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いしぶみ21号(2)

       大宰府防衛のために築かれた大野城跡をご案内して
          
                         大宰府史跡解説員 杢尾 幹雄
 
 平成十八年十月十三日、太宰府市民政庁まつりに来訪された多賀城市の方々(市助役・商工会長・観光協会長ほかの方々)を大宰府政庁の背後の山に築かれた日本最古の朝鮮式山城・大野城跡にご案内しました。土塁は尾根伝いに約八・五キロにわたって築かれ、谷には石垣が造られていました。大宰府の史跡は政庁跡・観世音寺・水城などですが今回ご案内したのは上から眺めた政庁跡と観世音寺の位置関係などが多賀城跡と似ているような感じがするのと、千三百四十年もの昔の土塁が現存している状況と谷の斜面に造られた約二百メートルの大石垣などをお見せして、あわせて政庁跡・水城を含めて今日まで残っているのは文化庁は勿論、地元の方々が大切な市民遺産として認識し、開発から守り、史跡保存に協力して来ているからであるということを理解して頂こうと思ったからです。
 私は以前から多賀城に強い関心がありました。手元には昭和五十九年二月発行の「日本の美術・二一三号・多賀城跡」全体のカラーコピーがあります。私はこれを欲しくて出版社、書店などに聞きましたがすでになく、(財)古都大宰府保存協会のものをコピーしたものです。平成九年六月には(財)古都大宰府保存協会の多賀城に関する記念講演があり、また平成十四年八月には福岡市埋蔵文化財センターで多賀城に関する講座がありました。さらに史跡解説員で現地を訪れた富浦さんから報告説明会があったりして非常に関心が高かったわけです。一昨年の秋、ツアーで松島・瑞巌寺方面が計画された時、特に希望して多賀城跡を追加してもらい見学致しました。現地ではボランティアガイドの方に立派な説明を受け、また多賀城跡を含めた周辺地形などの話まで意見交換が出来て大変感銘深い見学が出来たと喜んでおります。
               

平成十八年十二月     野の聖・慶念坊(1)

                          大崎市鹿島台  太宰 幸子
 
 このところの新聞紙上、そしてテレビなどのマスコミが伝えるニュースに、子供、とくに児童が被る災害の多いことには、目や耳を覆いたくなるばかりだ。実の親が手をかけた虐待や殺害、縁もゆかりも無い人による通り魔的殺害、数えあげたら限りがない。また児童や子供による大きな事件も多くなっている。現代の世相と言えばそれまでだが、決してそう言い限ってはいけない。大人達がよく考えないとならないだろう。
 時は、江戸時代から明治時代に時間の波が移ろうとする頃、一人の乞食坊主が胸に赤児を抱え、両手には幼児の手をとり涌谷の野良道を歩いていたとしよう。坊主は男であるが故に赤子へ乳を与えることができなかった。そこで、野良で働く出産したばかりの若いお母さんから、お腹を空かせて泣く赤児のためにおっぱいを貰おうと、そのような人を探し歩いていたのだった。なぜ、この坊主はこのようなことをしていたのだろうか?現代では考えられないような情景ではないだろうか。
 彼の名は、慶念坊(きょうねんぼう・或いは、けねんぼう)と言った。彼がそのように大変な苦労をしていた時代は、現代人には考えも及ばないような苦難の時代だった。東北の江戸時代後期の農民は、皆とても貧しく、毎年のように繰り返される天候不順と冷害や洪水、飢饉に悩まされ続けていた。
その結果、新しい命の芽吹きが確認されても喜んでばかりはおられず、さんざん考えあぐねた末に、生まれてくるはずの新しい命の間引き(堕胎や生まれたばかりの子を殺すこと)をすることが多々あった。間引きとは本来、野菜などがたくさん発芽した中から、ある間隔を置いて不要の苗は抜いて棄てることをいう。人間にもこうしたことが行なわれた時代があった。その間引きされる筈だった赤ちゃん、生まれることを疎まれた赤ちゃん、生まれても喜ばれなかった赤ちゃんを引き取って育てたのが、慶念坊という一人の男だった。はっきりと育てたと認められた子供の数は53人という。今時のお母さん達はどうだろう〜。とんでもないことと赤ちゃん一人も育てることを嫌がる事だってあるというのに、とても脅威な子育てを想像することができよう。
顕彰碑
 涌谷の町に入り、江合川を渡り、バイパスを道なりに進むと両側に大きな建物が見えてくるが、ここは福祉の丘と呼ばれている。福祉の丘には福祉センターや病院があり、その東側の丘には「天平の湯」という温泉施設がある。その温泉に行くように坂道をのぼって行き、駐車場の更に東側、建物の裏側に大きな石碑が建っている。案外知られていないが、その石碑こそ、慶念坊の百二十回忌の顕彰碑である。
 この顕彰碑が建てられた頃は、まだ温泉施設は無かった。各地から関係者が訪れ、慶念坊の故郷の和賀町の町長もお出でになられ、さらに慶念に育てられた子供達の関係者も参加して除幕が行なわれた。かなり盛大に行なわれたのを覚えている方もおられるのではないだろうか。
 この顕彰碑の建つ丘から、水田を挟み、少し北側の丘を望むことができる。この丘には、慶念坊のお墓を中心に、奥さんやお弟子さんの墓地があり、ここに慶念坊の暮らした阿弥陀堂があった。


