|
(晩年のジョン万こと中濱万次郎。真ん中の小さな画像は、ジョン万を
漂流から救い出し、自分の養子までにして、ジョン万に学問を身に付
けさせた恩人ホィットフィールド船長。ジョン万が生活したフェアヘブン
のホイットフィールド船長の自宅。朽ちかけてきたのを、修理してジョン万
記念館にすべく、昨年聖路加病院の日野原先生らが募金に立ち上がった)。
ジョン万次郎帰国後の大活躍
米国からの帰国後、琉球→島津藩→長崎奉行とたらい回しにされた後、一旦故郷の土佐藩に帰着、
その後、幕府に召し出され砲術家で韮山の代官から幕府の大砲造りの長となった江川太郎左衛門の
手付きとなったジョン万次郎は、この間土佐藩の藩主山内容堂から後追いの形にしろ士分に
取り立てられ、生まれ故郷の村名を苗字にして中濱万次郎と名乗った。
15歳で鰹釣船の一員として漁の最中時化に遭って漂流。無人島鳥島での漂流生活中に、米国の
捕鯨船に救出され、ホイットフィールド船長の養子となってフェアヘヴンで一緒に暮らし、
同じマサチューセッツ州のニューベッドフォードで教育を受け、英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。この10年間の生活で身に着けた学問、知識、語学力が大いに役立ち、
黒船の来襲で動揺していた幕府にその才能を買われる事になったジョン万次郎(この名称は、
戦前第6回の直木賞を取った井伏鱒二の「ジョン万次郎漂流記」により定着した)は、
旗本としても頭角をあらわし、次々に目覚しい功績を上げてゆく。英会話書『日米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、造船の指揮、大砲の築造、砲術指南、通訳、船の買付等々。
万延元年(1860)には日米修好通商条約の批准書締結の遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡る。艦長の勝海舟が船酔で船室に引篭もっていた為、万次郎は彼に代って
船内の秩序保持に尽力しただけでなく、実際の操舵等航海の安全はジョン万が取り仕切った。 明治維新(1868)後 - 開成学校(現・東京大学)の教授に任命される。
明治3年(1870年) - 普仏戦争視察団として欧州へ派遣される。帰国後に脳溢血を起こし、以後は静かに暮らす。時の政治家等から政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。
人柄としては奢ることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しをし、役人に咎められても 続けていたという。甘いものや、うなぎの蒲焼に目がなかったという逸話も残っている。
ホイットフィールド船長の指導で捕鯨の砲手の腕も上げ、日本に近代式捕鯨を齎した。この他「ABCの歌」を日本に紹介、日本人で初めてネクタイをした、汽車や蒸気船にも乗った等の逸話も多い。
昨年は、百歳近くで現役で活躍する聖路加病院の日野原重明博士は、朽ちかけたフェアヘブンの
ホイットフィールド船長の自宅をジョン万記念館として維持する為の募金に奔走された。
昨今の時の人、民主党の重鎮小沢一郎幹事長は、ジョン万に関する著作があるだけでなく、
財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センターの会長もつとめている。
|
ジョン万次郎は、1851年2月2日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。
海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。
薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。
斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。
斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。
薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎0奉行所等で長期間尋問を受ける。
長崎奉行所から土佐に向った。
高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に中浜を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。
約2か月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の1852年、漂流から11年目にして故郷に帰ることができた。
2018/12/23(日) 午後 0:11 [ 国境・環境・歴史学習ツアー ]