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今日から現在三井記念美術館で開催中の展覧会「仏像の姿」に出展の仏像の紹介をいたします。
東京国立博物館所蔵
東方天眷属立像 像高31cm、木造、玉眼、彩色、鎌倉時代、文永四年(1267)、重文、康円作。
「解説」
四天王眷属の彫像としては現存唯一の作例で、東方天眷属・南方天眷属(東京国立博物館)のほか、当初一具をなしていた西方天眷属(静嘉堂文庫美術館)、北方天眷属(MOA美術館)の二像が残る、各像に残された台座底面の墨書銘により、文永四年(1267)に康円によって造像されたことが判明する。 構造は頭体を一材より彫出して前後に割矧いでおり、内刳りを施して割首とする。表面には当初のものとみられる彩色が残り、肉身を東方天眷属は赤色、南方天眷属は黒褐色とするほか、次には金泥で動物文様などが描かれている。各像とも両手を上下にして戟を執る体勢を示すが東方天眷属は眉を釣り上げ、口をへしめて怒りの表情を表わすのに対し、南方天眷属は視線を上方に向け、口笛を吹くように唇をすぼめてユニークな表情を見せており、個性が際立つ作例となっている。
「仏像の姿」〜微笑み・飾る・踊る〜 三井記念美術館 2018年9月図録より
「私の想い」
右手は下で左腰の高さで握り、左手は肩の高さで1本の戟を杖のようにして握る。頭には鉢巻を巻き、髪を止める。肩を怒らせて、威勢を付ける。あくまでも大将の持国天の代理である。 いずれにしても、守護神が31cmの身の丈ですから、どれだけの大きさのご本尊をお守りするのでしょうか。と考えると、この物語は詰まらなくなってしまう。
祖父の時代に東大寺南大門で、大きなものへの挑戦が終り、親父の康運の時代で、宋風の写実と気品を遺し、小さくても、美しい表現が出来ることへの挑戦が、康円が遺したものなのだろう。
そうした考えで、康円の作品を観直して見ると、つまり、ミニチュア感覚で作品を観ると小さくとも美しい。個人の愛玩の世界である。
伯父さんの湛慶は、京都・高山寺僧の明恵上人に善妙神像と白光神像の二躯を造っている。この二躯も身近に置いて、朝晩拝むような仏像である。この守護神は、どんな時に、誰を守護するのかを考えなくてはならない。
あれ、守護神も代役ならば、ご本尊も代役を考えなくてはなるまい。誰にする。如来か、菩薩か、折角だから愛染明王像にしようよ。なぜなら、後日、登場するからです。この後日とは、京都・神護寺の愛染明王坐像である。
南方天眷属立像 像高32cm、 木造、玉眼、彩色、鎌倉時代、文永四年(1267)、重文、康円作。
「私の想い」
右手は肩の高さに、左手は腰の高さに右腰に1本の戟を握って構える。戟を杖代わりに握っているかも知れない。 この像は増長天の眷属とかである。外側に当たる右側で戟を握る姿勢をしている。それは、大将である増長天に代わって、代理人として務める役割であり、もう一方の代理人と左右対称形に構えなければならない。
ご本尊の代役が愛染明王像に決まったそうだ。愛染様は、喰い意地が張って居るそうで、喰い散かしをするらしい。
「どんなに喰い散かしても好いように、戟の換わりに高箒を用意しました。」
と、準備万端の様子である。頭にも頭巾を被って用意周到である。
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無題
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今日から現在、東京国立博物館で開催中の「仁和寺と御室派のみほとけ」の特別展に出展の仏像を紹介します。
仁和寺 京都市右京区御室大内
「私の想い」
平成16年5月の「仏像観て歩き」では、次のように記述している。 御室駅を降りると目の前に山門が見える。10月1日から50日間の公開だそうで、今回は境内を歩いただけで帰る事にした。次回京都に来た時には必ず、寄るつもりだ。それには10月か11月という事が前提になる。
平成17年4月の「仏像観て歩き2」では、次のように記述している。
仁和寺に向かう。ここは昨年5月に、仏像は公開期間が過ぎていて、立ち寄っただけで帰ったところである。今日は公開期間なので、ゆっくり拝観する。