       『戦争のことども』〜歴史の証言としての記憶メモ〜 
                 
                                五十嵐敬之輔
 (一)はじめに
 平和は全人類の悲願であるにもかかわらず悲しいかな今日なお地球上に戦火の絶えることはありません。幸いに日本国家は日米安保の故か、この半世紀余、直接戦火を蒙ることはありませんでした。結構な事と思います。いうまでもなく如何なる戦争もその勝敗の如何を問われず、多くの生命財産を奪い、堪えがたい悲劇をもたらしています。因みに太平洋戦争に於いて日本は、三百万人の生命が失われ一千万人が家を失ったといわれ、生き残った者も深刻悲痛な体験を味わっています。極言すれば戦争は国家間の犯罪(国際法上「平和に対する罪」とか「人道に対する罪」とか言うそうですが)です。あたかも、つい最近、イラクのフセイン大統領の死刑執行が全世界に大々的に報ぜられました。その当否はさておき彼の地では当分殺戮が繰り返されるでしょう。戦争体験については直接的な戦場体験はありませんが一小学生の垣間見た戦争の跡を記憶の糸をたぐって綴ってみることにしましょう。ささやかな歴史の証言になれば幸いです。
 (二)戦争の記憶
 太平洋戦争(時の政府のネーミングでは大東亜戦争)の開戦が、一九四一年十二月八日、終わったのは一九四五年八月十五日でした。(国際法上ではミズリー艦上で降伏文書の調印をした九月二日)この時期、私は鹿島台国民学校に通い二年生から六年生まで過ごしました。
 緒戦の頃 真珠湾(パールハーバー)の奇襲攻雲
 学校ではこの話で持ちきりになり、その大戦果に小さな学童たちは欣喜雀躍したものでした。その後も朝礼で大本営発表の戦果を聞かされたし、「鬼畜米英」という大文字が校舎に張り出されたり、意味が分からぬままに「八紘一宇」という難しい言葉が日常会話の中に飛び交うようになりました。
 集団登校  朝の登校は四キロ程度離れた学校まで、六年生の指揮の下、十数名の学童が二列縦隊となって集団登校するようになりました。時に指揮者が、ふざけて「歩調とれ!」「軍歌始め!」と号令するから下級生は大変です。舗装されていない田舎のドロンコ道!テンヤワンヤの大騒ぎの珍風景が展開されました。かの「二十四の瞳」の学童たちとは違った懐かしい体験でした。
 書初展の三文字  師走に入ると仙台の某デパートの書初展に出品するというので私も放課後残されて「書き方」の特訓を受けました。書く文字も戦時色豊かな「みいつ」の三文字!今も脳裏に鮮明に焼き付いています。というのは当時私は着物(学童の服装は和服に肩かけカバンか風呂敷包みというのが一般で洋服はごく稀)を着ており、その袖についた墨が用紙を汚し、何度も失敗を繰り返し担任から苦い顔をされたからです。
 宮城遙拝と配属将校  全校朝礼では宮城遥拝も頻繁に行われたし小学校にも軍刀をもった陸軍将校が常時、二、三名起居するようになりました。我々低学年の者にはニコニコして優しかったが、高等科の方はビシビシ厳しい教練を受けていたようでした。
 先生方の教育姿勢  校庭での朝礼が終わると各自の教室まで行進指導が繰り返されました。私は当時、幸か不幸か私は「級長」を命ぜられておりましたから、指揮者になり号令をかけると「声が低い!」とドヤされ「足を高く上げッ!」とケツを打たれもしました。又、四年生になると独身の若い男子教師が腋臭をプンプン発散させながらオルガン伴奏で軍歌指導をしたり、学芸会では自作のシナリオで「お前!これやれ!」と予科練志望の学生役を強要されたりもしました。それでも私が得意顔に演じきると、今度は昼休み時間に職員室に呼ばれたので行ってみると、引き出しから扇子を取り出し「この字、うまいだろ!」と自筆の二文字の『必勝』を示し、果ては長々と続く「神風談義」に付き合わされることもありました。 (次回へ続く)

