とらねこおばさんの雑記帖

田舎暮らしのいろいろを思いつくままに……。

ベトナム

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むかし、某メーカーの海外担当という部署に勤務していた。事務仕事のほかに、海外からお客さんが来られると、ホテルに出迎えて会社までお連れする。工場見学や観光にも案内するのが若いころの仕事だった。お客さんは欧米人が多かった。
 
その以前、1970年の万博ではパキスタン人のボスのもと、インド人、アフガニスタン人、イラク人などの中近東の人々と仕事をした。
 
最近、ベトナムの人たちと付き合うようになって、それまでに付き合った、どの国の人よりも、日本人に近く感じられる。宗教の分野でも似ている。ベトナムには仏教徒が多いし、それも日本と同じ大乗仏教だ。若い人の間では禅宗での修業が流行っているそうだ。曹洞宗のお寺もある。
 
来日したお客さんを京都や奈良のお寺や神社に案内すると、欧米人は必ず日本人の宗教について質問する。
「日本人は何%が仏教徒で、何%が神道の信者ですか」
 
これはほんと、答えにくい質問だった。日本人の先祖崇拝と仏教の関係、アミニズムや国家神道、鎮守の森などについて話すと長くなって、ややこしい。第一私の英語力がついていけるか問題だった。それでこんな返事をした。
 
「日本人はおそらく90%以上が仏教徒でかつ神道です。生まれるとお宮参りをして神道の神主さんにお祓いをしてもらい、3歳と5歳、7歳の1115日にはお宮参りをして飴をもらいます。毎年お正月には神社にお参りをします。クリスマスにはクリスマスツリーを飾り、「きよしこの夜」をうたい、小さい子供はサンタクロースが夜中にプレゼントを持ってきてくれると信じます。祖先の命日には仏教のお坊さんが来てお経をあげ、お盆には祖先の霊が返ってくるので、仏壇やお墓を掃除して、お坊さんがお経をあげます。結婚式は神道かキリスト教の教会で挙げ、死ぬと仏教でお葬式をします」
 
欧米人はみな首を振って「日本人はクレイジーだ」といった。
日本人にとってはごく普通の宗教とのかかわり方だが、一神教の欧米人にはクレイジーに思えるのだろう。
 
さて、このツアーはカオダイ教というベトナムの新興宗教の総本山を訪ね、そのあとクチトンネルにまわる。カオダイ教ではお昼の礼拝を見学する。
 
宗教施設のお寺や教会、神社は世界中どこでも観光地になっている。お祭りなどの宗教イベントも観光の目玉だ。しかし、毎日の礼拝を観光の対象にしている宗教はあるだろうか。ざわめく観光客は礼拝の邪魔にはならないのだろうか。ベトナムの人は鷹揚に
「かまへん、かまへん、まあ、静かに見ててや」といっているようでもある。
 
カオダイ教は1920年前後に創立された新興宗教だ。儒教、仏教、道教、キリスト教、イスラム教を土台として教義を作り、孔子、老子、釈迦、キリスト、モハメッドだけではなく、李白やトルストイ、ビクトル・ユーゴー、孫文までも聖徒や使徒として信仰の対象としているという、何とも壮大な宗教のコラボレーションだ。日本人の宗教ミックスどころの話じゃない。
 
総本山はホーチミン市から北西に約100キロ、タイニン省にある。到着すると空は青々として太陽がギラギラしていた。今年は涼しいと聞いていたけれど、暑い。30度をはるかに超しているだろう。帽子を忘れてきたのが悔やまれる。
 
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建物に近づくと小さなドームが屋根の上にいくつか見える。アフリカの地図に何か動物が乗っている。なんだろう? 馬?
 
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こちらはヒンズー教系の神様のようだ。
 
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建物を正面から見ると、大きい。建物の方々に神様か仏様か聖者か何かたくさんのっている。
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正面中央にある目が「天眼」といって、信仰の中心になるもののようだ。点眼の上はたぶんお釈迦様。
 
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玄関から白い服の人が入っていく。白い服は一般信徒。
 
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赤い服の高僧が入り口で写真のポーズをとってくれた。手に持っているこうもり傘は日傘だろう。
 
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同じ入口から入ろうとしたら、案内係の腕章をつけた女性が向こうから入れと手で指示した。見ると、女性の入り口は左側と書いた看板があった。
 
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左側の入り口で靴を脱いで入ると、もうみんな一緒に合流してしまう。
中は広い。
 
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竜が巻き付いている柱が並んでいる、
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観光客は皆二階のギャラリーにあげられ、入場行進が始まった。
 
