無題

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

いしぶみ20号(2)

 福岡県太宰府市と多賀城市の友好都市が平成17年11月21日に締結されました。
 今回より「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれた多賀城・大宰府の交流を「いしぶみ」で深めたい思いから「大宰府から」のコーナーを新設しました。
 郷土を愛する思いはみな同じ。太宰府から毎回たよりを送っていただきます。

       「まほろばの里」づくりを願って
                        大宰府観光協会理事 貞刈惣一郎
 
  「倭(やまと)は国のまほろば ただなづく青垣
           山ごもれる 倭(やまと)し美(うるわ)し」
 
 古事記の中で、倭建命(やまとたけるのみこと)がふるさと大和をなつかしみ、よまれたうたです。
 われらが筑紫大宰府も、また、大和におとらず、国のまほろばとよべるふるさとでもあります。
 ご存知のように古くから大陸文化輸入の西の拠点でありましたので、大宰府政庁跡、大野城跡・基肄城跡・観世音寺・大宰府天満宮・水城大堤跡など文化財が残されております。これらの貴重な文化財を保存し、継承すると同時に、生きた文化財として活用すべく「まほろばの里」づくりがすすめられてきました。
豊かな自然を生かし市の均衡ある発展と歴史と伝説あるまちづくりの推進を願ってやまみません。
 福岡都市圏の一隅のまちではありますが、私達が見守ってきた風情・伝統・町並があり、そこにはロマンが漂っています。
 市民みんなが学芸員のつもりで我々の努力と英知ですばらしい史跡の町郷土をつくりたいものです。

          『大陸向けの玄関でした』                

                        大宰府史跡解説員 完 戸  鷯
 
 昨年一〇月一六日、太宰府天満宮南隣りに開館した九州国立博物館は大盛況で、今年八月末までに二〇〇万人が訪れました。その四階の文化交流展示室前ロビーに、黒瓦葺き二重屋根、朱色柱、白壁、正面五間、奥行き二間の堂々とした楼門が展示してあります。大宰府政庁南門、一〇分の一の復元模型です。九州国立博物館のコンセプトは「アジアとの交流による日本文化の成り立ち」。そしてこのアジアとの交流の窓口が「大宰府」でした。

 西暦七〇一年に大和朝廷が施行した大宝律令にもとずく、九州、壱岐、対馬を治める行政府が「遠の朝廷(とおのみかど)大宰府」です。役目は大陸との外交、管内の内政、周辺防備の三つ。役所の数が一七、令が定める役職が五〇ほど、二千人近い官吏が勤め、家族を合わせると一万人近い人が住んでいました。奈良時代から平安時代まで古都大宰府は「人物殷繁、天下之一都会」〔続日本紀〕でした。とくに当初は大陸と対等の折衝をするため、幹部にはエリートが赴任しており、武将で歌人の大伴旅人もその一人です。またこの地域には文化人が集まり筑紫歌壇といわれて、万葉集に三五〇首を超える和歌を遺しています。万葉のふるさとでもありました。

 ところでいまの「大宰府政庁跡」は広さが東西一〇〇米、南北二〇〇米ほど。礎石が整然と並んでいます。ここには政庁の中核の役所が建っていました。正面に南門が聳え、中門から回廊が奥の正殿につながり、両側に脇殿が二棟づつ。朱色の柱、白壁、瓦屋根、中国朝堂院様式の堂々とした建物で、南門、正殿は二重屋根の豪壮な楼でした。平安中期に大宰府に左遷された菅原道真公がここを都府楼と詠んでいます。
 この役所は外交を司るのが役目でした。大陸(当時は唐、新羅)から来た国の使節は南門を通って中門前に待機、中央の広場に導かれ、ここで謁見の儀式が行われました。対等の国交に相応しい威厳のある対応であったと思われます。また平安後期には通商貿易のかなめになりました。まさに大陸向けの玄関、アジアとの交流の窓口がここだったのです。
 昭和四三年(一九六八年)発掘調査が始まり、翌々年に周辺地区も含めた二五ヘクタールが国の特別史跡「大宰府跡」として拡張指定されました。その後一五年ほどかけて整備され、いまは福岡都市圏の史跡公園になっています。いま並んでいる礎石は四四〇個、そのうち古くからの礎石は正殿跡三五個、その他三九個、計七四個です。
 
 鎌倉時代に入り武家政治になるとこの役所は役目を終り、まもなく礎石を残すだけになったようです。そして千年の時を経て、九州国立博物館開館が契機となり、いま古都大宰府は、アジアとの架け橋としてその奥深さ、幅広さを見直されようとしているのです。  
 (古代の役所関連の場合は「大宰府」、場所を示すときは「太宰府」が使われます)


    「芭蕉の道をたどり、往時をしのぶ集い」を主催して
     
                        仙台郷土研究会員  京野 英一

 はじめに 特別名勝松島に生まれ、育って四十六歳を迎えたのは今から十余年程前、当時松島中学校に在籍の長女の授業参観で『おくの細道』を聴いた。自分も学生時代「古典」の授業で習ったことがある程度で、恥ずかしながら、作品のことも芭蕉の「芭」の字も知らなかった。今思うと、この授業参観がきっかけで「ふるさと松島の芭蕉道」に私は興味を覚えた。先生は確か女性の馬場先生でした。「芭蕉は四十六歳、陽暦で言うと六月二十五日松島に宿泊したのですよ」。私も四十六歳で、偶然にも今度の日曜日が丁度六月二十五日だった。「よし、自分もその道を歩いてみよう」独りで『おくの細道』に記された松島の芭蕉道を歩いてみた。何度も車で走り慣れた道なのに、歩いた印象は新鮮だった。車では道端の草木や石ころの形など目に入らないのも当然なことに気が付いた。やはり自分の足で歩いて、初めて旅と言う風情が沸いてくるのだとこの時実感した。以来松島を「扶桑第一の好風・・・」と記した芭蕉に感謝し、「松島の日本一を発信することが発展につながるはず」と初心を抱いた。この初心を日々積み重ね、「芭蕉の道をたどり、往時をしのぶ集い」を企画・実行して、お陰様で今年五年目を迎えた。