いしぶみ21号(1)

          『史都に刻んだ高山彦九郎の想い出』
        
                        宮城県図書館 館長 伊達 宗弘

『北行日記』は、ロシアの侵入の警報の噂に憂国の情に駆られた上野国(群馬県)生まれの高山彦九郎(正之一七四七〜九三)の北遊の旅日記です。寛政二年(一七九〇)六月江戸を発ち、常陸の水戸から磐城に出て、出羽から津軽半島の宇鉄、青森、盛岡、平泉を経て仙台に到りました。仙台では林子平(一七三八〜九三)と深夜まで語り合いました。二十七歳から四十七歳までの間、夜を徹してあるいは路傍に腰掛けてまで詳細な日記を書き続けました。海外事情に注目しつつ『三国通覧図説』『海国兵談』を著し、世人を覚醒させようとして幕府の忌諱(きき)にふれ蟄居(ちっきょ)した林子平、歴代天皇陵を調査して『山陵志』を著し、ロシアが北辺を侵すと聞いて『不恤緯(ふじゅつい)』を著して沿海防衛の必要性を説いた蒲生君平(一七六八〜一八一三)とともに「寛政の三奇人」の一人といわれています。
彦九郎は、勤王、海防の必要性を説き諸国を遊歴しますが、時勢を憂慮して自刃して果てました。
 江戸を発った彦九郎は、安房館山、銚子、水戸、福島、米沢、山形、湯殿山、大館、弘前、青森、津軽三厩(みんやま)に到りました。蝦夷地へ渡ろうとしましたが渡れず引き返し、八戸、花輪、盛岡から仙台へ向かいました。道すがら往時に思いを馳せながら、古川の緒絶(おだえ)の橋に到りました。
 
