とらねこおばさんの雑記帖

田舎暮らしのいろいろを思いつくままに……。

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今日は学校から電話がかかってこない。どうやら無事に一日が過ぎたようだ。表の戸を開け放していると遠くの方から子供達の声が聞こえる。もう下校時間らしい。甲高い声は町の騒音をつきぬけて、近づいてくる。運動靴の軽い足音といっしょにけんちゃんが飛び込んできた。

「おばちゃん、純ちゃんと一緒に帰って来たよぅ。今日は純ちゃん、どこにもいかなかったんだよ」

 戸口は大勢の子供でいっぱいになった。純がラグビーのボールのように子供達の中から押し出されてきた。

「純ちゃん、今日はちゃんと我慢して外にいかなかったんだ。ぼくたちもみんなで純ちゃんのこと、見てたの」

「お昼休み、純ちゃんもいっしょにサッカーしたの」

「ありがとう、みんな純のこと心配してくれて」

 純は照れくさそうな顔をして友達のほうをむき、すこし笑って奥に入った。ミキちゃんが奥からキャンディの箱をもってきて子供達に配った。

「ありがとう、おばちゃん」

 子供たちはばたばたと駆け出して行った。純は店の奥でおやつを食べながら漫画雑誌を読んでいる。純、昨日は学校抜け出してどこに行っていたの、と話しかけようとしたが、事務所の中だ。思い直して夕食後、ゆっくり話をすることにした。

「じゃ、ちょっと夕ごはんの買い物してくるわ。ミキちゃんとこは、なにか買い物ない? ついでに買ってくるから」

「そうねえ、野菜は買い置きがあるので、鶏のもも、三枚おねがいします」

 ミキちゃんはダイレクトメールを書く手を休めない。おだやかな午後だ。珍しく電話もあまりかかってこない。純がこの部屋にいるだけで気持ちが落ち着いて、空気も暖かいようだ。

 スーパーを一回りして帰ってくると純がいない。

「純は」

「おうちのほうに帰ったようですよ」

「じゃあ、今日はわたしも、もう帰るわ。なにかあったら電話してね」

「ごゆっくりどうぞ。今日は静かだから、もうなにもないんじゃないかしら。あとで鍵を届けます」

 純はプラモデルを組み立てていた。アオが足元でしきりに体をなめまわしている。部屋の中は静かで、純の息遣いがきこえる。この静けさをたのしむだけではいけないのか、純にいろいろ聞き糺して、悪戦苦闘しなければならないのだろうか。とにかく夕食の支度だ。

「純、今日は茹卵入りのコロッケよ」

 声だけかけて台所に立つ。馬鈴薯と卵を茹で、たまねぎとミンチに椎茸や人参もいれて炒め合わせる。醤油も少しフライパンの縁からまわしかけるといい匂いが立ちのぼる。アオが走ってきて後ろ脚で立って覗きこむ。純もきて、フライパンのなかを覗きこんでいる。馬鈴薯を火からおろして、アチ、アチチと剥きはじめると、純も一つを取って剥き始めた。熱いので剥きにくそうだ。
「手を洗ったの。きれいに洗ってから剥きなさい」

馬鈴薯の熱で赤くなった手を水に浸して、洗ってからまた剥き始める。するりするりと薄皮が剥けるのがおもしろいらしい。馬鈴薯は純にまかせて、わたしは卵を剥く。剥いた卵を細かく刻んで馬鈴薯といっしょにつぶす。炒めた具をまぜて手でこねる。純も手を出して、少しいびつなコロッケができる。アオがテーブルのうえに上がって眺めている。ミンチをすこし紙のうえにのせると、しばらく匂いを嗅いでからがつがつ食べた。純もミンチを追加してやる。久しぶりにゆったりと料理を楽しんでいる。
「さあ、いまから揚げるからね、純、テーブルの上、かたづけてお膳立てしてちょうだい。揚げたてのあつあつがおいしいんだから」
 最初に揚げたコロッケはまだ店に残っている人達の家族の人数分、包んで純に店に持たせた。純はかわりに鍵を預かって帰ってきた。揚げたてのコロッケも二つ三つたべると、もう食べられない。純は黙々と五つも六つも食べて、旺盛な食欲だ。唇が独立した生き物のようにしなやかに動き、小麦色にあわく光る喉が蠕動してコロッケが姿を消していくのをわたしもしばらく黙って見詰めていた。アオも部屋の隅でキャットフードを軽い音を立てて食べている。旺盛な食欲を見ていると心地よいのは、食べることが生きる根源となっているからだろうか。この心地よさから抜け出したくない、このままでいい、そういう気持ちを振り切ってわたしは聞いた。
「純、学校を抜け出してどこにいっていたの」
「……」
「純、どうしてこのごろ黙ったままなの。どうしてものをいわないの。純のことば、どこへいってしまったの」
「……」
 純は付け合わせのキャベツにマヨネーズを渦巻くようにかけて食べ続けている。
「ね、純、お願い、なにかいって」

