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史都にとどめた道興准后の想い出
宮城県図書館 館長 伊達 宗弘
道興准后(どうこうじゅんご)は、左大臣近衛房嗣の子で、京都聖護院門跡などをつとめた室町後期の高僧です。室町幕府と密接な関係をもち、延徳二年(一四九〇)には足利義視(よしみ)の病気平癒を祈願し、その翌年には参陣して十代将軍義稙を加持しています。
さらに明応九年(一五〇〇)には参内して後土御門天皇の玉体を加持、熊野三山ならびに新熊野検校になるなど、隠然たる力を持っていました。
文明一八年(一四八六)六月から約一年にわたって東国を巡歴し、その後は西国・西国巡歴の途に上るなど全国の名所旧跡を巡っています。東国巡歴の旅行記およびその詩文集は『廻国雑記』一巻として塙保己一編纂の『群書類従』に収められました。
『廻国雑記』は、北陸路から関東へ入って武蔵国など各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたもので、すぐれた和歌や漢詩などを多く納められています。特に、各地の地名をよみこんだ和歌は注目され、もろおか(利府町)、赤沼、西行がへり(長老坂)などの地名が見られます。
文明一八年六月上旬の頃、東国への旅のためしばらく留守にするため、前将軍足利義政、九代将軍義尚にお暇ごいを申しお上げ、翌日義政への二首を献じました。
旅衣たつよりしぼる武蔵野の
露や涙をはじめなるらむ
それに対し善政から返歌が贈られました。
思いたつ富士の煙の末までも
へだてぬ心たぐへてぞやる
将軍義尚からも和歌が贈られました。
思いやれはじめてかはす言のはの
富士の煙にたぐふ物とは
道興は使者を待たせとりあえず返歌を贈りました。
富士の嶺の雪もおよばず仰ぎみる
君がことばの花にたぐへて
送別の宴の席で、八十五歳になる父は万感の思いを込めた和歌を道興に贈りました。
身は老いぬまた相見むもかたければ
今日や限りの別れなるらむ
道興は柴の庵や、別れる心細さを和歌に託しました。
住みなれしこの山水の哀れわが
誘はれ出づる行方しらずも
大原で皆に別れを告げ、足の向くまま各地を廻った道興は、白河の関を越え各地で和歌をとどめました。
春は唯花にもらせよ白川の
せきとめずとも過ぎぬものかは
ちりつもる花にせかれて浅か山
浅くはみえぬ山のゐの水
梓弓(あずさゆみ)矢つぎの里の桜がり
花にひかれておくる春かな
かくしつつ故郷人にいつかさて
阿武隈川の逢瀬(おうせ)にはせむ
徒(いたず)らに我も齢はたけくまの
まつことなしに身はふりにけり
名取では藤原実方中将に思いを馳せました。
桜がり雨のふるごと思ひいでて
今日しもぬらすたび衣かな
宮城野では時雨に遭い、しばらく雨をしのぎました。
木の下に雨宿りせむ宮城野や
みかさと申す人しなければ
つつじが岡では、ワラビを見ました。
名にしおふ躑躅が岡の下蕨
ともに祈りしる春の暮れかな
末の松山を遥かにながめながら、よくもこのような遠いところへきたものだと感慨を覚えました。いつの間にか春爛漫の季節を迎えていました。
春ははや末の松山ほどもなく
こゆるぞ旅の日なみなりける
人なみに思ひ立ちにしかひあれや
わがあらましの末の松山
奥の細道、松本、もろをか、あかぬま、西行がへりなどいふところを通りす過ぎ、松島へ到着しました。松島の美しさは言葉に尽くせません。風情があり、かねて聞き及んでいたとおりの素晴らしい眺めです。
この浦のみるめにあかで松島や
惜まぬ人もなき名残かな
籬島(まがきじま)を見渡せば、藤、つつじなどが咲き競っており、さらに美しい風情を添えていました。
まがきじまたがゆひそめし岩つつじ
巌にかかる磯に藤波
これから塩竈の浦へわたるため舟に乗りました。
松島や松のうはかぜ咲きくれて
今日の舟路はちかの塩竈
平泉ではありし日の藤原氏全盛と滅亡に、諸行無常の理(ことわり)に思いを馳せ家路を急ぎました。
みちのくの衣の関をきてみれば
霞もいくへたちかさねけむ
北と南の「遠の朝廷」が友好都市締結!
