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その夜の、それから先のことを進んでしゃべる気にはなれない。驚くような事実を明かされたわけではないし、調べはたしかに形式的なものだった。それにしても、実際に彼女について訊かれると、しゃべれることは自分でも拍子抜けするほど少なかった。考えてみれば、ぼくは彼女のことをほとんど何も知らない。まして10年前の出来事など、ふたりを知らない者の前ではそれこそ一瞬のうちに語りおえてしまう。
そしてその夜をかぎりに、彼女について語ることも、逆に彼女のことを耳にすることもなかった。薄情なようだが、彼女がどこへどのように葬られたのかも、ぼくは知らない。 ◆ それから何か月ものあいだ、ぼくはあの店の前を通るのを避けていた。名店のなれの果て――新しい店に替わっている可能性も含めて――を見たくなかったこともあるが、やはり、彼女の死というものを自分のなかで整理しきれていなかったのだろう。いや、しかしそもそも整理などできるものだったのか? とくに何かが変わったとも思えない梅雨明け間近の頃、ぼくはようやく店の方角に足を向けた。店の前で足を止めるつもりはなかったが、結局、素通りはできなかった。別の店に生まれ変わるどころか、店先には閉店を知らせるはり紙が貼られたままだった。 〈誠に残念ではございますが、2月15日をもって閉店させていただきました。昭和60年のオープン以来、皆様のご愛顧とご厚情に支えられた14年間でございました。当店を愛しご利用いただいたお客様に心からの御礼を申し上げます。本当に長い間ありがとうございました〉 読んでいるあいだは視線をそらしていた正面わきの植え込みからも、最後は逃れられなかった。恐る恐るのぞきこむと、植え込みの陰に雨あがりの灰色のしみが、ねじれたような形で浮き出ていた。彼女が残していった影のような気がして、背筋に悪寒が走った。その場を立ち去ろうとすると、突然、ありもしない、しかし見覚えのある懸垂幕が眼前に立ちはだかった。 〈トリュフの香りはいまも彼女のからだから立ちのぼっているか?〉 その問いはいまもまだ解かれていない。解かれずじまいといったほうがいいだろう。最後の機会も彼女の死によって失われてしまった。しかしその問いを、もやもやした思いで抱えていなければならない理由がどこにあるだろう? 答えのない問いは、すでに問いですらなくなっていた。 (おわり) |
小説「トリュフの香り」
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立ち上がろうとすると、メートルドテルがどこからともなく飛んできて、椅子を引いてくれた。こんなことになって、なんと言えばいいのか、大変お気の毒です、と耳元で神妙にささやいた。いや、かえってご迷惑をかけました。まず詫びてから、言った。残念ですが、もう食事でもなくなりました。話を聞きたいそうなので、今夜はこれで失礼します。
ふたりの男に挟まれて入り口の方へ歩きだすと、突然、言いようのない喪失感に襲われた。それが彼女を失ったことによるものか、あるいはきょうを最後に消えていくこの店のせいもあるのか、自分でもはっきりしない。そして気がつけば、ほとんど考えもなしにこう口走っていた。ほんの2、3分だけ待ってはもらえないでしょうか? 男は明確な意思表示をしなかったが、少なくとも拒絶のようには見えなかった。ぼくは先導するメートルドテルを呼びとめて、すかさず頼みこんだ。最後にもう一度、ぼくたちのテーブルをながめさせてください! 扉の陰から覗くダイニングは、夢のように眩しかった。最後の夜にも席は見事に埋まり、ギャルソンやソムリエはいつもと変わらず優雅で軽快に立ち働いていた。奥のほうに位置するぼくたちの指定席は、もちろん真っ先に目に飛びこんできた。ゆったりとした4人掛けのテーブル、そこにふたりで座るという贅沢。その右上の壁面では、いまもユトリロの絵が古きよきパリの街角を青みがかった灰色の色調で見せている。ほんとうなら今夜、彼女はそこに座って、10年前のあの夜につながる「夢の終わり」を見届けるはずだった。同時にそれが新たな「夢の始まり」であると信じて。