 アオが自分の皿から振り向いていった。

「純ちゃん、このあいだ、僕に尋ねていたこと、ママに聞いてみたら」

 純はそれでもしばらく黙って食べていたが、突然、箸を置くといった。
「どうしてしゃべらなきゃいけないの。 しゃべらなきゃ、どうしてわかんないの。ぼく、ママはよくわかってるんだって思っていたよ」

「どうしてって……」

 わたしはとっさにことばがでなかった。当たり前ではないかそんなこと。話をしなければ何もわからない。まわりの人は困ってしまう、でもそれは純が求めている返事とは違っているだろう。

「どうしてって」

もういちどいいかけて口をつぐんだ。純は食卓からするりとはなれてそのまま玄関のほうへ向かった。わたしもあわてて後を追う。純は玄関のドアをあけて外に出た。

「純、どこにいくの」

 純は階段のほうに走って行く。町のざわめく音が消え、規則正しい波が打ち寄せるような音が聞こえる。

「純、純」

 わたしも純のあとを追って階段を走り降りた。純のスニーカーが軽くアスファルトの地面を蹴り、小動物のように素早く町を駆け抜けて行く。わたしは息を切らしながら後を追った。純との距離は見る間に開いた。心臓が激しく打ち、汗が噴き出す。食べたばかりのコロッケが胃の中で重しになっている。気ばかりがあせるが、足が思うほど前に進まない。くっきりと見えていた純の姿は、距離が開くにつれて色が薄れ、灰色の影のようになる。灰色の影は規則正しく並んでいる街灯の明かりから闇に、闇から明かりへと駆けて行く。街灯の上の煤けたような月がゆっくりと動く。純の姿は小さな影になり、やがて暗闇の中に溶け込んでしまった。それでもわたしは走り続けた。純の影が消えた街灯のはずれで大声で純をなんども呼んだ。波の音のような町の騒音だけが響いている。 足元に柔らかな暖かいものがまとわりついた。アオがわたしの足首に頭をこすりつけている。

「アオ、純が行ってしまった。どうしよう。アオ、純を探してきてちょうだい」

「ママ、純ちゃんはすぐ帰ってくるよ。ママはそのこと、知ってるくせに」

「帰って来る? そりゃあ帰ってこないわけはないと思うけど」

「じゃあ、いいじゃない」

「だって、どこに行ったのかわからないのよ。困るわ。心配だわ」

「仕方がないじゃないの。純ちゃんはまだちゃんと帰ってくるんだから、あんまり欲張らないでよ」

「でもねえ。どこに行ったのかしら」

「帰ろう。ねえ、ママ、帰ろう」

 部屋に戻ると、汚れた食器やのこりのコロッケが蛍光灯のあかりに照らされて、始めて見る異様な物体のように見えた。食器を流しに集め、のろのろと洗い物を始める。何も考えず、毎日繰り返している仕事に反射的に体が動いている。水道からでる水が、手に硬くあたる。蛍光灯の光が体につき刺さって痛い。

 食器を片付けるとそのままソファーへ倒れ込んだ。そのまま長い間、過ぎて行く時間も感じなかった。

 純が帰ってきたのは真夜中に近かった。玄関のドアのあく音で、わたしは玄関に飛び出した。純はいつもと少しも変わる様子もなく、わたしににこりと笑いかけた。わたしは純を抱き締めていった。

「どこへ行っていたの、純。どうしてどこかに行っちゃうの。どこへ行っていたの」

 純はするりとわたしの腕からぬけだして、そのままベッドに入った。

「純、純」

 わたしは純の体をゆすって叫んでいた。しかし、純はそのまま寝入ってしまった。純はわたしの知らない処へ行っている。外の世界のなにが純を呼んでいるのだろう。わたしにはもう分からない。

 わたしは玄関をあけて外を見た。外はいつものとおりの街だった。夜中だというのに自動車の走る音、終電車の軋む音、だれかが靴音を立てて小走りにアスファルトを踏んで行く。そしてなにもかもがまじりあった、いつもの都会の騒音。街灯がうすあかるい夜の街を照らしていた。

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青い目の仔猫 (4)

クレーム品を交換してついでに閉まりかけた店からフライドチキンとサラダをかって帰って来たが、純はまだ帰っていない。どこへ行ったのだろう。また下におりて、事務所に行ってみたが純はいない。帳簿を点検し、パソコンのデータをだして今日の売上を確認して、もう一度部屋に上がってみた。純はひとりでご飯を茶碗によそって食べ始めようとしていた。七時だ。新規店に行くまでにまだ三十分以上はある。わたしもご飯をよそって座った。

