暮らしのバンコク

雨季で空が曇りがちです。でもタイ的には夏到来らしい。

考えたこととか

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ふとバンコクで考えた事をごちゃごちゃと
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ここしばらく、市場やスーパーやその他その辺の道端で売ってる食べ物なんかを買ってきては水彩で描いてます。そろそろ25枚のスケッチブックが埋まりそうで、なんとなく見返してみてたんですが、描いているモチーフの描き方にある種の私的法則みたいなものがありました。

魚、魚介類。こうしたものは丸ごと描いているのに対して、果物系のものは必ず半分に割るなりして、果肉まで描いてる。描くときは、果物やし割っとくか。くらいなもので、特に意識していなかったのだけれども、改めて見返してみると不思議なものです。

別に極端な話、魚をえらのところで切り落とした図が描いてあってもいいはずだし、スイカ一個丸ごとポンと置いてある様が描いてあってもいいはず。だけど、なぜ無意識のうちに僕はそうしたスケッチを描くことを避けていたのでしょうか。

描いているものは、この水彩スケッチに限っては食い物でありながら、買うときには、美味そうっていう意識の他に、形面白いとか、色きれいとか、単純に珍しいとか。そういった気持ちも入ってます。「あ、蟹が輪ゴムで留められてる。なにあれ」とか、「ランブータンの毛の感じを克服できたら、割と格好良いもんになるかもしれん」とか。でも、いざ描く段になって、目の前にモチーフを置き向かい合ってみると、僕の潜在意識は、目の前にあるものが、単に造形的に興味深いモチーフ。では無くて、あくまで食い物だ。と認識しているのでしょう。

食い物らしい自然さや、食い物としての当たり前を考えた時に、あるいは、買いに行った先で見た売られ方の自然さなんかを何となく心の奥底でもっている状態でモノと向かいあったときに、僕の脳みそはぼんやりとこんな事を考えてるのかもしれません。魚は丸ごと。或いは何か手を加えられていてもせいぜい内蔵を取り出してあるくらいであって、丸ごとの状態でも十分食い物としての新鮮さとか、美味さとかそういうものを感じることが出来る。調理する段になっても、三枚に卸してそれに衣つけてフライパンで焼くことはあっても、所謂、尾頭付きの状態で焼き魚になってようが、丸揚げになってようが、煮魚になってようが、それが魚の自然な食い物としての姿として、十分通用するもの。それが、お皿にボンと載って出てきたって良いもんね。と。逆に、果物はそうは行かない。生でそのまま食べる果物は、皮をすぐに剥いてしまうなり、半分に割ってしまうなりしないと食べる形にならない。

そういう、目の前にあるものが食い物だと考えているから、その自然さをいつの間にか考えているんでしょう。だから、予告しちゃうけど、気がついたら魚の切り身を描いていることはあっても、魚を頭ごと背中の方から二分割したものは、僕がどこか食べ物として対象物を描いている限り絶対にないような気がします。これは、僕が食い物としての自然な表現方法を頭のどこかで考えてるからであって、もしかして解剖学的にどうこう。ってことが突然気になりだしたら、やることも代わってくるかもしれない。それこそ、皮を剥いだだけの魚の状態。半身の筋肉を取って、背骨を露出させた状態とかいう風に。

結局、僕の根底にあるものが、魚の丸ごと焼いたのを食ってきた日本人であって、果物は皮を剥いて食べるものだという文化を持ってる人間だから、食い物に対する自然さ。というものが、こういう形で現れてくるんでしょうね。或いは、僕がまったく違う国に生まれていたら、丸ごと7等分くらいにした魚の形を自然な食い物の形として認識していたかも知れないし、或いは、僕がチンパンジーだったら、マンゴーをわざわざ剥いている。それは物凄く不自然な形だと捉えたかも知れない。

