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野の聖・慶念坊(3)
大崎市鹿島台 太宰 幸子
慶念坊と涌谷ではなぜ、慶念坊と涌谷がつながるのか、疑問でもあり、不思議な縁でもあった。慶念は、西国行脚の旅を終えて、帰路の途中、箟岳山に住んでいた鎌田権右衛門(伯楽)宅を訪れた。
鎌田権右衛門という人は、現在の幸泉堂病院の鎌田先生のご先祖さまで、南部出身の人だった。南部の馬産地を根拠とし、箟岳で馬を飼っていた。その屋敷跡は、石仏の東北方にある秋葉農園の付近らしいという。権右衛門は慶念坊に出会い、浄土真宗の真義にふれた。そしてその後は、慶念に心底から傾倒し、以後ずっと後援者となった。こうして少しずつ仲間が増え、あちらこちらで、仏の教えを説いて歩いた。もちろん、慶念は、涌谷の人々とだけの語らいや親交をもったのではなかった。隣の桃生町や古川、そして松山、中埣や広渕、小牛田にも説教所があったという。これらは、すべて慶念坊が作ったというのではなく、信者や弟子たちによって置かれるようになった。現在の美里町大柳の観音橋のたもとにある玉蓮寺もその一つであった。また、松島町高城の願立寺、大和町吉岡の教楽寺、岩出山の浄泉寺なども、浄土真宗の寺として慶念坊も訪れたようである。こうして慶念坊が涌谷に拠点を持つようになると、ひたすら仏の道を伝えることと赤児の養育に心をくだくようになっていった。
風変わりな人、慶念坊 慶念坊の布教は、ちょっと変わっていたという。初めは説教所を持たず、法衣を纏うことも拒んだと伝わっている。もともと南部の出身だった慶念坊の身なりは、南部衆の着る紺色の着物で、一般の人と同じ野良着のようなものだったらしい。もちろん服装だけではなく、食べ物も粗末なものに甘んじていたし、寒さと飢えをしのげるものがあればよいという主義で、贅沢をかたくなに拒んだという。言い伝えでは、きれいに洗った着物や新しい着物を、「どうぞ着てください。」と渡そうとすると、「自分は、そんな立派なものを身につける果報はないから、もったいない、もったいない。」と言いながら、深くお礼を述べて辞退したという。今だったら、さしずめホイド呼ばわりされるような服装だったかもしれない。そんな具合だから、仏の道を教えていただいたお礼に、ご馳走を用意しようものなら、「お前さんのほうで、客扱いにして隔てるのは、いけない、いけない。」と必ずそれを膳にあけてしまい、ご馳走には手をつけなかったという。また、慶念は、とても熱烈に説法をするのだったという。話しているうちに熱が入ってくると、左肩にある木瘤が大きく膨らんでくるのだった。そして膝を叩いて、「このことがどうしてわからぬか。同じ心になられぬか!耳を開け、心の眼(め)を開けて聞けよ!」と声をからして教えるのだったと、その熱情が御橋著書に記されている。その反面、このようなこともあったと同書は伝えている。ある人が、「賽銭がなくて、お説法を聞けない」と話すと、「それなら、心を入れて賽銭にして来い。心にあふれれば、賽銭がひとりで出て来るから、聞け、よく聴け。」と語ったという。
そんな人だったから、その布教も一風変わっていた。というより、できるだけ、みんなの中に早く解けこもうとしたのかもしれない。説教するのに場所を選ばず、路傍といわず、田圃の畦の中でも仏の道を説いた。農民はいつでも忙しい。だから、野良仕事を手伝い、その手伝いの分だけ早く済んで、余った時間を、説教の時間にして欲しいと頼んだ。たとえば、「さあ、みんな休んでくれ〜。おれの手伝った分だけ休んで、おれの話を聞いてほしい」と言って、他力信心を説き、法の喜びを語ったという。とにかく初めは、法の教えを聞いてくれる人を探して歩いた。そして、熱心に阿弥陀様の教えを説いて聞かせたのだった。まあ、現代だったら、クソ坊主と侮られそうであるが、慶念坊はそうした誹り(そしり)には屈することなく、ひたすら親鸞の教えを説いて歩き、授かった赤ん坊の命の大切さを説いて歩いた。 (続く)
「陸奥と筑紫」家持と隆謌尾思いや如何に」
大宰府史跡解説員 尋木 康一
平成十八年十月十四日、大宰府市民政庁祭りに来訪された多賀城市の方々を、午前中のひと時、未熟者の身を顧みず竃門(かまど)神社から政庁跡の史跡までを駆け足でご案内したことを昨日のように今も恥かしく、懐かしく思い出して居ります。
大宰府政庁跡にある三つの記念碑の向かって左端の『大宰府址碑』は明治十三年、時の県令(官選知事)渡邊清の撰文によるものですが、同じ明治十三年に四条隆謌(しじょうたかうた)が一年程仙台鎮台司令長官を務めています。千百年の昔、陸奥按察使鎮守将軍として大伴家持が多賀城に赴任しています。同じような立場にあったこの二人は奇しくもそれぞれが、その十五年前から三年間という歳月を、この大宰府の地で過ごしているのです。大宰少弐への左遷と太宰府天満宮延壽王院(えんじゅおういん)での幽閉生活と。
慶応元年(一八六五年)から三年間、俗に謂う七卿落ちのうちの五卿が、太宰府天満宮に幽閉され、徳川幕府の大政奉還を俟って京都に帰還し、略奪された元の官位に戻り、明治政府の要職に就いて活躍することになったのです。
前述の福岡県知事渡邊清と隆謌は、ともに有栖川宮熾仁親王東夷大総督の信頼が厚く、ともに参謀として戊辰戦争で活躍しています。
初代福岡県知事になられた宮様の後、わずか壱年半の間に二人の県知事を挟んで渡邊清は、県知事として七年間を福岡の地で過ごし、『大宰府址碑』の篆額の書を宮様から賜っています。
四条家とは、藤原北家(房前)の子・左大臣魚名を祖とする名門中の名門で、天皇を護る近衛府の武官の家柄で、その家業は宮廷料理包丁道の四条司家です。
現在でも隆謌の子孫が毎年天皇陛下のご誕生日の前日の晩餐会に出席しているそうです。
隆謌は五卿の中で唯一人職業軍人となり、三条実美以下四人の公卿が筑紫の地で多くの和歌を詠んでいる中で『青山白水映紅楓 楽天天命復何疑』と王政復古に己の命を懸けた心意気の漢詩を遺しています。
詩碑は『北野天神縁起絵巻』で有名な天拝山(てんぱいざん)の麓に在る天拝歴史公園に、自筆の書を写した一対の石碑として建っています。明治三十一年(一八九八年)秋薧去、七十歳・侯爵・陸軍中将・貴族院議員でした。
家持は天武系王朝から天智・桓武系王朝への激動の時代を、隆謌は徳川幕府の終焉から明治維新への革命の時代をと、波瀾に満ちた人生を送った二人が生き抜いた京師・陸奥・太宰府の今を、どんな感慨を持ってあの世から眺めているのでしょうか。
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