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大宰府防衛のために築かれた大野城跡をご案内して
大宰府史跡解説員 杢尾 幹雄
平成十八年十月十三日、太宰府市民政庁まつりに来訪された多賀城市の方々(市助役・商工会長・観光協会長ほかの方々)を大宰府政庁の背後の山に築かれた日本最古の朝鮮式山城・大野城跡にご案内しました。土塁は尾根伝いに約八・五キロにわたって築かれ、谷には石垣が造られていました。大宰府の史跡は政庁跡・観世音寺・水城などですが今回ご案内したのは上から眺めた政庁跡と観世音寺の位置関係などが多賀城跡と似ているような感じがするのと、千三百四十年もの昔の土塁が現存している状況と谷の斜面に造られた約二百メートルの大石垣などをお見せして、あわせて政庁跡・水城を含めて今日まで残っているのは文化庁は勿論、地元の方々が大切な市民遺産として認識し、開発から守り、史跡保存に協力して来ているからであるということを理解して頂こうと思ったからです。
私は以前から多賀城に強い関心がありました。手元には昭和五十九年二月発行の「日本の美術・二一三号・多賀城跡」全体のカラーコピーがあります。私はこれを欲しくて出版社、書店などに聞きましたがすでになく、(財)古都大宰府保存協会のものをコピーしたものです。平成九年六月には(財)古都大宰府保存協会の多賀城に関する記念講演があり、また平成十四年八月には福岡市埋蔵文化財センターで多賀城に関する講座がありました。さらに史跡解説員で現地を訪れた富浦さんから報告説明会があったりして非常に関心が高かったわけです。一昨年の秋、ツアーで松島・瑞巌寺方面が計画された時、特に希望して多賀城跡を追加してもらい見学致しました。現地ではボランティアガイドの方に立派な説明を受け、また多賀城跡を含めた周辺地形などの話まで意見交換が出来て大変感銘深い見学が出来たと喜んでおります。
平成十八年十二月 野の聖・慶念坊(1)
大崎市鹿島台 太宰 幸子
このところの新聞紙上、そしてテレビなどのマスコミが伝えるニュースに、子供、とくに児童が被る災害の多いことには、目や耳を覆いたくなるばかりだ。実の親が手をかけた虐待や殺害、縁もゆかりも無い人による通り魔的殺害、数えあげたら限りがない。また児童や子供による大きな事件も多くなっている。現代の世相と言えばそれまでだが、決してそう言い限ってはいけない。大人達がよく考えないとならないだろう。
時は、江戸時代から明治時代に時間の波が移ろうとする頃、一人の乞食坊主が胸に赤児を抱え、両手には幼児の手をとり涌谷の野良道を歩いていたとしよう。坊主は男であるが故に赤子へ乳を与えることができなかった。そこで、野良で働く出産したばかりの若いお母さんから、お腹を空かせて泣く赤児のためにおっぱいを貰おうと、そのような人を探し歩いていたのだった。なぜ、この坊主はこのようなことをしていたのだろうか?現代では考えられないような情景ではないだろうか。
彼の名は、慶念坊(きょうねんぼう・或いは、けねんぼう)と言った。彼がそのように大変な苦労をしていた時代は、現代人には考えも及ばないような苦難の時代だった。東北の江戸時代後期の農民は、皆とても貧しく、毎年のように繰り返される天候不順と冷害や洪水、飢饉に悩まされ続けていた。
その結果、新しい命の芽吹きが確認されても喜んでばかりはおられず、さんざん考えあぐねた末に、生まれてくるはずの新しい命の間引き(堕胎や生まれたばかりの子を殺すこと)をすることが多々あった。間引きとは本来、野菜などがたくさん発芽した中から、ある間隔を置いて不要の苗は抜いて棄てることをいう。人間にもこうしたことが行なわれた時代があった。その間引きされる筈だった赤ちゃん、生まれることを疎まれた赤ちゃん、生まれても喜ばれなかった赤ちゃんを引き取って育てたのが、慶念坊という一人の男だった。はっきりと育てたと認められた子供の数は53人という。今時のお母さん達はどうだろう〜。とんでもないことと赤ちゃん一人も育てることを嫌がる事だってあるというのに、とても脅威な子育てを想像することができよう。
顕彰碑
涌谷の町に入り、江合川を渡り、バイパスを道なりに進むと両側に大きな建物が見えてくるが、ここは福祉の丘と呼ばれている。福祉の丘には福祉センターや病院があり、その東側の丘には「天平の湯」という温泉施設がある。その温泉に行くように坂道をのぼって行き、駐車場の更に東側、建物の裏側に大きな石碑が建っている。案外知られていないが、その石碑こそ、慶念坊の百二十回忌の顕彰碑である。