そんなことを考えてたら、一つ話を思い出しました。タイでは結構虫を普通に食べます。東北地方なんかではタンパク源の重要な一端を担ってるようで、虫食文化が盛んなよう。それでそっから広まったのか、バンコクでも虫屋台というのが結構ある。イナゴとか芋虫とか、その他色んな虫をから揚げにしたものを売っていて、僕もそんな好みの味と言う訳ではないけど、食い物として食べることが出来ます。それで、もう結構前になるんだけど、虫のから揚げを食い物として描いたことがある。それを、虫を食べたことのない日本人に見せたんですね。すると、僕は食べ物として自然な感じに虫のから揚げを描いて見せたにも関わらず、彼は、ただのグロだと言い放った。彼にとっては、僕が食い物的自然さで虫を描いたこと以前に、虫を食い物として捉えることが出来なかった。

この食い物の自然さに限らずとも、絵を描くときって、自然さや、色んな当たり前を超えたりずれたりすると、それはただの不自然であったりグロであったり、そういう表現として捉えられてしまいます。ただ、考えようによっては、その自然さというものも、人それぞれ。その人の生まれや見てきたもの感じてきたものの経験や、生きてきた環境や…。そういったものの、色んな要素の上に出来上がった一つの概念のようなものなのかも知れません。人は一人で住んでいるって事はほぼあり得ないから、一つのコミュニティーの中の通念として、色んな自然さや、当たり前があって、それが常識となっている感はありますけどね。

だから、極端な話。これが、自然な感じだとか、いうことを全ての人が同じ感覚で共有することは不可能に近いと思う。僕は、今、海老を描いて、無意識のうちに過去の経験と照らし合わせて、目の前にある海老の生の新鮮さを極めて真っ当な方法で伝えようと、まるっぽの海老をまな板の上に横たえ、透き通った殻の感じやテカリを表現するけど、海老を食べない人にとっちゃ、食い物でもないなんかの甲殻類のテカテカしたのを強調しているだけに見えなくて、なんかテラテラしてるから、あーさっきまで生きてたの?くらいで終わるかもしれないってことだし、今の世の中、ほぼありえない話だけど、もっと言ってしまえば、海の生き物を見たことのない人が見たら、食い物以前の問題として気持ちの悪いものに、気持ちの悪さをプラスしているだけのように見えるかもしれない。

うん〜。乱暴なまとめ方をするけど、描き方とか表現とか、ものの見方ってこうあって当然ですよね。ってとんでもなく自分勝手なもんで、コミュニティー勝手なもんだなぁなんて思う最近なのでした。

なんか、最近ずーっと描いてたもん、且つ午前3時という時間の都合上。壊れかけの文章かもしれませんが\(・ー・)

一発描き云々

 ずーっとこのブログを読んでる人は何となく知ってたかもしれないけど、一時期スケッチのUPが一月近く途切れてた時期がありました。なんていうか、描くネタがなかったとか、スケッチするのに飽きたとかそういう理由じゃなくて、理由としてあったのは、自分の下手さに嫌気がさしたってあたりの事なのです。スケッチ始めて目につくものをどんどん描いていったのは良いんだけど、ふと、溜まったスケッチを見てみると、我ながら下手さに愕然…。というか。

 何回か触れてますが、よくスケッチをしに行くバンコクの市場とその周辺はスケッチをするに足るような十分なスペースを確保してくれるようなところは中々ありません。どこも車だらけの人だらけの店だらけの物だらけ。鉛筆削るのもちょっと気が引けるような状況もあったりして、結局ボールペン一本でスケッチしているのです。

 ボールペンってのは、まぁ、当たり前な話だけど、描いた線ってのが鉛筆と違って消せるようなもんじゃない。おのずと一発勝負をせざるを得なくなってくる訳ですね。でも、それなりに絵を描いてきたとはいえども、一発で線を決めるような訓練を積んできたかというと、僕の場合はそんなこともありませんでした。おおざっぱに雰囲気を描くのが好きというか、気がつくとそんな描き方をしていたので、一発で例えば魚っぽい形を拾うことは出来るんだけど、例えば、魚の下唇から描き始めて、尾ひれまでの形を順に一発で追っていけるかというと、出来なかった…。悲しいことに。これって、漫画なんかを専門で描いてる人は、なんなりと一発でできたりすると思うんですけどね。

