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昭和23年4月、私は4年生に、弟は小学校へ入学した。 長兄は神戸経済大学(現神戸大学経済学部)へ、次兄は旧制茨木中学3年から新制春日丘高校へ入学した。しかし新制高校入学式の日、次兄は高熱を出して寝込んでしまった。中学の卒業式も熱があったのに無理をして出席したのがいけなかったらしい。 結核だった。 6畳と3畳の板の間二間きりの家に7人家族が住んでいる。母は3畳の板の間を病室として、私や弟に近づくことを禁じた。たえず病床の廻りや板戸をアルコールで拭いて消毒し、感染しないように気遣っていた。 今考えると、よくまあ他には一人の患者も出さなかったものだ。 父の会社は全くうまくいっていなかった。社長は次々と交代し、給料は遅配、欠配続きで母は近所の飴の工場へ今でいうパートタイムに行っていた。長兄はアルバイトのお金を家に入れ、その中から本代や授業料を出していた。 そんな中での次兄の発病だった。当時ストレプトマイシンはあったが、注射一本が3,500円もしたという。父の給料は7,500円だった。米1斗が2,200円(闇)と家計簿に出ている。配給の米は5日分だけで、145円だった。4月の家計簿を見ると、他に麦二升340円、小麦粉配給(量不明)164円38銭 うどん配給一食分21円35銭などとある。 ストレプトマイシンはとても買えなかった。 この稿を書くに当たって、当時は健康保険や結核予防法は無かったのかと調べてみたが、現在の国民健康保険が国民皆保険となったのは昭和36年、結核予防法の施行は昭和26年だった。 だから、昭和23年当時はすべて自費による治療だったのだ。 栄養のあるものを、と、乏しい家計の中から肉や魚を買い、次兄に食べさせようとしたが食欲が無く、あまり受け付けなかったという。 5月、治療費に充てるため、韓国から持ち帰ったわずかばかりの骨董品を売却している。古本950円、鶏血石(中国産の印材)1,440円、金かんざし2,500円、珊瑚帯留め、玉石の香合、七宝茶壺等が2,500円、古雑誌170円 合計7,360円と家計簿に記されている。ちょうど一ヶ月分の給料ほどになった。 5月末、父の会社の人があわただしく訪れてきた。父が会社で貧血を起こして階段から落ち、頭を打って意識不明になっているという。父も栄養失調になっていた。母は容態が心配な次兄を祖母と長兄に託し、西成区の会社へと急いだ。 一週間ほど父の意識は戻らなかった。動くことができるようになるまで1ヶ月ほどもかかった。今なら茨木から大阪の西成区へは毎日難なく電車で通うことができる。しかし当時は家から駅までバスもなく徒歩30分以上かかり、電車は本数も今のように多くなく、普通電車だけで時間もかかる上、殺人的な混雑電車だった。地下鉄も御堂筋線が天王寺までしかなかったと思う。父も会社に泊まり込むことが多かった。 母は次兄のことが心配ながらも会社の父のそばに泊まり込まないわけにはいかなかった。父が家に帰ってこられるようになったのは1ヶ月後だった。 兄の病気は進行し、私は学校から帰るとよく駅前の薬屋にビタカンファーなどを買いにやらされた。 兄の病気が恐れられている結核だったので、うちに遊びに来る友達はいなくなった。それでも私は近所の友達のうちに遊びに行ったが、中には露骨にいやな顔をするお母さんもいた。 6月28日の夕方、福井の大震災があった。私は友達と小さなコンクリートの橋の上でまりつきをしていた。突然大きな揺れが来て、しばらく立ちすくんでいた。「地震だ、地震だ」との叫び声があちこちから起こり、こどもたちはみな家へ走って帰った。母は寝たきりの兄の上に頭から布団をかぶせたという。 8月に入った頃、京城時代の次兄の友人が新潟から見舞いに来た。