仏像は霊宝館に集められていて、一箇所で済む。国宝の阿弥陀三尊と悉達太子というお釈迦様の幼少の像がある。よく見る聖徳太子像に似ているが、こちらはお釈迦様である。
境内を散策すると、桜の名所という「御室桜」が観桜の準備中で、縁台や板張りの散策道が整備されつつあった。普通の桜と違い、株が地面から分かれて、枝が伸びる子供の頃に養蚕の桑の木に似た生え方である。後数日で綺麗に咲くのだろう。
そして、「仏像観て歩き2」での二度目の訪問では、次のように書いている。
今日は朝六時には、ホテルを出た。京都の寺を回る事にした。最初に東寺を目指して到着したのが、七時である。余りにも早過ぎて、北の仁和寺から拝観することにして、仁和寺に着いたが、やはり、駐車場が開かない。
時間潰しに、境内を散歩する。桜の名所の御室も、すでに葉桜である。月初めに寄った時には、早過ぎて、今日では遅過ぎという事である。
金堂と観音堂が特別公開と言う事で、八百円で入場する。しかし、目指す仏像はこれといって、このお堂にはなかった。
平成19年3月に京都の花見を企画して訪問しました。ところがなんぼ暖冬の年とは言え早過ぎた。2年前よりもまだ少し早い感じであった。
今回は御殿の中を拝観させて頂いた。明治時代に消失して、明治、大正時代に当時最高の木曽ヒノキを贅沢に使って建てたというのである。柱や何かは、柾目の節なしを使用しているものの、材料の太さからは鎌倉、室町時代に敵わない。それだけ時代が新しくなると太い材料が、手近なところになくなってしまったのだろう。
東門
全景
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静嘉堂文庫美術館 東京都世田谷区岡本
薬師十二神将 子神立像 像高77cm、木造 彩色玉眼、切金文様、鎌倉時代、
重文、
「解説」
12体は「定智本」と呼ばれる12神将図像をもとにした姿が多くあります。この像も図像の子神にほぼ一致します。
「静嘉堂文庫美術館」案内書より
京都・浄瑠璃寺に伝えられる薬師如来坐像(平安時代・十一世紀)とともに祀られていた十二神将像。十六世紀頃には、薬師如来の安置される厨子の周囲に並べられていたという(「浄瑠璃寺縁起」)。明治期に寺外へ持ち出され、現在、東京国立博物館に五躯、東京・静嘉堂文庫美術館に七躯が分蔵される。本展では特別展「鎌倉時代の彫刻」以来、四十二年ぶりに再会を果たす。
十二神将は、暦や方位とも十二の神々であり、北極星を象徴し、天体との縁も深い薬師如来の眷属である。本来の名称に加えて、後世に結びついた十二支の名前で呼ばれることも多い。古くは奈良時代(八世紀)から遺品が残るものの、武将の姿であるためか、とりわけ鎌倉時代から信仰が盛んになった。浄瑠璃寺においても、当初は十二神将像がなかったと思われるが、鎌倉時代に新造されたのだろう。像自体の高さが90cm足らず、等身の大きさといえる薬師如来像に対して、十二神将はいずれも髪際で60cmの二尺像であり、眷属にふさわしい大きさである。
それぞれの姿態や持物は、定智本と呼ばれる図像や、中世の図像集である「覚禅鈔」に紹介される「世に流布した像」などにもとづく。すべての像に確認できるわけではないが、たとえば申神将の丸々とした両目が猿を思わせ、下を向き、鋭い目つきで睨みつける巳神将が蛇を思わせるように、どことなく各自が頭上に戴く動物を想起させる表現であることは興味深い。鎌倉時代においては、特定の神将に対する信仰があったことを思えば、こうした表現には願主の思い入れが反映されているのかも知れない。
近年、明治期に十二躯が修理された際、いずれかの像内に「上坊別執筆、大仏師運慶」という運慶作を思わせる銘記があったとする新聞報道が注目を集めた。しかしながら、平成二十五年(2013)から解体修理が行われていた静嘉堂文庫所蔵分のうち、亥神像の頭部内から、「あんてい二ね九月/十七日」と読める墨書が発見された。安貞二年(1228)は、貞応二年(1223)とされる運慶没年の後にあたる。東京国立博物館所蔵分に解体修理はほどこされておらず、銘記も確認されていないが、十二躯の制作時期が大きく異なるとも思われないため、いずれも安貞二年頃に制作された可能性が強い。その作者は、運慶の子息や周辺の慶派仏師を考えるべきだろう。
「運慶展」図録より 東京国立博物館 2017.09.29.