 まぁ、その漫画描く人はできるだろうってのは置いておくにしても、その形を一発で追いかけるってのは、ボールペンで描き始めた当初は割りと簡単に出来るもんかな?なんて思ってたんだけど、実際そんな簡単なものでもなくて、極端な話が、一ミリ目の前の形と自分の描いてるスケッチの形がズレただけで、スケッチブックの上にある図柄は目の前にある物とは全く形の印象がかけ離れたものになってしまう。はた目には大したことないように見えるズレが、最終的には大きな歪みに変化してしまったりする。でも逆に変な話だけど、一ミリずれていてもおかしく見えない瞬間もある。結局、何が大事かって言うと、ビシッと形を捉えつつも、その物の形に表れてくる物独自のラインを拾うことにあると思うのです。これが、写真やCGでは真似できない、手で描いた味につながってるような気がする。空は青いというけれど、写真で撮るとそんなに青くもない。けれども、人の記憶の中には、空は写真で撮るのなんかよりもずっと「青」として記憶されていて、それを記憶色と呼んだりするみたいですが、これもその理論で、記憶形とでも言うんでしょうか。その、あぁ、こんな感じ。この形こんな感じっていう「らしさ」をいかに一発で描く線の中に出すかってのが、ボールペンで一発描きをするスケッチの中にあるような気がします。

 それで結局、いろんな意味で変なズレを起こさずに、目の前にある対象物の印象を捉えようとしたときに、必要だったのは、いつも以上の集中力で、対象物の端から端まで余すことなく丁寧にその物自体を追えるような力でした。それが、最初の頃、出来てるような「気」はしてたんだけど、実はぜんぜん出来てなくて、適当なデフォルメをしてスケッチブックに描いてる。だから、何か雰囲気は似てるんだけど、決定的なそのものの持ってる生々しいリアルさみたいなものが欠けていて、例えば、豚足なんか二回描いたけど、一回目のそれって、まるでポリゴンでつくったみたいな情報の欠落の仕方をしちゃってるんですね。見比べてみると。

 まぁ、頭に一回取り入れた視覚情報を手におろしてくる時点で、ある程度簡略化されてるのは当然のことだと思うんだけど、その簡略化の仕方が、対象物の持つ形の面白さなりを排除してしまいかけた時に、スケッチは何となく雰囲気は似てるんだけど、何か欠けた…。ようなものになってしまってる気がするのです。これじゃ、記憶に訴えかける「そうそうそんなん!」ってのではなくて、「あぁこんなんだったかも…。」て何段階かランクの落ちた劣化コピー品みたいになってしまう。

 でも、この形の持つ特徴を拾い上げるなんてのは、正直、大学入る時点で理解しておいて当然の事なので、コイツ今更何言ってるんだ?って思われた方も居るでしょう。けど、その高校生の段階でしていたのは殆どの場合鉛筆描写。鉛筆ってのは当たり前のことやり直しが利くから、薄く描いて、段々と特徴を拾い上げて行って、何か違う…。と思ったら修正して。という失敗ありきな工程を踏むことも可能なのです。

 ここで言ってるのは、それに対して、やり直しの利かない一発描きの美学というか、なんというか、そんなお話。腕と手首と、ボールペンの微妙な筆圧をコントロールする指先にぐっと神経を集中させて、そして、もちろん目は対象物の特徴をしっかりと捉える事ができるように集中して。線を一本引くのに、ここまで緊張した瞬間を味わう事は今までありませんでした。そして、それが前はとてもじゃないけど満足できるもんじゃなかった。

 それが、最近少しは出来始めたかな…。まぁ、前よりはマシになってきたか。って事で、再び市場へ通ってスケッチ始めるようになったんですけどね。そりゃ満足してふんぞり返っていられる状況ではぜんぜん無いですが。結果として、ボールペンで描くようになって、物をより真剣に見るようにもなったと思うし、形を現す上での真剣さも増したような気がします。やっぱ、描いてる時は常に気は張ってますからね。気がついたら、線を描くのも何となく上手くなってる気がするし(笑)

 線がきれいになったかも。ってのは、タイ模様を描くのに、言っちゃ悪いけどそんな上等でもない安モンの筆でポスターカラーを使って、これまた大したことのない紙に0.3mmとかの線を引かざるを得なくて、筆圧のコントロールと手先の器用さが日本を発つ前とは10倍くらい向上したってのもあるような気もしますけどね(苦笑)

