小説家・菊池英也の世界

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「眠りの恋人あるいは妻」

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幻のガルムを探して

処女作品集『眠りの恋人あるいは妻』の冒頭に収めた130枚ほどの短編で、古代ローマの料理書に頻出するガルムという魚醤(調味料)をめぐる推理仕立ての作品。

古代ローマで過剰に使われ、帝国の滅亡とともに跡形なく消え去ったガルムとは、いったい何なのか。料理の歴史関係の本を読んでいて湧き上がった素朴な疑問から、この小説は生まれた。二千年に及ぶ長大な時の流れを盛り込んだ深遠な作品を目指したが、この狙いは明らかに失敗した。

ボルヘス流のペダンチックな筆致を追求しようと果敢に挑み、執筆中はかつてないほどのテンションが終始保たれたが、一般の読者には難解と敬遠されたふしもある。

主人公の「私」は著者の分身と考えてもらっても差し支えないが、拒食症で死んだアレック、調査員のスカウルスらはモデルなきフィクション。ただし料理人N氏は、私の敬愛する日本人シェフの実像が色濃く投影されている。

 拒食症で死んだアレックが最後に残した謎めいた言葉が、わたしを小さな旅へといざなった。10歳の子供ほどの体重にまで痩せ細った20代半ばの彼女は、消え入りそうな瞳で何週間かぶりのわたしを見つめていたが、なぜかその言葉を苦しげに発したときだけ、病室の窓辺に飾られた一輪の赤い薔薇に視線を向けた。ガルムを探して――そう言ったように思ったが、聞き返しても返事はなかった。返事どころか、その言葉を最後にいかなる声音も彼女の口から漏れなかった。その3時間半後、彼女は静かにこの世を去った。
 アレック――男のような名だが、男ではない。もちろん本名でもない。彼女がそう呼んでほしいと言ったのだ。わけをたずねても「その響きが好きだから」と答えにもならない答えしか返ってこない。たしかに彼女はその名の響きをうっとり夢見ごこちで聞いていた。わたしは何百回、何千回と――まるで最後にそのわけの解きあかされるときがやってくるとでもいうように――忠実にその名を呼びつづけた。しかし最後の到来があまりに早すぎたからか、わたしの思い描く〈そのとき〉はとうとうやってこなかった。
 アレック――3年前に死んだ恋人! 知り合って1年半は健康そのものに見えた。ふっくらというほどでもないが、中肉中背。ほどよくバランスがとれていた。とりわけ顔の造作には目を見張った。つい、美しすぎて死に急いだかと思いたくなる。そのあとの2年余りは別人だった。
 常人の何十倍ものスピードで枯れていった。その過程を思い起こすのは、辛い。わたしは前半の彼女を美化し、後半の彼女を忘れ去ろうとして、結局、両方の印象をあいまいにしてしまった。
 目を閉じれば、健やかな彼女の笑顔が思い浮かぶ(それでわたしも救われる)。逆に目をあけたまま思い出そうとすれば、死の床にある彼女の姿が――正確にいえば、息を引き取ったばかりの彼女の赤い唇がまざまざと脳裏に甦る。死に化粧に紅を引いたのはこのわたしだった。土気色のその顔に、血のような紅は赤いばかりで、すでに光を失っていた。
                  (『眠りの恋人あるいは妻』より「幻のガルムを探して」冒頭部分。2000年作品)

眠りの恋人あるいは妻

処女作品集『眠りの恋人あるいは妻』の表題作で、文字通り中核をなす作品。枚数は約170枚で、作品集では唯一の中編といえる。“眠り続ける女”をモチーフに、〈眠り=死〉という既成概念を打ち破ることを主眼に置いた。

「眠りの森の美女」からの連想で、「私」をデジレ、「恋人(妻)」をオーロラとしたが、とくべつ深い意味はない。他の登場人物にドロッセルやカラボスらの名をつけたのも、単なるご都合主義の域を出ない。