 日本橋より百里 松島町高城は藩政時代、仙台藩宮城郡高城郷高城本郷とよばれた宿場町・高城宿でした。高城郷は現在の松島町より広い十三邑からなり、芭蕉が訪れたころ、高城宿は仙台と石巻を結ぶ脇街道・石巻街道の丁度中間地点・六里三十丁ほどに位置した。さらに気仙道も重なり、涌谷・松山街道の起点となる高札場がおかれた。ここは俗称「札場(ふだば)」とよばれ、現在の勤労青少年ホームにあったことが確かめられた。ここから六丁ほど北上すると松島高校の裏手に、およそ四百年前の一里塚が平成二年まで両脇に残されていた。元禄年間発行の『日本国家万葉記』によると、江戸より福島まで七十一里と記されている。福島・仙台間は二十二里なので仙台・北目町が江戸より九十三里となる。北目町より高城本郷一里塚まで七里なので高城宿は日本橋より百里であることも確かめられた。宮城県公文書館には一里塚地番と実測図が遺されているが、現在地は民家の駐車場と化している。
 郷土の『おくの細道』を教えて頂きたいので宮城県文化財保護審議会委員であった近所の三崎一夫氏を訪ねたのは六年前だった。その時「高城の前後の一里塚はどこにあるのですか」と尋ねた。この質問が後に大変なことを意味することなど知らずに、私は解明するまで約二年間を調査に費やした。九十九里目は松島・長老坂に現存し、県は遺跡登録した。百一里目が現在の国道四五号の松島町と東松島市の郡境に位置し、通説の街道には一里塚が存在しなかったため松島の芭蕉道・石巻街道の解釈が間違いであったことが確認された。この一里塚調査が活かされ、通説の広淵新田の榎木一里塚が、平成十五年に誤った見解であったことも確認された。筆者のような民間人の解明に関係者は大いに興味を示したようだった。
 
 多賀城の芭蕉道 宗久の『都のつと』や道興准后の『廻国雑記』に記された「奥の細道」の初見は塙保己一が記した『群書類従』に収められた。「末の松山」と「雄島」は『小倉百人一首』に詠まれ、中世より陸奥の代表的な歌枕であったことは想像に難くない。芭蕉が訪れた「奥の細道」は岩切・東光寺より西三丁ほどの「十符の池」に通ずる古道と言われているが、初見によると末の松山の北側に位置し、赤沼、西行がえり(長老坂)に通ずる解釈も可能と思われる。それゆえ未だに不詳となっている。
 金沢規雄氏は最近の著書で「一三五七~一六八〇の三二〇年の間に、奥の細道は成立から芭蕉にかけて変動し、容易に解決の付く問題ではない」として東光寺前の碑文【この付近から東へ続く古道に由来している】を疑問視している。
この難題に興味は尽きないのだが、これまで不明であった塩竃から末の松山をたどった多賀城の芭蕉道を調査した結果、今年初めて六十六名の参加者に恵まれた。今後も紀行文に記された「古人の心を閲(けみ)す」ような追体験を切望し、拙文を閉じたい。

いしぶみ20号(1)

         『史都にとどめた天野桃隣の想い出』
       
                        宮城県図書館 館長 伊達 宗弘

 元禄二年(一六八九)松尾芭蕉が『奥の細道』の旅をしてから、その足跡をたどって東北を行脚する俳人が多くなりました。天野桃隣(とうりん)もその一人です。桃隣は伊賀上野の人で芭蕉の甥とも従弟とも伝えられますが、芭蕉が他の門人に対するよりもよりうちとけた記述の書簡が残されていることから血縁関係があった人であると推測されています。芭蕉が大坂で没した時、桃隣は深川の芭蕉庵を預かっていましたが、義仲寺に転じ、追善供養を営むだけで満足せず、三回忌にあたる元禄九年三月『奥の細道』の足跡をたどり『陸奥鵆(むつちどり)』を著しました。
 『陸奥鵆』は、桃隣が『奥の細道』の跡をたどった紀行(巻五)を中心にし、巻一は江戸俳人を主とした連句・芭蕉の四季発句百句・諸家の春の発句を、巻二は 桃隣旅行中の連句や諸家の夏の発句・芭蕉はじめ江戸俳人の画像等を、巻三は同じく桃隣らの連句・諸家の秋発句等を、巻四は芭蕉三回忌追善連句その他及び諸家の冬発句を収録しています。
 『奥の細道』紀行に思いを馳せた桃隣は、
  
        何国(いづく)まで華に呼出す昼狐 桃隣

と一句をとどめ江戸を旅立ちました。
 宇都宮から日光、中禅寺湖、黒髪山、今市、那須、白河を経て岩城の小名浜へ向かいました。小名浜へ想い出を刻んだ桃隣は白水阿弥陀堂を経て二本松へ向かい、鬼婆伝説で有名な黒塚を見て宮城へ入りました。
 斎川(白石市)では佐藤継信・忠信兄弟の妻達が鎧姿になって年老いた義母を慰めたと言い伝えられている妻達の甲冑姿の像を納めた甲冑堂がありました。
  
        軍(いくさ)めく二人の嫁や花あやめ   桃隣 

 白石から岩沼に入り竹駒神社を参拝、二木の松や実方中将に思いを馳せながら仙台に入りました。
  
        もとあらの若葉や花の一位(ひとくらゐ) 桃隣
 
 仙台から今市村へ向かいますが、冠川(かむりがわ)土橋を渡り、東光寺の脇を三丁ほど行くと岩切新田という村があり、百姓家の裏に、十苻の菅(すげ)がありました。近くの道端の脇にもありましたが、どちらも垣を結いめぐらし、この百姓が菅を守っていました。 
        刈比(かりごろ)に刈られぬ菅や一構(ひとかまへ)
 
 ここから再び本道へ戻り、土橋を一丁ほど行くと、左の方に小橋が三つ有りました。中を諸絶(おだえ)ノ橋と云います。この辺の人は轟(とどろき)の橋といっています。ここから市川村入口で、板橋を渡り右の方へ三丁程行くと、壺の碑がありました。神亀より元禄まで千年の歳月が経過をしています。右大将頼朝の古歌が思い出されました。
  