現にいまもテーブルはぼくたちのために用意されている。ほんの何歩か進み出れば、そこに座ることができるのだ。ギャルソンの手を借りるまでもなく、その椅子の背を引きさえすれば……。しかし何がどうあれ、彼女を置いて自分ひとりでは座れない。それでは物事のあるべき姿とかけ離れてしまうから。 せめて今夜は、おふたりのために席をおとりしておきましょう、とメートルドテルが背後からささやいた。それに、グラスもあのまま立てておきましょう。 ふいに熱いものがこみあげてきた。必死でそれを飲みこみ、そろそろ行かなければならない、と自分自身に言い聞かせた。そして最後にもう一度、夢のような目の前の光景を必死で脳裏に焼きつけようとした。 その瞬間から当事者は消え、あとに位置どりだけがそれらしい傍観者が残された。そんなどっちつかずの者の目には、主のいないテーブルが周囲に溶けこもうとせず、さびしげに佇んで見えた。が、そう見えるのも感傷にすぎないことはわかっていた。あちこちのテーブルでうねるようにくり返す生き生きとしたざわめきは、店全体を包みこみ、一卓の例外さえ許そうとはしなかった。 結局、10年前のあの夜をその場に重ねあわせることはできなかった。同じ夜がふたつと存在しないことは知りながら、その違いはあまりにも大きかった。一口に夢のような夜といっても、一方は実現され、もう一方は実現されなかった。しかし、その一方が始まりであるならもう一方が終わりであり、しかもその始まりにはこういう終わりが用意されていたことに、ぼくはようやく思い至った。 ダイニングをあとにするや、入り口の隅でこちらを見据えるふたりの男の不躾な視線にさらされた。おかげで瞬時に等身大の現実に引き戻され、そこがすでに事情聴取へのアプローチになっていることを思い知らされた。 彼女はもういない。いったい何が彼女を死に追いやったのか? 外界の凍てつく寒さが、当然すぎる疑問をぼくに突きつけた。その重みにぼくは耐えかね、彼女の遺体が発見されたという植え込みのほうに目を向けることができなかった。 (つづく) |
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男はほとんど表情を変えずに続けた。じつは、あなたが今夜ここで待ちあわせておられた××△△子さんのことですが、――あるいは、旧姓の○○△△子さんでご存じかもしれませんがね。ええ、旧姓しか知りません。で、彼女がどうかしたのですか? 悪い予感に押しつぶされそうになりながらも、その先の想像はいっこうに思い浮かばなかった。お気の毒ですが、亡くなられました。このレストランの入り口のわきにある植え込みの陰で、けさ遺体で発見されました。睡眠薬の服用による凍死と思われます。
まさか、そんな……。ぼくは言葉を失った。茫然と見つめた視線の先に、飲みかけのシャンパンが黄金色に輝いていた。バカラのグラスのなかで、気泡が立ちのぼってはむなしく消えていく。驚きとともに悲しみがこみあげ、やり場のない憤りが津波のようにあとを追ってきた。 いったいどういうことですか! どうしてそんなことになったのですか! とにかくぼくは誰かに答えを示してもらいたかった。しかし彼らにとっても、その答えはそう簡単に示せるものではなかったようだ。それは目下、捜査中です。ただ死因の点ははっきりしています。死亡推定時刻は午前3時から4時ごろ。いくら真夜中とはいえ、これほどの大通りに面した場所で明け方まで発見されなかったのは不思議な気もしますが、あの植え込みの陰は通行人からは完全に死角になる。考えられないことではありません。そうなると、あとは単なる事故か、あるいは自殺の線もあるのかどうか。ご存じかもしれませんが、彼女が睡眠薬の常用者だったことは判明しています。 彼女がどんな薬の常用者だろうと、ぼくには問題でなかった。その何錠かの薬とこの冬の厳しい寒さとが彼女の命を奪ったのなら、それらをどこまでも憎むだけだ。それよりも、これだけはなんとしてもはっきりさせておきたかった。ちょっと待ってください。いま自殺の線とおっしゃいましたが、そんなことはありえません。彼女が今夜の食事をどれほど心待ちにしていたことか…… そこまで言って、言葉に詰まった。