夏休み早々に来たかったのだが、地震のため鉄道が不通になっていたそうだ。 二、三日泊まっていく、遠くからきた友人をもてなそうと、父は長兄に、心斎橋にでも行ってきなさいといった。出かけようとする二人に、次兄は「ぼくも行きたいなあ」と言って涙を浮かべたと、10年ほど前、大阪での同窓会の機会に実家を訪れた次兄の友人は話してくれた。 9月、彼岸花がたんぼ道に一面に咲いた。彼岸花は毒があるから摘んで持って帰ってはいけないといわれていたが、それでも真っ赤な花の美しさに惹かれて、学校の帰りに道草をして摘み、茎を少しずつ折っては皮を交互にむき、首飾りを作って遊んだ。彼岸花に夢中になっているとき、近所のおばさんが走ってきた。 「お兄ちゃんが、たいへんよ。早く家に帰りなさい」 そういわれて、私ははっと胸を突かれた。前の日もビタカンファーを買いに駅前まで走っていった。早く買ってきて!早く! 早く!と言う母の声に恐ろしいものに追いかけられるような気持ちで走ったのだった。 お兄ちゃんが、死ぬのかもしれない。つんのめるように走って家に帰った。 白い顔で動かない兄の前で母は泣いていた。父もいた。上の兄もいた。昨日、危険を感じ、会社や学校を休んでいたのだった。母は割り箸の先につけた脱脂綿に水を含ませて兄の唇に持っていくように私に言った。 葬式の後、上の兄はハーモニカで「故郷を離るる歌」や「故郷の廃家」を吹いた。母が「お葬式の後にハーモニカは駄目よ」と言うまで吹いた。 次兄は16歳。心斎橋に行きたかっただろう。映画に行きたかっただろう。学校にも行きたかっただろう。恋もまだしていなかったと思われる。 ここで、この連載は終わる。ここで戦後が終わるわけではないが、日本が経済成長するに連れて我が家も人並みの暮らしができるようになった。私の家族や親戚は珍しく一人の戦死者も出していないが、母方の祖父も、兄も戦争がなければ命を全うしたかもしれない。
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古い家計簿から戦後の暮らしを再現
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うやく長屋とはいえ、一軒の家で家族が暮らすという生活がはじまった。父は工場に泊まり込み、週末だけ帰宅するという生活だった。 しかし、本当の生活苦はここからはじまったのだった。 製薬会社を成功させやがては京城 医専を継ぐ医学専門学校か医科大学を設立するという大きな夢を持ってスタートした父の会社は「士族の商法」そのもので、さっぱりうまくいかなかった。 月末に女子工員さんたちの給料が払えなくなると、父はリュックサックに製造した注射薬を詰めて、医専の卒業生の医院を行商して廻った。そして、ようやく給料その他の支払いを済ませると、役員たちが手にする給料はほとんどなく、遅配、欠配の連続だった。 引き揚げのときに持って帰ったお金はひどいインフレでとうの昔に底をついていた。 母は畑仕事に精を出したが、50坪ばかりの畑では家中が食べるにはほど遠かった。母は父が持って帰るシスティン製剤の注射薬を近所の人に注射してあげて、芋や野菜をもらっていた。 これは明らかに医師法違反、薬事法違反に違いないのだが当時はまだまだ戦後の混乱期、国民健康保険もまだない時代で、貧乏な引揚者住宅の人たちは医者にかかるお金がなく、風邪を引いた、お腹が痛いといっては母に注射を頼みに来るのだった。 不思議なことに、この注射はよく効いたと母はいっていた。アルミのケースに入った注射器や針を鍋で煮て消毒し、白い割烹着で近所のおばさんに注射をしていた母の姿を思い出す。 兄は競輪のポスター貼りや競輪場の切符売り、当時進駐軍が接収していた宝塚ホテルでベルボーイなどのアルバイトを次々としていた。 