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白い服は一般信徒
 
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僧は三原色のカラフルな服装。
 
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最前列天眼の前で黄色の服の高僧が祈っている。
 
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音楽隊は二階で月琴や胡弓を奏で、ベトナム風の歌を歌う。
 
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カラフルでにぎやかな礼拝は30分ほどで終わった。ふと天井を見上げると星空が描かれていた。
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余所行きの双子ちゃん

20日夜中の12時近くに到着の全日空便でホーチミンのタンソニェット空港に着いた。
テト(旧正月)の帰国ラッシュらしく、家族連れ、友人同士のベトナム人で満席だった。お土産の大荷物が畿内をうずめ、これがベトナム航空ではなく、全日空だとはとても思えないほどだった。
 
もっとも私たちもホーチミンで剣道を教えているKさん仁頼まれた竹刀や防具の大荷物があり、ベトナムの人たちをとやかく言えない。
 
出口から一歩踏み出してびっくり。出迎えの人垣が何重にも取り巻いて、人の山が積みあがっているように見えた。いつも出迎えの人の多い空港だが、とても尋常とは思えないほどの人の山だ。
 
でてくる人をみんなで見つめて、プラカードや、歓迎の人名カードを持ち、手を振り、呼びかけ、抱き合って再会を喜んでいる。私たちもSさんご夫妻、Kさんとお弟子さんたち、オワンさんに出迎えられた。
 
その夜はSさんのお宅に泊めていただき、翌日昼の2時着の便で到着する旅行団メンバーを出迎えた。
 
昼の2時という時間だからか、帰国ラッシュのピークが過ぎたからか、昨日ほどの人の山ではなかったが、それでも出迎えの人たちで空港はごった返していた。
 
よそ行きの服を着込んでいる人が多い。女の子はとりわけひらひらのドレスを着せられて走り回っている。
 
待ち時間を出迎え風景の写真撮影で過ごしていると、横から服の裾を引っ張られた。見ると、おばあちゃんらしい人が子どもたちを写してくれというように、女の子を並ばせている。双子ちゃんが赤いひらひらのお洋服でかわいい。お姉ちゃんは黄色のドレス。
 
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住所を教えてもらったら送りますよといおうと身振りでいうが、通じない。写真に撮ってもらうとそれで満足jらしく、にこにこして手を振ってどこかへ行ってしまった。
 
写真を送れないので、ここに載せておきますね。
 

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ホーチミンに到着したときはテトの2週間前でした。町は飾りつけの準備中。ドンコイ通りにも大きな花を飾り付け始めていました。

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今年は猫年と聞いていましたが、猫はあまり見当たりません。

それが、クチへ行き、ベンチェ・ミト−へ一泊ツアー、さらにフエ、ホイアンへの二泊のツアーから帰ってくると、町は猫の飾りつけであふれていました。夜になると町はテトのイルミネーションでいっぱいです。

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ピンボケですがREXホテルの壁に猫のイルミネーション。

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市庁舎もライトアップ。

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市民劇場も私たちの泊まっているホテル・コンチネンタル・サイゴンもライトアップ。

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まるでルミナリエ。昼間はテト帰省でバイクの数が少なくなっていたのに、

夜はイルミネーションを見にバイクが街中に集まってきます。家族連れは一台に一家全員で乗っています。

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信号が赤に変わると広い道路もバイクで超満員。

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歩道には風船売り、光るボール売り、歩行者はその間を縫ってそぞろ歩き。光りの饗宴に心が浮き立ちます。

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11時になった途端、イルミネーションは一斉に消えて、夢の世界は街灯だけのただの夜の街になりました。
翌日、ベンチェからさらに田舎のモーカイという村のおばあさんの家に行く途中、Sさんは「ベトナム独立戦争に参加した日本人兵士の墓があるのですが、この前は管理人がいなくてどこに日本人の墓があるかわからなかったのです」といって、車を止めた。

まっすぐに続く田舎道。墓苑の門には赤い花が絡まって咲いていた。

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道路の向かい側には牛が3頭、のんびり口をもぐもぐ動かしながら寝ている。

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門の中に入ると、無数の真っ白な石の墓標が規則正しく並んでいる。ベトナム人民軍の墓地であるらしい。墓標の多さに当時の激しい戦いがしのばれる。

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民間の人たちは自分の家の屋敷内や田圃の中にお墓を作っている。風水で占って作るため、田圃の真ん中にデン、と大きなお墓が坐っていたり、玄関先にお墓があったりするという。

ここは軍の墓地だけに、お墓は整然と並んでいる。
事務所の中へ入っていったSさんと、管理官がでてきた。
こっちです。こっち。と案内してくださる。Sさん夫妻、華ちゃん、剣道先生、それに私たち夫妻はぞろぞろと続いて整列した墓石の横に回って墓苑に入った。