詰まりながらも、いつしか、近くを行き来する店のスタッフたちのあたたかい視線を背後に感じていた。10年前の恋人の、ほんの少し何かが違っていたら知らずに済んだかもしれないその死を突然知らされた男のやりきれなさは、今夜かぎりでこの職場を失う彼らの心情とどこかで微妙に重なっていたのかもしれない。ひとの痛みを知る彼らの控えめな視線を感じて、ぼくの悲しみもいくらかはやわらいだように思う。 それにしても、どうしてぼくと彼女とがすぐに結びついたのでしょう。彼女とはとうに終わっていて、たまたま10年ぶりに再会したというだけで……。すると、男はあからさまに不快な顔をして言った。こっちも遊びじゃないのでね。もうひとりの男までが傍らで嘲るような笑いを浮かべた。それに、と男は続けた。バッグのなかの手帳にそれとわかるメモがあったのでね。 そう言ったきりメモの内容をあかすふうもないので、どんなことが書かれていたのか、思いきってたずねた。男はようやく、かなり年季の入った自分の手帳を取り出すと、そこに書きとめておいたに違いない彼女のメモを読み上げた。 「2月15日午後8時、Y・Kと10年ぶりのトリュフ」、そしてどういう意味だか、やや乱れた筆跡で端に小さく「夢の始まり、夢の終わり」と。要するに、午後8時に予約を入れた、このイニシャルの客はあなたしかいませんからね。 最後の一言はほとんど耳に入らなかった。ぼくは無意識に、彼女がメモに残した言葉を反芻していた。夢の始まり、夢の終わり――その言葉の意味をこの男たちに説明するのは難しい、説明するだけ無駄だと思った。説明したところで、いったい彼らに何がわかるだろう? とにかくそんなわけで、つまりこれはあくまで形式上のことですが、もう少し詳しく話をうかがいたいので、このまま署までご足労願えませんか? そう言われても、いったい詳しく話せる何があるのか、自問せずにはいられなかった。しかし考えてみれば、断る理由はすでになくなっていたのだ。わかりました、どうせ食欲もすっかり失せてしまいました。 (つづく) |
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3日後の晩餐をぼくがどれほど待ち望んでいたか、それは少々疑わしい。少なくとも彼女の思いとは比較にならなかっただろう。料理については初めから多くを期待していなかった。というより、閉店するレストランの最後の夜の料理にどんな期待を抱いたらいいものか、正直いって見当もつかなかった。最後ゆえの輝きがあるかもしれないし、あるいはまったく逆かもしれない。できることなら星付きの店にふさわしい幕引きをしてほしい。料理の内容はもちろんのこと、かつて一世を風靡した店の惨めな姿など見たくない。たとえば常連客まがいの債権者が追剥ぎのように店の美術品や食器・調度類をかすめとっていく、というような……
いや、客のいるうちによもやそんなことはないだろう。たとえガレットではないにせよ、曲がりなりにも最後の夜までトリュフを用意できる店だ。この店の絶頂期を知るからこそ、そんなことまで気にかかる。しかしそれははたしてぼくだけか? 絶頂期の、とりわけシンボリックなあの晩餐には、紛れもなく彼女も同席していたのだ。彼女の存在はトリュフの陰に隠れがちではあったけれど、思い返せば、ぼくたちは互いに求め合っていたのだ、いつの頃までかはたしかに。彼女は信じないだろうが、おそらくあのトリュフの夜まで。 そしていま、あの店の惨めな姿を見たくないと思うのは、何も店の絶頂期を知るからだけではない。彼女のこれからの10年こそよかれと願うからだ。終わりは始まりの同義語という彼女の言い分を思い返すまでもなく、閉店するレストランでの最後の食事は、できることなら彼女にとって幸先のいい始まりであってほしい。 しかし結局、そんな願いもむなしく、彼女の言う終わりも始まりも一晩手前の闇のなかに塗りこめられてしまった。あのユトリロの絵の下の指定席が、ぼくたちの体温で温められることはなかった。その日の夕刻、ぼくはおろしたてのスーツに身を固めて、約束どおりレストランに向かったが、そこで待ち受けていたのは情け容赦のない現実だった。 いつもなら笑顔で迎えるメートルドテルの表情が妙に強ばっているのを、ぼくは見逃さなかった。