「私の想い」
右手は肘を横に肩の高さに上げて、独鈷杵を持って投付けようと振り上げている。左手は肘を伸ばして身体の前で、右足前に立てた戟を握る。袖口は右後ろに、左は西風に吹かれて左に流れる。
平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。 右手は肘を肩の高さに横に挙げ、拳を上に振り上げ独鈷杵を握り構える。左手は肘を伸ばして脇を閉め手の平の五指を開き腰の高さで制止する構えをしている。 突然の事とは言え、相手を制すると同時に、事の成り行きを考えて対処する姿勢を見せる。 「如何になって居るんだ」 現場の状況を把握仕様として、暫し時間稼ぎである。
薬師十二神将 丑神立像 像高74cm、木造 彩色玉眼、切金文様、鎌倉時代、
重文、
「解説」
左手に持った弓に矢をつがえる体勢は図像に従ったものですが、体の捻りが強く、動きが強調されています。
「静嘉堂文庫美術館」案内書より
「私の想い」
左手は肘を伸ばし、腰を少し屈めて右脚前で弓を握る。矢をつげる準備の態勢をしている。沓を履き岩座に立つ。髪は逆立ち左横を睨む。 平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。 逆立つ炎髪をかき分けて牛の頭をしたエンブレムが顔を出す。丑神像と共に、左横を向いている。 「今度は何処に撃ち込もうか。」 次の手を考える。
丑神像 子神像
丑神像 子神像
薬師十二神将 寅神立像 像高77cm、木造 彩色玉眼、切金文様、鎌倉時代、
重文、
「解説」
右手を高く振り上げたポーズはいかにも颯爽とした、華やかさがあります。12体の中でも特に目を引く姿です。 「静嘉堂文庫美術館」案内書より 「私の想い」
右手を高く振り上げて、威嚇する。左手は肘を伸ばして左腰の脇に手の平を開いて五指も伸ばし地面を押さえる仕草をする。怒りを両手で表す。
平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。 炎髪の髻の中から猫やら虎やらの顔が見える。独鈷杵を握る右手に力が込められ、今にも投げ付けようかという姿勢である。
寅神像 丑神像 子神像
薬師十二神将 卯神立像 像高76cm、木造 彩色玉眼、切金文様、鎌倉時代、
重文、
「解説」
片手で握った刀を地に突き、もう片方で抑えるのは、四天王像にも見かける手を交差させるポーズのアレンジでしょう。
「静嘉堂文庫美術館」案内書より
「私の想い」
右手は、剣元を握り、剣先を地面に突き差している。左手は、右手で握った剣元を手の平で上から押さえる。暫し休戦の趣である。
平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。 炎髪の髻の中に兎の頭とそれに着いた大きく拡がる耳が現れる。暫し休戦の趣も戦況が思わしく無く、顔も暗い。
薬師十二神将 卯神立像 像高70cm、木造 彩色玉眼、切金文様、鎌倉時代、
重文、
「解説」
頬に手を当てて考え込むようなポーズも時折十二神将像にみられますが、しかめ面は何ともユーモラスです。 「静嘉堂文庫美術館」案内書より
「私の想い」
ロダンの「考える人」の仏像判的な像である。守護神が休んで居ては駄目。横から第三者で見れば、守護神は力強く、頼もしくなくてはならない。そうでなければ、大将の信頼は得られない。四天王像と違って十二神将像は、十二人で守るから、一人位サボっていても判らない。親方も、大将も判っているのだろう。こんな所が、画一的な姿ばかりでない、十二神将像の楽しみ方の一つなのだ。造る方も観る方も自由度が在る方が楽しい。変化の振れ幅が大きければ大きい程、変化を楽しめる。 平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。 炎髪の頂点に面長の馬の顔が鎮座する。大将は変顔でお道化て居る。勝負棒とも杖とも居得る棒の端を左手で握り、その拳に右肘ともを二の腕とも言える所に着け、手の平で右頬を支える。