        みちのくのいはでしのぶはえぞしらぬ
                 かきつきしてよつぼのいしぶみ
 
 ここから八幡村へは一里余りです。細い道を分け入ると八幡村の百姓の家に沖の石がありました。三間四方の岩で周りは池で囲まれていました。ここから末の松山に登りますが、海原が身近に見えます。千引の石はこの辺にあるはずですが、この辺の人たちは知らないようです。一里行くと松が浦嶋がありました。これより塩竃への道筋に浮島・野田の玉川・紅葉の橋、いづれも道続きに見られました。奥州一の宮塩竃神社はさすがで、輝くばかりの荘厳な建物です。
 神前に鉄燈籠がありましたが、形は林塔のようです。扉には文治三年和泉三郎寄進と記されています。右の本社は、守護より造営の命があり、工事は半ばです。
  
        祢宜(ねぎ)呼にゆけば日の入る夏神楽
 
 麓は町家が連なり、町の中には塩蒲が四つ有りました。三つはさし渡し四尺八寸、高さ八寸、厚さ二寸五分です。昔は六つ有ったそうですが誰かが盗み出し、海中へ落としたると伝えられています。この側に牛神といわれる牛に似た石が有りました。明神の塩を運んでいた牛が化けてこのような姿になったとということです。今は塩を焼いてはいません。
  
        月涼し千賀の出汐はわれの物
 
 塩竃宿の門前から小舟にて松島へ渡りました。
 小舟に乗った桃隣は、舟子に酒を与え静かに舟を進ませながら、島々について語らせました。まずは古来歌枕として著名な籬島(まがきじま)、高く見えるのは大沢山住鵬雲和尚隠居所、経が島は見仏上人独誦(どくじゅ)の閑居、ふくら島は田畑が有って弁慶守本尊不動が有り、五大堂は五智の如来があり、松島町からは橋二つを超えねばなりませんなどの話に往事を追懐しました。
 伊達家菩提寺瑞巌寺、政宗夫人墓所陽徳院、長女五郎八(いろは)姫の墓所天麟院を参拝したあと富山に登りました。富山大仰寺には高泉和尚の額が掲げられていました。ここからは松島が一望できその美しさは言葉では言い尽くせません。国主もたびたび来ているそうですが、旅人にはぜひこの眺めを見てもらいたいものだという思いが脳裏をかすめました。
         麦喰て嶋々見つゝ富の山 桃隣
 
 石巻に向かった桃隣はその繁栄ぶりを見聞、海上に燦然と輝く金華山に心を躍らせ、平泉へ向かいました。


 多賀城をめぐる人々(7)「坂上苅田麻呂」

                      東北歴史博物館 館長  工藤 雅樹

 坂上苅田麻呂(さかのうえのかったまろ)は、有名な坂上田村麻呂の父親である。苅田麻呂は、坂上田村麻呂ほど東北に深くかかわったわけではないが、それでも宝亀元年(七七〇)九月には陸奥鎭守將軍となっており、短期間ではあるが多賀城にいたこともある。
坂上氏の家系は、代表的な渡来系氏族のひとつである東漢(やまとのあや)氏の一族に属する。東漢氏は後漢・霊帝の子孫と称していたが、実際には百済(くだら)系の渡来氏族だとする説が有力である。苅田麻呂の父は犬養(いぬかい)で、聖武天皇の時代に武芸の才能を認められて左衛士督(さえじのかみ)などを歴任し、正四位上にまで昇進した。
奈良時代は、華やかな一方では、さまざまな政争が渦巻いた時代でもあり、天平勝宝九(七五七)年には橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱といわれる事件が勃発している。奈良麻呂は、橘諸兄(たちばなのもろえ・葛城王と名乗る皇族であったが、臣籍に降下して橘諸兄となった。葛城王の時代に陸奥国を訪れた話は第三回で紹介した)の子で、政界に重きをなしていた藤原仲麻呂打倒のクーデターを企てが、事が漏れて失敗、一味とともに逮捕された。
 奈良麻呂は決起に先立って、著名な武人数人を酒宴に招き、決起の障害にならないようにしたというが、そのなかに苅田麻呂と牡鹿嶋足(おしかのしまたり、後の道嶋嶋足、第五回・第六回参照)もいた。天平宝字八(七六四)年には、僧・道鏡(どうきょう)の台頭に危機感を抱いた藤原仲麻呂がクーデターを計画して敗死する事件が起きているが、この時には孝謙(こうけん)上皇は授刀少尉(じゅとうのしょうい)・坂上苅田麻呂と將曹(しょうそう)・牡鹿嶋足等を遣わし、仲麻呂に擁立されていた淳仁(じゅんにん)天皇のもとにあった鈴印を奪回しようとし、これを迎え撃った仲麻呂の子・久須麻呂(くすまろ)は両名に射殺されてしまった。この出来事が、結局は仲麻呂らが琵琶湖畔で敗死することにつながったのである。
 苅田麻呂と嶋足の功績は高く評価され、両名はともに勳二等を授けられ、苅田麻呂は大忌寸(おおいみき)・嶋足は宿祢(すくね)の姓(かばね)を賜った。苅田麻呂はその後も主として中央での武官の道を歩み、宝亀元年(七七〇)には陸奥鎭守將軍になっている。苅田麻呂は従三位まで昇進し、娘の又子(またこ)は桓武(かんむ)天皇の後宮(こうきゅう)に入るなど、天皇の信任も厚かった。苅田麻呂が亡くなったのは延暦五年(七八六)正月七日のことで、亡くなった時は五十九才であった。
 このように、苅田麻呂と嶋足とは武人として上司と下僚という関係にあることが多かったようであるが、一方で嶋足は道嶋一族の出世頭として陸奥国府多賀城に強い影響力を有していた。やや後に、坂上田村麻呂の起用されることになるのも、坂上氏と道嶋一族との良好な関係が考慮されていたことであろう。
 嶋足らの次の世代の道嶋一族を代表する人物は道嶋御楯(みちしまのおたて)である。御楯は政府軍が阿弖流為らに大敗した延暦八(七八九)年の戦いでは、地元の人間ながら政府軍の幹部の一人に名を連ねているが、延暦二十三(八〇四)年の「征夷」人事では、征夷大将軍の坂上田村麻呂を補佐する三人の副将軍の一人(他の二人は都の貴族)に抜擢されている。
 この作戦は、結局は中央において蝦夷に対する政策の変更があったために、実行されなかったのであるが、その後も道嶋御楯は多賀城で重きをなしたにちがいなかろう。二代にわたる坂上氏と道嶋氏のコンビは、奈良時代後半から平安時代初期の東北の歴史に大きな役割を果たしたのである。