ベルボーイのアルバイトからときどきおみやげを持って帰ってくれた。宿泊客の米兵から貰うチョコレート、チューインガム、何より素晴らしいのは一度か二度貰ってきた「レーション」と呼んでいた食糧パックだった。 レーションの中にはクラッカー、ネスカフェの小瓶、肉類の缶詰、果物の缶詰、チョコレートなど光り輝くようなご馳走が詰まっていた。 兄はそれを決して一人で食べてしまったりせず、必ず持って帰って家族7人全員で等分に分けて食べるのだった。 父もときたま行商にでた先のお医者さんにご馳走になり、おみやげの折までもって帰る事があった。そんなときは、折り詰めに入っているおかずの一つ一つをみな母が包丁の先で切り分けて7等分する。その小さなかまぼこや卵焼きのかけらほどおいしいものはないと思われた。 しかし、日常の食事はいつも芋かすいとん、押し麦ならばともかく、丸麦(押しつぶしていないので噛みにくく消化も悪い大麦のつぶ)のお粥やご飯、配給のトウモロコシ粉のパンなどだった。 学校へ蒸したさつま芋のお弁当ばかり持っていく日が続くと、隣の席の農家の女の子が「芋ばっかり喰って、芋屁ぷーぷー、くさいなー」とはやしていじめる。 こんな生活の中でも、兄や父は私や弟のお誕生日には本を買ってプレゼントしてくれた。ときには古本の場合もあったが、そんな事は気にもならなかった。 ある日、買って貰ったきれいな「ピノキオ」の本を学校に持っていくと、その隣の席の女の子が、「ァ、この本、うちの本や。私の本や」叫んで取り上げてしまった。 「なにするのよ。その本わたしのよ。昨日、お父さんに買って貰ったのよ」といっても、「私の本、取りやった。泥棒や、この子、泥棒や」と叫ぶ。帰り道、なんとか本を返して貰おうと追いかけていくと、「泥棒がきた、泥棒がきた!この子朝鮮の泥棒や!」といって、泥の中につきとばされてしまった。 泣いて家に帰ると母が驚いて聞いた。訳を話すと、「まあ、なんて事を言うんでしょうね。あなたの家はそんな事いわれるような家じゃあないのよ。お父ちゃんは東大を出て、医学博士だし、おじいちゃんも…………」と延々と我が家の家系の話をした。 私はだんだん冷めてきた。私がしてほしかったのはそんな話ではない。母がその子の家に乗り込んでいって本を取り返してきて貰う事だったのだが、しかし、それは母に望んでも無理な事だと、幼い私にもわかっていた。 そのあと、私は学校では極端に無口になった。先生に当てられて立ち上がっても一言もものをいわない。しかし、家に帰ると元気に近所の友達と遊ぶので、母はそんな私の変化には気がついていなかった。 やがて運動会がきた。運動会のお弁当はみな両親やおじいさん、おばあさんまでが学校に集まり、ござを敷いて観戦し、昼休みにはみな家族と海苔巻きやおにぎりのお弁当を食べる。農家の子は卵焼きのご馳走もたっぷり入っている。 私の母は運動会の日も学校には来なかった。作ってもらったお弁当をそっと開けてみると、サツマイモの粉をこねた黒い団子にのりを巻いておにぎりのように見せかけてはいるが、とてもお米のおにぎりには見えないというものだった。 私はお弁当箱をもって一年生の席に弟を捜した。弟を連れて誰もいない校舎の裏に行き、溝のコンクリートに腰を掛けて二人で芋の粉団子のお弁当を食べた。かけっこでは私はいつでもびりっけつで、運動会の徒歩競争でビリ以外になった事はない。しかし、それまで私は運動会のにぎやかさが好きだった。お遊戯もすきだったし、体操も好きだった。しかし、あの運動会から、運動会と聞くだけで惨めになった。私は運動会が大嫌いになった。 いじめられた記憶はいつまでも私の心の中にしこりになって残り、私を規制していた。50才になった時、私は大阪文学学校に入り、小説を書き始めた。最初に書いた作品が、子どものときのこの事件を題材にしたものだった。 書き終わったとき、私は解放感に満たされ、そのことに驚いていた。小説を書くという行為は、ただ文学的な行為だけではない。セルフ メディケイションとでもいうのだろうか。自分自身を癒すことでもあるとわかったのだ。
