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和菓子屋雑感
佐貝 道夫
私は一介の菓子屋ですが、菓子づくり四十八年間の経験から、食に関する事で皆様のお役に立つことが少しでも有れば幸いです。和菓子の一年は「うぐいす餅」と「桜餅」と「花びら餅」から始まります。日本料理と同じように、季節感を大事にし、女性の着物の柄や床の間の掛け軸と同様で、本物より一足早い出番です。したがって、うぐいすが鳴き、桜が咲く時期には「柏餅」の季節となっています。「花びら餅」は、裏千家の初釜に用いられるもので、早くて正月三が日か松の内には姿を消しますが、近年茶事以外のお客様からのご要望により、一月末あたりまで作ります。形状は抽象的に男性と女性を表現し、子孫繁栄を願った縁起菓子で、皮は牛皮餅、中身は赤い餅とみそ餡と長い牛蒡で飾ります。
本来、お菓子の名称は形だけではなく、皮の硬さと砂糖の量、餡の硬さと砂糖の量で決まります。[うぐいす餅」の餡は柔らかめで、「桜餅」の餡はやや硬め、「柏餅」の餡はこちこちの硬めにつくります。
又、和菓子の原形である「草餅」や、「大福餅」の皮は砂糖がまったく入らないか、入っても餅米か餅粉に対して砂糖の量が三割から五割以内が本当の製品の味です。したがって、お昼過ぎないし夕方には硬くなりますので、硬くなるものを硬くならないうちに食べるのが本当の味で、炊きたてのご飯の味のようです。炊きたてのご飯を保温してお昼と夕方と翌日では、味がだいぶ変わるのはご承知のとおりです。お寿司の場合でもカウンターで握ってもらってすぐ食べるのと、桶に入ってからのと、出前の味では味がはっきり違います。シャリがほんのりと温かいと、さらに美味しいようです。お寿司を翌日に食べて良かった人は皆無であるはずです。
しかし、和菓子の世界は最近、スーパー等の大量生産、大量販売、流通(納品・陳列・お客様の食する時間)方式により、すべての餅菓子は前述の牛皮餅(求肥ともいう)を使います。牛皮餅は餅米か餅粉100に対して砂糖の量が100から250入りますから、十日以上過ぎても硬くならないものも有ります。餅粉の値段に対して砂糖の値段は、五分の一以下ですから原価も安くつきます。餅菓子といっても、餅より砂糖の量が多いのですから餅菓子といえるのでしょうか。これには、最近の味の風潮もありまして、柔らかくソフト感があり、いつまでも硬くならないものが良しとされ、本物が不良品の時代になってしまいました。本物でないものがはびこっているのに反して、本物を見定める「なんでも鑑定団」の人気が上がっているのも皮肉な現象です。「いい仕事してますね」の名文句がコマーシャルにも使われていました。
さて、平成十五年夏の朝日新聞誌上に、わかぎゑふ(劇団主宰)さんが「本物失う安物ゲーム」の時評で、最近はみんなが安物を利用するというより、安さに負けて買続け本当にいいものが分からなくなってしまっているような、の文を載せていました。
さて、人の購買意欲をかき立てるものは、ブランド名、広告宣伝で名前を知っているもの、お客様の商品に対するイメージ、口コミ、スーパーやデパートや駅で売ってるからであったりするのが普通ですが、売り手に踊らされるグルメ人でなく、冷静な自分の頭と舌で確認して真の目利きの訓練を積み、本人の本人による本人のためになる、新しい無印食品を発見して頂く消費者が増えると、本物の製品が増え安くなり数々の擬装商品が少なくなると思います。
大正生まれで、昭和四十八年に亡くなった母は、京都へのみやげに朝一番の電車で石巻へ買い物に出かけました。ご馳走とは、駆け回ると書きますが、ご馳走をつくるだけでなく、おみやげにも当てはまるのでしょうか。現在はどこでも買えて非常に便利ですが、一般的に千円のものが四百円から七百円での卸しという商品もあります。塩釜には有名な日本酒があります。 勿論他の酒と比較しても上位の味だと思いますが、それと較べてあまり名が通っていなくても同等か、旨い酒もあります。人はすでに味の評価の定まったものに対しては、頑冥に固持し新しいものを取り入れない保守的な癖があるようです。
(塩竈・奥のほそ道「梅花堂」社長)
「金の鶏」
今年は酉年。そこで昭和十二年二月五日、宮城県教育会から発行された三塚源五郎著「多賀城六百年史」から「金の鶏」を紹介します。
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本村笠神の本郷家は二十數代も續いた近在にならびなき舊家で且つ分限者であった。維新頃までは大肝入と云ふ一寸郡長のやうな格式の家であった。元は八幡の本郷原に居ったさうであるが何時の頃現在の地に移轉されたか昔貞觀頃から度々大津波に襲はれたといふ記禄も殘つてゐる、多分其の津波の爲に轉住したものと思はれる。