 
       多賀城の地名 「加瀬沼 かせぬま」

                     宮城県地名研究会 会長  太宰 幸子

 多賀城政庁エリアの背後に広がる沼の名を加瀬沼というが、住所表記にも加瀬の地名がある。
カセとは、カセル、つまり痩せている地を意味していて、地形から見ても、地名がつけられた頃には、地味が悪く稲作をする地帯だったろうと推測できる。つまり湖沼地帯だったろう。こうした地形だからこそエミシに向けた国の機関である多賀城国府が、現在地に築かれた。前には海が、背後には湖沼がある地、つまり自然要害の地だった。
現在の加瀬沼はとても大きいし、ゆったりとして白鳥などの水鳥たち、そしてわれわれ人間にとっても心癒される地になっている。
 この沼は伊達騒動で知られる伊達安芸宗重が、多賀城の天童氏に婿入りしていた頃、土手を築きしっかりした用水池としたという。しかしこの奥の方から流れ出る山水は、長雨や台風などの時期に下方に作られていた水田をばっちりと水に浸した。今でも洪水があったことを覚えている方がおられる。現代のような農業とは違い、技術や肥料なども劣っていたから、カセの地はつまり地味が痩せていた。それに加瀬の文字があてがわれ、どこやらロマンチックな響きを持って耳に優しい。

いしぶみ19号(2)

           『友情の人形』
     
                       宮城県考古学会前会長 桑原 滋郎
 
 喪中だったので、新年の挨拶を遠慮して静かに正月を過ごしていたところ、18日に母が亡くなり、急遽札幌に飛び、慌ただしく葬儀を済ませてきた。両親は樺太=サハリンの人だ。父も2月だったから、二人共に極寒の時節に死出の旅立ち。寒い故郷が懐かしかったのかもしれない。40数年前宮城県に来て、ここ数年県内で最も温暖な山元町に住むと、冬は零下43℃にもなる樺太の地で生まれ育ったことや、その後帯広・旭川など厳しい冬を経験したことは忘れがち。父の葬儀の時もこの度も寒さ厳しい大雪。季節の良いときしか北海道には戻らないので、こういう時に自分が北国の人間であったことを実感する。
 葬儀の後、妹と買い物に出て、何時もは外から眺めるだけでの時計台に入った。明治の建物に見惚れていると、突然妹「アラー!あのお人形ヨ!」と言う。無骨な男に何故人形?と訝る私。それ「青い目の人形」の別名もある『友情の人形』。80年ほど前の昭和初頭、悪化の兆しみえる日米関係。それを案じた日本縁りの米国人シドニー・ルイス・ギューリックが、両国の友好が長く続くよう願い、アメリカの子供達から日本の子供達に、人形を贈ることを提案した。話は忽ち全米に及び、何と13,000体近くの人形が集まり、日本に贈られた。箇々の人形は名前を記したパスポートを持っていたという。日本側の受け入れには、財界の大物渋沢栄一翁が中心になり、全国の小学校・幼稚園に届けられた。受け取りに当たり各学校は盛大な歓迎式を挙行した。
 当時の本最北端の樺太北部鵜城(ウシロ)町の小学校にも人形が来た。歓迎式で人形を手渡したのは、大場節太郎町長。代表で受け取ったのは2年生の大場夏、歓迎の遊技には6年生の大場都が居た。人形は男の子で、名は「ヘンドリック」君。
 歓迎の遊技を披露した大場都は後の母、町長は祖父だ。時計台にあった人形を前に妹は、「お母さんから聞いたのよ」と、こんな話を楽しげに語ってくれた。私は初耳。『友情の人形』がにわかに身近に感じられた。昨年来東京に住む3年生の孫咲子(サクコ)とメールのやり取りをしている。札幌から帰ってのメールには、このことを話題にした。すると「ジージ!私、興味津々よ!、続き早く書いて下さい」とすぐ反応があった。孫にとっては、祖父(私)の母親が直接関わった、ささやかな歴史がとても興味深かったらしい。
★宮城県内でも三本木小、桃生小など数体が保管されています。贈られた当時は友情のあかしとして大切にされていました。太平洋戦争中は敵国の人形、スパイとして焼かれたり壊されたりするなど悲しい運命をたどりますが、戦後、人形が発見、現在300体あまりの当時の人形が全国の小学校、幼稚園で保管されています。ギューリック宣教師は」子供の頃からお互いの国の文化を理解することが両国の友好につながる」と訴え多くのアメリカ人が友情人形に賛同し、昭和2年3月3日の雛まつりに間に合うように日本に送られました。まさに民間レベルで行った草の根国際交流のシンボルです。宮城県には221体の人形が集まったそうです。