福岡県太宰府市と多賀城市の友好都市調印式が平成17年11月21日、太宰府市の九州国立博物館で開かれました。
調印式には多賀城市からの市民訪問団65人を含め約120人の関係者が見守る中、佐藤善郎太宰府市長と鈴木和夫多賀城市長が友好都市盟約宣言と協定書に調印しました。
ともに「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれ、国家の軍事、外交の窓口が置かれた歴史的背景が共通している市であり、現在も歴史を活かしたまちづくりを推進しているなど共通点を持っています。両市が結びつきを深めることは、古代の歴史を現代を橋渡しとして未来につなぐ有意義な一歩と言えるでしょう。
私たち市民もこの機会にお互いの歴史と文化を理解し、未来に向けお互いの交流を通して創造的なまちづくりを展開できるよう努めていきませんか?
友好都市協定書は次の6つの交流事業を掲げています。
1. 市民訪問団の相互交流
2. 文化芸術及びスポーツの相互交流
3. 産業交流及び観光の振興に関する相互協力
4. 歴史、文化、教育に関する情報及び研究成果の交換
5. 災害時の相互応援
6. その他目的達成に必要な事業
当サークルも歴史を活かしたまちづくりに尽力されている方々との交流を積極的に行っていきます。
今回友好都市締結にちなんで、地元太宰府市で史跡解説員としてボランティア活動を36年間続けてこられ昨年十月には1万回目の史跡解説を行った太宰府市観世音寺の貞刈惣一郎さん(86)を皆さんにご紹介しましょう。
「雨の日も風の日も根性で頑張り続けた」と同市が大宰府市史跡解説員制度を設けたと同時に当時高校の教師の時代は休日を利用、退職後は毎日行い、国内ばかりでなく海外からの申し込みも多く、52カ国、一三六八団体を案内してきたという。海外の馴染みの添乗員もすっかり貞刈節が身についたというからすごい。ご自宅で民営筑紫児童図書館を運営、大宰府文化懇話会の事務局長としても幅広く活躍されている。
専門的な質問に答えたいとのことから活動のかたわら佐賀大学で経済史を学び昨年修士号を85歳で取得したというから超人的だ。
歴史・観光「ほんものづくり」を考える
太宰府市史跡解説員 貞刈 惣一郎
歴史というものは、常に人を引き付けるものであります。時代によって人によって解釈も違いますから、その扱い方によって、随分多様な楽しみ方ができると思っています。
私は36年間に一万団体(うち外国1,350団体)延べ504,000人の人々を太宰府や福岡都市圏を中心に歴史・観光ボランティアとして案内してきました。みなさん喜んでくれますが、多分、私の話でいろいろ想像をかきたててくれるだろうと思います。大宰府政庁跡には礎石だけしかないけれど、そこには百済滅亡(六六〇)から平家の滅亡(一一八五)までの古代の歴史があり、いろいろな人物の話題があり、絵巻物のような世界がほんとうにあったからだと思うのです。
歴史や史跡を観光資源にするには、そしてそれに興味を持つ人を増やしていくためには、そのような歴史のおもしろさをうまく伝えることのできるいろんな仕掛けが必要だと思います。それは人であったり、施設であったり、ネットワークであったり、いろいろだと思います。
私は九州国立博物館が平成17年10月15日開館を契機として筑紫大宰府の史跡・観光ネットワークづくりをしたいと思います。行革の時代ですから施設は最小限でよいのです。
例えば水城と大野城・椽城は日本書紀に残る日本最古の山城です。白村江の戦い(六六三)で唐と新羅に破れた日本軍と百済の遺臣達が文字通り技術の粋をつくし、必死になってつくったのです。当時の国民の苦しみが目に映るようです。何か国というものを考える時の一つの原点をも見るような気がします。でも今、水城のすぐそばは車置き場になっています。悲しくなります。当時のように築堤の北側に水を貯めて、一部を再現してはどうでしょう。大宰府政庁跡も観光客をもっと増やす方法がほしい。蔵司周辺は貴重な遺跡が見学されない実情です。
いくつかの主な史跡についてはわかり易く、楽しく想像力をかきたてることのできる表示スポットをつくってはどうでしょうか。さらに解説する人がいたらもっと魅力が増します。史跡解説者も現在いますが、今後も生涯教育の時代―協力者の増加を求めます。
宿泊施設―国内・外の観光客を気楽に泊める場所が少ない。歴史観光で筑紫地区のネットワークづくりも必要でないでしょうか。近年観光客の志向の多様化、歴史、伝統文化、自然体験型旅行者の増加を考えると時、地域紹介を行う観光ボランティアの活躍が必要です。
いつでも、どこでも、だれでもをモットーに観光客の心をつかむ。これを機会にまたのおいでを・・・・
笑顔で観光客を見送る人にやさしいボランティア活動を続けたいものです。
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