「学校に行って来たのよ。このごろ学校を抜け出して、どこかに行ってしまうんですって、先生、困っていらしたわよ」

「……」

「どこに行っていたの。ママ、びっくりしたわよ。先生もお友達も心配したのよ。ママも先生から聞いて、とっても心配だった。ねえ、どこに行っていたの」

「……」

「純ちゃん、あなたがいなくなれば先生はあなたを探さなきゃならないでしょ。そうするとクラスには先生がいなくなって、みんな勉強ができなくなるでしょ。そうすると、今度は外の先生が応援に来て、その先生もその時間にしなければならなかった仕事もできなくなるの。あなたは外へ行きたくなって、それでどこかに行くのかも知れないけれども、そのために、たくさんの人がしなくちゃいけない仕事や勉強ができなくなって、困ってしまうのよ。だから、だまって学校を抜け出したりしてはだめ。いい、わかった?」

 純はアオとおなじように目を見開いたままわたしを見ていた。わたしはもっと言い募ろうとしたが、止めた。純とわたしの間には透明な壁が厚く降りている。壁の中に手を突き込んで純を抱き締めたい。幼いころのように抱き締めて話したい。しかし、もう出掛けて行かなければならない。遅くなっては相手に迷惑をかけてしまう。夕食を食べながら三十分では話はほとんどできない。明日にしよう。明日なら、じっくりと話ができる。夕方からのスケジュールはなにも入れていない。

「明日は学校の授業が終わるまで、外に出て行ったらだめよ。いいわね」

「……」

 やはり帰宅は十一時を過ぎてしまった。純はもう眠っていた。毛布をまるめて抱き締めるような恰好で寝ている。すらりと伸びた足がよく日に焼けて光っている。しばらく顔を眺めていると、いとしさがこみあげてきて抱き締めたくなったが、せっかくよく眠っているのでやめて、しばらく顔をみつめていた。
 そうだ。あすは夕方には仕事を終わらせて、ゆっくり話をしよう。純の好きな茹卵入りのコロッケでも久しぶりに作ろう。少し手間はかかるけれど、コロッケだと純は驚くほどよく食べるのだ。

 十五分ほど体操をして、シャワーを浴びた。ほっとしてテレビをつけてソファにごろりと横になると、疲れが体の隅々まで層をなしているのがわかる。アオがそうっとやって来て、わたしのおなかのうえに香箱をくんで座った。重たいけれど、暖かい体の柔らかさがきもちがいい。

「もう寝ようよ。アオ。疲れたわ」

「ママ、純ちゃんと話できたの」

「今日はだめ。ゆっくり話もできなかった。明日はなんとかして話するわ。明日、学校にちゃんと行って、抜け出したりしなければいいんだけど。先生に迷惑かけると申し訳無いし。でも、学校を抜け出したことが先生や友達に迷惑かけたんだってことは分かってくれたんじゃないかしら。目をまんまるくしてたから。こんなときはわたしも仕事に縛り付けられていなかったらって、ほんとにそう思う」

「でも、仕事に夢中になってるときは純ちゃんに縛り付けられてるって思うんじゃない」

「勝手なもんね。わたしも自分で商売しているのだから、時間もお金も人も何でも自由になるかって思うでしょ。でも、その反対。わたしが、時間にも、お金にも、人にも、お客さんにも、山口さんや、榛名さんや、ミキちゃんに縛りつけられているの。純にだって縛り付けられているのよ。ときどき、なにもかも放りだして自由になりたくなるの。でも、やっぱりわたしを縛っている縄そのものが、わたしにはいとしいのね。もしかしたらわたし自身が縄そのものになってしまっているのかもしれない」

「純ちゃんも、ママの縄や学校にに縛られているのかな」

「そうねえ。そうでしょうね。でも、わたしはちゃんと話しているじゃない」

「そりゃそうだよ。大人だもん」

「大人だってどこかに逃げ出したい」

「純ちゃんもそのうち、大人になるさ」

「いやねえ」

 アオはしばらくだまって顔を洗っていたが、胸の上から降りて、ソファのしたに丸くなった。



 女ばかりの小所帯の仕事場だから昼は仕事場で少しばかりのご飯を炊き、近くで出来合いのお総菜を買って来て済ますことが多い。山口さんや榛名さんも近くの得意先を回っているときは、店に帰ってきて一緒にたべる。今日も納豆と野菜のてんぷらという昼食を食べているときに電話がかかってきた。ミキちゃんがすばやく電話を取る。また純が学校を抜け出したのかと胸が騒いだが、ミキちゃんの応答で得意先からだとわかった。

「四時からのアポ、あちら様のご都合で取りやめになりました。今週はお忙しいので来週にまたお電話くださいとのことでした」

「キャンセルね。助かったわ」

「キャンセルがよかったんですか」

「夕方の時間が空いたわ。純のことがあるから、早く帰りたかったの」

「そうね、よかったわねえ」山口さんも言った。

 女ばかりの仕事場では家庭のことは尽きない話題だ。とくに昼休みどきは仕事の話が家庭の話題に自然に流れる。家族のだれかが病気だと言えば、病院の情報を提供しあったり、新しく仕入れた料理のレシピ、子供の塾の評価、学校の先生の噂話、やかましやの姑をいかにまるめこんだかの手柄話が早口で飛び交う。もちろん、みな純がしゃべらなくなったことも、学校から雲隠れしたこともよく知っていて、心配してくれているのだ。なかでも山口さんはわたしよりも年上でもあり、中学生と高校生の母親だから、純のことはとりわけ気にしてくれている。