薬師十二神将 酉神立像 像高71cm、木造 彩色玉眼、切金文様、鎌倉時代、
重文、
「解説」
上を向いて大口を開き咆哮する姿が、鳴き声をあげる鶏を思わせますし、頭髪も鶏冠のように見えなくもありません。 「静嘉堂文庫美術館」案内書より 「私の想い」
上を向いて口を開けていては、雨水が口に入る。右手は拳を握って何かを叫んでいるようにも見える。左手は左腰に当て、休めの姿勢にも見える。
平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。 昔の労働組合は、最後に必ず「頑張ろう」をこの姿勢でしたものである。しかし、自民党系の大会では、必ず「万歳」をしたものだが、何時の頃からか、労働組合の専売特許で在った「頑張ろう」に代わっている。この変化は何で起きたのか知りたいものである。なぜなら、私には違和感が有るからである。いずれは、労働組合が「万歳」に代わる時代が来るかも知れない。そうだ、4月29日にメーデーをする労働組合が在る位だから、「頑張ろう」が「万歳」に代わる日もそう遠く無い日なるだろう。
酉神像 申神像
薬師十二神将 亥神立像 像高73cm、木造 彩色玉眼、切金文様、鎌倉時代、
重文、
「解説」
両手で矢をとるポーズは、矢に曲がりがないかどうか確かめるポーズで、十二神将像には伝統的なものです。 「静嘉堂文庫美術館」案内書より 「私の想い」
右手は矢羽を持ち、左手は矢の先を摘んで曲がり具合を観ている。この様に、矢の調子を調べる姿勢の十二神将像は、数多い。 古い順に、紹介すると 仏像の尊名 制作年代 所蔵寺院 1)額に羅立像、 奈良時代、 奈良・新薬師寺、 2)安底羅立像 平安時代、康平七年(1064) 京都・広隆寺 3)額儞羅立像 平安時代、 奈良・興福寺 国宝館 板彫 4)申神立像 平安時代、 京都・法界寺 5)申神立像 桃山時代 京都・東寺(教王護国寺)金堂 なお、1) 2) 3)の時代までは、十二支との結び付きがなく、エンブレムもない。頭上や腹のバックルに付くのは、奈良・東大寺・二月堂(平安時代)の十二神将像以後となります。
平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。
兜の頂上に猪が居座る。十二神将像が干支の十二支と結び付きエンブレムで十二支を表わす様に変化して来た。それは、奈良・東大寺二月堂の十二神将像からだという。 平安時代の作で以後の作品には、エンブレムが付き、十二支の何かが判るし、それに依って何神像かも判る。また、この二月堂像は、頭上だけで無く、獅子噛みを着ける綱やバンドのバックルに噛む獅子噛みにエンブレムを着けているのも、見所である。 |
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浄瑠璃寺 京都府相楽郡加茂町西小札場
薬師十二神将 辰神立像 像高77cm、木造 彩色玉眼、切金文様、鎌倉時代、 重文、
「解説」
京都・浄瑠璃寺に伝えられる薬師如来坐像(平安時代・十一世紀)とともに祀られていた十二神将像。十六世紀頃には、薬師如来の安置される厨子の周囲に並べられていたという(「浄瑠璃寺縁起」)。明治期に寺外へ持ち出され、現在、東京国立博物館に五躯、東京・静嘉堂文庫美術館に七躯が分蔵される。本展では特別展「鎌倉時代の彫刻」以来、四十二年ぶりに再会を果たす。
