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小説家がいるから小説があるのであって、小説があるから小説があるのではない。
同じように、神様がいるから聖書があるのであって、聖書があるから神様があるのではない。
時として教会は神様を聖書の中に閉じ込めてしまってはいないか。
聖書は神様のほんの一部でしかない。聖書に書いてあることが神様のすべてなんだとしたら
分厚い何巻もある百科事典を書いたオッサンの方が神様よりも偉いじゃないか。
神様もイエスさんも聖霊ももっとずっと自由に動き回ってるはずだ。
一を聴いて一を知るだけでは聖書を読んだことにはならない。
一を聴いて十を知り、百を感じて千を我がものにする。それが聖書を読むということだ。
感じ、知るべきことはその文章そのものではなく、それを読んだ時に脳裏に去来する
恍惚の閃きである。それが聖霊に聞く、聖書を聞く、ということだ。
知性だけで読む聖書が聖書でないのと同じように、信仰だけで読む聖書もまた聖書ではない。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして読んだ時、初めて聖書は正しく
神様の威光を反映する。
聖書を記憶中枢ではなく、潜在意識に叩き込め。
覚えることに意味はない。聖書の言葉の海に脳みそをたゆたわせれば良い。
聖書から来る言葉が大事なのではない。聖書から一度潜在意識に入り込み、
何かの拍子に顕在化した言葉、これこそ最も大事にすべき言葉だ。
そうすると、一人一人の人にそれぞれ見合った語りかけをする神様が見える。
神様の戒めは必ずしも万人に共通ではない。神様はもっとずっと大きいのだ。
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