「ここんとこ、すこしカオルさんはいそがしすぎるのよ。純ちゃん、表面は寂しがっていないようにみえても、やっぱりずいぶん負担になっているのよ。それで学校からふらっと抜け出して、どっかで遊んでいるんだわ」

「そうねえ。わたしも純とゆっくり一緒にいる時間がほしいのよ。なんにもいわないものだから学校を抜け出していったいどこに行っているのか、だれにもわからないの。危ないところなんかに行っていなければいいのだけれど」

「どこに行ったのかしらねえ」

「それがわからないんだけれど。わたしが忙しすぎるから純が反抗しているのかもしれない。でもそれなら、なぜ純はいつでもにこにこしていられるのかしら。楽しそうにみえることもあるのよ」

「それも不思議だわね」

「目標達成ももうすぐでしょ。こんなときにわたしのために達成できなかったら申し訳無いわ。だって、奨励金、大きいでしょう。みんなその分配も楽しみで頑張っているのに」

「でも、目標達成も大事だけれど、純ちゃんのほうがもっと大事よ」

「山口さんや榛名さんがしっかり頑張っているのだから、カオルさん、少し純ちゃんの面倒を見てあげたほうがいいですよ」とミキちゃん。

「ありがとう。仕事が夜にはいるのが困るのよね。みんな所帯もちだし。だけど、お客は夜でなきゃいないしねえ」

「ほんとにね。昼間だけにしたいけれど、このごろはそれでは商売にならないしね」

 山口さんも自分が抱えている得意先には、やはり夜、商品を届けたりしているようだ。

「まあ、やれる範囲でやりましょうよ。わたしもあまり無理はしないようにするわ」

 

青い目の仔猫 (3)

純が生まれたばかりのことを思い出す。夜中、純がおなかをすかせて泣き声をあげる。夫は全く気づかない。わたしはなき始める前のくすくすというかすかな声でもう目が覚める。どんなに熟睡していても目が覚める。声で目が覚めるのではなく、純がお乳を求める気持ちがつたわってそれで目が覚めるのではないかと思った。

 夫が死んで、仕事を始めたばかりのころ、寒い夜、保育所に純を迎えに行く。仕事で遅くなると純はいつもテラスで待っていた。冷たくなった体を抱き締めると、暖かい体温といっしょに純のほっとした気持ちが伝わってくる。わたしもほっとして、安らぎに満たされたものだ。しかし、純はだんだんと大きくなって、わたしの手元から少しづつ、外に出て行った。純が友達と遊んでいるとき、楽しさがかんだかい声となって仕事場まで聞こえてくる。声を聞くのは楽しくとも、わたしはもう子供の世界には入れない。

そのころのわたしは仕事にのめり込みはじめていた。食事中でも次から次へとかかってくる電話、商売、たくさんの人との出会い。忙しいの、しんどいのといいながらわたしはそういう生活を楽しんでいた。

純がものを言わなくなったのはそのせいなのだろうか。わたしにはどうしてもそうだとは思えない。もしそうなのだったら、ほかの共働きのうちのこどもや、商売をしている人の子供がみんなもの言わずになるのか。

純はいつもにこにこしていて、気にしなくていいよ、ぼくは大丈夫だよと言っているような気がする。純の言っているように、このままでもいいような気もするのだが、親の身勝手な考えなのだろうか。ことばが分からない訳じゃない。友達がいない訳でもない。勉強だってまあまあの線だ。それでも学校の先生や近所のお母さんたちの言うように、なんとかしなければいけないのか。わたしが仕事をやめて、ひまにしていれば純はしゃべるようになるのだろうか。

 変な家族だ。こどもは黙ったままで、猫がおしゃべり。

 学校からは四時にこいと指定してあった。しかし四時からのスケジュールは詰まっている。新規特約店の契約が朝から三件入っている。初回納品が三件で約百万、これを動かすことはできない。もう一億円達成の追い込みに入っているのだ。新規店には山口さんに頼み込んで代わりに行って貰おうと思ったが、山口さんも別のアポイントが入っている。榛名さんと三人で全部のスケジュールを少しずつ変えて、電話を十本以上かけ、やっと時間を作った。純はいったい何をしたのだろう。この忙しいときに。

 学校の正門前まで来ると、もう子供達の汗と埃と靴の匂いがする。校庭は相変わらず白くかわいて埃っぽい。白い体操服の子供達の一団がボールと埃を蹴立てて風のように走り回っている。ひょろりとした、若い二本の桜の木の間から玄関に入る。玄関には運動靴の蒸れた匂いが充満している。子供達が毎日大きくなって行くたびに剥がれ落ちて行く細胞が積もって蒸れた匂いだ。手提げ袋の中から持参したスリッパをだして履きかえる。ぴたぴたとスリッパの音を立てながら教室に行った。子供達はもうみんな帰っている。先生が一人机に向かってテストの採点をしていた。