十二神将は、暦や方位とも十二の神々であり、北極星を象徴し、天体との縁も深い薬師如来の眷属である。本来の名称に加えて、後世に結びついた十二支の名前で呼ばれることも多い。古くは奈良時代(八世紀)から遺品が残るものの、武将の姿であるためか、とりわけ鎌倉時代から信仰が盛んになった。浄瑠璃寺においても、当初は十二神将像がなかったと思われるが、鎌倉時代に新造されたのだろう。像自体の高さが90cm足らず、等身の大きさといえる薬師如来像に対して、十二神将はいずれも髪際で60cmの二尺像であり、眷属にふさわしい大きさである。 それぞれの姿態や持物は、定智本と呼ばれる図像や、中世の図像集である「覚禅鈔」に紹介される「世に流布した像」などにもとづく。すべての像に確認できるわけではないが、たとえば申神将の丸々とした両目が猿を思わせ、下を向き、鋭い目つきで睨みつける巳神将が蛇を思わせるように、どことなく各自が頭上に戴く動物を想起させる表現であることは興味深い。鎌倉時代においては、特定の神将に対する信仰があったことを思えば、こうした表現には願主の思い入れが反映されているのかも知れない。 近年、明治期に十二躯が修理された際、いずれかの像内に「上坊別執筆、大仏師運慶」という運慶作を思わせる銘記があったとする新聞報道が注目を集めた。しかしながら、平成二十五年(2013)から解体修理が行われていた静嘉堂文庫所蔵分のうち、亥神像の頭部内から、「あんてい二ね九月/十七日」と読める墨書が発見された。安貞二年(1228)は、貞応二年(1223)とされる運慶没年の後にあたる。東京国立博物館所蔵分に解体修理はほどこされておらず、銘記も確認されていないが、十二躯の制作時期が大きく異なるとも思われないため、いずれも安貞二年頃に制作された可能性が強い。その作者は、運慶の子息や周辺の慶派仏師を考えるべきだろう。 「運慶展」図録より 東京国立博物館 2017.09.29. 「私の想い」
平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。
「特別展 鎌倉時代の彫刻 1975年」で京都・大報恩寺の准胝観音坐像と共に、東京国立博物館に来ている。以来、42年振りに十二躯が一堂に集まったという。時代の変遷と体制の変化により、中でも戦国時代や明治初頭の廃仏毀釈などにより、凄まじく、仏像の世界が変って終った。そんな中を生き抜いて来たのである。こうして、散り散りになって仕舞った仏像を一堂に会する事が、寺は勿論の事、国立博物館や美術館の仕事の一つであると私は思います。 博物館や美術館は、場所もある、資金もある、人材もあるという、企画さえ立派なものであれば、仏像ファンは拝観するに違いない。この薬師十二神将像にとどまらず、全国には、沢山の散り散りになって終った仏像があります。これ等の仏像を一時期一堂に会する一助をすることも、美術館や博物館の大きな仕事の一つである。それも一堂に会すれば、という事も大事だ。 奈良・西大寺の塔本四仏像を横一列に四仏像を並べて、良しとした美術館も在ったが、これでは並べられた方も迷惑千満の話である。折角なら、本来の並べ方を勉強して欲しいし、並べるべきである。 例えば、京都・高山寺の薬師三尊像や福井・明通寺不動明王像と福井・羽賀寺千手観音像と毘沙門天像や奈良・秋篠寺梵天、伎芸天像と奈良国立博物館帝釈天像と伝救脱菩薩立像等があります。 薬師十二神将 巳神立像 像高69cm、 木造 彩色 玉眼、切金文様、鎌倉時代、
重文、
「解説」
背後から吹く強い風に髪や衣が逆になびく姿です。体をくねらせる蛇のイメージを投影しているのかも知れません。 「私の想い」