              常陸国府を訪ねて      
                             会 員 松川 和夫

  昨年11月12日、当史跡案内サークルの年次計画にもなっている野外研修で、茨城県石岡市の「常陸国府跡」を訪ねる計画に参加した。 現地石岡駅には11時過ぎ到着。講師として、石岡市教育委員会 田崎課長と佐々木さんのおふたりが、わざわざ駅まで、お迎えに見えた。
 常陸国分寺跡、同尼寺跡を見学。本命の常陸国府跡は、現在の石岡小学校の敷地内にあり、更に国衙機構の中で重要な位置を占める常陸国総社宮は、この小学校に隣接していた。 昼を挟んで常陸風土記の丘、鹿の子史跡公園を見学し、最後に船塚山古墳に上り、石岡駅からの帰路は午後4時半を少し回っていた。
 六四五年蘇我入鹿がクーデターにより暗殺されたいわゆる大化の改新。これを契機に、翌年には東国の行政組織として常陸の国は新たな編成が成され、国府は石岡に置かれた。これは、既に5C半ばに同地に舟塚山古墳(全長186mの前方後円墳で、東日本では
No.2)を築き上げる程の大きな支配力が同地にはあったからと言われます。
 七一三年の詔により、「常陸国風土記」が編纂されるが現存するのは、これも含めて5件のみとか。
 この風土記にも記載されているとのことですが、この舟塚山古墳からの眺めは、筑波山から、霞ヶ浦への一直線上にあり、目を見張るばかりです。
 記録には、七一九年藤原宇合(うまかい)が常陸守になるとあります。七二四年の大野東人の多賀城創建と、深く関わって来るのでしょうか。
 石岡駅前の数キロは、江戸末期から昭和初期の由緒ある店舗の美観を維持する為、電線を地下に埋めているとのこと。講師の田崎課長、佐々木さん、誠に有難うございました。追記・11月14日の朝刊に、大化の改新の舞台、蘇我入鹿邸の可能性の強い焼け跡を発見の記事。何かの因縁を感じました。


        多賀城の地名「湯坪 ゆつぼ」(塩竃市)

                      宮城県地名研究会 会長  太宰幸子

 多賀城政庁跡から陸奥総社宮そばの道を過ぎ、塩竃市赤坂方面へ向かうと坂道になる。昔は一里塚があったという近くの右側、現在の母子沢町エリアに、小さな池があり、その近辺を湯坪と呼んでいた。今は住宅地になっており、それを知ることはできない。
江戸時代の記録「安永風土記」塩竃の項に、「ゆつぼ 母子沢堤」「ゆつほ坂 長さ三十間」の記録がみえ、湯坪坂があり、付近には湯坪堤があったことを伝えている。知人のお話によると、堤は五、六十年前まで確かにあったようだ。以前、地元の方にお尋ねしたときには、「あそこにお湯が沸いていて、湯気がたっていた。」とのお話をいただいた。
しかしそれは、考えられない地質ではなかろうか。もし、そこにお湯が沸いているとすれば、温泉として人々は棄てておかなかったはずであり、記録や口伝に残されていたはずである。
 多賀城国府エリアには、金属地名がいろいろある。加瀬沼に面したエリアには、金沢という地が広がっており、湯坪の側には大日向地名がある。また、前回の金堀という地名があり、政調エリアからは製鉄や鍛冶の行なわれた際の滓(鉄滓)がたびたび見つかっている。
 湯坪地名も、やはり金属地名であろう。古代より農具や武器製作のために、たくさんの鉄が用いられてきた。その鉄器を加工する人たちを鍛冶師というが、鍛冶師たちが鉄を溶かす容器を「るつぼ」、あるいは「ゆつぼ」という。
 鉄は高温で熱すると液状になるが、それを「湯」と呼ぶ。湯坪・湯壷と文字が変わっても意味は同じで、この周辺で鍛冶が行われていたことを伝えている。
湯坪という地名は各地にあり、鉄だけではなく、金や銅に関わる地にもみられる。ただし、近くに温泉などがある場合は、金属地名に該当しないこともある。大分県には湯坪温泉があるが、これは、お湯の方かもしれない。


      多賀城小『お年寄りとの交流会』に参加!
          〜当サークルは、こんなことにも利用されています。〜

「史跡案内サークル」は、一月二十五日(水)、多賀城小学校の要請を受けて、科目「総合」の一環として実施された『お年寄りとの交流会』に会員6名が参加しました。孫にも等しき6年生の可愛い生徒さんからの質問(昔のくらし、戦争体験など・・・)に、その目線で答え、楽しい交歓のひとときを過ごすことができました。
 生徒さん方は私達の「つたない話」をもとに「新聞」に整理し、あるいは「作文」など、実習後のアフター処理をしてくれました。あまつさえ個々の「お手紙」までいただきました。ありがとう!多小!
        (会員 五十嵐敬之輔さんより)

★前回、サークル会員が史跡を案内した多賀城小学校の6年生、今回は「戦争時代の子供たちのくらし」をテーマに当サークルの中から戦争当時小学生だった会員の方が生徒さんと給食まで一緒に楽しい交流を行いました。担当の先生たちの子供たちへの熱心な教育の取り組みに深く感心した1日でした。生徒さんたちはかなりネット等を利用して調べたらしく戦争についての事前学習がしっかりされていて積極的な質問に会員全員熱が入りました。生徒さんばかりでなく先生も聞き慣れない戦争当時の体験談に真剣に耳を傾けてくれました。
 今回、多賀城小学校の生徒さん一人一人が「新聞」を作成しました。どれも素晴らしく会員のお話を熱心に聴いて理解した作品ばかりでしたが皆さんにご紹介するために代表として5人の生徒さんの作品を選びました。生徒さんの素直な気持ちを読んでください。

いしぶみ19号(1)