 まだ若い娘らしく、癖のない長い髪を布とゴムでできた髪留めで一つにまとめている。化粧っけは殆どないが、薄いピンクの口紅が若々しい。

「お忙しいのにきていだだいて」

 挨拶を交わしたあと、しばらく二人で椅子や机をがたがたと整えてから、先生は少し舌足らずに聞こえるような高い声で話し始めた。

「純がなにかしたのでしょうか。なにしろ、このごろは家でもほとんどものを言いませんので、よくわからないのです。ゆうべも純になにがあったのか聞いたのですが、なにも言わないのですよ。学校でも、やはり何も話をしないのでしょうか」

「そうですねえ。この間の個人懇談会でもお話ししましたように、授業はきちんと聞いていて、ペーパーテストはいつもいい点を取っているので、その点は問題ないのですよ。でも、何もものを言いませんね。ただ、教科書を読ませると大きな声ではっきり上手に読むのですが、問題を当てると、わかっていても何も言いません。友達ともほとんど話をしませんよ。でもサッカーやドッジボールは楽しそうにしています。休み時間も一人でいることもありますが、たいていは皆と一緒に元気に走り回っていますよ。ただ、ぜんせんしゃべらないようですけどね」

「それでもみなさんと仲良くしているのですか。うちでもご近所の子供達といつでもいっしょなのですよ」

「それがなんだか不思議ですねえ。子供ってわりに勝手で、純ちゃんみたいにしゃべらない子ってなかまはずれにしがちなんですが、結構いい友達関係はできているみたいですよ」

「そうですか。すこし安心しました」

「今日おいでいただいたのは、純ちゃんがしゃべらなくなったことと関係があるのかないのか、よくわかりませんが、実は昨日、昼休みに学校から突然いなくなってしまったのですよ。お宅にもお電話したのですが、お留守で、お店のほうにも電話させていただいたのですが、ずうっとお話し中でしてね。お忙しいんですね。そうこうしているうちにいつの間にか教室に帰ってきていて、理由を聞いても、どこに行っていたかも、なにも言ってくれずに、ただにこにこ笑っているのですよ。もう、学校から勝手にどこかへ行ってはいけないとよく言い聞かせたのですが、きのう、またいなくなりまして、それでおいでいただいたわけなんです。今日も又、校門から出て行こうとするのを友達が見つけて知らせてくれたので、何とか外に出ないですみましたの。でも、お昼からの授業はずうっと窓から外ばかり眺めて、授業は全く聞いていないのです。お母さんには何か心当たりはございませんか」

「家に帰ってからはいつもと同じようにしていて、何も変わったことはありませんけれど」

 わたしは驚いていった。いったい純は何をしているのだろう。きのうの様子を思い返してみた。学校から帰ると、アオをつれて事務所にきて、事務所のあいている机で宿題をしてから、外へ出て行った。暗くなりかけて帰ってくると、またアオを連れてアパートの部屋に帰って行った。外でなにをしていたのか、部屋でなにをしていたのか、よくわからない。別段変わった感じは受けなかったが、忙しくて、よく注意して見ていなかったからわからなかったのかもしれない。

「このごろとても忙しくしておりまして、あの子のことはあまり注意していなかったように思います。でも、かわったことがあれば、やはり気がつくとは思うのですが。すみません。ご迷惑をおかけして、授業ができなくて、外のお子さんにもご迷惑をおかけしたのじゃないでしょうか」

「いいえ、探している間、授業はとりあえず外の先生に代わっていただきましたから、それは心配なさらないでください。ただ、お忙しいでしょうが、純ちゃんと一度ゆっくり話をしてあげてください。それと、純ちゃんがものをいわないっていうことも、だんだんひどくなるようですし、また一度教育相談所にいって、専門家の先生にご相談されてはいかがですか。このままほおっておいていいようなことではないように思うのですよ」

「はぁ、そうですねぇ」

 わたしはしばらく考えていた。去年も先生に注意されて不安になったわたしは、教育相談所になんどか純を連れて行った。しかし、それも結局は、純のために行ったのか、わたしが安心したいために行ったのかわからなくなってしまった。カウンセラーに話をしたことで、わたしはすこしほっとしたが、純はむしろよけいにしゃべらなくなってしまった。目に見えない壁が、純との間に急に降りてきたような感じがあった。もう一度行っても、カウンセラーはわたしよりもたくさんのことを純から聞き出してくれるのだろうか。わたしに聞こえない純の言葉を聞き取ってくれるのだろうか。かえって、壁が更に厚くなるのではないだろうか。

