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いしぶみ23号(2)

   野の聖・慶念坊(3)

                          大崎市鹿島台  太宰 幸子

 慶念坊と涌谷ではなぜ、慶念坊と涌谷がつながるのか、疑問でもあり、不思議な縁でもあった。慶念は、西国行脚の旅を終えて、帰路の途中、箟岳山に住んでいた鎌田権右衛門(伯楽)宅を訪れた。
 鎌田権右衛門という人は、現在の幸泉堂病院の鎌田先生のご先祖さまで、南部出身の人だった。南部の馬産地を根拠とし、箟岳で馬を飼っていた。その屋敷跡は、石仏の東北方にある秋葉農園の付近らしいという。権右衛門は慶念坊に出会い、浄土真宗の真義にふれた。そしてその後は、慶念に心底から傾倒し、以後ずっと後援者となった。こうして少しずつ仲間が増え、あちらこちらで、仏の教えを説いて歩いた。もちろん、慶念は、涌谷の人々とだけの語らいや親交をもったのではなかった。隣の桃生町や古川、そして松山、中埣や広渕、小牛田にも説教所があったという。これらは、すべて慶念坊が作ったというのではなく、信者や弟子たちによって置かれるようになった。現在の美里町大柳の観音橋のたもとにある玉蓮寺もその一つであった。また、松島町高城の願立寺、大和町吉岡の教楽寺、岩出山の浄泉寺なども、浄土真宗の寺として慶念坊も訪れたようである。こうして慶念坊が涌谷に拠点を持つようになると、ひたすら仏の道を伝えることと赤児の養育に心をくだくようになっていった。          
 風変わりな人、慶念坊  慶念坊の布教は、ちょっと変わっていたという。初めは説教所を持たず、法衣を纏うことも拒んだと伝わっている。もともと南部の出身だった慶念坊の身なりは、南部衆の着る紺色の着物で、一般の人と同じ野良着のようなものだったらしい。もちろん服装だけではなく、食べ物も粗末なものに甘んじていたし、寒さと飢えをしのげるものがあればよいという主義で、贅沢をかたくなに拒んだという。言い伝えでは、きれいに洗った着物や新しい着物を、「どうぞ着てください。」と渡そうとすると、「自分は、そんな立派なものを身につける果報はないから、もったいない、もったいない。」と言いながら、深くお礼を述べて辞退したという。今だったら、さしずめホイド呼ばわりされるような服装だったかもしれない。そんな具合だから、仏の道を教えていただいたお礼に、ご馳走を用意しようものなら、「お前さんのほうで、客扱いにして隔てるのは、いけない、いけない。」と必ずそれを膳にあけてしまい、ご馳走には手をつけなかったという。また、慶念は、とても熱烈に説法をするのだったという。話しているうちに熱が入ってくると、左肩にある木瘤が大きく膨らんでくるのだった。そして膝を叩いて、「このことがどうしてわからぬか。同じ心になられぬか!耳を開け、心の眼(め)を開けて聞けよ!」と声をからして教えるのだったと、その熱情が御橋著書に記されている。その反面、このようなこともあったと同書は伝えている。ある人が、「賽銭がなくて、お説法を聞けない」と話すと、「それなら、心を入れて賽銭にして来い。心にあふれれば、賽銭がひとりで出て来るから、聞け、よく聴け。」と語ったという。
 そんな人だったから、その布教も一風変わっていた。というより、できるだけ、みんなの中に早く解けこもうとしたのかもしれない。説教するのに場所を選ばず、路傍といわず、田圃の畦の中でも仏の道を説いた。農民はいつでも忙しい。だから、野良仕事を手伝い、その手伝いの分だけ早く済んで、余った時間を、説教の時間にして欲しいと頼んだ。たとえば、「さあ、みんな休んでくれ〜。おれの手伝った分だけ休んで、おれの話を聞いてほしい」と言って、他力信心を説き、法の喜びを語ったという。とにかく初めは、法の教えを聞いてくれる人を探して歩いた。そして、熱心に阿弥陀様の教えを説いて聞かせたのだった。まあ、現代だったら、クソ坊主と侮られそうであるが、慶念坊はそうした誹り(そしり)には屈することなく、ひたすら親鸞の教えを説いて歩き、授かった赤ん坊の命の大切さを説いて歩いた。            (続く)


