小説家・菊池英也の世界

新刊「夢うつつ、旅」水声社より好評発売中!

「愛人」

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愛人

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2冊目の著作で、初の企画出版(商業出版)となった。枚数は400枚強で、初の長編小説でもある。官能的な恋愛小説を、との出版社側の意向により書いた作品だが、振り返ると、なんともほろ苦い思いがつきまとう。

初版4000部。この出版不況下にあって、しかも文芸書としては、決して馬鹿にできる数字ではない。純愛ブームが吹き荒れるなか、果敢に船出したが、残念ながら、セールス的には順風満帆とはいかなかった。

しかしそれはもはや過ぎたことで、後悔はない。自分としてはできるだけのことはやったとの思いがある。

約1年半、担当編集者とマンツーマンで、改稿に改稿を重ねた。これがプロの洗礼かと思ったが、これほどいい勉強もなかった。とくに、エンタメ的な手法を身につけた成果は大きい。

話の内容は単純といえば単純。いまも妻への想いが残る主人公の前に現れた若い家政婦との関係を軸に、男女の感情を微妙に交差させ、愛の悲しさ、人間の業などを可能なかぎり描き出そうとした。

この作品が自分の中でどういう位置づけになるか、いまだに判然としない。正直なところ、漠然と愛憎相半ばする思いもあるが、それらも言ってみれば瑣末なことだ。いまでこそ、結果より過程が重要だったと思える作品である。

「あんた、この子に何したの! ああ、どうしよう。この子、息をしてない!」
 そう叫びながら、車に轢かれた猫のようにぐったりと床に転がった赤ん坊を、全裸の女が抱き上げる。
 夏の暑さでむれきった密室は、それでなくても男女の荒々しい熱狂を生々しく引きずっている。エアコンはほとんど効いていない。女は豊かな乳房を震わせ、汗ばんだ全身で動揺を表す。腕の中のわが子を覗き込み、小さな頭を必死で撫でさすり、半狂乱になる。傷の痛みなどすっかり忘れて、同じ叫びを繰り返す。
「この子にいったい何したの! この子にまで暴力を振るったのね! ひどい……ひどいひと!」
「おれが、こいつに? 冗談じゃない!」
 男はそう言って、慌てるふうもなく下着を身に着けながら、子供を抱きかかえた女を横目で睨みつける。「その目はなんだ! おれが何したって言うんだ、バカヤロー! おれは赤ん坊にまで手をあげるほど落ちぶれちゃいねえ! お前に手をあげるのは、お前が馬鹿な女だからだ!」
 そんな理屈があるかと心のどこかで思いながら、女はどうしたらいいかわからなくなる。大切なわが子がいればこそ、夫の暴力にも耐えてきたのだ。が、そんな夫が心底嫌いかと訊かれれば、そうとも言い切れない。そんな自分がいやでたまらない。この子がいなくなれば、自分はどうなってしまうのか? 危うい均衡は破られ、すべてが崩れ去ってしまうに違いない。
「そうよ、わたしは馬鹿な女よ。でも、それならあんただって……」
 男はようやく乱れたベッドから重い腰を上げる。女に大股で近づくと、思いきり拳を振り上げる。女は殴られた勢いで、陽光で焼けて変色したカーテンのそばまで飛ばされる。しかし、そのときも子供を守る姿勢だけは崩さない。
「ふざけたこと言うんじゃねえ! お前がひどくよがっていたから、おれが代わりにこいつをあやして、黙らせてやったんじゃねえか。忘れてもらっちゃ困るんだよ!」
 男は凄みを利かせてそう言ったが、女はもはやひるまない。
「だから、わたしがやるって言ったじゃない。わたしがあやしていれば、こんな、こんなことには……。とにかく早く救急車を呼んで!」
 叫びが涙声に変わっていた。いや、叫びに涙声が混じり、ますます切迫感を帯びていた。
「お前、ついさっきまで自分があんなによがってたのを忘れたのか?」男はなおも薄笑いを浮かべる。「まったく呆れた女だよ」
「それとこれとは別じゃない! わたしがこの子をあやしてくると言ってるのに、あんたはわたしが立てなくなるほど殴ったじゃない! とにかくなんでもいい。言うとおりにするから、早く救急車を呼んで! お願いだから早く!」
 女はとうとう染みで汚れたカーペットの上にへたり込む。みずから頬を腫らし、唇から血を流しながら、ぴくりとも動かないわが子の、痙攣のあとの口元の泡を指で拭ってやる。
「お願い、救急車を! 早くしないと死んじゃう……」
 女の言葉がまともな言葉にならなくなる。それでも男は、女の懇願に答えようとしない。それどころか、なおも因縁をつけようとする。
「お前はわざと事を荒立てて、そんなにまでおれのせいにしたいのか! それが夫のおれに対してすることなのか!」
「もういい。わたしが自分で呼ぶわ。あんたには頼まない。」
 女は力ない声で言い、気力を振り絞って立ち上がろうとする。それを見た夫は、怒声とともに、容赦なく女の顔面を蹴り上げる。女はついに力尽き、横転し、そのままかび臭いカーペットの上に崩れ落ちる。黒々としたデルタの茂みが真昼の光にさらされる。
 気を失う瞬間、決してそうはならないのに、わが身は果ててもこの子だけは助けてほしいと神に祈る。この子だけは死んでも離すまいと思っていたのに、その腕から、息をしていない赤ん坊が布人形のようにごろりと洗濯籠のほうへ転げ落ちる。数日前にみずからつかまり立ちしたその籠のほうへ。
                                     (『愛人』冒頭(プロローグ)部分。2003年作品)

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