右手は肘をL字に曲げ、腰を前に屈めて右手のさきを観る。左手は左腰に拳を当てて、肘を後ろに引く。
「ありゃ。これは酷い、ここまで、遣るか」 平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。 両足は、右が半歩前、左が半歩引く、両足の親指を立てる程に驚く。頭上の蛇も同様に覗き込む。 巳神像 辰神像
薬師十二神将 未神立像 像高69cm、 木造 彩色 玉眼、切金文様、鎌倉時代、
重文、
「私の想い」
平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。
右手は肘を伸ばし、拳を握って斜め上に挙げる。左手は肘を伸ばして、拳を握って腹の前に出す。大きく違った左右の拳に力が込められる。
未神像 午神像
薬師十二神将 申神立像 像高70cm、 木造 彩色 玉眼、切金文様、鎌倉時代、
重文、
「解説」
東京国立博物館所蔵。
剣をかまえ、片足を踏み上げる護法神像に通有の姿ですが、ひょうきんな表情。まるで猿のお面を着けているようです。
「私の想い」
右手は剣を不動明王が持つように立てて持つ。左手はグウを握って前に出す。岩坐に右足を踏み上げて立つ。頭上には頭巾を被り、その上に猿がうずくまる。
平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。 剽軽顔で、右手に剣を握り、腰の辺りで真上に立てる。顔の横を剣先が霞めて通る。左手は肘をくの字に曲げ前に出して拳を握る。右脚は、膝を横にくの字に曲げ踏み上げる。
薬師十二神将 戌神立像 像高77cm、 木造 彩色 玉眼、切金文様、鎌倉時代、重文、
「私の想い」
平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の父親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。
右手はひじを伸ばして斧を握る。腰をくの字に折り、左足を半歩前に出して、左手を開き眉に翳して前方を観る。 「何が有ったのだ」 と、のぞき観る。
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浄瑠璃寺 京都府相楽郡加茂町西小札場
「沿革」
この寺は東の薬師仏をまつる三重塔、中央宝池、西の九体阿弥陀堂から成りたっている。
寺名は創建時のご本尊、薬師仏の浄土である浄瑠璃世界からつけられた。薬師仏は東方浄土の教主で、現実の苦悩を救い、目標の西方浄土へ送り出す遣送仏である阿弥陀仏は西方未来に理想郷である楽土へ迎えてくれる来迎仏である。
薬師に遣送されて出発し、この現世へ出て正しい生き方を教えてくれた釈迦仏の教えに従い、煩悩の河を越えて彼岸にある未来をめざし精進する。そうすれば、やがて阿弥陀仏に迎えられて西方浄土に至ることができる。
この寺ではまず東の薬師仏に苦悩の救済を願い、その前で振り返って池越しに彼岸の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝の形である。
「浄瑠璃寺」縁起より
「私の想い」
高校の国語の教科書に「浄瑠璃寺の春」というのがあった。堀辰雄の作品だ。入学して最初の国語の授業でした。高校ではどんな勉強をするのか、緊張していた。担当教師はクラス担任の塚越龍生先生です。私は国語が大の苦手で、特に読みは最悪です。