いくつもの病院通いから果ては温熱療法や民間療法まで手を尽くしながらも、眠りに侵食されていくオーロラを見守るデジレの姿からは、限りない愛情につきものの滑稽と哀切がにじみ出るよう心がけた。

私の場合、あらかじめプロットを立てずに書き出すことが多く、本作も例外ではなかったが、不思議と早い段階で物語の結末は見えていた。そこに向かって突き進めばそれでよかったが、突き進むというにはやはり、いつもながらの遅々とした歩みを強いられた。

本作は土壇場でこの作品集に収録することになったが、結果的には、それで格段に強力な作品集となった。よりよい選択だったことは間違いない。

本作は私の三十代の集大成的作品であり、おそらく代表作の一つになるだろう。ただし、この作品に息づく、現実感の希薄さによる浮遊感やユーモアのセンスは、その後しばらく影を潜めることになる。

 私ことデジレの恋人オーロラ──いまとなってはほとんど妻といってもいい存在だが──、その彼女が〈眠りの生活〉に入ってかれこれ3年になる。〈眠りの生活〉とは──つまり眠らずに生きられる人間は皆無であるのになぜそういうかといえば──、眠りの時間の割合が彼女の場合、生活全体の3分の1どころか、優に3分の2以上を占めるからだ。しかもその割合は月日とともに増えていく。彼女は森の切り株のように(あるいは冬のヤマネのように)眠り、私はその恋人(あるいは夫のようなもの)として守護にあたる。彼女の眠りを破れるのは見渡すかぎり、眠りそのもの以外に何もない。
 このままの状態で守護さえしていればいいのか、それはわからない。潮が満ちていくように眠りが彼女の生活全体を覆い尽くすのではないかという不安は、私のなかでますます強まっている。もし眠りに覆い尽くされれば、彼女の〈眠りの生活〉は逆に不完全なものとなり、おそらく私も恋人(あるいは夫のようなもの)としての地位を失うだろう。要するにいまこそが「完全」なのであり、それが臨界点に達したあとは、まさに完全な「不完全」だけが残される。結局のところ、眠らず生きられる人間がいないように、本来の意味で眠りつづけられる人間もいないのだから。
 ならば、そんな彼女は病気なのか? 医学的にはそうかもしれない。しかし彼女の〈眠りの生活〉は、私の目には「完全」なだけに健やかに見える。いまとなっては彼女にこのままの生活をできるかぎり享受させてやりたい。不安はつきまとうが、それはきょうに始まったことではない。初めの頃は頃でまたべつの、当然といえば当然の不安や迷いがあり、彼女の生活をもとに戻そうと、さまざまな方法を試みたものだ。医者には複数かかったし、海辺のサナトリウムに入れたこともある。わらをもつかむ思いで、民間療法や加持祈祷の類いに頼りかけたことさえある。しかし、そんな道のりも過ぎ去った。あとで詳しく語ることになるだろうが、やむにやまれぬある理由から、それらの方法を断念せざるを得なかったのだ。ただしその結果、彼女を守護できるのは自分だけだと知るに至った。
                 (『眠りの恋人あるいは妻』より「眠りの恋人あるいは妻」冒頭部分。2001年作品)

メドゥーサの輝き

処女作品集『眠りの恋人あるいは妻』の3番目に配した90枚弱の短編で、凶弾に倒れたイタリアのファッションデザイナー、ジャンニ・ヴェルサーチの死を扱った作品。敬愛するヴェルサーチへのオマージュといっていい。

突然の死の報に接してほどなく、執筆中の作品を中断しても書かずにはいられなかった。執筆にあたっては、熱烈なファンゆえにそれまで収集していた雑誌やカタログなどの資料が大いに役立った。

ジャーナリスティックな筆致を用いつつ、ヴェルサーチとの魂の交歓を歌い上げるという一見相反する様式に、さして違和感はなかったように思う。

1985年の来日時の思い出を柱に、ヴェルサーチ本人の無念を描き出し、魂の交歓によって鎮魂に至るという手前勝手な設定だが、それでもなお、私自身の心が安らいだわけではない。

