小説家・菊池英也の世界

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放物線を描く愛

数編の長編を書いたのち、久々に取り組んだ短編で、枚数は約80枚。それまでの長編では影を潜めていた軽妙さやユーモアが復活している。

二組の男女の屈折した恋物語だが、トビという薄幸のヒロインが実質的な主役。この女性の人物造形にはとりわけ注意を払い、それなりに魅力的な人物像に仕上げたつもりだ。

久々の短編執筆は楽しくもあり、この手の作風には居心地のよささえ感じた。私の資質を短編向きと言った編集者もいたが、自分自身、とても好きな作品である。いずれは他の何編かと抱き合わせて書籍化を目指したい。

 亮がトビに不意打ちを食らったのは、彼がトイレのドアを半開きにしたまま小用を足すほど親しくなったころだった。小用の最中、トビは背後から小柄な身を乗り出して、小便器と亮の下半身のあいだを覗き込んだ。眼差しは真剣そのもので、うっとり恍惚としていた。赤面しかけたのは亮のほうだ。「何だよ、お前は変態か!」亮は小便器との透き間を狭め、ささやかな抵抗を試みたが、放尿は中断できなかった。「何よ、ケチ、意地悪!」悪態をつきながらも、彼女はわずかな透き間から覗き込むのをやめなかった。亮のほうも隠し立てするのが馬鹿らしくなり、つま先から力を抜いて元の体勢に戻ると、トビもまた恍惚とした表情に戻った。
 手を洗って部屋に戻ると、トビはベッドの端に腰かけ、オレンジ色のカットソーを身につけようとしていた。まったくお前ってやつは! そんなせりふを口にするより早く、彼女のほうがいたずらっぽく、にやにやと笑いかけた。
「あたしが何見てたと思う?」
「そんなの知るかよ」亮は取り合う気にもならなかった。
「あんたの大事なアレでもないし、厳密に言えば、そこからほとばしる黄金色の液体でもないんだよ」
 じゃあ何なんだ。亮のそんな言葉を聞いたかのように、トビは構わず続けた。「あたしが見てたのはね、その黄金色の液体が描く放物線なんだ」
「放物線?」亮も思わず呼応していた。
「そう。何ともいえない美しさじゃない、放物線てさ。そう思わない、思うでしょ?」
「小便の放物線が、か?」亮はあきれて言った。
「そんなの偏見だよ。流れ星や花火や枯葉の描く放物線ならきれいで、おしっこなら汚いなんてさ」トビは不服そうに亮をにらんだ。放物線を想う恍惚の表情はすっかり消えていた。
「ちっともわかっちゃいない。誰も何もわかんない。まったくもうやってられない」
 ぶつぶつ呟きながら、トビはカットソーを頭から被り、ダブつきぎみの下半身をジーンズの中に押し込んだ。立ち上がった彼女はもう痩身施術後のように均整がとれていて、360度どこから見ても不格好ではなかった。
                                       (『放物線を描く愛』冒頭部分。2004年作品)

この小説は「月子。」(パロル舎刊)に収録されています。
20代の終わりに書いた、80枚ほどの短編小説。一定の評価を得たことで、私に書き続けることを決意させた記念碑的な作品でもある。

いま見れば、未熟さや青臭さが目に付くが、一方で、いまの自分から失われたものがこの作品には確かに息づいている。

バブル期の狂騒とその影、恋愛小説としての抑揚と余韻はそれなりに備わっていたと、いまでも感じる。

ジョエル・ロビュションが1988年に都内のレストランで供した「トリュフのギャレット」が、当時の私にとってひとつの時代の象徴となったことは間違いない。この小説は、その忘れがたい一夜の記憶にインスパイアされている。

 鬼の影すらない追儺の夜に彼女と食べた「トリュフのギャレット」が、少し出来すぎた別れの皿になった。
 丸い折り込みパイを土台に、万遍なく敷かれたベーコンとオニオン。その上に、鱗のように飾られたトリュフの薄片。見た目の美しさにしばしためらい、芳香に促されてようやくナイフを入れると、ギャレットはそんな素顔を惜しげもなく現した。
 トリュフとベーコン。その取り合わせがあまりに思いがけなかったので、その相性の不思議について、ギャルソンを通じてシェフにたずねてみたら、不思議でもなんでもないといわんばかりに、「では、トリュフを探しだすのはいったいだれ?」と切り返されてしまった。皿に遅れて厨房から運ばれたシェフのひと言が、目の前のトリュフをますますかぐわしく、味わい深くした。
 陶然としながら、こんなことを考えた。なるほど、トリュフはブタに探させる。ブタが探し当てたところで、ヒトが横取りするのだ。要するに、トリュフにありつこうとするのはヒトもブタと同じであって、違うのは、ブタにとって夢でしかないことを、ヒトが――たとえばぼくと彼女が――金で買おうとすることだ。もっともその夢は、現実になっても夢でなくなることはないらしい……。
 ただし残念なことに、目の前のギャレットは今夜かぎりと思ったほうがよさそうだった。シェフはあいにく、今夜を最後にパリへ戻ってしまうのだ。二度とは買えない夢のようだった。レシピは店に残るだろうが、そんな紙切れは来日の置きみやげにしかすぎない。
 出来すぎていればなおさらのこと、別れの皿は一皿しかないのだ。
                            (『トリュフのギャレット、そのあとさき』冒頭部分。1989年作品)

この小説はホームページのnovelsに全文を掲載しています。→http://www.h-kikuchi.com/

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