 小さいころはあの子もよくしゃべっていた。布団の中でしりとり遊びをしてふざけあったり、知っているありったけの歌をうたって、めちゃくちゃダンスをして大笑いしたものだ。純がほとんどものを言わなくなった去年も、休みの日にふと思い立って、近くの丘陵できのこさがしをしたり、雪の積もった朝、一番電車でパパのご先祖が勤めていたというお城を見にいったて、天守閣の屋根の雪が朝日に虹の光をはなって輝くのをみつめたりした。天守閣の瓦の一つ一つ、石垣の石の一つ一つは散乱した虹の小さな輪に包まれて過去でもなく現在でもない時間の中に聳え立っているように見えた。純とわたしは手をつないでお城を見詰めていた。少し汗ばんで暖かい純のてのひらを通して、純の心がわたしに流れ込み、わたしの心も純に流れ込んでいた。ものをいわなくても、たくさんのことばがわたしと純とのあいだに流れていった。太陽が上がり、天守閣がただの雪の積もった屋根に変わると、すぐにまた電車に乗って帰り、駅前の喫茶店でモーニングを食べて、純は学校へ行き、わたしは洗濯物を干して、掃除機をかけ、それから下の店に行って仕事をした。

 教育相談所に行ってそういうことを話してもわかってもらえるのだろうか。もしわかってもらえたとしても、純はそれで再び話をするようになるのだろうか。学校から抜け出してどこへ行っていたのか話してくれるようになるのだろうか。以前、先生にこの話を一生懸命したが、理解してもらえたとは思えなかった。

 だけど、純がしゃべらないことを思うと心が重くなる。話を一生懸命にしても通じないことがあるのに、話をしなければ社会の中では生きて行けないのだ。純は学校を抜け出してどこに行っていたのか、なにをしていたのか。不安がのしかかってくる。子供たちの匂いのする学校の教室。この匂いが不安をますます膨らましていく。とにかく、ここから抜け出したくなった。純の顔を見たくなった。純のように今すぐに抜け出したい。しかし、大人は黙って出て行く訳にはいかない。

「では帰りましたら、教育相談所に電話致しまして、アポイントを取ってから純を連れて行くようにします。純にもどうして学校から抜け出したりしたのか、聞いてみます。純も自分が必要だと思うときにはちゃんとしゃべりますので、純がそう思うように聞いてみます。本当にご迷惑をおかけ致しまして、もうしわけございません。あの、それから、もしまた純が学校から抜け出しましたらすぐにお電話いただけますか」

 帰ってくると純はいなかった。アオが玄関にぽつんと両手をついて座っていた。

「ただいま。純、どこへ行ったかしらない?」

「知らないね。おやつをたべてどこかに行ったよ」

「お友達、来ていた?」

「だあれも」

 純とすぐに話したいと思ったが、いなければ仕方がない。それにもう五時半だ。六時までに隣町の特約店に行って、クレームの処理をしなければならない。新規の特約店との契約は八時半に延ばしてある。特約店はほとんどが女性なので、込み入った話は夕方を避ける。子供の年齢や、老人や病人がいたり、生活に困っているか、いないかなど生活状態によってもそれぞれの人の使える時間帯が異なっている。だからどうしても実のある仕事ができる時間は限られていて、それでつい夜が遅くなってしまう。一度延ばしてもらった仕事の予定はもう変える訳にはいかない。今日もこの調子では純とゆっくり話ができるのは十時を過ぎるだろう。

青い目の仔猫 (2)

 仕事が終わって、夕食の後、純とアオに留守番をさせて商品の配達に回った。このごろはほとんどの主婦が昼間家にいない。働きに出ているか遊びに出ている。特約店への配達は宅配便を使ったり、山口さん、榛名さんがセールス活動をかねてまわる。個人のお得意さんへの配達はたいてい夜でなければいけないから、わたしが自分で回る。電話さえしておけば十一時ごろまでは起きていてくれる。十軒程の得意先を回りながら、わたしは考えにふけった。

 わたしはいま下着の代理店をしているが、わたしの代理店の下に二十数軒の特約店がある。それぞれの特約店が二十人から百人くらいの個人の得意先をもち、わたし自身も二百五十人の直接の個人の得意先をもっている。この商売のやり方では売上を上げるためには特約店の数を増やすことだ。メイトさんと呼ぶ個人の得意先を回りながらホームパーテイの開催を依頼する。ホームパーテイが開かれれば、わたしか、山口さんか、榛名さんかが行って、下着を部屋一杯に広げて試着し、下着の着け方や、体型の矯正のしかたを指導する。パーティの参加者が皆下着だけになると妙に親密感が増して、下着は飛ぶように売れる。

 このとき商売気のありそうな人、友達の多そうな人に目をつけて、またパーティを開くように持ちかけ、その利益をいくらかずつ落としておく。こうして商売の面白さを教え込み、夢を描いてみせて、特約店へ育てて行くのだ。しかし特約店から上がる売上は大きいが利益は少ない。小口で面倒だが直接の個人の客が一番利益が大きい。メーカーは特約店を増やせと指導するが、自分の会社の利益を考えると、しこしこと個人の客を追っているほうが得かもしれない。