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住宅営団茨木住宅は屋根も杉皮でできていたが、外壁も杉皮だった。入居したばかりの頃は建築したあと片付けもしなかったらしく、あたり一面に杉皮が散らばっていた。 雨が降ると、田んぼの土の上に赤土を入れただけの土地はひどくぬかるみ、足がめり込んでしまう。散らばっている杉皮を拾って道に敷き詰め、その上を歩くようにした。 6畳と3畳の板の間の二間きりのバラックのような家は二軒長屋で、それが二棟並んで10列ほど、合計40軒ほどが私の住む団地だった。(そのころは団地などとはいわなかった。ただ住宅と言っていたと思う)まもなく同じような団地が田んぼを隔ててもう一組でき、さらにもっと大規模な、トタン屋根の団地もできた。トタン屋根の団地は確か4軒長屋で百軒ほどもあったと思う。ともかくこの家に一家7人で住む。いかに狭くとも間借りではなく我が家だった。 通りがかりの土地のお百姓さんが「こりゃえらい家やなあ。柱が地面に突き立ててあるわ」と言って驚きあきれていた。 三月の終わりはまだ寒い。しかし、トイレや台所の無双窓は寒くても閉めると真っ暗になってしまう。寒くとも窓をあけて、母は炊事や洗濯をした。 何より困ったのは水だった。向かい合わせの二棟の長屋同士、合計8軒に浅い井戸が一つ。進駐軍の缶詰の空き缶にひもを付けた釣瓶で水をくむが、底に2センチほどしか汲めない。母は毎晩2時に起き出して水汲みをした。その時間ならば空き缶に8分目ほどの水が汲める。 バケツに入れて持ち帰り、三重町で買ったブリキのたらい、鍋、釜、やかん総てに水を満たす。水は大切に使った。茶碗を洗った水でぞうきんを濯ぎ、洗面に使った水も撮っておいて洗濯に使う。 そのあと、3時間ほど眠り、台所の土間に立って七輪に乾いた杉皮や近くの山で拾ってきた小枝を入れ、練炭のかけらを載せて火を付ける。食事は芋やトウモロコシの粉を練ってフライパンで焼いたジリ焼き、野菜や野草の葉っぱを入れたすいとん、真ん中に穴の会いた鋳物のパン焼き器でトウモロコシやふすまのパンも焼いた。 雨の降らない日が続くとその井戸も水も枯れ、団地の外の家の井戸の水を汲ませて貰った。 その家の門のところは1メートル四方ほどをコンクリートで固めてあり、その家の女の子とコンクリートのたたきの上でまりつきをすると、まりはでこぼこの地面でのように不規則にバウンドせず、まっすぐ上に上がり、下手な私でもまりつき歌の最後までつくことができた。 (井戸のある家ってなんてすばらしいんだろう。コンクリートの地面まであっていいなあ。私も大きくなったら井戸があってコンクリートの地面のある家に住もう)と私は思っていた。 薄い壁一つ隔てたお隣のヤナギダさんは鹿児島出身の人で、色が浅黒く、くりくりとした目をしていて、とても気さくなおばさんだった。私より一つ年下の男の子と年子の女の子セツ子ちゃんがいて私はセツ子ちゃんとよく遊んだ。お向かいのフジノさんは新婚さんで若い奥さんはそのころ新聞に連載が始まったサザエさんのような髪型をしていた。 フジノさんの隣の浅井さんには私の同級生のマチコちゃんがいて、毎日のように遊んだ。そのころ、厚紙に印刷した着せ替え人形を駄菓子屋で売っていた。その人形に着せ替える洋服を粗末な紙に色鉛筆で書いて作り、畳の上に本やノートを並べてお人形の家の部屋にして遊んだ。