         白玉のおたへの橋と聞くからに
                ふまゝくおしく立そわつらふ   正之
 
 途中天明の飢饉で大きな打撃を受けた村などを見ながら十月二十一日仙台に到着、元茶畠の林子平の兄宅を訪ねました。子平は外出していましたが、子平の兄のはからいで、この夜は林家で過ごすことになりました。夜に入り入浴して久方ぶりに体を布団に横たえ心地よい睡りにつきました。翌日子平が外出先から帰宅したので、彦九郎は子平に津軽石と琥珀の土産を渡しました。二十七日まで仙台の名所旧跡を訪ね、また子平と酒を酌み交わし深夜遅くまで時事を論じるなど、憂国の思いを抱く同志と熱い議論を交わしました。
 二十八日、早朝榴ヶ岡を出発、比丘尼坂を過ぎ、岩切の館跡を見ました。その後、今市を経て冠川の仮橋を渡り岩切村に到りました。南宮村を経て市川入口では、壺碑に立ち寄りました。この辺では多賀城の瓦がよく出る話を聞きました。浮島の人家のうしろから大きな道に出ました。仙台城下からの道は松並木で道がよく整備されています。坂を下りると塩竈の町です。塩竈神社には袴を着して参詣しました。石鳥居を入って石段を一丁ほど登ると随身門楼門です。左には文治三年七月十日和泉三郎忠衡寄進の鉄の燈籠があり、随身門の右には絵馬殿鐘堂がありました。玉垣門を入ると東と西に二つの宮があり、東は鹿島の神が西は香取の神が祀られています。別宮は塩土翁の社(やしろ)です。塩竈神社では宮司藤塚式部知明を訪ねました。藤塚のところに江戸から小嶋西之助も訪れておりこの夜はここを宿とし、酒肴を楽しみながら知明らと夜の更けるまで語り合いました。
 二十九日はあいにく曇りでした。知明が和歌を詠み、小嶋は詩を詠むなどこの日も酒を飲みながら語り合いました。しばしの時を過ごした後、町へ出ると昔塩を煮たという大きな釜が四つ並んでいます。往事に思いを馳せ、ここで小嶋らに別れ、八丁ばかり南へ行くと右に野田の玉川、さらに南へ進むと右に紅葉山、左におもはくの橋そして末の松山です。末松山と号する寺があり、今は墓地となっています。沖の石も右にありますが以前は「沖の井」と呼んでいたそうですが、今は「沖の石」というようになったそうです。人家を出て田地に入ると、左に八幡の森が有り、玉川からここまでは八はた村の内です。
 塩竈より南小道五里のところです。暮れてきたのでこの夜は八はた村に宿を求めました。仙台藩士天童内膳千五百石の采地で、宿を提供してくれたのは内膳の家臣伊東清之助です。ここに長谷川権太夫という武士が訪れ酒を酌み交わしながら語らい合いました。清之助は大変和歌を好み、この辺の名所を詠んでいるそうで、餅もふるまわれるなど歓迎を受けました。
 十一月一日。この日は大雪で清之助と早朝出発、中野村で別れました。別れ際、記念に琥珀と津軽石を贈りました。福田町冠川の橋を渡り、苦竹村を経て、榴ヶ岡の天神を参拝したあと、子平の所へ戻りました。食事をしている時懐中を探ると、小嶋西之助から託された「籬が島」の松及び詩を忘れてきたのに気づき、旅装を整え塩竈へ向かいました。藤塚知明から小嶋の詩を受け取り懐中に納め、その夜は知明と深夜まで語り明かしました。
 翌早朝旅立とうとしましたがあいにくの雪で、酒を酌み交わしながら贈答歌を交わしました。
      隔つとも籬島(まがきのしま)と言の葉に
                 にほいよ添よ梅の花貝    知明