 メーカーの本山さんはわたしを煽り立てる。
「社長、夢をもたなあきまへんで。商売人は夢追い人でっせ。はよう一億円の売り上げあげて、株式会社にしまひょうな。今年の代理店大会ではなにがなんでも社長に一億円達成の株式会社代理店として壇上に上がってもらわなあきまへん」

 本山さんは代理店大会が近づくと「どんなべべ着て行かはりますか」と聞く。だれだれさんはイッセイ・ミヤケのドレス、たれそれさんはディオールのカクテルドレス、だれそれさんはなんと別注の辻が花染の小袖、これ、何百万としたそうでっせ。山口さんも榛名さんもええドレスつくらなあかん。今年はミキちゃんも連れて行ってもらいなはれ、一億円突破して、社長に御祝儀出してもろて、それでドレスつくって、みんなでいきまひょうな。 本山さんは煽り立てるのがうまい。ドレスつくってええかっこするために働いているのじゃないわ。出席している特約店やメイトさんに、たくさん売ればこんなにすてきな高価なドレスや指輪が買えますよ、とアピールする動く広告塔になるのが目的なのよね。その仕組みは分かっているのだが、結局、自分達の利益にもなるので同調してしまう。実際、代理店や特約店の中には高価な服や指輪を買うことが目的で必死になって商売している人もいる。

 このやり方、すこしえげつないのじゃないかと思いつつも、高価なドレスの形の良いカット、しなやかで、しかもしっかりとした生地の手触りなどを心に浮かべると、みんなもドレスを新調したいだろうな、そのためにはしんどくても特約店をふやすか、売上をふやすか。やはり頑張ろうかな。

 しかし、純は今日も一日中なんの言葉も口に出さなかったなあ。まだ起きているのだろうか。アオと一緒に寝ただろうか。もうすこし、配達の軒数が少なければ、純も一緒に連れてくるのだったけど。


 十一時半、家に帰ると、純はもう寝ていて、アオが飛び付いてきた。ミキちゃんに借りた『ぼくが猫語をはなせるわけ』が家を出たとき、そのままのかたちでソファーの上に乗っていた。熱いお茶をいれて、ソファに座ると体中に溜まった疲れが浮き上がってくる。わたしはアオをひざにおいて話しかけた。

「アオちゃん、本山さんもわたしも、夢を偽造しているんじゃないかしら。売上をふやし何十万円のドレスをきて大会で壇のうえにあがるのがわたしの夢だなんて。でも、わたしがドレスや指輪の話をすると、そうだそうだって乗ってくる人が現実にいるのよね。またそう思い込むと、結構そのひと、売上を上げて、服をじゃんじゃん買って喜んでいるの。売っている下着の品質は良いし、そんなに高くもないから、べつに悪いことをしているわけではないのに、ときどきいんちきしてるみたいな気になるの。今日みたいに遅くなって疲れてくると一億円も株式会社もドレスもみんなどうでもよくなって、とにかく純とふたり食べて行ければそれでいいっておもうのよねえ。純も今日はなんにもしゃべらなかったし」

「ママは忙しすぎるから純ちゃんがしゃべらなくなったって気にしてるの」
 アオがひざのうえで円い目を大きく開いていった。

「そうねえ。何度も何度もそれは考えたわ。始めはそんなに気にしていなかったの。もともと、あまり口数の多い子じゃないし、あまりしゃべらなくても、純がなにを考えているかは、わかってるって思っていたのよ。ほら、小さいときなんか、ぎゅっと抱き締めるだけで、話しすることなんか、いらないじゃない。小学生になってからでも、顔を見るだけで、純が楽しいのか、悲しいのか、わたしに何をいいたいのか、わかったし。事務所で仕事してても椅子のとこに寄り掛かってきて体くっつけてきたりしてね」
「どうしてしゃべらないことが気になりだしたの」

「学校の先生に注意されたのよ。純があまり黙っているから、先生もどうしていいのか、困ったのよねえ。仕事が忙しすぎて、子供と接する時間が少なすぎるからじゃないですかって」

「ママは仕事が好きなんだ」

「そうねえ。仕事は好き。純もかわいい。でも、純は好きっていうより、もっと違うわね。だって、自分が好きなんて思わないのと同じよ。純は自分自身と同じみたいで、もっと大事っていうのかなあ。それもちょっと違う。仕事は好きとかおもしろいとか、言葉で言えるけれど、純のことは言葉でいうと、どれもちょっと違うような気がする」

「でも、仕事で時間を取られちゃってるんだ」

「そうねえ。仕事も子供と同じようなところがあって、いったん作ってしまったものは、簡単に捨てられないのよ。毎日、手抜きができないし。お得意様にも従業員にもメーカーにも責任があるし、かわいくもあるの。一生懸命になってなにかをやり遂げるのもすきよ。去年の八千万円の売上だって、毎日毎日一生懸命仕事してきたことの結果だっただけなの。だけど一億円が夢だとか、ドレスだとか指輪だとかになると、ちょっとこれ、違うわね。疲れてくると、とりあえず暮らして行ければそれでいいと思うし」

