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歌津の地名は

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以前から抱いていた仮説です。志津川に住んでいたころ職場まで毎日歌津の町を通っていました。
このウタツ語源が気になり調べていくと、アイヌ語からきているという説がありました。
確かに県北にはアイヌ語地名が多いのですが何かしっくりきません。というのは、ウタツで思い出したのが学生時代過ごした金沢にある卯辰山です。卯辰方向にある山からきています。(正確な方角ではないらしいですが)
きっと歌津も卯辰の方角地名ではないかと思ったのです。卯辰は東南東を指します。とすると卯辰と呼んだ側の中心地は西北西にあるはず。町のすぐ西北西にあるのが、経塚や寺院跡がある霊峰田束山です。さらに延長していくと田束山に経典を納めた当時東北の中心地だった平泉に重なったのです。


田束山 (タツガネ山)から気仙沼方向を望む
(歴史続き)
前回触れた田束山 ですが赴任当初は正しく読めませんでした。「タタバネ?」とか。同僚から「タツガネ」と読むことを知りましたが、これも周辺に田んぼはほとんど見当たらないのになぜ田を束ねるの漢字を当てたのか不思議でした。
そこで音だけで考えてみることにします。
タ・ツガネは不自然なのでタツ・ガ・ネで考えると竜ヶ根とか龍ヶ峰(タツガミネ)とかそれらしい名称になります。(根は尾根の根)
 尾根が竜のように連なっている山、またはそのような景色が見渡せる山という意味ではないかと。
仙台の西の「熊ヶ根」という地名とよく似ています。

伊奈利社創祀前史 

             伏見稲荷大社HPより
欽明天皇が即位(539または531)される前のことについて、『日本書紀』では次のように書かれています。

欽明天皇がまだご幼少の頃のある日のこと「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」という夢をみました。天皇は目覚めてから早速方々へ使者を遣わされて探し求められたところ、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父がいたのです。

天皇はこれを大いに喜ばれて早速彼を宮廷に呼び寄せられ、「今までに何事かなかったか」と問われたところ、彼は「別段何もありませんでしたが、伊勢のほうへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしかかったところ、二匹の“おおかみ”が血を出しながら争うのを見つけましたので、馬より降り、口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争うのはおやめなさい』と血をぬぐって山へはなしてやったので、その“おおかみ”は二匹とも命を全うできました」と答えました。そこで天皇は、「夢で見たとおりの人に会えたのは、おそらく神のおかげであろう」と仰せられて、彼を厚く遇せられ、やがてにぎわいを呈するようになり、即位されると共に、彼を今でいう大蔵省の重席に任じたとあります。

稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができます。

ここへ秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばして、ついに秦大津父の輩出となったのですが、皇極天皇2年(643)11月のこと、当時の宮廷において権勢をほしいままにしていた蘇我入鹿が、政敵である聖徳太子の御子・山背大兄王を亡きものにせんと斑鳩に攻めた時、王の従臣たちは、深草屯倉に逃れられるようすすめたとあります。この「屯倉(みやけ)」とは、朝廷および皇族の直轄領のことで、その運営については、在地の豪族、深草屯倉の場合は秦氏族の勢力に期待するところが大きかったのであろうと考えられています。この頃の族長は誰であったかわかりませんが、大津父から伊呂巨(具)に至るちょうど中間に相当する時期に、深草の里に秦氏族の存在が予測できるのはたいへん興味深いことです。

平安時代初期に編集された数少ない書物の中に、『新撰姓氏録』という記録があります。これは弘仁5年(814)6月に奉られたもので、その当時近畿に住んでいた氏族の姓および出自等が伝承されていた1,182氏を、皇別、神別、諸蕃に分けて31巻に編んでいます。
諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化しました。その際に金銀玉帛等を献じ、仁徳天皇の御代にこの127県の秦氏を諸郡に分置して蚕を飼育させ、絹を織らせて献上させました。天皇は、これらの絹織物は肌膚(ハダ)に温かであると詔せられ、その時に「波多公」の姓を賜ったとされています。降って雄略天皇の御代に、秦公酒という者が、天皇の御前に絹帛をうず高く積んで献上したので、「禹都万佐(うずまさ)」という号を賜ったとあります。

以上の来歴は、実際にはあまりあてにならず、近年では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられています。ともかく、雄略天皇の御代には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でていた一方、大津父が大蔵省に任官されたように計数に明るかったようです。このようにして渡来あるいは帰化氏族は、秦氏に限らず、当時の先進地域であった大陸および朝鮮半島の文物をわが国にもたらし、これが後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われます。例えば、記録、出納、徴税、外交事務それから文字使用を業とするのは、もっぱらこれらの氏族であったと考えられています。朝廷の渡来あるいは帰化氏族に対する処遇がよかったことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろうとされています。彼らはたいてい畿内の小豪族としての生活を認められ、それぞれの特技を生かした専門職の地位を与えられていたようです。

大津父の時代を下った山城国における秦氏族の本拠地は右京の太秦であるとされています。たしかなことは不明ですが、深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようです。この太秦の秦氏族は、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤したり、奈良期から平安期にかけて、当時外戚として勢力を伸ばしてきていた藤原氏と姻戚関係を結び、長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で大いに影響を与えたとされています。また一方において、山背国における古くからの由緒正しい豪族である賀茂県主族とも早くから姻戚関係を結んでおり、ついには賀茂県主の子孫を自称するようになるのです。言うまでもなく賀茂県主族は天下の名社・賀茂社を奉祀していた名族で、新参の渡来氏族が彼と結びつくことによってその名をとり、一方賀茂氏族の側にあっては、そうなることによっておそらくは当時としては近代的な文化及び経済などの実をとったのであろうと考えられています。

