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大学でガルーダ(伝統彫刻の鳥)作ってるのは僕一人。もっと言うと、その授業を取ってるのが僕一人で、もっともっと言ってみると、その授業では本来何しても良くて、「何したい?」って言われたから「ガルーダ作りたいです。はい」なんて言ってガルーダ作ることになった僕なのです。
そういう事なので、大学の彫刻の教室の片隅でちまちまと細々と作り続けているのですが、学部の3回生と4回生なんかも同じ部屋で彫塑の授業の制作なんぞをやっているのです。なんか、今は頭像を作る課題が出ているらしく、部屋中に粘土で出来た頭が沢山並んでいるのですが、今日、ちょっと変わった光景を見ました。
突然先生が「はい〜先生来たよ〜。」なんて言いながら入ってきたかと思うと、今まで作っていた学生が続々と部屋から出て行くのです。そうして、部屋に入ってきた先生二人は、作品一つずつの前で立ち止まって何やら相談しながらチョークで台座のところに「B」やら「A」やら書き出したのです。
なんか、つとまるところ、成績をつけていったようなのですが、ちょっと日本じゃ見たことのない光景なので書いてみました。
日本だと、大体作品を評価する時ってのは、秘密裏的に先生の絶対評価の元に行われるもんではなくて、合評して(つまり、まぁ軽いプレゼンのような作品紹介のような事をして)そこで、製作者の意図だとかを汲んだ上で成績なりが点けられてます。つまりなんて言うかな、先生の意図=絶対権力。みたいな構図になりきってない部分が昔はいざ知らず、現在のあり方です。作ってる側としては、日本のやり方のほうが、授業のあり方としては、自分の主張も出来るし、相手がどう思ってるかも分かるし、非常にその後の活動その他に役立つのですが...。(日本でも公募展の「審査」ってのは寧ろ前者ですけどね)
僕が取ってるタイ模様の授業も同じく、来週の何曜日までに提出って事が告げられて、出しておくと「B」とか「A」とか評価をつけられて返却されるのです。まぁ、このタイ模様の場合は殆ど決まったスタイルに則ったもので、基本の段階では個性もなんもあったもんじゃないので、こういう評価も可能だと思うのですが、なんていうか、自分の表現として制作しているような授業で、こういう評価を持ち込まれてしまうとやり難くは無いのかな。。。?なんて疑問も湧いてきます。
まぁ、タイという国は、先生に対する尊敬の念というか、先生の権力が非常に強い国なので、自分の主張ってのがひどくし難い空気もあったりする面もあります。前なんか、授業中に日本だったら普通だと思うレベルの先生の趣旨とはちょっと違う発言をしたら、同じ授業を取ってる生徒が「えっ!!?」って顔したしねぇ。先生は寧ろ喜んでるみたいでしたけどね(笑)
その後、一通り評価が終わると生徒がワラワラ戻ってきて、自分に点けられた評価に見入ってました。でも、また大変なのが、生徒がどうしたら良いんですかね?的な発言をすると、先生自ら粘土へらを持って、やおら修正し出すのです。先生がそういう行動に出るもんだから、その辺に居た他の学生も「先生〜、ちょっと助けてくださいよ〜」なんて言って、Bの評価をつけられていた作品はみるみるA級に早変わり!なんて現象がそこらで起き始めました。
先生が作品に手を入れるってのは、大学受験の時に通ってた美術塾で経験したっきりです。ほぼ。僕もそんな美術塾で講師の経験をしたことがありますけど、あの場合、何で先生が生徒の作品に手を入れるかというと、それは、その作品が生徒の表現であるのと同時に技術習得の場でもあるからなんですね。前にどこかのお偉いさんが、大学受験の時の勉強の段階でも先生は手なんか出すべきじゃない。って言ってたけど、やっぱ、表現活動をする上で必要な技術。ってのは在るわけで、最初から、なんでも良いんだよ。好きにやれば。ってだけでは、いわゆる専門家としての美術家にはなれないような気がする。特に、小中高の少ない美術の時間の中で、いろんな「当たり前」を勉強する時間なんて皆無に等しいしね。英単語知らないのに英語を喋れるはずもなく、計算できないのに経済を語れる訳も無く、美術も同じで、正直、何も知らないとマトモに表現活動していこうとすると、かなりシンドイ。前出のお偉いさんは、自分で作るというよりも、なんていうか理論を語る人だったので、言っちゃ悪いけど、理想先行型。表現こそが命だ。なんて言って、表現したい欲望はどうしたら具現化できるか。って時に、色んな方法論があることで、より良く表現できるかも知れない。それはちゃんと学んでおいたほうが良いのかも知れないってのが欠落しちゃってて、この辺の実地経験みたいなものは分かっていなかったのかも知れませんけどね(自分で気付くってことかもしれないけど、そんな人間はピタゴラス級(苦笑))まぁ、世の中にはそんな人も居ますが、大学受験の時は、生徒の側(少なくとも僕は)その色んな「当たり前」が必要であるってことを了解してたから、何か先生が修正するのは、自分の技術が未熟な証拠。形がおかしかったら直されても文句なんか言えないし(対象物を正確に観察できてないって事)、色塗ってるときに直されたら、やっぱり色の使い方の基本が分かってなかったんやろうな。なんて思ってました。実際、あの時に下地となるものを勉強してなかったら、その後、積み上げることも出来なかったでしょうね。だから、まるで数学の公式を覚えるような部分もあったけど、自由な表現としての美術と平行して、理論的な美術の勉強も必要で、理論の習得には、それなりに指導者が白黒つける必要もあったのです。
でも、それを乗り越えて大学に入ると、そこから先は自主的な表現の場で、先生がくれるのはアドバイスではあっても、何かの基本を教え込むことや、修正することでは無いような気がするのですね。少なくとも、僕が学部で経験した4年間は、自分で考える。ってことが最終的には一番大事だったのです。分からなくなった時に、直ぐ誰かに答えを求めるのではなくて誰かと話すなりして、自分で自分なりの答えを出す。っていうのが。そりゃ、最初は公式を知ってるだけのヤワな奴だから、その公式を使いこなすことも出来ず、思うように行かず。。。結構、苦労しましたが、最終的にはその時々に応じて(まだまだ発展途上も良いとこですけど)自分なりの表現の答えが見つけられるようになりました。
でも、それが出来たのも、先生の権力が上に立ち塞がって無かったからじゃないかなぁ。なんて思う訳で、結局何が言いたいかと言うと、「あの学生達はいつ表現者として独り立ち出来るんかな?」って事なのです。ちょっと上から目線になっちゃいますけど。
タイも聞くところによると、美術系の学部に入る前に、基本の勉強なんかはしてるみたいなのですが、それが、結局、公式の上書き的に大学に入ってもずーっと続いているというかなんと言うか...。
なんかそのまま卒業しちゃって、結局ステレオタイプな作品を作って、ステレオタイプなものを、ただ綺麗だ。って言ってるような人が多すぎるように思って(もちろんそうじゃない人も沢山いますが)なんか気になってしまった今日でした\(・ー・)/
読み返すと、めっちゃ自己肯定全開の文章ですね(苦笑)まぁ、僕の個人的見解です。。。
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