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多賀城創設以前に秦氏が多賀城にいたか?の続きですが、意外や本サークルの「いしぶみ」に示唆に富む文章がありました。
「山王遺跡を探る」(前号から続く)
−鍛冶工房遺跡−
宮城県地名研究会副会長
太宰幸子
市川橋を渡るとまもなく八幡地区に入るが、その入り口近くから古墳時代中期の鍛冶工房跡が見つかっている。発掘報告書によると、精錬鍛冶、鍛打作業を伴う製品化まで行う鍛錬鍛冶が行われていたという。この遺跡で面白いのは、炉とフイゴをつなぐ装置に羽目があるが、この羽目が一般的なものとは違っているのが特徴だ。一般的には羽目は粘土などで筒状に焼いて細い土管のような感じになっている。それがここでは高坏の脚を使用されており、これを高坏脚転用羽目というのだそうだ。「五世紀代といえ高度な技術であった」と報告書は語っている。五世紀と言えば国府が多賀城に置かれる300年も前になる。これほど早い時期に多賀城市内で鍛冶が行われていた。そんな所が山王エリアなのである。いったいこの技術を携えた人々はどこから来たのであろうか。稲作を行うためには必ず農具が必要である。その農具を作るための鍛冶であったのか、あるいは律令化のための武器を造る鍛冶であったのか?
「倭人と鉄と考古学」(村上康通著)という本によると、転用羽目の分布は、鹿児島県の尾長谷迫遺跡から東北地方は多賀城の山王遺跡まで分布しているという。
しかもこの技術は関西地方の大規模な鍛冶遺跡には見られないのが特徴だ。著者は「その伝播は政権に主導された技術の伝達網によってではなく、より下位の地域間開係や政治的束縛を受けない工人間で行われた横位の連携が担ったものと解釈できる」と記している。
と言うことは、多賀城の場合も律令化とは少しかけ離れたように思われる。あるいは関わったとしても先発隊であったかもしれないし、渡来人の北進であったとも考えられる。高坏脚転用羽口を使用すると炉内への送風の調節を可能にできるのではないかとも記されている。つまりいくつもの高坏を入れ子状につなぎ、まっすぐな羽目ではなく、ある程度カーブを調整しながらの羽目の使用ができたということであろう。それを裏付けるように、大分県日田市の荻鶴遺跡では、八個の転用羽目が出土し、そのうち最終操業に使用された
と考えられる二つは、先端部分の焼け方に違いが見られ、炉内に落ち込んだ形で発見されているという。
山王遺跡の場合は、そのようなことは記されていないが、出土状況の写真の高坏の先端部分の溶け具合を見ると、ほとんど溶けていないものもあることから、それを裏付けているようにも思える。
国府が多賀城に置かれる300年も前に先進鍛冶集団が山王〜八幡において高坏脚転用羽口という大陸から移入されたとしか思われない画期的精錬鍛冶、鍛打作業を行っていたというものです。また、秦氏の関連を示唆する大分県日田市の荻鶴遺跡でも同様の転用羽口が出土しているというのです。
以前のブログを読んだ方はピンときたと思いますが、大分は宇佐八幡の膝元、秦氏の本拠地です。
では、荻鶴遺跡を調べてみますと、
荻鶴遺跡では、古墳日剖尤中期(5世紀前半〜中頃)に属する鍛冶工房跡で細型鉄(金廷)やその端切れをはじめとして鉄製品の製作を行い、隣接する祭祀遺構に手捏土器や石製模造品などと共に、それらを供献していた。
この時の鍛冶に供された鉄素材は亜共析鋼の軟質鋼であって始発原料は鉱石系が想定されて荒鉄(鍛冶原料鉄)の産地が注目される。
鍛冶工房跡出土品は、鍛錬鍛冶の初期段階で派生する粒状滓、また、その微売作業で発生する赤熱鉄素材の鍛打で飛散した鍛造剥片などと共に、鉄(金廷)や板状鉄製品の折返し曲げ鍛接の高温加熱で排出された鍛冶炉炉底の堆積椀形状の鍛錬鍛冶滓などが検出されて、鉄(金廷)の鍛冶製作も現地に特定できる可能性はすこぶる高い。
Table.6は、鉄鍵状鉄製品の鉄中非金属介在物をCMAで調査して、製鉄原料が鉱石か脇失かを区別した結果を示す。13例の調査結果では、大阪府の郡津渋り遺跡のみに砂鉄系が検出されて、残りの荻鶴遺跡をはじめ、他の12例は鉱石系であった。
これらの鍛冶原料鉄の産地同定が今後の重要な研究課題となってくる。昨年12月に韓国忠清北道鎮川郡所在の石帳里遺跡において百済時代初期(3世紀末4世紀初め)の箱形製鉄炉と共に、これの原料醐1失の発見が報道発表されだ。
古墳時代初期の鉄製品は、砂鉄系でも列島産一辺倒ではなく、朝鮮半島産搬入の可能性の検討も必要である事を明記しておく。
一方、当遺跡の鍛冶工房跡では、高坏脚の転用羽口の使用があった。
という具合に百済系渡来人がもたらした鍛冶工房跡であり、多賀城同様の高坏脚の転用羽口が発掘されているのです。
これは同一技術集団、それも百済からの秦氏に限られるのではないでしょうか?
ここで山王遺跡についてですが、多賀城山王地区で見つかったもので、山王の地名はご存知「山王社」があったことにちなみます。
では、山王社とはどういう神社かというと、
山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉(ひえ)神社(大社)の別名である。
日吉神社は、もともと近江国日枝山(ひえのやま:後に比叡山の字が充てられた)の神である「大山咋神」(おおやまくいのかみ)を祀っていたもので、後に近江京遷都の翌年である天智天皇七年(668年)、大津京鎮護のため大和国三輪山(三諸山(みもろやま)とも)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神(おおものぬしのかみ)を勧請しともに祀られた。(Wikipedia)
とあります。さらに、
「松尾神社」の総本山である「松尾大社」を創建したのは「秦都理」である。
「葵祭り」で有名な「上賀茂神社」と「下賀茂神社」は、ともに豪族「加茂氏」が建立した神社である。創建当時、秦氏と加茂氏は婚姻関係を結んでいたらしい。松尾大社の神と、両賀茂神社の神は共通の婚姻神なのです。なんでも「松尾大明神」が下賀茂神社の祭神「火雷神(ほのいかずち)」で、その息子が「賀茂別雷神」が上賀茂神社の祭神なのだそうです。
この松尾大明神は、別名「大山咋神(おおやまくいのかみ)」といい、全国の「日吉神社」で祭られている神様で、総本山は比叡山にある「日吉大社」です。
山王社〜日吉神社〜秦都理というぐあいにやはり秦氏に結びつきます。
まとめると400年代に多賀城エリアに高度な製鉄技術を持って秦氏の一族が移住してきていた可能性がある。そして自分たちの居住区に一族の氏神である大山咋神(おおやまくいのかみ)や八幡の神を祭った。この時期は大型の古墳時代とも重なるので、推測ですが彼らの土木技術も提供されたことと思います。それから300年後日本を統一した大和朝廷の力により多賀城が設けられたということになるわけです。その間には南小泉に円形の古墳が築かれたり、郡山に国府に準じる官衙が置かれたりしました。
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