 あ、そういや、ずっと前に美術手帳に「日本画は線に始まり線に終わる」って書いてたどこぞの評論家の文章を読んで、軽く逆上した事があって、そのときの逆上文章もこのブログのどっかに眠ってると思いますけど、線の緊張感とか緩和とか、一発描きをするようになって色々と考える機会は多くなったけど、この意見はやっぱり未だに賛成しかねますね(笑)線で描けば描くほど、線だけで物の全てを表すなんて不可能に思えてきて…。線で拾える「らしさ」もあるけど、やっぱり線って数ある要素のひとつに過ぎないんですよね。かなり重要なものではあると思うけど…。ってところで、一発描きについてのぼやきでした\(・ー・)/

 大学でガルーダ(伝統彫刻の鳥)作ってるのは僕一人。もっと言うと、その授業を取ってるのが僕一人で、もっともっと言ってみると、その授業では本来何しても良くて、「何したい?」って言われたから「ガルーダ作りたいです。はい」なんて言ってガルーダ作ることになった僕なのです。

 そういう事なので、大学の彫刻の教室の片隅でちまちまと細々と作り続けているのですが、学部の3回生と4回生なんかも同じ部屋で彫塑の授業の制作なんぞをやっているのです。なんか、今は頭像を作る課題が出ているらしく、部屋中に粘土で出来た頭が沢山並んでいるのですが、今日、ちょっと変わった光景を見ました。

 突然先生が「はい〜先生来たよ〜。」なんて言いながら入ってきたかと思うと、今まで作っていた学生が続々と部屋から出て行くのです。そうして、部屋に入ってきた先生二人は、作品一つずつの前で立ち止まって何やら相談しながらチョークで台座のところに「B」やら「A」やら書き出したのです。

 なんか、つとまるところ、成績をつけていったようなのですが、ちょっと日本じゃ見たことのない光景なので書いてみました。

 日本だと、大体作品を評価する時ってのは、秘密裏的に先生の絶対評価の元に行われるもんではなくて、合評して(つまり、まぁ軽いプレゼンのような作品紹介のような事をして)そこで、製作者の意図だとかを汲んだ上で成績なりが点けられてます。つまりなんて言うかな、先生の意図=絶対権力。みたいな構図になりきってない部分が昔はいざ知らず、現在のあり方です。作ってる側としては、日本のやり方のほうが、授業のあり方としては、自分の主張も出来るし、相手がどう思ってるかも分かるし、非常にその後の活動その他に役立つのですが...。(日本でも公募展の「審査」ってのは寧ろ前者ですけどね)

 僕が取ってるタイ模様の授業も同じく、来週の何曜日までに提出って事が告げられて、出しておくと「B」とか「A」とか評価をつけられて返却されるのです。まぁ、このタイ模様の場合は殆ど決まったスタイルに則ったもので、基本の段階では個性もなんもあったもんじゃないので、こういう評価も可能だと思うのですが、なんていうか、自分の表現として制作しているような授業で、こういう評価を持ち込まれてしまうとやり難くは無いのかな。。。?なんて疑問も湧いてきます。

 まぁ、タイという国は、先生に対する尊敬の念というか、先生の権力が非常に強い国なので、自分の主張ってのがひどくし難い空気もあったりする面もあります。前なんか、授業中に日本だったら普通だと思うレベルの先生の趣旨とはちょっと違う発言をしたら、同じ授業を取ってる生徒が「えっ!!?」って顔したしねぇ。先生は寧ろ喜んでるみたいでしたけどね(笑)

 その後、一通り評価が終わると生徒がワラワラ戻ってきて、自分に点けられた評価に見入ってました。でも、また大変なのが、生徒がどうしたら良いんですかね?的な発言をすると、先生自ら粘土へらを持って、やおら修正し出すのです。先生がそういう行動に出るもんだから、その辺に居た他の学生も「先生〜、ちょっと助けてくださいよ〜」なんて言って、Bの評価をつけられていた作品はみるみるA級に早変わり!なんて現象がそこらで起き始めました。