    『蝦夷紀行』に見る壷碑
     
                         宮城県図書館 館長 伊達 宗弘
     立初(そむ)る春の日和に舞鶴の
            つばさの風も長閑にぞふく  正敦

 仙台六代藩主宗村の八男で堅田藩主(のち佐野藩主)の正敦が、幕府の老中につぐ重職である若年寄に在薄した四十二年間は、仙台藩では正敦の兄である七代重村、八代斉村、九代周宗、十代斉宗、十一代斉義、十二代斉邦の時代と重なっています。仙台藩の行く末を暗示するように斉村は二十二歳で、周宗は十七歳で、斉宗は二十四歳で、周宗は三十歳で、斉邦は二十五歳で早世しました。当時仙台藩は、天明の飢饉の後遺症に悩み、さらに天保の飢饉で大きな打撃を受けていまいた。そのような中で寛政八年(一七九八)斉村夫人が周宗を生んだあと死去、時をおかず前藩主重村、藩主斉村が急逝しました。非常時に当たり重村夫人観心院は、堅田藩主堀田正敦に藩政補佐を依頼し、幼君周宗の補佐体制を固めました。周宗在位の文化四年(一八〇七)四月、ロシアは択捉島に上陸し略奪行為をし、幕府は奥羽諸藩に蝦夷地警護を命じ、翌年、藩政をあずかっていた正敦は藩兵一千七百名を率いて蝦夷地へ赴くなど、仙台藩政に深く関与しました。
『蝦夷紀行』は、蝦夷地に赴いた時の正敦の旅日記です。
文化四年(一八〇七)六月二十一日江戸を発った正敦は、途中日光に参拝し、那須野を経て白河に達しました。白河は、勿来の関、鼠ヶ関と共に奥羽三関といわれた場所で、松平定信の居城のある奥州要衝です。
『万葉集』に詠われた安積山、会津磐梯山、安達太良などを眺望しながら仙台領に入りました。左方にはにときわ高い蔵王の山々を眺望することができます。仙台、盛岡、青森を経て函館に入り、東蝦夷地の有珠や西蝦夷の熊石等を巡検し帰路につきました。この旅を通して正敦は目に触れ耳に聞くもの、人情風俗の異同、山川道路の嶮岨、物産や国柄などについて、鋭い考察を行っています。所々にはその場に相応しい和歌が添えられ趣深い紀行文となっています。
 国見峠では伊達の大木戸を眺めながら源頼朝の奥州征伐に思いを馳せました。仙台は正敦の故郷、若かりし頃の思い出が走馬燈のように脳裏をかすめました。
北へ向かう途中の一関は正敦の子息敬顕が藩主に迎えられており、夜は親子水いらずで語り明かしました。
         まれにあふほしこよひは天の川
                わたりかねたるうき瀬ならまし
 
 翌日は中尊寺を参拝、往時の藤原氏に思いを馳せました。田稲束(たばしね)山は藤原氏全盛時代、桜爛漫と咲き誇り、北上川は桜川ともいわれておました。
         
         いにしへの名のみ流れて桜川
                たゞ白雲ぞおもかげにたつ
 
 一戸を過ぎる波打峠という所の辿りつきました。
大きな白い岩を見、松林を越えました。ここが有名な末の松山です。慣れ親しんだ多賀城の末の松山に思いを重ね合わせ、さらに北へと進みました。三本木平という原にさしかかりますと、尾花、桔梗、藤袴などが咲き乱れ、まるで別世界です。
  
         百草を分けつゝゆけどはてしなき
                野原の露をうづらとやゆく
 
 七戸を過ぎ、「つぼ河」を渡りました。村の名は「いしぶみ」といいます。千曳明神を祀っている神社には大きな石があり、そこには「日本中央」という四字が刻まれていそうですが、文字は薄くなっているとのことでした。行ってみようと思いましたが、今は土に埋もれて見えないということなので、断念しました。仙台では千賀の塩竃へ行く道の多賀城の碑をいしぶみといっていますが、ここには川の名前、村の名前にもそれらをうかがわれるものが多く、これが本当の碑かと何となく思わずにはいられませんが、いまはそれも土に埋もれてしまっているので心を残し、北へ進みました。蝦夷地では聞くもの見るものみな珍しく蝦夷の人々の生活や、北の守りの様子なども詳細に書きとどめました。
 帰路は心にも少しは余裕が出てきました。松島では頼賢の碑を見て往事に思いを馳せ、早朝五大堂も参拝しました。藩主から差し向けられた御座舟孔雀丸に乗って松島の美しさを堪能しました。

         遠ざかるなごりをしまのあま小舟
                波のつな手に心ひかれて
 
 籬島ではしばし舟を泊め、「前に浮きたる浮島はどこですか」と訪ねると今は干潟となって、里の名にのみとどめていますという返事に、時の移ろいの無情さを感じました。
 塩竃神社を参詣した後、仙台では瑞鳳寺、大年寺など祖霊の廟を参拝しまいした。他家に養子に入り、今は幕府の要職にある自分の半生にしみじみとした感慨を覚えながら、江戸への帰路を急いだのです。