母が見て、こんなに広い家だったらいいのにねえといった。 塗り絵もよくした。目の大きな女の子がレースやフリルの付いた服を着ていて、かわいい服の模様の一つ一つまで丁寧に塗った。塗ったあともお互いに見せあいっこしたりして、何度も眺めて楽しんだ。 母は庭を開墾してジャガイモを植えた。ヤナギダさんに聞いて、トイレの便壺から下肥を汲み、畝の間に入れて、乾くと根もとに寄せる。トイレットペーパー代わりの新聞紙がピンクに変色しているのが不思議だった。後に会社で水質検査試薬の仕事をしたときに、浄化作用をする微生物がピンク色をしているのを知り、あの畑の新聞紙を思い出して、なるほどとうなずいたものだ。 私も50センチ四方くらいの小さな畑を作ってもらい、チシャの種をまいた。私はチシャにお醤油を漬けてご飯を載せて巻いて食べるのが好きだったのだ。母が間引いたり、ジャガイモ畑の肥料を少し入れてくれたりしたのだろう。青々としたチシャができた。 母は色白で日焼けにひどく弱い。昼間日光に当たると顔や手足に水ぶくれができる。そのため畑仕事は日が翳りはじめる4時頃からはじめ、真っ暗になるまで裸足でしていた。 丹誠を込めたジャガイモは本職のお百姓さんも驚いたほどたくさんとれ、本当に貴重な食糧となった。終戦まで洗濯すらしたこともなかったお嬢さん育ちの母が、と思うと、よく頑張ったねと今、肩を抱きたい思いがする。母は当時38才だった。 父の仕事は人間の髪の毛からシスティン剤を作る仕事だった。兄は学校の帰りにリュックサックにアミノ酸醤油を入れて美容院を一軒一軒訪ねてまわり、髪の毛と交換して貰った。その髪の毛を工場に持っていき、いくらかのお金とアミノ酸醤油を貰ってくる。これが兄の最初のアルバイトだった。 システィン注射薬を作る過程でアミノ酸醤油ができる。これは醤油や味の素の代用としてよろこばれた。今も有名なある大阪のすき焼き料理屋でよくこのアミノ酸醤油をつかっていた。我が家でも味付けにこれを使ったが、兄はアミノ酸くさいと言って嫌っていた。 味や匂いの記憶は意外に強く染みついているものだ。湾岸戦争の頃私は初めての海外観光旅行にタイへいった。ここでナンプラーという魚醤を使った料理を食べたが、あ、これはアミノ酸醤油だと思った。動物性の醤油と言うことで匂いや味が似ているのかも知れない。 父は茅ヶ崎の萩園にいた頃「新栄養保健読本」という本を出版し、これの印税でしばらく食べていったことがあったが、その中で「髪の毛を食べる話」を書いている。まさしく、髪の毛を食べることを実践していたわけだ。
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藤沢から大阪の茨木に行ったときのことはほとんど記憶に残っていない。母の記録によると、大阪から父が迎えに来て、中学4年で神戸経済大学(今の神戸大学)予科を受験する長兄と祖母と私がまず先発している。 ただ一つ憶えているのは大阪駅の食堂でそばを食べたことだ。そばといってもそば粉でもメリケン粉でもない、なにか得体の知れない黒っぽい、ずるんとしたものだった。 「色はそばだなあ。これは海草だね」と父が言った。 私は春日国民学校に編入した。二年生の三学期だった。二年生になって通った国民学校は、三重、茅ヶ崎第一、茅ヶ崎第二、藤沢第一、春日と5つめのだった。転校にもすっかり慣れたと思っていたが、ここでも三重のときと同じように言葉の壁が立ちはだかっていた。 最初の授業は算数だった。ちょうど九九をやっていた。 いきなり先生に当てられて九九を言わされた。元気よく、できるだけ早く「ににんがし 二三が六 にしが八……と唱え始めると、教室中がわーっと笑った。何も間違えていないのに何がおかしいのか全然分からない。 先生も笑っている。「ではみんなで言いましょう」と九九を唱え始めた。 