今は塩を焼いてはいません。
  
        月涼し千賀の出汐はわれの物
 
 塩竃宿の門前から小舟にて松島へ渡りました。
 小舟に乗った桃隣は、舟子に酒を与え静かに舟を進ませながら、島々について語らせました。まずは古来歌枕として著名な籬島(まがきじま)、高く見えるのは大沢山住鵬雲和尚隠居所、経が島は見仏上人独誦(どくじゅ)の閑居、ふくら島は田畑が有って弁慶守本尊不動が有り、五大堂は五智の如来があり、松島町からは橋二つを超えねばなりませんなどの話に往事を追懐しました。
 伊達家菩提寺瑞巌寺、政宗夫人墓所陽徳院、長女五郎八(いろは)姫の墓所天麟院を参拝したあと富山に登りました。富山大仰寺には高泉和尚の額が掲げられていました。ここからは松島が一望できその美しさは言葉では言い尽くせません。国主もたびたび来ているそうですが、旅人にはぜひこの眺めを見てもらいたいものだという思いが脳裏をかすめました。
         麦喰て嶋々見つゝ富の山 桃隣
 
 石巻に向かった桃隣はその繁栄ぶりを見聞、海上に燦然と輝く金華山に心を躍らせ、平泉へ向かいました。


 多賀城をめぐる人々(7)「坂上苅田麻呂」

                      東北歴史博物館 館長  工藤 雅樹

 坂上苅田麻呂(さかのうえのかったまろ)は、有名な坂上田村麻呂の父親である。苅田麻呂は、坂上田村麻呂ほど東北に深くかかわったわけではないが、それでも宝亀元年(七七〇)九月には陸奥鎭守將軍となっており、短期間ではあるが多賀城にいたこともある。
坂上氏の家系は、代表的な渡来系氏族のひとつである東漢(やまとのあや)氏の一族に属する。東漢氏は後漢・霊帝の子孫と称していたが、実際には百済(くだら)系の渡来氏族だとする説が有力である。苅田麻呂の父は犬養(いぬかい)で、聖武天皇の時代に武芸の才能を認められて左衛士督(さえじのかみ)などを歴任し、正四位上にまで昇進した。
奈良時代は、華やかな一方では、さまざまな政争が渦巻いた時代でもあり、天平勝宝九(七五七)年には橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱といわれる事件が勃発している。奈良麻呂は、橘諸兄(たちばなのもろえ・葛城王と名乗る皇族であったが、臣籍に降下して橘諸兄となった。葛城王の時代に陸奥国を訪れた話は第三回で紹介した)の子で、政界に重きをなしていた藤原仲麻呂打倒のクーデターを企てが、事が漏れて失敗、一味とともに逮捕された。
 奈良麻呂は決起に先立って、著名な武人数人を酒宴に招き、決起の障害にならないようにしたというが、そのなかに苅田麻呂と牡鹿嶋足(おしかのしまたり、後の道嶋嶋足、第五回・第六回参照)もいた。天平宝字八(七六四)年には、僧・道鏡(どうきょう)の台頭に危機感を抱いた藤原仲麻呂がクーデターを計画して敗死する事件が起きているが、この時には孝謙(こうけん)上皇は授刀少尉(じゅとうのしょうい)・坂上苅田麻呂と將曹(しょうそう)・牡鹿嶋足等を遣わし、仲麻呂に擁立されていた淳仁(じゅんにん)天皇のもとにあった鈴印を奪回しようとし、これを迎え撃った仲麻呂の子・久須麻呂(くすまろ)は両名に射殺されてしまった。この出来事が、結局は仲麻呂らが琵琶湖畔で敗死することにつながったのである。
 苅田麻呂と嶋足の功績は高く評価され、両名はともに勳二等を授けられ、苅田麻呂は大忌寸(おおいみき)・嶋足は宿祢(すくね)の姓(かばね)を賜った。苅田麻呂はその後も主として中央での武官の道を歩み、宝亀元年(七七〇)には陸奥鎭守將軍になっている。苅田麻呂は従三位まで昇進し、娘の又子(またこ)は桓武(かんむ)天皇の後宮(こうきゅう)に入るなど、天皇の信任も厚かった。苅田麻呂が亡くなったのは延暦五年(七八六)正月七日のことで、亡くなった時は五十九才であった。
 このように、苅田麻呂と嶋足とは武人として上司と下僚という関係にあることが多かったようであるが、一方で嶋足は道嶋一族の出世頭として陸奥国府多賀城に強い影響力を有していた。やや後に、坂上田村麻呂の起用されることになるのも、坂上氏と道嶋一族との良好な関係が考慮されていたことであろう。
 嶋足らの次の世代の道嶋一族を代表する人物は道嶋御楯(みちしまのおたて)である。御楯は政府軍が阿弖流為らに大敗した延暦八(七八九)年の戦いでは、地元の人間ながら政府軍の幹部の一人に名を連ねているが、延暦二十三(八〇四)年の「征夷」人事では、征夷大将軍の坂上田村麻呂を補佐する三人の副将軍の一人(他の二人は都の貴族)に抜擢されている。
 この作戦は、結局は中央において蝦夷に対する政策の変更があったために、実行されなかったのであるが、その後も道嶋御楯は多賀城で重きをなしたにちがいなかろう。二代にわたる坂上氏と道嶋氏のコンビは、奈良時代後半から平安時代初期の東北の歴史に大きな役割を果たしたのである。

 
       多賀城の地名 「加瀬沼 かせぬま」

                     宮城県地名研究会 会長  太宰 幸子

 多賀城政庁エリアの背後に広がる沼の名を加瀬沼というが、住所表記にも加瀬の地名がある。
カセとは、カセル、つまり痩せている地を意味していて、地形から見ても、地名がつけられた頃には、地味が悪く稲作をする地帯だったろうと推測できる。つまり湖沼地帯だったろう。こうした地形だからこそエミシに向けた国の機関である多賀城国府が、現在地に築かれた。前には海が、背後には湖沼がある地、つまり自然要害の地だった。
現在の加瀬沼はとても大きいし、ゆったりとして白鳥などの水鳥たち、そしてわれわれ人間にとっても心癒される地になっている。
 この沼は伊達騒動で知られる伊達安芸宗重が、多賀城の天童氏に婿入りしていた頃、土手を築きしっかりした用水池としたという。しかしこの奥の方から流れ出る山水は、長雨や台風などの時期に下方に作られていた水田をばっちりと水に浸した。今でも洪水があったことを覚えている方がおられる。現代のような農業とは違い、技術や肥料なども劣っていたから、カセの地はつまり地味が痩せていた。それに加瀬の文字があてがわれ、どこやらロマンチックな響きを持って耳に優しい。

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