 先生が作品に手を入れるってのは、大学受験の時に通ってた美術塾で経験したっきりです。ほぼ。僕もそんな美術塾で講師の経験をしたことがありますけど、あの場合、何で先生が生徒の作品に手を入れるかというと、それは、その作品が生徒の表現であるのと同時に技術習得の場でもあるからなんですね。前にどこかのお偉いさんが、大学受験の時の勉強の段階でも先生は手なんか出すべきじゃない。って言ってたけど、やっぱ、表現活動をする上で必要な技術。ってのは在るわけで、最初から、なんでも良いんだよ。好きにやれば。ってだけでは、いわゆる専門家としての美術家にはなれないような気がする。特に、小中高の少ない美術の時間の中で、いろんな「当たり前」を勉強する時間なんて皆無に等しいしね。英単語知らないのに英語を喋れるはずもなく、計算できないのに経済を語れる訳も無く、美術も同じで、正直、何も知らないとマトモに表現活動していこうとすると、かなりシンドイ。前出のお偉いさんは、自分で作るというよりも、なんていうか理論を語る人だったので、言っちゃ悪いけど、理想先行型。表現こそが命だ。なんて言って、表現したい欲望はどうしたら具現化できるか。って時に、色んな方法論があることで、より良く表現できるかも知れない。それはちゃんと学んでおいたほうが良いのかも知れないってのが欠落しちゃってて、この辺の実地経験みたいなものは分かっていなかったのかも知れませんけどね(自分で気付くってことかもしれないけど、そんな人間はピタゴラス級(苦笑))まぁ、世の中にはそんな人も居ますが、大学受験の時は、生徒の側(少なくとも僕は)その色んな「当たり前」が必要であるってことを了解してたから、何か先生が修正するのは、自分の技術が未熟な証拠。形がおかしかったら直されても文句なんか言えないし(対象物を正確に観察できてないって事)、色塗ってるときに直されたら、やっぱり色の使い方の基本が分かってなかったんやろうな。なんて思ってました。実際、あの時に下地となるものを勉強してなかったら、その後、積み上げることも出来なかったでしょうね。だから、まるで数学の公式を覚えるような部分もあったけど、自由な表現としての美術と平行して、理論的な美術の勉強も必要で、理論の習得には、それなりに指導者が白黒つける必要もあったのです。

 でも、それを乗り越えて大学に入ると、そこから先は自主的な表現の場で、先生がくれるのはアドバイスではあっても、何かの基本を教え込むことや、修正することでは無いような気がするのですね。少なくとも、僕が学部で経験した4年間は、自分で考える。ってことが最終的には一番大事だったのです。分からなくなった時に、直ぐ誰かに答えを求めるのではなくて誰かと話すなりして、自分で自分なりの答えを出す。っていうのが。そりゃ、最初は公式を知ってるだけのヤワな奴だから、その公式を使いこなすことも出来ず、思うように行かず。。。結構、苦労しましたが、最終的にはその時々に応じて(まだまだ発展途上も良いとこですけど)自分なりの表現の答えが見つけられるようになりました。

 でも、それが出来たのも、先生の権力が上に立ち塞がって無かったからじゃないかなぁ。なんて思う訳で、結局何が言いたいかと言うと、「あの学生達はいつ表現者として独り立ち出来るんかな?」って事なのです。ちょっと上から目線になっちゃいますけど。

 タイも聞くところによると、美術系の学部に入る前に、基本の勉強なんかはしてるみたいなのですが、それが、結局、公式の上書き的に大学に入ってもずーっと続いているというかなんと言うか...。

 なんかそのまま卒業しちゃって、結局ステレオタイプな作品を作って、ステレオタイプなものを、ただ綺麗だ。って言ってるような人が多すぎるように思って(もちろんそうじゃない人も沢山いますが)なんか気になってしまった今日でした\(・ー・)/ 

 読み返すと、めっちゃ自己肯定全開の文章ですね(苦笑)まぁ、僕の個人的見解です。。。

アートと気持ち

 話は三日前に遡ります。突然、大学の先生のUNESCOのバンコク事務所?会議場??に行くように言われ、チュラのミニバンに5人ほどと供に乗っけられて、連れてかれました。なんで、ここで「連れてかれた」って表現を用いてしまったのかってのは、ちょっとした理由があって、まったくもって勝手に何の説明もないまま、予定を組まれ、朝の6時前に家を出なくちゃいけない状況に持ってかれたからなんですね。けど、まあいいや。この事自体は本筋と関係ないから。

