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竜馬は議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬ、と自分にいいきかせている。もし議論に勝ったとせよ。相手の名誉をうばうだけのものである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである。
(竜馬がゆく3 司馬遼太郎 新潮文庫)
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「議論をしない」、このくだりは、司馬遼太郎の人生訓であろうし、また坂本竜馬の人物を考える上で興味深い表現である。たしかに論破された人間が能動的になれるだろうか。袂を別つか、不快なまま諾諾と従うだけのことだろう。
人を動かすことが巧みであっと言われる坂本竜馬。では、彼はどのような言動で人の心に訴え、人から能動性を引き出すことができたのだろうか。
司馬は「関が原」をはじめ戦国時代を舞台とした作品において、人が人を動かす原理は「義」や「理屈」ではなく「利」であるとしている。家康、秀吉の大成と三成の挫折をそこに見る。
「合理性」というのも司馬作品の重要なテーマである。商家の流れをくむ坂本家、「竜馬がゆく」でも健全な合理性が竜馬を介して描かれているものと思う。
(補記)
「竜馬がゆく」が連載された頃は、1960年代。蒙昧な攘夷浪人を過激化する学生運動・左翼運動の闘士に重ねて批判しているようにも思える。「議論」と「正義」そして「天誅」だけで世の中は動かない、司馬は筆を通して、そう諭していたのではないだろうか。
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