この顕彰碑が建てられた頃は、まだ温泉施設は無かった。各地から関係者が訪れ、慶念坊の故郷の和賀町の町長もお出でになられ、さらに慶念に育てられた子供達の関係者も参加して除幕が行なわれた。かなり盛大に行なわれたのを覚えている方もおられるのではないだろうか。
この顕彰碑の建つ丘から、水田を挟み、少し北側の丘を望むことができる。この丘には、慶念坊のお墓を中心に、奥さんやお弟子さんの墓地があり、ここに慶念坊の暮らした阿弥陀堂があった。
『戦争のことども』〜歴史の証言としての記憶メモ〜
五十嵐敬之輔
(一)はじめに
平和は全人類の悲願であるにもかかわらず悲しいかな今日なお地球上に戦火の絶えることはありません。幸いに日本国家は日米安保の故か、この半世紀余、直接戦火を蒙ることはありませんでした。結構な事と思います。いうまでもなく如何なる戦争もその勝敗の如何を問われず、多くの生命財産を奪い、堪えがたい悲劇をもたらしています。因みに太平洋戦争に於いて日本は、三百万人の生命が失われ一千万人が家を失ったといわれ、生き残った者も深刻悲痛な体験を味わっています。極言すれば戦争は国家間の犯罪(国際法上「平和に対する罪」とか「人道に対する罪」とか言うそうですが)です。あたかも、つい最近、イラクのフセイン大統領の死刑執行が全世界に大々的に報ぜられました。その当否はさておき彼の地では当分殺戮が繰り返されるでしょう。戦争体験については直接的な戦場体験はありませんが一小学生の垣間見た戦争の跡を記憶の糸をたぐって綴ってみることにしましょう。ささやかな歴史の証言になれば幸いです。
(二)戦争の記憶
太平洋戦争(時の政府のネーミングでは大東亜戦争)の開戦が、一九四一年十二月八日、終わったのは一九四五年八月十五日でした。(国際法上ではミズリー艦上で降伏文書の調印をした九月二日)この時期、私は鹿島台国民学校に通い二年生から六年生まで過ごしました。
緒戦の頃 真珠湾(パールハーバー)の奇襲攻雲
学校ではこの話で持ちきりになり、その大戦果に小さな学童たちは欣喜雀躍したものでした。その後も朝礼で大本営発表の戦果を聞かされたし、「鬼畜米英」という大文字が校舎に張り出されたり、意味が分からぬままに「八紘一宇」という難しい言葉が日常会話の中に飛び交うようになりました。
集団登校 朝の登校は四キロ程度離れた学校まで、六年生の指揮の下、十数名の学童が二列縦隊となって集団登校するようになりました。時に指揮者が、ふざけて「歩調とれ!」「軍歌始め!」と号令するから下級生は大変です。舗装されていない田舎のドロンコ道!テンヤワンヤの大騒ぎの珍風景が展開されました。かの「二十四の瞳」の学童たちとは違った懐かしい体験でした。
書初展の三文字 師走に入ると仙台の某デパートの書初展に出品するというので私も放課後残されて「書き方」の特訓を受けました。書く文字も戦時色豊かな「みいつ」の三文字!今も脳裏に鮮明に焼き付いています。というのは当時私は着物(学童の服装は和服に肩かけカバンか風呂敷包みというのが一般で洋服はごく稀)を着ており、その袖についた墨が用紙を汚し、何度も失敗を繰り返し担任から苦い顔をされたからです。
宮城遙拝と配属将校 全校朝礼では宮城遥拝も頻繁に行われたし小学校にも軍刀をもった陸軍将校が常時、二、三名起居するようになりました。我々低学年の者にはニコニコして優しかったが、高等科の方はビシビシ厳しい教練を受けていたようでした。
先生方の教育姿勢 校庭での朝礼が終わると各自の教室まで行進指導が繰り返されました。私は当時、幸か不幸か私は「級長」を命ぜられておりましたから、指揮者になり号令をかけると「声が低い!」とドヤされ「足を高く上げッ!」とケツを打たれもしました。又、四年生になると独身の若い男子教師が腋臭をプンプン発散させながらオルガン伴奏で軍歌指導をしたり、学芸会では自作のシナリオで「お前!これやれ!」と予科練志望の学生役を強要されたりもしました。それでも私が得意顔に演じきると、今度は昼休み時間に職員室に呼ばれたので行ってみると、引き出しから扇子を取り出し「この字、うまいだろ!」と自筆の二文字の『必勝』を示し、果ては長々と続く「神風談義」に付き合わされることもありました。 (次回へ続く)
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