こうして太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです。

歌枕の壷のいしぶみとはどこにあって何を指していたのか。     松島町 伊藤 均

はたして多賀城碑がその「壺のいしぶみ」なのか検証していきたい。
そもそもこの話は12世紀末に編纂された『袖中抄』(しゅうちゅうしょう)の19巻に「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」との記述から端を発する。
多賀城碑がこの記述とどれくらい一致するのか。
「日本のはてといへり」については、田村麻呂が活躍する8世紀後半多賀城一帯は日本の果てというには無理がある。事実彼が平定しようとしていたのは今の岩手県南から県央にかけてである。
次に多賀城碑の建碑は762年なので田村麻呂が活躍する8世紀後半以前の建碑であるから到底無理がある。
「日本の中央のよしをかきつけたれば」についても碑文の内容と一致しない。
「其所をつぼと云也」当時多賀城碑は地中に埋もれていたので「其所」といえるわけもないのだが仮に碑があったあたりで「ツモ」あるいは「ツボ」の地名を見つけることができない。
「石面ながさ四五丈計(12〜15メートル)なる」についてもサイズが合わない。
西行が歌った、
陸奥(みちのく)のおくゆかしくぞおもはゆる 壷のいしぶみ外の浜風     山家集
を普通に解釈すれば 外の浜は当時青森の陸奥湾岸の地名をさすのでこれも多賀城ではない。
江戸時代芭蕉が多賀城を訪れ「これが壺のいしぶみか」と感動を記したことで誤解を生んでしまったがこのように多賀城碑は壺のいしぶみといえる要件を満たしていないことはあきらかだ。

ではいったい真碑はどこにあるのか。
青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に 1000 人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
1949年(昭和24年)6月、東北町の千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。現在も確かに青森東北町に日本中央の碑が発見され存在する。
つぼという地名、日本中央という文面、青森という地といい、かなり『袖中抄』の記述と一致する。碑の大きさも多賀城碑よりも大きい。が、有力ではあるが断定するにはもっと決定的な証拠が必要だろう。
余談だが千曳集落や明治天皇が掘らせたという千曳神社という地名から多賀城に住む人は連想する地名がある。そう多賀城碑の市川から下ること数百メートル砂押川近辺に「千引石」に由来する志引集落がある。奇妙な符合である。

「靺鞨国とは?」

「靺鞨国とは?」                     多賀城市  熊谷 敏晴

靺鞨国は多賀城碑に「去靺鞨國界三千里」として登場する。8世紀頃の中国及び朝鮮の古代史と民族史に精通していないと靺鞨国が何処にあるかさえ疑問だろう。
多賀城碑が建立されたのは762年。7,8世紀頃の靺鞨国は、外満州を含む領域を靺鞨民族が統合し、698年、後の渤海国を建国する。開祖は粟末靺鞨出身の大祚栄。渤海国を構成する民族は、靺鞨人を中核とし、個性の強い高句麗人、漢、契丹、突厥などの混成である。

韓国ドラマ「大祚栄」を私も観たが、フィクションとの断り書きがなかった。史実通りのドラマであることになる。ドラマでは大祚栄が高句麗の再興を願望していた。その流れから渤海国は、独立国であり朝鮮民族の国と主張している。ところが現中国政府から「張冠李戴」と批判された。唐側にとって渤海国を独立国として認めた訳ではなく、唐の属国とした。実際に大祚栄が唐に与えられた称号は渤海郡王であり、官職も受けている。この頃より大祚栄は、靺鞨の号を使わず専ら渤海と称したことでも、屈辱的な現実を理解できる。唐を長年苦しめた中心的な靺鞨国は、唐側にとり渤海国の蔑称ともなっていた。

靺鞨国は16もの部族の統合体だが粟末部と黒水部が中心である。ちなみに粟末部とは粟末江傍の森に住む部族という意味である。粟末部と高句麗遺民が中心となって渤海国が建国されても、北部の黒水靺鞨国は組しなかった。部族の尊厳と威信があったのだろう。粟末部や黒水部は後に女真族(満州族=ツングース系民族の勿吉=森の意)となり、唐滅亡後の金王朝や最後の清王朝(祖先は黒水靺鞨)などを建国する重要な役割を果たすことになる。
靺鞨の歴史をたぐると、大国・中国に多大な影響を与えていたことが理解できるが、中国側が考える渤海などを含む東北部や朝鮮は、中国の属国であるとしか考えられていなかった。960年からの宋時代になるとさらに明確となる。宋以降の中国史においては、高句麗、渤海、百済、新羅、扶余、靺鞨、突厥、契丹などの名前は抹殺されている。

多賀城碑になぜ靺鞨国の名が刻まれているのか。渤海国は日本と720年から約80年間外交関係があった。唐や新羅と外交的に対立する中、軍事的に牽制することでの外交と考えられる。渤海国の核心は靺鞨国であることの外交事情に精通した大和の官僚によるものであろう。靺鞨国に敬意を表している。


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