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大地震対策――目をそむければ不作為のリスク20121221日経アーキテクチュア
<課題共有>企業としての責務を果たせるのか?
日本各地に、そう遠くない時点での大地震の発生を警告する動きが目立つ(図1)。ところが、危機感が高まるなか、現行の耐震基準を満たしていない建物が少なからず存在する問題が続いている。過去の大地震で大きな被害を受けてきたそれらの建物に、何の対策も施さずにいる姿勢は許されるのか。建物を提供する側に「不作為」の責任が問われるリスクを、法律家とともに考える。
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「すべきこと」をしない、それを不作為という。大地震を想定した場合、「すべきこと」とは、耐震改修や建て替えである。建物の耐震性を、少なくとも現行の耐震基準に見合うように引き上げる行為を指す。
対象になるのは、国が現行の耐震基準を定める前にできた建物である。これらの建物が大地震の揺れで大きな被害を受けることは、阪神・淡路大震災の教訓からすでに明らかになっている。
図2は、阪神・淡路大震災時の建物の被災度と推定建築年との相関を示したものだ。建築年の区切りとなっている昭和46年(1971年)と同56年(1981年)はともに、国が建築基準法の改正によって耐震基準を強化した年である。
この図から、古い建物ほど被災度が高くなることがはっきりと分かる。新しい耐震基準に適合していない建物が地震の揺れに弱いのは、やはり明白と言わざるを得ない。
こうした教訓を踏まえて、国は耐震改修促進法を制定し、不特定多数の利用する一定建物の所有者に対して耐震診断・耐震改修の実施を努力義務として課している。しかし、2015年の目標として掲げる耐震化率9割という数値の達成にはまだ至っていない。
現行の耐震基準に満たない建物でも、法律上は「既存不適格」として存在し続けることは可能だ。しかも耐震診断・耐震改修の実施は努力義務にすぎないため、何ら手を打たないままでも、違法性が問われることはない。
しかし、大地震で壊れることが半ば明らかな建物をそのまま放置しておくことに、法律的・道義的な責任はないのか。所有者自らの生命・財産だけではなく、建物の用途によっては、第三者の生命を預かる立場になる。その責任は大きいのではないか。
2012年に定年退官を迎えるまでに長年判事を務めてきた弁護士の滝澤孝臣氏は、建物の所有者が手をこまねいていること自体はやむを得ないとみる。しかし、「このままでいいのか」という問題提起には共感を示す。
「法律で不作為まで問うことができるかは疑問である。一方で、法律さえ守っていれば、それでいいのかという思いもある。法律を超える範囲を想定して問題提起していくことは、社会に大きな一石を投じるだろうと考えている」(滝澤氏)。
社会を変えるのは裁判所の任ではないと滝澤氏は強調する。「裁判所は法律を守っているか否かを判断する防波堤のような存在だ。社会がそれ以上は悪くならないように秩序を保つ役割にすぎない」。
社会の変化に追い付けずに危機を放置するのはリスク
先導するのはむしろ、社会の変化ではないかという。「社会全体の考え方が変わっていけば、法律やそれに基づく裁判所の判断も併せて変わっていく可能性がある。そうやって法の世界を社会が引っ張っていくのではないだろうか」(滝澤氏)。
では、社会全体は今、どのような状況に置かれているのか。
まず前提として、大地震の発生に対する切迫度が増している。歴史を振り返ると、地震活動は一定の周期で静穏期と活動期を交互に繰り返している。現在をその活動期とみる向きが主流である。地震予知の信頼性を問う動きがあるものの、首都直下・M7クラスの地震の発生は、誰もが不安視しているはずだ。
そうしたなか、国や東京都は大地震による被害想定を積極的に開示して警鐘を鳴らすことで、耐震対策や避難対策を多角的に進めようとしている。東日本大震災が「想定外」の被害を与えたことから、旧来の想定を見直す作業も行っている。
その警鐘を、建物の所有者や利用者はどう聞くか――。第一に、耐震改修促進法の改定があれば、耳を傾けざるを得なくなる。
国は警鐘を鳴らしつつ、耐震化率の引き上げに向けて一歩踏み込むはずである。不特定多数の利用する一定建物の所有者にとって耐震診断の実施が義務となれば、やがて利用者の抱える不安が可視化されることになる。その視線を受け、必要に応じて耐震改修に踏み切る――といった方向に少しずつ、社会全体はかじを切るだろう。
そこまで社会が変われば、大地震の発生を「あり得ること」と受け入れる建物所有者が、その一方で利用者の安心・安全の確保を怠り、事業・生活の継続を考慮しない姿勢は、問題視せざるを得なくなる。「不作為」の責任を問われてもおかしくない。そんな時代は、確実にやって来る。
社会の先導で、法律やその判断も変わる〜不作為責任、法律家・滝澤孝臣氏はこう考える
――時々の耐震基準を最低基準として守っているだけでいいのか。多大な被害が発生する恐れがあるのに何の策も講じないのは、不作為に当たりませんか。
滝澤 合法であれば責任は問わない。私たちは、そう言ってしまいがちです。具体的な事件であれば、その事実がいいかどうかを裁判で争うわけですが、不作為の問題はそうはいかない難しさがある。
つまり裁判所というのは、法律を守っているか否かを判断する防波堤のような存在です。社会がそれ以上は悪くならないように秩序を保つ役割であって、立法や行政とは異なる。そのため、法律に合っているか否かという次元の議論に終始せざるを得ません。
長年司法に関わってきた私自身にも法律を守りさえすればそれでいいのか、という思いがあります。それでよしとすると、何か問題が起きたときの責任逃れになるという悪循環に陥る危険もあるからです。
建物の耐震性について不作為の責任を問うことができるかと聞かれたら、躊躇せざるを得ません。しかし、法律を超える範囲を想定しようとする視点には、新鮮さを感じます。法律で定めた以上のことをやろうという問題提起は、社会に大きな一石を投じることになるはずです。
――現行の耐震基準が決まって以降、大地震での被害の様相が明らかになったり被害想定が公表されたりしています。こうした環境の変化は、不作為の責任を問う法律判断に影響し得ますか。
滝澤 社会の環境が変われば、それは法解釈にも影響を与えます。法の世界では、想定外の事態に対して法律上の責任を負うということはありません。しかし、社会の環境変化によって、波及的な効用とでも呼び得るものが生じる可能性は否定できません。
例えば、現行の耐震基準をいくらか上回る水準を多くの国民が選択するようになれば、それを新たな基準として想定する可能性が生まれます。もちろん、もしそうなれば、立法がまず耐震基準を強化する方向に機能すべきです。そうでないと、国の責任が問われる恐れがあります。
いずれにせよ社会全体の考え方が変わっていくことが先の話です。そうなれば裁判所の判断、あるいは法自体が変わっていくことになるに違いありません。
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