      


       「陸奥と筑紫」家持と隆謌尾思いや如何に」
          
                         大宰府史跡解説員 尋木 康一
 
 平成十八年十月十四日、大宰府市民政庁祭りに来訪された多賀城市の方々を、午前中のひと時、未熟者の身を顧みず竃門(かまど)神社から政庁跡の史跡までを駆け足でご案内したことを昨日のように今も恥かしく、懐かしく思い出して居ります。
 大宰府政庁跡にある三つの記念碑の向かって左端の『大宰府址碑』は明治十三年、時の県令(官選知事)渡邊清の撰文によるものですが、同じ明治十三年に四条隆謌(しじょうたかうた)が一年程仙台鎮台司令長官を務めています。千百年の昔、陸奥按察使鎮守将軍として大伴家持が多賀城に赴任しています。同じような立場にあったこの二人は奇しくもそれぞれが、その十五年前から三年間という歳月を、この大宰府の地で過ごしているのです。大宰少弐への左遷と太宰府天満宮延壽王院(えんじゅおういん)での幽閉生活と。
 慶応元年(一八六五年)から三年間、俗に謂う七卿落ちのうちの五卿が、太宰府天満宮に幽閉され、徳川幕府の大政奉還を俟って京都に帰還し、略奪された元の官位に戻り、明治政府の要職に就いて活躍することになったのです。
 前述の福岡県知事渡邊清と隆謌は、ともに有栖川宮熾仁親王東夷大総督の信頼が厚く、ともに参謀として戊辰戦争で活躍しています。
 初代福岡県知事になられた宮様の後、わずか壱年半の間に二人の県知事を挟んで渡邊清は、県知事として七年間を福岡の地で過ごし、『大宰府址碑』の篆額の書を宮様から賜っています。
 四条家とは、藤原北家(房前)の子・左大臣魚名を祖とする名門中の名門で、天皇を護る近衛府の武官の家柄で、その家業は宮廷料理包丁道の四条司家です。
現在でも隆謌の子孫が毎年天皇陛下のご誕生日の前日の晩餐会に出席しているそうです。
隆謌は五卿の中で唯一人職業軍人となり、三条実美以下四人の公卿が筑紫の地で多くの和歌を詠んでいる中で『青山白水映紅楓 楽天天命復何疑』と王政復古に己の命を懸けた心意気の漢詩を遺しています。
詩碑は『北野天神縁起絵巻』で有名な天拝山(てんぱいざん)の麓に在る天拝歴史公園に、自筆の書を写した一対の石碑として建っています。明治三十一年(一八九八年)秋薧去、七十歳・侯爵・陸軍中将・貴族院議員でした。
 家持は天武系王朝から天智・桓武系王朝への激動の時代を、隆謌は徳川幕府の終焉から明治維新への革命の時代をと、波瀾に満ちた人生を送った二人が生き抜いた京師・陸奥・太宰府の今を、どんな感慨を持ってあの世から眺めているのでしょうか。

いしぶみ23号(1)