ヴェルサーチと交友があったモーリス・ベジャールの「バレエ・フォー・ライフ」の話を最後に据えたのは、このバレエ作品が亡きヴェルサーチとフレディ・マーキュリーへのオマージュとして創作された演目で、ベジャールの鎮魂の思いが私の思いと通底するものだったからに他ならない。

 イタリアのつま先、レッジョ・カラブリアの燃える太陽の下に生まれたひとりの男が、ファッションデザイナーとしての輝かしい成功の果てに行き着いた終着駅が、果たしてマイアミでよかったのかどうか、それは誰にもわからない。しかし終わりは、彼の成功の象徴ともいうべきこの街の豪奢なコロニアル様式の自宅の前で突然訪れた。それも、連続殺人事件で指名手配中の容疑者に四十口径の拳銃で頭を撃ちぬかれるという悲劇的な形で。
 1997年7月15日──それはわたしにとって忘れられない日になった。翌朝、テレビでその報に接するまで、自分がなんの痛みも感じずにいたことが不思議に思えたくらいだ。
 最後の瞬間、後頭部の2カ所の弾痕からは多量の血液、つぶれた額からは脳の塊が漏れだしたという。彼の天才がついにその器から解放されるときがやってきたのだと、わたしは即座に解釈した。汲めど尽きないその才能が、時代を疾駆した肉体のたわみの中で、どこか別の世界へと行き場を求めていたのではないか。彼が晩年、頭部に近い内耳のあたりにガンを患っていたというのも、単なる偶然ではないかもしれない。死の直前、彼は病を克服したと語っていたが、いまとなってはそれもむなしい。
 享年50歳──彼は切りよく半世紀を生きた。
                    (『眠りの恋人あるいは妻』より「メドゥーサの輝き」冒頭部分。1998年作品)

トリュフの香り

処女作品集『眠りの恋人あるいは妻』の4番目に配した60枚ほどの短編。恋愛小説としての純度は、おそらく作品集の中で最も高い。私の二十代最後の記念碑的作品となった短編「トリュフのギャレット、そのあとさき」の、いわば続編をイメージした作品だが、整合性はない。

「トリュフのギャレット」は、バブル華やかなりし時代の気分を濃厚に伝えようと意図したが、逆にこの短編では、宴のあとの寂しさすら彼方に遠のいた、10年後の挫折感、疲弊感を漂わせたかった。それに伴う男女の、避けがたい加齢による寂寥感も狙った。

ちょうど執筆の上で壁にぶち当たっていた時期で、冒頭を書き出したものの、なかなか書き進まず中断。途中、「メドゥーサの輝き」の執筆をはさんで、再開した経緯がある。

執筆にあたっては、リリカルな文体、ノスタルジックな表現を心がけ、彫琢という言葉があてはまるような推敲を重ねた。結果、作品集ではともすれば陰に隠れがちだが、思い入れのある、捨てがたい作品となった。

