古寺巡礼

古寺巡礼(仏像観て歩きの記録)と花と新緑巡り

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今日から第100回「仏像観て歩き」として訪れた、東京国立博物館で開催中の「平成29年新指定国宝・重要文化財」展を拝観しました。その中の「彫刻の部」出典された仏像を紹介します。
重要文化財から国宝に昇格指定されました。
法華寺 奈良市法華寺町
維摩居士坐像 像高91cm、木心乾漆造、彩色、奈良時代、国宝。
「解説」
  本像は維摩会の本尊として奉られて来たものでありましょう。天平時代における肖像彫刻として、数少ない遺品の一つであります。
 その生けるが如き仏に、居士の高風をうかがう事が出来ます。
「法華滅罪寺略縁起」より
 
 木造の上に部分的に乾漆を施している。天平の作とされていたが乾漆の技法や表現方法も天平の自由さがなく、写実的というよりむしろ象徴的といえる。
 維摩(維摩詰)は「維摩経」の主人公として想定された人物で、釈迦の時代に毘舎離城に住んだ、学識に優れた富裕な居士(在家の仏教信者)である。いま法華寺本堂の一遇に安置される本像は老貌痩躯の姿で、「維摩経」問疾品(もんしつぼん)に説く、病をおして文殊菩薩と法論を戦わす維摩の姿を表わしている。
 鎌倉時代成立の「建久御巡礼記」や「法華滅罪寺縁起」には、かつて法華寺金堂で修されていた維摩会が興福寺に移された後、金堂に西向きに安置されていた維摩居士像が、興福寺を恋うて東南の方に向き直ったという話を載せている。
 この説話は本像にちなむものと思われるが、法華寺で維摩会が行われたのは延暦二十年(801)以前の一時期であったという。
 本像は作風上その頃の作と見て差し支えないので、その製作時期を大よそ押さえる事が出来る。その構造はX線透過写真や修理時の写真によって確認される。
 榧と見られる一材から両腕・両足まで含む像の大部分を造るが、木心の位置に当たる頭部前面から胸腹部を削り取り、上下二段に別材を矧いでいる。頭部の頭巾は別材を被せるように矧ぎ、その内部には幹部材から小さな髻を彫出している。
 表面は全部に布を貼り錆漆をかけて仕上げるが、両膝頭などには木屎漆の盛り上げも認められる。両袖が風をはらんで後ろに、強くなびく形に見られる運動感の強調は、平安時代初期の九世紀前半の彫刻に顕著なものである。
 しかし、それらには強い前傾姿勢や首を前に突き出す形が同時に見られるのに対し、本像の背を引いて、ゆったりと坐る形には、なお天平彫刻の気分がある。
 脚部などに見られる乾漆像を思わせるような柔軟な表現も同様である。これらを総合すると、奈良時代から平安時代への過渡期に当たる、八世紀の末頃が本像の製作時期として相応しいといえよう。
「特別展 大和古寺の仏たち」 1993年 東京国立博物館より

「私の想い」
 彫りの深い顔で外国人を思わせる様なカギ鼻は、この仏の大きな特徴である。眼球の内3分1程しか瞼を開けていないが、ごく普通に見えるから不思議だ。残り3分2は大きくふっくらとした上瞼で被われている。像全体から受けるこの方の年齢を考えると、壮年期から老年期に差掛かる50才代だろう。
 蓮葉を捧げ持ちしているのであろうが、須弥壇の花瓶に入れ様としているのか。あるいは、誰かに渡そうとしているのか。どうなのだろうか。
 平成22年11月に遷都1300年「仏像観て歩き」として訪問した時には、次のように書いている。
 維摩居士の仏像数はあまり無い。そんなことから、どんな方なのかも知らなかった。文殊菩薩を知り、その経過を知るに至ると、どちらの方が偉いのだろうかと思うようになる。
 維摩居士と文殊菩薩の問答をする場面を示す寺として、法隆寺と興福寺がある。法隆寺五重塔の東面では、大勢の信者の面前で議論を交わす場面設定になっている。また、興福寺東金堂では、釈迦如来の前ではなく、薬師三尊の前だが、文殊菩薩と並んで議論している。いずれも、向かって、右に文殊菩薩か座り、左に維摩居士が座る。
 維摩居士は在家にして、お釈迦様から認められる程の知識人である。帽子を被って、髪を隠す。剃髪ではないのだ。一方の文殊菩薩は、出家して修行を重ね、渡海もあれば、五髻もあり、僧形もあれば、普賢との脇侍もありの中々の苦労人で頑張り屋である。三人寄れば文殊の、名の通り、知恵の持ち主である。
 この法華寺の「献茶会」の時にも、薬師寺の「護摩供養」の時にも、本尊様の前にある論議台と呼ばれる席がある。向かい合わせに座る一段高い席である。向かって左側の長老が座る席を読師席という。向かって右側に次席の人が座る。この席を講師席というのである。
 この例からすると、長老の維摩居士に席を譲って、文殊菩薩は右側に座ったのだろうと思っていた。偉い人が座る読席に維摩居士が座り、次席の講師席に文殊菩薩が座る。
 ところが、驚いたことに、奈良・安倍文殊院では渡海文殊の4人の従者の中に、維摩居士が入ってしまったのである。どちらが、偉いかの話では無くなってしまったのである。主役の文殊菩薩は獅子に乗り、従者の維摩居士は杖を突いて歩く脇役である。
と、いうように、維摩居士と文殊菩薩の関係は複雑になっているということだけが判りました。安倍文殊院では仏陀波利三蔵が須菩提になり、最勝老人が維摩居士になっている。これではあまりにも維摩居士の扱いが可哀相である。
 また、何処かの寺で出逢った二人の関係が、更に複雑になっているかも知れません。そんな寺に出加合したいものである。
 平成29年4月に東京国立博物館で「平成29年新指定国宝・重要文化財」の展覧会が開催されました。この展覧会と三井記念美術館で開催中の「西大寺展」を併せて、「仏像観て歩き」100回記念大会として、二つを拝観しました。
 今回の指定展では、写真展示となりました。この方が重要文化財から国宝に昇格されたのである。偉い偉く無いの話で無く、国宝で偉いのである。
 維摩居士と文殊菩薩の問答をする場面を示す寺として、法隆寺と興福寺がある。また、単独では、石山寺像がある。肘掛けの釈台に肘を付いて、講釈をしているのだろう。
 また、延暦寺像は、頭巾をすっぽりと冠り、釈台に両肘を付き、例の人差指と中指の二本を立てて語る。
 在家の宗教者として、一家言を持つ人である。在家の意味を持つ、証として、頭巾なのか、帽子なのか、嚢なのかを冠っている。中には、髪の毛があるのを示している。比丘の頭で無い事を表している。