これです。と管理官が墓石を示す。「日本人」とだけ書いてあって、後は何も書いてありません。名前も、なくなった日付もありません。と、管理官の話をSさんは通訳する。

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「Nguoi Nhat」(ベトナム語では母音の上にチョンチョンとあっち向いたり、こっち向いたりいろんな記号がついているのだけれど、私のパソコンでは出てこない)とだけ書かれている。「日本人」という意味だそうだ。死亡年らしき場所は00と表示されている。〈訂正〉これは死亡年ではなく、生年という意味だそうです。

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隣の墓はドイツ人ということだ。「Nguoi Duc」 と書いてある。ドイツ人という意味らしい。このドイツ人はなぜベトナムの抗仏独立戦争に参加したのだろう。なぜ、この時期、ベトナムにいたのだろう。

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雨季とはいえ、日中は熱帯の太陽が照りつける。白々と輝く墓に一同は手を合わせて黙祷した。
ここに眠っているのはどういう人だったのだろう。なぜ日本に帰らずにベトミンの兵士として戦ったのか。前の項で少し書いたが、「蜂が闘い椰子も働く」という本の中にこういう記述がある。

ファンさんが、14,5歳頃だから1946年ごろ、親戚に家にベトミンがきて泊まっていた。ファンさんも手伝いにいったところ、そのベトミンに日本人が三人いた。丁度その日は日本の正月で、「何か日本の料理を作ってもらえないか」と頼まれ、みんなでスープに野菜、海老、お餅をいれて「おぞうに」を作った。その人たちはベトナム語をあまり知らなくて、通訳もいなかったから、ジェスチャーで伝えあった。おいしいといって喜んでくれた。その日本人はみんな元気であった。その後どうなったかは知らない

この中の一人がここに眠っているのだろうか。

最近、ネットで検索したところ、2005年9月20日の産経新聞の次のような記事がヒットした。

ベトナムで敗戦を迎えた元日本兵が、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に参加、独立を目指した抗仏戦争(第1次インドシナ戦争、1946―54年)を共に戦ったことを公に認知する動きがベトナム国内で出ている。元日本兵の存在はベトナムでは「封印された歴史」だったが、ハノイ大で昨年、研究会が2度開かれたほか、複数のベトナム紙も元日本兵の貢献を大きく報じた。
?H5>8月7日付のベトナム紙ティエンフォンは「ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の兵士になった日本兵」の見出しで日本兵が教官を務めたベトナム初の陸軍士官学校元幹部の手記を大きく掲載。「近代的な軍に変わろうとしていたベトミン軍には日本兵の支援が必要だった」などと指摘し、ベトミンに大量の武器を供与した井川省(いがわ・せい)少佐や陸軍士官学校教官の中原光信(なかはら・みつのぶ)少尉ら功績のあった元日本兵数人を実名で報じた。
抗仏戦争で多くの元日本兵が死亡し、「革命烈士」の称号を贈られた人がいることも紹介した。40年にベトナムに進駐した旧日本軍をめぐっては、これまでは「侵略軍」として断罪されることが多かった。近年、両国の経済関係が緊密化する中で、大阪経済法科大の井川一久(いがわ・かずひさ)客員教授らが、残留日本兵の功績を認めるようベトナム政府に強く働き掛けてきたことなどが元日本兵認知の背景にある。
?H5>井川教授によると、ベトミンに参加した元日本兵は約600人。(1)敗戦で日本の将来を悲観した(2)現地に恋人がいた(3)抗仏戦を決意したベトナム人への共感―などが理由という。元日本兵は「新ベトナム人」と呼ばれ、ベトミン軍に軍事訓練などを指導して共に戦い、約半数が戦病死したとみられている。54年のジュネーブ協定締結により抗仏戦争が終結した後、150人以上が日本に帰国した。井川教授は「抗仏戦を有利に展開する決定的な役割を日本兵が果たしたことを歴史として残さなければならない」と述べ、ベトナムに資料館をつくる活動を進めている。

なお、ウィキペディアには第一次インドシナ戦争に関して次のような記述もある。

1945年8月15日に日本が降伏すると、すかさずホー・チ・ミン(グエン・アイ・コック - 阮愛国)率いるベトナム独立同盟(ヴェトミン)はベトナム八月革命によって権力を奪取、臨時ベトナム民主共和国政府が成立し日本が降伏文書に調印し戦争が終結した9月2日に、ハノイにおいてベトナム民主共和国の独立を宣言した。時期同じくして、在地フランス人と日本軍の捕虜となったフランス軍人らが主となりサイゴンにて植民軍の再編成を実施、9月2日の独立宣言は両者の衝突を招いた。〈中略)8月15日以降、日本軍第38軍は降伏に備えて待機していたが、一部の部隊や軍人はべトミンなどに武器を引渡したり或いは個人単位で合流したりした。(中略)1946年6月1日にベトミンは独立戦争の長期化に備えて元日本軍将兵からなる義勇兵を教官としたクァンガイ陸軍中学を設立して近代戦に対処した将校の育成を始める。