博物館の展示から(1) 『縄文時代の復元模型に寄せて』
    
                       東北歴史博物館 館長 進藤 秋輝
 
 鶴が丘のわが家から県民の森は近い。歩いて二〇分ほど。我が身には程よい休日の散歩コースである。「杜の都」仙台でも緑が少なくなり、青葉通りのケヤキの移植をめぐる紛糾も起こるほどだが、県民の森は別世界である。
 暑さが和らぐ夕方、歩道からそれて、森に足を踏み入れる。梅雨に入ったばかりのこの季節、小道沿いの大小さまざまな木々は前日の雨で洗われた緑の枝を存分に広げて堂々として、かつ優しい風情を醸しだしている。樹木の名札のほかにも、命名の由来や植物に因む万葉歌も紹介されている。その一つユズリハ。解説には「トウダイグサ科、ユズリハ属。新しい葉がでると、古い葉が垂れ下がり、道を譲るので譲葉」とあり、奥ゆかしい。また、やまぢさ(エゴノキ)には「気(いき)の緒に、思へる吾を、山治佐(やまぢさ)の、花にか君が、移ろひぬらむ」(命がけで、こんなに愛している私なのに、貴方の心はエゴノキの散りやすい花のように、私から移ってしまったのでしょうか)という、「詠人知らず」ながら女性の作を連想させる歌も添える。群生して、しかも調和のとれた森は、先のユズリハと同様に、人間社会の理想を示すお手本のようだ。突然の夕方の木漏れ日は、この光景とはちょっと違うが、よく似た光景を思い出させる。
 東北博物館の常設展にある縄文時代の復元模型である。なにかが違うと思ったのは、模型は秋の夕暮れの一コマ。季節感の違いもあろうが、自然の中で生活している人々が介在するためのようだ。
 この模型の舞台は縄文時代後期の山村。季節は最も実り豊かな「山の幸」に恵まれる秋、時刻は夕食直前に設定した。この模型のなかに登場する動植物、住居、器物、食料などは発掘調査での実例を検証し、復元したもの。当時の食料の主体を占めた栗やドングリ(コナラ、ミズナラ、クヌギ)を中心にした落葉広葉樹林相の復元は東北大学植物園の鈴木三男先生に、竪穴住居(仙台市六反田遺跡、八戸市風張遺跡を参考)の復元は東北芸術工科大学の宮本長二郎先生にご指導をいただいた。木の実をいっぱい入れた竹籠(福島県荒屋敷遺跡出土)を背負い、カラムシの編物の貫頭衣(尾関清子先生指導)を着た母を犬が出迎える。犬は気仙沼市田柄貝塚の埋葬骨から復元された小柄ではあるが、がっしりとした体格の縄文犬(京都大学犬山モンキーセンター茂原信生先生指導)。野外では父が冬の狩りのための石器作りに忙しい。
 竪穴住居内では、夕食の準備をする様子が表現されている。東北の縄文時代の生活水準を安定させたというサケ、マスの燻製が棚に吊るされ、石組の囲炉裏には川魚が焼かれ、子供の娘がお手伝いをして、仕上げたばかりの生の縄文のクッキー(山形県押出遺跡)を皿にもり、炉端の祖母に「焼いてくれ」といっているのであろうか。
 この復元模型は、狩りや魚取りの道具、土器や石器の調理用具、漆細工などの工芸品、土偶や角偶などのまつりの道具、角牙製の簪、ペンダント、ネックレスなどの装い、当時の埋葬法など、縄文時代の生活をパートごとに詳細に説明する上で、縄文時代の全体像を視覚的に伝える導入部である。博物館を訪れるひとびとが、常設展示のなかでも最も関心を寄せる人気のある場のひとつである。人気の原因はなんだろうか。展示品の珍しさや縄文人の知恵も大したものだという思いだけではない。見学者は便利さと物質的な豊かさが際限なく向上している今の生活のなかで、私たちが置き忘れ、失われてきた大切なもの、例えば、厳しい環境に対応して生きるなかに垣間見る「家族の絆」、集落を含めた近隣との助け合い、自然に密着した心癒される生活の良さなどを、心の深層で求めているからかもしれない。 
 このようにみると、県民の森とは一味ちがった復元模型の「ひとのいる風景」もまんざらではない。博物館は過去と現在の対話の場である。私たちのこれからの生き方や社会の在り方を探る道しるべにもなりえよう。