ににんがしィ〜 にさんがァろく〜 にしがァはち にご〜じゅ〜 のんびり、ゆっくり、大阪弁の節を付けて唄うように唱えている。私の九九の5倍以上長〜く伸びた九九だ。 それからなにかというと、江戸っ子弁、江戸っ子弁とはやし立てられた。 いやだったけれど、もう泣いたりはしなかった。 三学期が終わってから母と次兄と弟がきた。 あの、南湖院の畳を売って旅費をつくったらしい。南湖院から1200円で買った畳は、家計簿によると3000円で売れている。汽車賃4人分140円 大学受験料50円とある。 母が日ノ出町を離れるとき、崖下の駆け落ちした華族のお嬢様でお琴の先生の堀田さんが真っ白なおにぎりをたくさん握って、まだ暗いうちに駅まで見送りに来てくれたそうだ。食べるものに事欠く日々、母は本当に嬉しかった。 また、すこしまえの話だが、あの「恩師」の元家主の奥さんは大鍋一杯のおじやや、おかゆを「十分食べておられないようだから恩師がおじやを届けなさいとおっしゃる」といってわざわざもってきてくださったという。はにかみ屋で、いつまでも少女のような声で話す母は、人から好意をもらうタイプだったのではないだろうか。 家は二軒続きの長屋の団地で、外壁も屋根も杉皮葺きだった。6畳の畳の部屋と押し入れ3畳の板の間だけ。玄関の横は土間の台所で木の流しがあった。七輪を土間に置いて煮炊きをする。他には便器も木のトイレがあるだけだった。 玄関の戸は粗末な杉の板でできており、上に無双窓というのだろうか、粗末な杉板の連子を縦に組んで、その内側の同じ形の連子をつけた引き戸を動かすと、連子の間が開いたり閉まったりする明かり取りがあった。
トイレの窓も台所の窓も無双窓で、時代劇の道場にあるような、小ぎれいで格好のいいものではなく、かんなもかけていない、粗末な細い杉板でできていた。
(無双窓については下記のアドレスにわかりやすくでています)http://www.geocities.jp/kiku1915/musoumado.htm 6畳の間にはこれも粗末な濡れ縁がついていて、ガラス戸は代用ガラスだった。 代用ガラスとは何でできていたのだろう。まだプラスチックなどはなかったと思う。いま、検索してみたら、パラフィン紙を貼り合わせたものや、網に酢酸系の樹脂(糊のようなものか?)を塗布したものなどがあったようだ。透明性は外の景色がぼんやり見える程度で、光はガラスほどではなくても通していたようだ。 一番良いところは敷地が50坪ほどあってかなり広い畑ができたことだった。 井戸は8軒に一つ。浅い井戸で、朝、8軒が一せいに汲みに行くとたちまち水はなくなり、何時間も待たないとわいてこない。 母は夜中に起きて真っ暗闇の中、水を汲みに行き、なん往復もして水瓶を満たした。 この住宅は住宅営団(多分住宅公団の前身だろう)が引揚者、戦災者用に建てたもので、引揚者住宅と呼んでいた。住宅営団は昭和21年に戦争協力団体としてGHQに解散させられているから、これが最後の住宅建設だったのかもしれない。最初は賃貸だったが、その後払い下げられたと記憶している。 この6畳と3畳の家が一家7人の気兼ねのない我が家となった。 父は交通事情が悪いため、西成区天下茶屋の工場に泊まり込んで、週末に帰っていた。兄は無事神戸経済大学予科に合格。アルバイトで学費の総てと家族の生活費の一部までもまかなっていた。 (つづく)
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再び荷車に畳と家財道具、薪を積み込んで藤沢駅の裏、日ノ出町へ引っ越した。ここの家の娘さんは小学校の先生をしていたが、「恩師がおっしゃる」の奥さんの信者となり、「私についてきなさい」の一言で学校をやめでしまったのだという。 |