昔本郷家の先祖某氏が所用あって毎日のやうに蒲生に通った。或夜方八町の道を通ったら時でもないのに土の中からコケッコウと鶏の鳴く聲が聞えた、合點の行かぬことゝ思ったので其場所に標として杖を立てゝ家に歸った。翌日多勢の若者をつれて其處に行って掘らせてみたら金の鶏が現れた、花咲老翁が大判小判を掘ったやうに喜んで家に持ち歸って石の唐戸に入れて大事にして藏って居った。是から本郷家」がめきゝ身代がよくなって近所近在ならびなき富裕者(物持)になったさうである。そして此の金の鶏は舊正月の元旦にだけ鳴いたとの事である。本郷家では代がはり毎に出して拜んで家督に譲った。所がその後何時の間にかにか見えなくなった。地方では利府の方に飛んでいった。それから本郷家も家政が振はなくなつたと言ひ傳へてゐる。(原文のまま掲載しました。)
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旧笠神村に伝わる「金の鶏」の物語です。これは昭和五年から十五年まで山王小学校に校長として勤務した三塚源五郎氏が集めた資料を「多賀城六百年史」として全百二十六ページにまとめたものです。
「多賀城六百年史」に書かれていることはその後、「多賀城町史」や「多賀城市史」へと受け継がれていくのです。 (「いしぶみ」編集部)
多賀城の地名「 弥勒 みろく 」
宮城県地名研究会会長 太宰幸子
多賀城市内には国府関係の遺跡がたくさんあるが、市内には国府ゆかりの人ばかりが住んでいたわけではない。もっと古い時代から現代まで、たくさんの庶民が住んでいた。これは、そうした庶民の生活に密着した地名で、現在の東北歴史博物館の場所が「弥勒谷地」、その前の道を多賀城廃寺の方へのぼる坂道が「弥勒坂」といった。現在は高崎一丁目と変っている。
弥勒とは、平安時代中期頃より、お釈迦さまの入滅後五十六憶七千万年後この世に下生(げしょう)し、人々を救済してくださる菩薩様。弥勒の世には病もなく、人々の心は豊かで言葉の違いもない理想の社会になっているとされている。現代にも是非現われて欲しい仏さまですが。その弥勒菩薩を信仰していたエリア、あるいは弥勒仏が祀られていたエリアにつく地名。
弥勒信仰は近世になると、金華山信仰と結びついていったようで、宮城県内にはあちこちに金華山と書いた石碑がみられる。多賀城の弥勒周辺にも、そうした石碑がないかと探したがみつからなかった。
しかし高崎地区には、金華山の一角に黄金が埋まっているという考えがあったことに関連する長者伝説の歌が伝わっている。それは「朝日さし夕日かがやくその下に、漆万杯黄金憶々」という朝日長者・夕日長者という採金者関連の歌だ。ちなみに朝日長者は炭焼藤太、夕日長者は金売吉次といわれる。
また、金華山信仰は弁財天を奉斎するが、ミロクという語呂から「巳待ち講」にもつながっていったようだ。六月中に巳の日が三度あると、巳と六を弥勒に重ねてミロクだと言って喜び、それを祈念して石碑を建てたりした。巳という語義には、元来陽気を盛んにし、陰気を籠もらせるという意味がり、蛇が殻を破って出てくる様を表現しているという。
弥勒の世では、誰も働く事を知らないで、木の枝などに食物がいっぱい実り、自然に落ちるのを待って食べるなどと考えられていたようだ。正月の「水木だんご」などは、そうした希望を語っているかもしれないという。
鎮守八幡神社の境内には、「金華山」の碑があり、新田南安楽寺に宝暦六年(1756)の「奉供養巳待之塔」がある。文書に残るのは役人や寺社のものがほとんどだが、庶民の生活や文化を探る手段の一つとして、地名や石碑のあることを確認させられる。
★ 探しています ★
ある日古物店から「坪の碑考」―小塾庵主人―が書かれているぼろぼろに破れた「志保可満」を一部入手しました。第6号から第四十七号までのものですが、欠番や欠落のページ、欠損の部分があります。創刊日を想定される記事があり昭和4年6月5日頃と思われます。塩釜市民図書館、多賀城市立図書館、宮城県図書館、東北歴史博物館にも収蔵されていないので、新聞「志保可満」の存在は、あまり知られておりません。創刊号からの所蔵と保存の必要を感じています。
新聞「志保可満」(しほかま)を保存所持されておられる方を探しています。お知らせを頂きたくお願い致します。是非閲覧させて下さい。
昭和4年創刊・新聞「旬刊 志保可満」(しほかま)
「坪の碑考」を連載 松島林下 小塾庵主人(舊稿)
発行所 塩釜町字尾島八十一番地 塩釜叉新社
発行兼編輯兼印刷人 木幡資昌
毎月3回発行 5日 15日 25日
連絡先 多賀城市鶴ヶ谷1―8―6
多賀城市議会議員 吉田瑞生
TEL 022―364―9279
FAX 022―366―5928
携帯 090―4553―921
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