イメージ 1
        維摩居士像のお顔。

イメージ 2
        維摩居士像の左横顔。

イメージ 3
                       維摩居士像の全身像と解説。

イメージ 4
全身像と解説。













閉じる コメント(5)

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5年まえ【2013年】10月30日にわたくしも拝観いたしました。
当時は入り口左手「畳の上のお土産屋」さんの背後の格子戸の奥に座しておられた
と記憶します。

初見で「ギクッ」として「ゾッ」としました。
よって我が眼を逸らさず凝視して観察を続けました。

像は座していますが、
「襟元」は
「寝ている状態ではだけた様子」で
「だらしなく大きく、後方へ広、がります。」

腰から下は、
「上半身」に比較して「実在観は全くありません。」
「腰・股は、非常に不安定で虚弱」であると感想を抱きました。
____________________________

▶︎【頭部がデスマスク】のよぅに【現実的】に感じられたのです。
____________________________

2018/1/10(水) 午前 9:58 1082001(紫音)

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つまり
寝ている遺体を起こした【モデル】で以って像は作られた_と、
当時その拝観現場で受け止められました。

一説に流れる【光明皇后の父親:藤原不比等】その【実像:頭部顔面】、
【藤原不比等は、このよぅな面差し】であったであろぅと思われました。
また
【光明皇后の、ファザーコンプレックスは如何許りであったことでしょう】とも。

しかしながら、対して【母親橘三千代については残像すら存在しません。】

2018/1/10(水) 午前 10:05 1082001(紫音)

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当時、仏師も出現せず、類型仏も出現しない時代です。
________________________

・武器など一切守たぬ素手の【法隆寺中門塑像二体】は
・武器など一切守たぬ素手故に【金剛力士像ではありません】

▶︎仏教布教のための武器_とは申せど【武器は武器!】
▶︎仏教伝播のための【少林寺拳法は武器を必要としません】

▶︎東大寺南大門の【二体から、仏像が武器を持つ】金剛力士像、類型仏像の基となった
のです_実に「汚い!美しくない大きいだけの代物」です。

また、東大寺の鴟尾に【初の沓形】がかけられました。
これは【勝利宣言】であると考察しています。

2018/1/10(水) 午前 10:13 1082001(紫音)

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法華寺に収められた【十一面観音像】は
インドの
▶︎【マトゥラー仏の特色】を色濃く残します。

▶︎【唇】は【アフリカ系の女性の唇上下】です。
おそらく材質もマトゥラー地方のものであると推測されます。

よって、
橘三千代は【中近東地方の女性】【斑鳩に住う女性】だったであろぅと考察しています。

2018/1/10(水) 午前 10:26 1082001(紫音)

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当時まで
【島嶼日本=森の国】は、
【外敵=騎馬民族の攻撃を防御しやすい自然条件】下にあった、
【斑鳩の里は、イカルガの鳴く、特に大森林に囲まれた地域であった】と、
色々な資料から考察されます。

それが、
【当時、世界へ拡散する事情となった某遊牧民】によって
【焼き討ち】にあった!と考察されます。

地震大国であった島嶼日本において、
斑鳩の里は
・【鴟尾も存在せず】
・【地震対策万全の建築様式】がなされていたのです。

大平原を走り回る遊牧の騎馬民族は
ジャングル攻撃を弱点としたはずですが
【木造に対しては火力!】で勝利を得た・・、


ペルシアから渡ってきたインド系民族の
【オサの妻は、新種族の籠みとなり娶られた】と考えれば
【侵略:政権交代は容易であった】と、私論づけられました。

如何でしょぅか・・。

2018/1/10(水) 午前 10:32 1082001(紫音)


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