         河しまの水のながれの同じせに
                あふあふことも命なりけり  


         多賀城をめぐる人々(6) 道嶋一族

                      東北歴史博物館 館長  工藤 雅樹
 
 奈良時代を中心に牡鹿郡を拠点に勢いがあったのが道嶋(みちしま)一族である。道嶋一族の姓は、もとは牡鹿連(おしかのむらじ)といい、さらにそれ以前には丸子(まるこ)という姓であった。この一族は伝統的な牡鹿郡地方の豪族で、早くから陸奥国の首脳部の一角に食い込んでいた。
 道嶋三山(みちしまのみやま)は767(神護景雲元)年には異例ともいえる出世で、国司の三等官である陸奥少掾(しょうじょう)となっている。三山は伊治城(栗原市、旧築館町城生野)を作る時には中心となって事を進め、その功績で中央豪族並の従五位下(外位〔げい〕ではない)を与えられ、陸奥国内の神祇(じんぎ)関係を統括する陸奥国の(くにのみやっこ)国造の職につき、少掾から大掾(だいじょう)に昇進し、鎮守府の幹部である軍監(ぐんげん)も兼任し、769(神護景雲三)年には陸奥員外介(むつのいんがいのすけ・定員外の次官)にまで昇りつめ、陸奥国出身者としては肩を並べる者もない勢いをふるっていた。
 道嶋一族には、道嶋大楯(おおだて)もいる。平城宮跡出土の木簡のなかに、丸子姓の人名が列挙されている天平勝宝(てんぴょうしょうほう、749〜757)の年号を記した習書木簡(しゅうしょもっかん)があり、そのなかに「丸子大田而(まるこのおおだて)」という人名がある。これは恐らく大楯のことであり、彼は若い時期には舎人(とねり)として都に出ていた経歴があったのであろう。その後大楯は陸奥に帰り、牡鹿郡の長官(大領・たいりょう)となっている。
 多賀城が焼打ちされた事件として有名な、780(宝亀11)年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱の主人公・伊治公呰麻呂は、栗原地方を拠点とする蝦夷の族長であったが、反乱にふみきるまでの伊治公呰麻呂は、栗原郡の長官(大領・たいりょう)の地位にあり、奈良の都から赴任してきた陸奥国の長官(按察使・あぜち)の紀広純(きのひろずみ)に仕える立場にあった。この点では大楯と呰麻呂とは同じ立場にあったのである。ところが大楯は常に、呰麻呂が蝦夷であるという理由で呰麻呂をあなどり嘲っており、それを恨んでいた呰麻呂は、反乱に立ち上がった最初に、紀広純と大楯を殺している。
 そして道嶋一族のなかでもっとも出世したのは道嶋嶋足(しまたり)である。嶋足も早くから舎人として上京していたらしい。そして、時の権力者、藤原仲麻呂(恵美押勝〔えみのおしかつ〕の名を賜った)の信任を得るようになり、757(天平勝宝9)年7月に反仲麻呂のクーデター計画が実行されようとした時(橘奈良麻呂の変)には、クーデター派は、仲麻呂派の数名の要人・武人を飲酒に誘い、決起に邪魔が入らないようにしたが、それに誘われたなかに嶋足も含まれていた。
 ところが、僧道鏡の栄進などで追い詰められた仲麻呂が764(天平宝字8)年9月にクーデター(恵美押勝の乱)を企てた際には、授刀将曹の地位にあった嶋足は、仲麻呂派を攻撃する役割を帯びて活躍した。そして事件後には、嶋足の功績は「大功」に准ずるものとされて功田20町を賜り、中央で武官として出世し、位階も最終的には正四位上・勲二等に至っている。
 一方で嶋足は、道嶋三山が就任した陸奥国の国造のさらに上位にあたる陸奥國の大國造に就任している。そして、769(神護景雲3)年には、賀美郡の人、丈部國益(はせつかべのくにます)らに阿倍陸奥臣(あべのむつのおみ)、牡鹿郡の人、春日部奥麻呂(かすがべのおくまろ)等三人に武射臣(むさのおみ)、曰理郡の人、宗何部池守(そがべのいけもり)等三人に湯坐曰理連(ゆえのわたりのむらじ)、黒川郡の人、靱大伴部弟虫(ゆげいのおおともべのおとむし)等八人に靱大伴連(ゆげいのおおとものむらじ)、苅田郡の人、大伴部人足(おおともべのひとたり)に大伴苅田臣(おおとものかったのおみ)、柴田郡の人、大伴部福麻呂(おおともべのふくまろ)に大伴柴田臣(おおとものしばたのおみ)、玉造郡の人、吉弥侯部念丸(きみこべのおもいまる)等七人に下毛野俯見公(しもつけのふしみのきみ)の姓を賜わるなど、陸奥国内の六十余人に、より上位の氏姓があたえられているが、そのことを記す『続日本紀』には、これは「陸奥国の大國造道嶋嶋足の申請」によったものであることが特記されている。
 岩手県胆沢地方の蝦夷との戦いに武将として活躍した道嶋御楯は、嶋足の後任の陸奥国の大國造にも就任し、最終的には外従五位下・鎮守副将軍にのぼっている。御楯はあるいは大楯の子かもしれない。
 東松島市矢本にある矢本横穴古墳群は、道嶋一族に関係する古墳群らしいが、ここから出土した七世紀末または八世紀はじめのものと思われる須恵器には「大舎人(おおとねり)」と墨書されたものがあり、近くの赤井遺跡からも須恵器に「舎人」とヘラ書されたものが出ている。嶋足らが上京したのもこの伝統をひくものであった。そおして、道嶋一族は、牡鹿柵が置かれた奈良時代の前半に、他地域から移民として入ってきた豪族であった可能性が高い。道嶋大楯が伊治公呰麻呂を蝦夷だといって侮蔑していたというのも、道嶋一族が移民系であったと考えたほうが良く理解できるだろう

いしぶみ18号(2)