 サナームルアン(エメラルド寺院)らへんにあるユネスコのビルは中々立派なものでしたよ。アソークの日本領事館なんか、ブーブー金属探知機の音が鳴ってても素通りOK。クーデターの時にも在留邦人の人数が多すぎるっていう、理由でメール一本よこさなかったが故に、無能か怠惰か堕落か、、そこら辺の言葉がチラついちゃうっていうのに、ユネスコビルはセキュリティもしっかりしてましたしね。中では、文化と平和の式典みたいなもんが執り行われていて、在バンコクの大学の芸術学部に通う生徒の、平和に関する作品のプレゼンみたいなものが行われてました。会場に居るのは90パーセントタイ人だっていうのに、何故だかみんな、必死に英語を喋ってます。なんで?って聞いたら、ここは英語しかダメなの。。って。残り10パー弱の西洋人に対するサービスですか(苦笑)?っていうのもあったんだけど、まあいいや。これも本筋と関係ないから。

 二段落も使ってしまった前置きというか、プロローグはこの辺りまでにして、本題に行きましょう。えっと、そこでタイ人の芸術家さんに会ったのですね。ニパンさんという版画家の方です。日本に6年留学経験があったので、日本語ペラペラ。色々と話をさせてもらって、ついでだから作品も見てもらって、「まぁ、自分も日本に行った時そうだったからよく分かるんだけど、ちょっとモノ珍しげにタイを見てませんか?(アクリルで描いた)トゥクトゥクの絵 http://blogs.yahoo.co.jp/gyunyukyappu/3650629.html よりも(ベランダに居た)ヤモリの彫刻 http://blogs.yahoo.co.jp/gyunyukyappu/4560834.html に、自然な視点を感じますね。タイ人としてはそれのほうが自然に見えます」なんて、一人の意見とは言えかなり鋭いというか。チクリという感じの事も言われたりなんかもしましたが、一般論じゃなくて、結構自分の感じた本音を語ってくれる方だったので、そういう意味でかなり心の底から感謝しちゃって、愛想抜きの本気のありがとうございます。を言いました。(背景を語ればトゥクトゥクの絵とヤモリとでは全然違っていて、それは説明したし、説明しても良いのですが、あまりにも脱線しちゃうのでまた今度)

 で、今日は「気持ち」の話なのです。このニパンさん。バンコク大学の芸術科の教授をしてるとかで、ちょうど今、学生達の展覧会やってるから見に行ってください。とDMをくれました。場所はナショナルスタジアムの近くの倉庫。それで、昨日(金曜日)の夕方に早速行ってきたのです。なんか、ニパンさんの「ぜひ来てください」て言葉に非常に強い気持ちを感じたんでね。割かし急いで。あ、ちょっと脱線するけど、ギャラリーとか美術館に一人で行くか。それとも誰かと行くか。ってのは中々難しい問題ですねぇ。誰かと行くと、自分の気付かない視点から作品を見ることが出来たりする一方で、相手に気を使っちゃったりする。相手がわがまま度95パーセントの人ならなお更。こっちがゆっくり鑑賞なんて出来やしない。一人で行くと、その辺は全く気にせず、自分の見たいように見たいだけ。また、ギャラリーなんかだったら、作者に話聞いたり色々出来るんだけど、上と相反して視点は偏ってしまったりする。と、そんな訳で、今回は後者を選択。というか、僕はいつも80パーセントの確率で後者を選びますけどね。なんだかんだ気ままで良いから。