突かえるし、間違えて読むし、皆の前で読まされるのが、一番の苦手でした。声色まで変わってしまいます。先生は、手帳に指した者を記録する。万遍なく指すために手帳に記録するのだろうが、鉛筆を舐めながら点けていた様な気がする。今の読みは何点だったのだろうか。教科書の欄外に写真で馬酔木の花が紹介されていた。房を連ねて、咲いている写真でした。
奈良市内からバスで半時間も揺られて、山の中に入って来た。大和盆地を囲む山の中である。バス停を降りてから、大型の車が一台も通れば、一杯の細い道を更に入って行く。
手前の丘陵地帯を下って、田圃のあるところに出て、もう浄瑠璃寺に近付いたと思うと、道はまた登りになっている。くねくねと曲がった道を登って行く。両側には竹薮があり、風に揺られてざわざわと音を立てて忙しない。ようやく寺に着いた。
細い数段の石段を登ると、正面に小さな門がある。寺の門としては誠に小さい。個人の家の門でもこれ位の門はある。しかし、この門をくぐり抜けた中は、古い寺でなければ味わうことの出来ない、落着いた佇まいがある。
本堂は横に長い建物で、向かって右側から入って行く。本堂に足を踏み入れると、九体の阿弥陀様が一列に見える。中央に行くためには、手前の四体の阿弥陀様の前を通らなければならない。どの仏様にもと思うけれども、まずは、中央からというので、手前四体の仏様に、それぞれ会釈をしつつ中央へ進む。中央の阿弥陀様が一際大きく印を上品下生に組んで無念夢想の境地に入っておられる。左右四体ずつの仏様は全て、上品上生に印を組んでおられる。阿弥陀様が九体あるところから浄瑠璃寺の別名を九体寺ともいう。
一人で仏様を観ていると、それは、観ているというよりも、むしろ、観られているといった感じがする。九体の阿弥陀様に見守られているのであるから、自然に一挙手一投足に注意を払わなければならず、緊張する。懺悔をするにも一堂に会した仏様にするのであるから大変だ。以後の行動には特段の覚悟が必要となる。
国道24号線を、京都に向って登って行く。東大寺大仏殿の大屋根の甍が、牛の角を立てたように、シルエットとなって見える。晩秋の晴れた三笠山の紅葉が映える。秋の取入れを済んだ田圃には、稲わらが積み上げられ、近付く冬を思わせると共に、漬物に使う大根も洗い磨かれて、きちんと積み上げられていた。葉を束ね、軒下か、柿木当りに吊るされた後、漬けられるのもそう遠くない。奈良市内から離れるにつれ、晩秋を思わせる風景が続く。柿木に熟れて赤くなった柿が、葉を落として、実だけが梢に残る。
二度目の拝観であるので、大よその事は判っている。しかし、吉祥天だけは、開帳時でないと拝観出来ない。吉祥天は秘仏といえども、年の内の3分1は開いている。
初めて訪れたのは、春では無く、真夏の時でした。奈良から木津に行くバスに乗って田圃中で降りて、歩いて行った。馬酔木の事も、堀辰雄の事もすっかり忘れていた。
三、四回目かが、塚越先生と同級生三名とで訪問した。参道の両側に植えられた馬酔木がこれであると知る。葉の先に実を付けて、枯れた房も残って付いている。
以後、馬酔木の咲いた時も何回か来た。吉祥天を知ったのも、二回目以後で、春、秋の開帳の時に合わせて訪問する様になった。
平成16年5月、参道に馬酔木の小木が続く。葉先に青い実を付けている。新芽が黄緑色の若葉を出している。小さな門をくぐると庭園に出る。阿弥陀堂の前には、必ずある阿弥陀池である。阿弥陀堂と池はセットになっているのが、極楽浄土の決まりの様だ。ここもその決まりを守っている。
浄瑠璃寺の参道。
阿弥陀池越しに見える東方の三重塔。
東方の三重塔。
西方の阿弥陀池越しの九体阿弥陀堂。
参道の零れんばかりの馬酔木の花。
馬酔木の花。
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