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いかに一世を蓋うほどの才智があろうとも、とらわれた人間は愚物でしかない、とみている。智者容堂は、英雄の風ぼうをもっている。しかし不幸にも、自分の智にとらわれている。・・・
(竜馬がゆく4 司馬遼太郎 新潮文庫)
作品の構成上の問題もあるが、司馬遼は山内容堂に手厳しい。また、「竜馬がゆく」は司馬遼初期の作品、筆が血気盛んということもあるだろう。作品を通じて時折青さがのぞくように思える。
「竜馬がゆく」の登場人物を乱暴に類型化すると四つのパターンに分かれる。それは「識らぬ者」「識らずに動く者」「識り、動く者」そして「識りながらも動こうとしないもの」。
容堂は作品中では第四のカテゴリーとして扱われているが、24万石の殿様が志士活動をすることなど無理な話で、また手法と程度はともかくも、為政者が優先するのは目の前の秩序である。
「智にとらわれて」もいたのだろうが、それ以前に容堂は、己の身分とその役割に従っていたということではなかったと思う。
その意味でも「とらわれること」の少なかった坂本竜馬は稀有な存在であり、それゆえ物語の主人公たりえたのではなかろうか。
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