          県図書館長の独り言
      
                        宮城県図書館 館長 伊達 宗弘

 四月早々、館長に就任された進藤さんに挨拶するため東北歴史博物館を訪れた。進藤さんが図書館に来られる前に私の方から出向いての挨拶だ。これには深いわけがある。進藤さんにはお世話になってきたのだ。私は十年ほど前『みちのくの和歌、遙かなり』という本を出版した。私にとって処女作といえるもので、内容はみちのくの歴史、文化と多岐にわたっている。いまは三版まで重ねている私の自信作だ。なにせ専門家でもない人間が専門分野の本 を出すのだ。躊躇はあった。しかしそれは素人、まだ世の中の怖さは知らなかった。客観的な検証が必要だ。「困ったなー」、その時、閃いたのだ。困難に直面したとき良い考えが浮かぶのは私の天分。「進藤さんに見てもらおう」。図々しいとはこのこと、原稿を持ち込んだ。「あーいいよ」。こんな経過のなかで本を出版した。いまだから話せるが。最近出版した『仙台藩最後のお姫さま、北の大地に馳せた夢』で触れた北海道の古代や中世に心配なところがあった。進藤さんに相談したら、「あー見てあげるよ」たちまち筆を入れてくれた。こんな具合だから、まー私の書いた本は誤りはないはずだ。本はそう考えないと出せないけれど。
 進藤さんが文化財保護課長をやられている頃のことだ。田尻町の祇劫寺で尺八奏者佐藤皖山先生の演奏によるチャリティーコンサートが行われた。一人でこのお寺を守っている九十近い住職を支援しようとするため開催されたコンサートである。私は主賓として招かれた。祇劫寺は何度か訪れている。国や県の天然記念物に指定されている樹木を見るため。お寺の中はコンサートの時、初めて見た。天井などを見て驚いた。江戸初期の建物そのままなのだ。まだこんな建物があったのだ。本物を見て育ったせいか真贋を見極める目はもっているのだ。人を見る目はないけれど。岩手県南(旧仙台藩)にはこのような由緒正しい建物はよく見かけるが、宮城県にもあったのだ。驚き感動し、早速進藤さんへ報告した。進藤さんの動きも動物的で素早かった。当時療養中の文化財保護委員長を拉致して、現場へ駆けつけて見てくれた。そして県文化財指定の手続きを進められたのだ。おかげで私も地元の人たちからは感謝された。
 とかく文化施設同士は犬猿の仲なのだ。私が図書館長になったとき進藤さんは東北歴史博物館の副館長だった。就任の挨拶に行ったが、当時、企画展のことで頭を抱えておられた。話はとんとん拍子に進み、図書館所蔵の地図を使った二館共催による「きらめく叡智と美のしずく展」が開催された。第一会場は歴博、第二会場は図書館。初めての試みは、好評だった。そのあともいろいろなかたちで連携を図れるかなーと思ったが、進藤さんが去られた後は、必ずしも順調ではなかった。
 そのようなこともあって進藤さんが館長になられたことを一番喜んでいるのは、私かも知れない。