 トリュフのガレット──あの夜から10年が経った。
 10年のあいだに、才能あふれるシェフは第一線をしりぞき、理解あるオーナーは心筋梗塞に倒れ、身のこなし優雅なギャルソンは他店に転職した。そしていま、レストランはついに閉店のときを迎えようとしている。最後の夜には、常連客まがいの債権者が、追はぎのように、大理石のスタンドやらブロンズの置物やらプラチナ使いの食器類やら、店の調度・美術品を一切合財かすめとっていくのだろう。ぼくはあの店のそんな姿を見たくはないので、家でひとりシャンベルタンでも開けて過ごすつもりだ。10年前のあの夜がちょうどそのワインだったように……
 レストラン閉店の知らせによって真っ先に甦ったのは、やはりトリュフの香りだった。その香りもいまとなっては、あの夜のさまざまな情景を通り越して、誰もが浮かれたひとつの時代、10年前のあの頃の雰囲気そのものを思い起こさせた。あの頃に比べれば、いまの足取りはなんと重いことか! なりふり構わず浮かれたゆえの反動であることを、いまや知らないひとはいない。時代とともに失われていったものが数あるなかで、自分自身がそのリストに入らずに済んだことを、まずは素直に喜ぶべきかもしれない。
 ちょうどそんな思いを抱いた矢先──だったかどうか──、思いがけず彼女がぼくの前に現れた。あの夜の同伴者にして、ガレットをともに味わった時代の証人。皮肉な展開ではあるが、彼女の行動を気まぐれとは思わない。彼女はぼくを恨んでいるに違いないが、それさえも彼女の行動の妨げにはならないだろう。あの夜をともに過ごした者にはそれがよくわかる。
                      (『眠りの恋人あるいは妻』より「トリュフの香り」冒頭部分。1999年作品)

焚書野郎

処女作品集『眠りの恋人あるいは妻』の掉尾を飾る80枚ほどの短編。文字どおり、本を焼いて満足を得る奇妙な友との出会いと別れを綴ったもので、結果的に、焚書という書物に対する挑発的な行為が、現代の大量消費社会への警鐘めいて映るのは、なんとも皮肉というほかない。

作品集の中では表題作とともに評価が高かったが、焚書という主題の面白さに加えて、執筆時に意識したのは“怒り”という部分。自分の小説に何が足りないかを考えたとき、ふと“怒り”の二文字が浮かび、その感情を作品に反映させるよう心がけた。これにより、焚書野郎の人物造形を怒れる者として際立たせることに成功した。

また、核心にかかわる小道具にカフカの「審判」と英国のロックバンドXTCの曲〈BOOK ARE BURNING〉を据えたのは、焚書からの連関としては功を奏したと考える。

なお、もう一人の重要な登場人物である少女“りし”の名は、秦の始皇帝に焚書を進言した時の丞相、李斯からとっている。

 本を焼く。とはいうものの、その場の火災を見たことはなく、そこに思想らしき背景を垣間見た覚えもない。ただ気に入らない本を焼く。気に入るか気に入らないかは彼なりの価値判断による。その判断基準は独断と偏見に満ちている。無抵抗な本を燃やして悦に入るとは、どう考えてもいただけない。屈折した安易な自己満足としか思えない。20世紀も終わりとなれば、かつて存在した、書物が思想のムシロだった時代からは程遠い。いまはその上に座ったからと言って、同じ病にかかるものでもない。
 それでもなお、「焚書」という時代錯誤の二文字を思い起こすのはなぜだろう。文化統制も宗教統制もなければ、史実の隠蔽も道徳の維持もなく、文字どおりの意味にだけ解釈できる。そんな愚かな行為にせめてもの価値を見つけるとすれば、曲がりなりにも一度はどの書物も彼の真贋・好悪の分別機にかかる点だろうか。その機械的精度はともかく、右へ倣えでも止むに止まれずでもないことは確かだった。その点で、わたしはこのケースに多少のよりよき「焚書」を見る。いまの時代には、ムシロが存在しにくいぶん、彼も足かせとは無縁だったのだ。
 それだけにこの「焚書」、とても災厄とはいいがたい。焼けと命じる他者はどこにもいないのだ。秦の始皇帝もヒトラーもいなければ、それを被る民もいない。もし命じる者と命じられる者がいるとすれば、どちらも彼自身のうちに存在する。そんな彼の中に愛惜とか後悔とか、そういう感情を見つけだすのは難しかった。私が彼に惹かれたのは、ただ好奇心のせいだった。本棚に飾られる本より、庭先の、いまや悪名高き簡易焼却炉に投げ込まれる本のほうに興味をそそられるという、それだけの理由からだった。
                         (『眠りの恋人あるいは妻』より「焚書野郎」冒頭部分。1997年作品)

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