       大宰府とランビキ
      
                       宮城県考古学会前会長 桑原 滋郎
 
 11月多賀城市と大宰府市は友好都市を締結した。特別史跡平城京跡(奈良市)・大宰府跡(太宰府市)・多賀城跡は『日本三大史跡』といわれる。両市にはそれぞれその一つが有ることが御縁。奈良・平安時代、多賀城と大宰府は一方が東日本、他方は九州全域統治の中心であり、共に支配の範囲は極めて広かった。さらに前者は対蝦夷政策、後者は対中国・朝鮮政策という外交をも司った。宮城県が多賀城跡を継続的に調査する研究所を設立したのは1969年、福岡県は既にその前年大宰府跡の調査を開始していた。程なく、広島県は福山市草戸千軒町(クサドセンゲンチョウ)遺跡(中世の門前・市場・港町)に、福井県は朝倉氏(アサクラシイチジョウダニ)遺跡(戦国大名の城館)に調査機関を設置し、大規模な遺跡を持つ4県の交流が始まった。特に多賀城と大宰府は性格が共通する事もあって、研究所発足当初から親しいお付き合いがあった。
 1972年の正月、私は同僚の平川南君と初めて大宰府見学に訪れた。都府楼=政庁跡発掘調査現場の詳しい説明の後、急速に遺構の所在が判明し、注目を集めていた、大野城跡のご案内を頂いた。大野城跡をくまなく歩き回る遺構確認作業には大変な苦労を伴ったと思われる、加えて調査主任の藤井功さんは口の悪い方だったので、「たやすく遺跡見られると思ったら大間違いだ!お前等には道は歩かせんぞ、ドレ真っ直ぐ行くか」等と呟きながら、都府楼後方から藪を漕いで登山?を開始した。大野城跡は多賀城と違い数百m級の山をすっぽり包み込むような遺跡で、大宰府の後方にそびえ立つ。折りからの霙、寒いし足元は悪い、若輩ゆえ文句も言えず黙して従うのみ。途中の平場には建物跡があり、また多賀城の築地とは比較にならない規模の土塁や、広くて深い谷を跨ぐ石垣を目の当たりにした。この寒中修行?で西日本の代表的山城を実感し、東北城柵が共通項目でとらえられてた頃のこと、印象は強烈であった。
 見学後の友好は当然酒、1次会を終え、薄汚れた居酒屋に流れ、2次会に及んでいたところに、若い二人連れが入ってきた。既に相当入っているらしく、声高な会話、こちらの耳にも入る。「俺なこの間北海道に行って驚いたの何の、言葉が全然通じなくてな、皆ダンベエーよ、それに食い物何もなくて芋ばかりよ、北海道なんてお前!『芋喰ってダンベエだぞ!』と・・・。
 私が北海道と知っているから平川君はクスクス笑うし、藤井さんも「桑原あんな事言わせておいて良いのか」と焚き付ける。私のことを酒癖が悪いという向きもあるが、この程度は北海道育ちのおおらかさで聞き流した。それにしてもはるばる福岡まで来て、こんな有りもしない話を聞こうとは、初めての大宰府見学での小癪な思い出。
 お互い行き来があると、土産物=名物の交流も当然だ。大宰府の方が見えると、福岡の麦焼酎「ランビキ」を持参されることがままあった。私の酒の師匠は工藤雅樹先輩で、日本酒の味わい方をとくとご教示いただき、酒と言えば日本酒と決めて、「焼酎なんか味もない」と思っていたが、アルコール度40のランビキなる焼酎をやってみると実に美味い、後口や酔い覚めが何とも爽やかで、すっかり虜になってしまった。しかし酒屋で探すも見当たらず。そこで「ここは一つ取り寄せ」と言うことになった。79年の暮れ、給料近くに、私がその音頭を取った。当時その話に乗ったのは、進藤秋輝、白鳥良一、高野芳宏君等飲んべえ諸公だ。ところが事も有ろうに中身も確認していない私の給料が盗難にあった。資料館・研究所では例を見ないくらい事件、焼酎の「取り寄せ」は消し飛んだ。
 81年に私は、15年間慣れ親しんだ多賀城を離れ、文化庁に勤務し、埋蔵文化財保護行政に当たることとなった。赴任直後、当時福岡県文化課長の任にあった藤井功さんが見えた。人が少なくなったのを見て、藤井さん曰く、「イイカお前!これからは調査官として全国を回る、担当は勿論、課長・教育長或いは首長とも会うことも多い、そんなとき文化庁風吹かせたら、俺が承知せんゾ!相手はお前に頭を下げるだろうが、それは文化庁の金に下げるんだ、その辺を良く心得ろ!」。突然やや乱暴に言われたこともあって、その通りと感じたが、発言の真意を測りかねていたところ、藤井さんが続けた。「桑原なあ、人間なんて弱いものぞ、今お前は地方に出向いて威張ったりしないと思っているだろうが、調査官・調査官と大事にされ、ペコペコされたら、その気にもなる。実は俺に経験があるんだ。亜先年浩宮(現皇太子)が福岡県にお出でになった、その折り、俺も車の行列に加わった、沿道は日の丸を振る人で溢れている、初めは俺もう恥ずかしくてな、車で小さくなっていた、それがなあ・・・2日3日経つと、気がつけば俺も沿道の人々に手を振っていたんだ・・・、その場に置かれると気持ちが変わる、人間なんて弱いもんだ、良いか桑原この辺のこと忘れずに名!」有り難い忠告の一喝、忘れがたい。
 暫らく後に福岡県に出張した折り、懇親会で焼酎が出た。少々酔って、露と消えた「ランビキ取り寄せ」の悲話?を開陳に及んだ。藤井課長「オーオー気の毒、俺が土産に・・・」と慰めてくれた。帰途飛行場での担当の方が「課長から」と言ってランビキ数本手を手渡してくれた。心弾んでチェックインを済ませ、待合室で一息つく頃、場内アナウンスが「桑原様、東京の桑原様」と私を呼ぶ、「ハテ?」と思い指定の場所へ急ぐと、ニヤニヤした担当の方「調査官上着わすれました」。土産のランビキを右手にしっかり持った時、それまで抱えていた上着が離れたらしい。酒に目がくらんだ愚か者、40度のランビキを一気飲みしたように赤面した。
 



      多賀城の地名

                      宮城県地名研究会会長  太宰 幸子
    金堀  かねほり

 縄文時代にはここまで海が入りこんでおり、前期初頭のハマグリ貝塚が発見されている。また、計帳様断簡の漆紙文書が見つかった地として知られる。
金堀の北西、現在の加瀬沼エリアになっている地に、金沢という地名が広がっている。金沢は、カネのある沢。つまり地中に鉱物資源をもつ沢となる。その南側が金堀だから、おのずとその意味が理解できそうだ。この地に金鉱をみつけ、採掘した地が金堀である。
金堀の北東に鎮座する貴船神社は、昔、白山神社であったという。白山修験は、製鉄にも造詣が深く、その技術を各地へ持って歩いたという。製鉄集団は、技術とともに、原料のある地へと転々と移住して歩いた。よく似た集団であった。これら神社も、金堀に関わった人たちの信仰の場であった可能性が強い。
時代的考証は不可能であるが、この付近砂鉄などの鉱物資源を採取していた地といえる。

    龍ケ崎
 現在の中央二丁目の中に取り込まれた地名で、高崎や市役所などの建つ丘陵が多賀城駅の近くまで突出した地形だったが、現在は削られ、それを感じることはできなくなっている。
 サキは、突き出ている地。リュウは水を、特に洪水のときの濁流を示すことが多い。昔は砂押川が岬のすぐそばを流れていて、たびたび氾濫をしていた。氾濫とともに突出していた地形は削られていったかもしれない。
 龍は水が急激に流れる状態を表し、水神としても祭られる。龍神様がそれである。スナオシの地名も、砂が押されて来る状態。つまり川の氾濫により大量の砂が上流から押し流されてくることからの川の名であろう。
 山手に降った雨が集まり、大きな流れを作って下流に押し寄せる。その押し寄せるさまが龍となり、大量の砂を押し流し運んでくる。氾濫常習地帯には、蛇の地名や白髭の地名が多くみられる。これは濁流の様子や水の押し寄せる様子を疑似化した地名である。
 自然は、憤怒のような形相をして、ものすごい勢いで流域の人々を苦しめた。そんな祖の思いを伝え、大雨には思い上がらずに心するようにと地名は知らしめている。
 地名には、自然災害の事実を伝えていることが多々あり、その地名が意味の違ったものに変更されてしまうと、かつての災害を知らせることが不可能となる。地名の改名が、決してよいとはいえない一つとして覚えておいていただけたらうれしい。


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事