ダイニングではなく、手前のバーに通されると――それはそれで結構なことだが――、しばらくここでお待ちください、と言い渡された。すかさず供されたシャンパンでのどを潤したが、まわりのソムリエたちの態度までがどこかよそよそしく、言いようのない張りつめた空気からは逃れようもなかった。それを閉店間際の緊張感と解釈するには、どうにも違和感があった。 グラスを飲みほす間もなく、ふたりの男がどこからともなくぼくの前に現れた。直感的に、彼らがこの空間にあまりふさわしくない人物と感じたのはなぜだろう? 少なくとも身なりはふたりともきちんとしていた。背は低いががっしりした体格の男のほうが、軽く会釈をして名乗りでた。とはいっても、ただ警察の者と言ったにすぎない。にもかかわらず、ぼくの素性は手帳を見ながら念入りに確かめた。ふたりともアール・ヌーボー調の円テーブルの向かいに腰かけると、右手の男が、折角のところ申し訳ありませんが、ちょっとお話が、とどこかで聞いたようなせりふで切りだした。いやな予感が走ったが、それがどこからくるものかはまだ見当もつかなかった。ここで、ですか?と、ぼくは思わずたずねた。そう、とりあえずはここで、と男はさらに先の展開があることを匂わせた。しゃべるのは決まって小柄な男のほうで、もうひとりは口の開け方すら知らないようだった。 (つづく) |
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それから20分ほども彼女の寝顔をながめていただろうか、通路で交わされる節度を欠いた数人の男女の話し声に時の経過を知らされて、ぼくはようやく立ち上がった。帰り支度というほどのものもなく、鞄を手にドアまで行きかけたところで、何か肝心のことをやり残している気がして、立ち止まった。それが何であるかは、考える間もなく合点した。あけようとしたドアの手前に、実際にはありもしない、こんな疑問形の一文が懸垂幕のスローガンのように掲げられていたのだ。
<トリュフの香りはいまも彼女のからだから立ちのぼっているか?> ばかばかしいとは思いながらも、ぼくはその問いの誘惑に勝てなかった。もはや、あの夜と同じように自分の香りを嗅いでほしいと彼女に懇願されているなどという手前勝手な解釈からではなく、ほとんど純粋に自分自身の欲求に突き動かされていた。ぼくはベッドの端に鞄を置くと、忍び足で彼女の背後に舞い戻り、腰を屈めて、首すじから肩にかけてのなだらかな曲線の上に鼻先を近づけ、明らかにその数を増した小皺のあいだに、いまも記憶に確かなあの香りを嗅ぎとろうとした。 それから正面にまわって、手入れの行き届いた白い指から、急カーブを描いて一気にのぼりつめる細い腕。さらにその付け根から、いまも変わらぬ形を保っていると想像される胸の膨らみのあたりへ……。モヘアのセーターの毛足に鼻先をくすぐられて、思わず腰を引いた。上半身のあとはゆっくりと下降し、ひとまわりは肉付きを増したように思える腰のあたりに、のめりそうな危うい姿勢で顔を近づけていく。眼下では、あざやかな花柄のプリント・スカートがエアコンの風でかすかに揺れている。その内に秘められた性のありかは、眼前にありながらはるか彼方に遠のき、膝頭のあいだの、眠りで無防備になりかけた闇の入り口で、最後の望みとばかり鼻孔を膨らませてみる…… ぼくは勃起していた、ほとんど時の流れを忘れさせるほどに。けれど、コロンまじりの彼女の香りのなかに、トリュフの痕跡を見つけることはできなかった。当然だ、答えはわかりきっていた。落胆には及ばなかった。 あとは3日後の晩餐で、もし許されるなら、もう一度だけその問いにチャレンジしてみたい。それは、トリュフにありつけるかいなか、ガレットであるかないかに関わらぬささやかな挑戦となるだろう。ただし、いまとなっては彼女の衣を剥ぎとって、腕のうちにそのからだを抱いてみる必要はない。10年前のあの夜と同じように、食後にでもほんのしばらく、彼女に手のひらを鼻先にかざしてもらいさえすればそれでいいのだ。 いささか苛酷に歳を加えた彼女の寝顔を最後にもう一度目に焼きつけて、ぼくはその場を立ち去った。 (つづく) |