管理官は、私たちを部屋の中に入れてお茶を出してくれた。「よく来てくださった。ここへ来た日本人はあなたたちが始めてだ」という。Sさんはいや、もう一人先に来た人がいて、私はその人に聞いて来たのですがね。といった。

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産経新聞にあるように、少しずつ、ベトナム独立戦争で戦った日本人の事跡が明らかになってきつつあるが、解明されてきているのは主に北ベトナムでのことであって、南ベトナムでの日本人兵士の事跡は、まだまだ、まったくといっていいほど判っていないらしい。

この墓地で眠る人がだれなのか、もう当時の日本人は全て80歳を越えているはずだ。ベトナム人もヴィー元少将のように80歳を越えている。日本に帰国した人も多くが亡くなっているだろう。最早、遅いかもしれないが、それでもまだ今ならば知っている人がいるかもしれない。言葉の壁がベトナム人に日本人の名前や故郷の名前などの具体的な資料を伝えることを阻んだのだろう。

墓苑の中にここに眠る人の名前を刻んだ碑が建っている。沖縄の碑のように、ここにも厖大な戦死者の碑が残る。

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ブーゲンビリアが碑の前に咲き誇っていた。

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追記

前掲の大阪法科大学アジア太平洋センター客員教授 井川一久先生の論文「ベトナム独立戦争参加日本人の事跡にもとづく日越のありかたに関する研究」〈東京財団)がネット上にあるのを見つけました。
100ページ近い綿密な論文です。下記のURLでアクセスできます。

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少し前の記録と後先になるがベンチェはついてしばらくホテルで休憩した後、Sさんのベンチェの家に寄せていただいた。家の前にはプルメリアの花が咲き、門の前に生えている雑草も可憐な花をつけていた。

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Sさんはホーチミン市内に素的な邸宅をお持ちだが、ベンチェにも立派な家を建てておられる。公務員の退職金にで二軒の邸宅とは、日本とベトナムの貨幣価値の差が実現させた夢のような物語だ。左隣は材木商を営むSさんの奥さん(エムさん)のお兄さんのお宅、右隣はコーヒーショップとフォーのお店を営むお姉さんのお宅。兄妹三人が隣同士で心強いことだ。しかもお向かいは警察学校だから、治安はまったく心配がない。

エムさんの家の前から写した警察学校の看板(この家はエムさん兄弟の家ではありません。向かいのお店です)
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お兄さんのお宅、お姉さんのお宅にお土産を持って訪問、こういう習慣は日本の田舎と似ている。その後、またSさんのお宅に移動しご馳走になった。蒸したハマグリがおいしい。いくらでも食べられる。

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そこへ、ベンチェの元司令官、ヴィ退役少将がこられた。エムさんのお父さんはベトナム戦争の頃、ベンチェの副司令官で、大佐だった。ヴィさんはいわば、お父さんが早くなくなったレイ家の父親代わりで、兄妹は父親に対するのと同じ礼をつくしている。退役して、いまは80歳になったヴィさんはレイ家でお兄さんを相手に一杯飲むのが何よりの楽しみのようだ。

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前にも少し書いたが、ベンチェの戦いについては高谷清という京都のお医者さんが『蜂が戦い椰子も働く』(文理書院)という本を出版しておられる。
この本はヴィさんたちに取材して、解放前の農村の苦しい生活や、フランス軍、政府軍による逮捕や拷問の様子、南ベトナムで最初に住民が立ち上がったベンチェ蜂起について書かれている。とても面白い本だが、もう絶版になっているかもしれない。

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以下はその本で読んだことと、ヴィさんの話を織り交ぜて書く。

Sさんやヴィさんの家はベンチェ市内にあるが、Mさんの実家はそこから車で40分ほどのモーカイ郡という田舎にある。ベンチェ省はメコン川のデルタ地帯だ。主要産品ははココナッツ。ココ椰子の木、水椰子など椰子のジャングルだ。この実家には翌日にお邪魔しているので、詳しくは次回に載せたい。ベンチェ蜂起はこの椰子の生い茂るモーカイ郡の村で起きた。

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高谷さんの本から地図をお借りすると、デルタ地帯だということがよくわかる。

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(この項つづく)

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