      隔たりし籬が嶋の言の葉も
                 先咲く梅の千賀の塩竈    正之
 
 仙台へ戻った彦九郎は子平と時事を論じ、憂国の思いを胸に仙台を出立、京の都への道を急いだのです。




  多賀城をめぐる人々(8) 「大伴家持」

                      東北歴史博物館 館長  工藤 雅樹

 大伴家持は奈良時代後期の著名な歌人であり、政治家でもある。家持は晩年、多賀城に赴任し、多賀城で亡くなっている。
 家持は延暦元(七八二)年六月に陸奥按察使兼鎮守将軍となっている。陸奥按察使兼鎮守将軍は東北支配の最高責任者であるから、家持はこれにより多賀城に赴任したと考えられる。その後、延暦三(七八四)年には、持節征東将軍に任命され、延暦四(七八五)年四月には、以前から仮の郡として置かれていた多賀郡と階上郡を正式の郡に昇格させることを提議し、その案が実行されるなど、現地において政務・軍務の指揮をとっていたことが知られるが、『続日本紀』延暦四(七八五)年八月二十八日条に、「中納言・従三位・大伴宿祢家持死す」とあり、家持が陸奥において亡くなったことも記されている。
 ところで、『続日本紀』の記事に「大伴宿祢家持死す」と記されているのはすこぶる異例である。律令の規定では、親王や三位以上の高位者が亡くなった時には「薨」と称し、五位以上であれば「卒」、六位以下および庶人の場合は「死」と称することになっている。家持は従三位であるから、「薨」の文字を用いるべきであるのに、「死」と記されているのは、庶人なみの扱いだということになる。
 家持は死後二十日以上も葬られなかった。それは、家持の死の直前に起こった藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に家持も関係しているとの容疑で、家持の官位が剥奪されたためである。藤原種継は藤原宇合(うまかい)の孫で、桓武天皇の信任が厚く、長岡の新京造営の責任者として事業を主導していたが、たまたま長岡宮の造営現場の視察中に、遷都反対派の大伴継人(つぐひと)の指示を受けた大伴竹良らに襲撃され、矢に身を貫かれたのである。事件後、犯人の逮捕・尋問の結果、首謀者として家持の名があがり、家持の子・永主(ながぬし)は流刑とされた。事件は皇太子早良親王の廃太子、流罪へと大きく展開した。なお、大同元(八〇六)年三月、桓武天皇の病の回復を祈るため、流刑に処せられていた事件の関係者が都に呼び戻された時、家持も従三位に復している。
 事件の首謀者とされた大伴継人は、陸奥鎮守将軍兼按察使・大伴古麻呂(こまろ)の子である。古麻呂は、橘奈良麻呂と結んで反藤原仲麻呂(恵美押勝)のクーデターを企てた人物である。古麻呂の周辺には、陸奥守兼鎮守副将軍・佐伯全成(またなり)もあった(第五回「藤原恵美朝臣朝獦」参照)。大伴氏と同族の佐伯氏は、大和朝廷の時代からの名族であるが、奈良時代になると新興の藤原氏に押されて不振ぎみで、さまざまな形で反藤原氏の動きを見せていた。その代表的な例が、天平宝字元(七五七)年の橘奈良麻呂の乱と、延暦四(七八五)年の藤原種継暗殺事件である。
 家持は天平二十一(七四九)年の陸奥国産金に際して、任地越中国(富山県)で長歌一首と反歌三首からなる「陸奥国より金を出(いだ)せる詔書を賀せる歌」を作っているが(第四回「百済王敬福」参照)、その長歌のなかに「海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の 邊にこそ死なめ顧みはせじ」という、有名な一節が含まれている。
 この一節は、家持が大伴氏の長という立場で、大伴氏一族がかつて天皇の命を奉じて山野を駆けめぐった栄光をふりかえりつつ、一族の者に対して軽挙妄動を戒める意味がこめられている。この時期にすでに大伴氏一族のなかには、急進的な方法で藤原氏と対決しようという考えを抱く者があったのである。
 朝廷はそのような危険分子を地方官に任命して都から遠ざけようとした。陸奥国の官人に大伴氏・佐伯氏が多い理由にはこのような点もあった。大伴家持が陸奥按察使兼鎮守将軍や持節征東将軍に任命されたのは、危険な動きがピークに達し、大伴氏一族の長を都に留めておくことが危険と見なされたことによる。家持が本当に藤原種継暗殺事件の黒幕であったかどうかは確かではないが、家持はとくに晩年、反藤原氏の動きの中心となり得る人物として、強く警戒されるようになっていたことは確かなのである。

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