多賀城をめぐる人々(10) 「紀広純(きのひろずみ)」

                     東北歴史博物館 前館長  工藤 雅樹

 宝亀十一(七八〇)年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱は、呰麻呂が東北支配の最高責任者として按察使(あぜち)の地位にあった紀広純が伊治城に出向いた機会をとらえ、広純と道嶋大楯(みちしまのおおたて)を伊治城に殺したことにはじまる。
奈良時代の歴史を扱っている史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』の伊治公呰麻呂の乱の勃発を記した記事によれば、紀広純は按察使・參議・從四位下であり、広純の父は左衛士督・從四位下・宇美(うみ)、祖父は大納言兼中務卿・正三位・麻呂であった。
 広純もその一員だった紀氏(きうじ)は、もともとは紀伊国(和歌山県)を本拠とした古代豪族であるが、早くから大和朝廷内部で重要な地位を占めるようになっていた。紀伊国とは「木の国」という意味で、とくに杉や樟(くすのき)の良材を産する。紀氏は杉や樟の軍船による水軍を組織し、大和朝廷が朝鮮半島方面へ軍を進めた時にはその中核となったといわれる。そのような関係から、紀氏は奈良時代になってもなお、武に秀でた人物を輩出している。
 蝦夷との戦いに限っても、和銅二(七〇九)年に、陸奥国と越後国の両方面の蝦夷との戦いは行なわれた時には、紀諸人(きのもろひと)が越後方面の副将軍に任命されているし、伊治公呰麻呂の乱が起きて紀広純が殺されると、ただちに紀古佐美(きのこさみ)が征東副使に任命され、後には征東大将軍に昇格している。
 紀広純が東北地方とかかわりを持つようになったのは宝亀五(七七四)年のことであった。伊治公呰麻呂の乱の六年前である。この時、広純は鎮守副将軍に任命され、按察使で陸奥守と鎮守将軍を兼ねていた大伴駿河麻呂を補佐して蝦夷と戦うことになった。駿河麻呂が按察使に任命されたのは宝亀三(七七二)年九月であったが、この時に駿河麻呂は老齢でその任に堪えがたいと一旦は辞退している。広純の責任は重かったにちがいない。
 この時期に、政府側と蝦夷との軋轢が激しくなったのは、次のような理由からである。多賀城碑の建立者でもある藤原朝獦(あさかり)が按察使兼鎮守将軍として、東北政策の指揮をとりはじめたのは天平宝字元(七五七)年のことである。朝獦の時代の大きな出来事としては、陸奥国に桃生城、出羽国に雄勝城を造営したことがあげられる。桃生城の遺跡は石巻市(旧河北町)飯野字中山に、雄勝城跡は秋田県大仙市(旧仙北町)払田(ほった)にある。朝獦の時代は天平宝字八(七六四)年に、朝獦の父の仲麻呂が反乱を企てて敗死したことで終わるが、その直後の神護景雲元(七六七)年には、朝獦の時代からの懸案だった伊治城が、伊治公呰麻呂の地元に完成している。
 このような政府側による積極策は、蝦夷にとっては大きな脅威であり、強力な反抗運動がまきおこった。宝亀元(七七〇)年八月には、蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うがめのきみうくはう)らが、仲間をひきいて賊地に逃げ還り、使をおくって召喚しても帰らず、一・二の同族を率いて必ず城柵を侵すと言ったといい、宇屈波宇らの行動であるかどうかはわからないが、宝亀五(七七四)年七月には海道の蝦夷が橋を焚き、道を塞ぎ、さらに桃生城を侵してその西郭を敗り、鎮守の兵はこれを支えることができなかったという。
 紀広純が東北とかかわりを持つようになったのは、このような時期であった。大伴駿河麻呂と紀広純のコンビは、宝亀五年十月には遠山村(とおやまむら)に侵攻して勝利を得たとの報告を政府におくっている。遠山村は登米(とよま)村で、現在の登米市一帯である。さらに宝亀七(七七六)年二月には、陸奥国は二〇、〇〇〇人の軍士を発して山海二道の賊を伐つことになり、出羽国に命じて軍士四〇〇〇人を発して雄勝から賊の西辺を伐たせることにした。
 攻撃対象は明らかに岩手県地方の蝦夷である。同年五月には政府軍は志波村(盛岡市付近)の賊と戦って破れたというし、十一月には三〇〇〇人の兵で胆沢の蝦夷を攻めてもいる。同じようなことは翌年もくり返され、宝亀十一年になると、蝦夷が長岡(古川市西部)に攻めこみ、政府側はこのようなことに対処するために覚鱉城を造ることにするのである。
 この間、紀広純は老齢の駿河麻呂とともに戦いに奔走し、駿河麻呂が宝亀七年(七七六)七月に現地で亡くなると、駿河麻呂の後をうけて按察使兼鎮守将軍となった。そして宝亀十一(七八〇)年三月の伊治公呰麻呂の乱をむかえたのである。

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