 そんなこんなでやってきた展示スペースになっている倉庫の入り口には、手書きの看板が立ってて、すぐにそれと分かりました。んで、入場。。。机があって、名前を書く紙があって、ペンがあって、感想を書く紙があって、あれ??人は居ないの?と思って奥を見るとソファーがあって何人かたむろしてます。てか全く無視。客が来てるってのに、タバコ吸って、雑誌よんで、ワーとかキャーとかちっちゃい声で言ってる。まあ、日本の常識を持ち込んで、その通りにしろ。って何処でも英語が通じると思ってるようなアホ西洋人みたいな事を言うつもりは無いですけどね。けどさ、日本だったら普通。最低、来てくれたお客さんに挨拶して、グループ展やってるなら案内の紙の一枚渡して、てくらいするでしょう。それが、礼儀ってもんであり、その一言で展示している作家の気持ちがそこに現れても居ると思うんですよ。こっちは製本された図版を見てるんじゃなくて、作家の居る会場に足運んでるんだからさあ。大通りに面してたので、僕が作品を見てる間も数名来場者がありましたが、全くの無視でしたね(苦笑)まぁ、彼らは、いっぱしの「アーティスト様」で、その辺の人間が見に来とる。っていうくらい、立派な地位とプライドをお持ちなのかも知れませんけどね。なんかニパンさんは、恐らくこの展覧会を企画するにあたって、色々身を尽くしたから、物凄く気持ちのこもった「来てください」に聞こえたんだと思うし、それに僕も反応しちゃったんですが…。でもこの状態を見る限りは、言葉悪いけど「不良」じゃない?気持ち通じてなかったんじゃない?

 彼らは作品を展示することの意味ってものをちっとも理解してる、あるいは考えてるような気がしなかった。。。見て貰う為に作品を作る。というのではないけど、作品を見て貰うからには、見て貰わなきゃて思いましたね。見せてやるじゃなくて。そんな周囲の事はどうでも良いよ。作品が良けりゃ。なんていう方も居るかもしれませんけど、作家がその場に居る展覧会ってのは、最低そこの気持ちを持って接するべきだって思うんですよね。

 もう、ついで勢いづいて言っちゃうけど、これって、作品を作るときの態度にも表れることだと思います。何か世の中には、最近というか、もうだいぶ前からなのかも知れない。んーその辺の時代の事はワカンナイんだけど、「アート」っていう言葉の持つ曖昧さというか、多義性を使って、「アートしてます」って言葉で「アート」を極めて適当に考える。アートってこんなんでしょ?俺のカッコいいでしょ?みたいな感じで捉える、輩が存在します。まぁ、そりゃ人好き好きですよ。その「アートする」って事に関する距離感の保ち方なんて。でもそこで言いたいのは、作るものとして、その「アート」なり「美術」なり、そこに使われてる言葉は知らんけど、本心のところで本当の気持ちを持って向き合い、接してるかって事です。「てかアートだから」とかいう軽い言葉で「アートしちゃう」のに、自分はプロフェッショナルだなんて言っちゃう輩は、悪い意味のアマチュアである。って激しく言いたくなりました。そんなヤツに限って、とんでも無く偉そうな口調でモノ言ってきたり(苦笑)そんなん、いくら芸大行ってようが、そりゃタダのアマチュアですよ。気持ちがアマチュアだ。ってね。って最後はわかった口をきいてみましたが(・―・)/

 ネットのニュース見てたら、センター試験を6教科に必修化するとかしないとか。。。大学に入って専門的なことを勉強するってのに、こんな事してたら、平均的に高校生レベルがこなせるだけの人が多く入学しちゃって、やりたい事あって来た生徒はもしかしたら門前払い。専門性に特化できずに逆に大学生の色んな意味での学力低下。大学一年生に基礎の補修。なんていう情けない光景を見ることになるのではないかね?なんていう事を今日の夕方パソコンを開いて思った僕ですこんばんわ。

 まったく、お上様の考えることなんて、殆どが目先の草を取り払うくらいの問題解決の仕方ばっかで、その後どうなるのか。ってとこまで考えて動いてるんかねぇ?今度の選挙の得票数や、地元の後援会へのなんたらや、政治献金の見返りやら、「自分」の思想やら、30年先の事なんて俺しらね。なんて思ってる輩が多すぎるような気がするのですが。。。センターの問題だって、よくわかんないけど、もしもニュースを騒がしている未履修問題のことに端を発した、1年先の事しか考えられないおじーさんのボヤキなんだったら即刻取り消してもらいたいなんて思っちゃいます。

 勉強ってのが、これとこれとこれと。。。って決められるのは、まだ世の中の事がよく分かってない幼い頃は仕方なくはあっても、18にもなって、全部押し付けられたものを詰め込むんじゃ、まったくもって、言われたらするだけの人間になってはしまわないか。っていう事を、とりあえず教育学部にいるもんで、考えてみたりする訳です。結局、大事なのは、何を勉強しなければならない。っていう指針をマニュアルどおりに立てるんじゃなくて、その個人個人が何をしたら、一番伸びるかって事じゃないでしょうか。そんなマニュアルじみたものを大人になっても続けてちゃ、ろくな事にならんような気がすんの僕だけ?

 かく言う僕は、高校のとき有り得ないくらい勉強が嫌いで、まったくこんなもの何の役に立つんかと思って、嫌々やっていたというか、最後の一年くらい、学校の勉強をほぼ何もしなかった。で、代わりに今やってる美術の勉強はそれなりにやっていた訳です。学校の先生のいう事は色々で、英語やらなかったらセンターでいい点数が取れないやら、古典やらなかったら今度の模試がどーのっていう、超短期スパンな考えの先生もいりゃ、逆に、やりたい進路は決まってるんやから、まぁ卒業だけはしぃや。って先生もいました。

 まぁ、結局、僕は自分に必要な勉強の手段というものを、高校二年生の辺りで見つけた気がするから、そこからは上にも書いたみたいに、必要とは思えない勉強を切り捨てた訳です。僕にとっては、決められた高校のカリキュラムは、途中から何の意味も持たなくなりました。今になってその時、高校の勉強を強要しなかった先生には感謝しちゃってます。だって勉強っても、それは、誰かが決めたカリキュラムをそれに適合しない生徒が受けてるだけですからね。

 今でも、ゆとり教育で、学力低下なんてどこぞの人が騒いでるけど、この決められた枠の中での学力低下を招いてるだけでしょう?そりゃ、いままでのカリキュラム削ったら、そこのカリキュラム分の学力は低下して当たり前。そうじゃない部分が伸びればいいじゃん。結局その先に受験ていう大きな関門があるから、そこへ向かうためには従来どおりの事しなくちゃいけない。今の政府を握ってるお偉方が、そういうカリキュラムをこなし、門をくぐったから、もうヒヤヒヤしちゃってるんでしょう。けどね、思うけど、前に円周率が3.14じゃなくなって騒いでたけど、もう言ってしまうけど、3でもいいじゃないですか。数学に興味のある子は勝手に勉強するんやない?まさか、先生が実際に教室で円周率の計算しない訳じゃないでしょう?してみて、結果的に、「3が計算しやすいから3にしましょう」って言う訳じゃないですか。その後、興味あるけど勉強の仕方が分からなかったら、その「ゆとり」の時間で、どうにかしてあげりゃいいと思いますよ。嫌いな子で、代わりに昆虫採集が好きな子は、その時間をどこにどんな虫が住んでるかを見に行ったほうが、全然その後の人生の糧になると思いますしね。もちろん、全てに対する取っ掛かりの機会はしっかり提供しなくちゃいけないと思います。色んなことに触れて、自分の興味を引き出すだけの時間は与えられてしかるべきだと思いますからね。

 あれも大事。これも大事っていう考えは分かる。けど、どっかで見切りつけないと、あれも大事の中に自国の文化が入ってる代わりに、なぜか世界史が押し寄せてきたりするお陰で、自分の国の事は大して知らないみたいな人間も作ってたりする。まぁ、これは言いすぎかも知れないけど、色んな「義務化」とか「必修化」というものの背景には、それによって犠牲になる様々な要素が転がってるっていう事を、どこの「教育者様」か「政治家の先生」か知らんけど、分かってほしいなぁなんて思ってしまったりした、11月8日でした\(・ー・)/ 

 あ、今日思いつくままに書いてたら、まるでタイじゃなくて、日本に居るみたいな日記ですね。今日の出来事にも触れたいところやけど、明日、いつのまにか予定が組まれていて、6時に家を出なくてはなりません。僕、寝ないとやってけない人間なので、おやすみなさい。

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