「ドレスなんか買わなかったらば?」

「それがそういうわけにもいかないのよ。わたしがドレスをつくらなかったら、山口さんも榛名さんもミキちゃんもつくれないでしょ。みんな新しい服っていうのは、やっぱりなにか嬉しいし、楽しみなのね。
 あら、アオちゃん、あなたお話しできるの。驚いたわねえ」

 アオの話し方があまり自然だったので、猫が話をしているというとんでもない出来事がわたしにはあまり不自然なものと思われなかったのだ。

「話ぐらいできるよ。ママだって、さっきそう思っていたんじゃないの」

「さっき? あ、そう言えばそうね」

「でも、ぼくの声、ぼくの言葉がわかると思わないで聞いてみて。ただごろごろ喉を鳴らしているとしか聞こえないと思うよ。ママがぼくをほんとに話相手だと思っていたから、ぼくのことばが聞こえるんだ」

「へえ、なんだか信じられないみたい」

「現実にこうしてぼくと話しているじゃないの」

「じゃ、庄司薫さんや、中村紘子さんもあの大きな猫と話してるのかしら」

「さあ、話してるんじゃない。人に言うと気が変だって思われるから黙っているだけで」
 こうしてわたし達は友達になった。

 純が学校から帰ってきて、黙ったまま封筒を差し出した。開いてみると、お話ししたいことがありますので、明日午後四時学校へお越し下さい、と書いてある。呼び出しだ。

「純、あなた何をしたの」と聞いてみても純は黙って首を傾けるだけだ。何か悪いことでもしたの。いじめられたの。純は黙って首を傾ける。わたしの顔を見て、にこっと笑って外に飛び出して行った。

 三年生のころ先生に注意された黙り癖はだんだんひどくなっているようだ。今年の春頃まではわたしには話をしていたが、このごろは家でもほとんどしゃべらず、身振り手振りで用を足す。しかし、暗く沈んでいるわけではない。話しかけるとにこにこ笑っているし、一人でいるときもどことなく楽しげだ。一人のときには小声ではなうたを歌っているときさえあり、なにか小声でぶつぶつひとりごとを言っているときもある。そっと聞いていると一人二役でごっこあそびをしているようだ。友達もいる。友達のなかでもやはりほとんどしゃべらないが、やはりにこにこと楽しげだ。

 純が話をしないことについては、もう何度も先生と話し合い、教育相談所にも行った。結局、あまりかまいすぎるとかえって悪い影響が出るから、当分は黙って様子を見ましょう、ということになっている。

 それなのに、学校からの呼びだしって何だろう。

 仕事を早く片付けて、ゆっくり夕食をとりながら純にたずねてみようと思っているのに、こういう日に限って客がきたり、電話の注文が次々にかかってきたりして、結局家にかえって食事の支度が終わったのは十時過ぎだった。

「純、学校の先生の用事ってなにかしら」

 純はかれいの煮付けを箸の先でていねいにほぐして食べている。白い骨を一本一本皿の縁にきちんと並べて、背骨も関節毎にはずしてぐるりときれいに並べながら食べている。

「ねえ、純、なにかしたの。だれかにいじめられたの。テストの点がうんと悪かったの」

 純は相変わらずなにもしゃべらない。かれいの骨だけが白く皿の縁に円をかいてならぶと、こんどはきゅうりもみにとりかかった。うすい胡瓜の切れを一枚ずつ箸でつまみあげて前歯でかりかりと噛む。しかし意外な早さで胡瓜を食べてしまうとそれからごはんをたべはじめた。ご飯は茶碗の縁をゆっくり回しながら食べ、真ん中にご飯の山を残す。ご飯の山がだんだん痩せ細って危うく崩れそうになるところをすっと箸の先ですくいとって食べてしまった。お茶をごくりと飲んで、にこっと笑って席を立つ。

「純ちゃん。ね、純ちゃん。ちょっと話してちょうだい。学校でどうしたの。話してくれないと分からないじゃないの」

 しかし、純は黙って自分の部屋に入ってしまった。わたしは諦めて茶碗を洗いながらアオに話しかけた。

「アオちゃん、純は学校でどうしたのかしら。なんにもいわないからわからないのよ。どうしたものかしらねえ」

「ママにはわからないのかなあ」

「アオにはわかるの? 純はなんて言っているの」

「純ちゃんのママだろ。ぼくの言葉がわかるのに、どうして純ちゃんの言葉がわからないのかなあ。変だなあ」

「アオがわかってるんだったら、教えてよ」

 アオはしっぽをすっと立てて、気取った足取りで歩いて行き、ソファの上でまるくなって寝てしまった。

青い目の仔猫 (1)

青い目の仔猫

なりた もとこ


玄関を開けると、か細い猫の鳴き声が聞こえてきた。玄関には今日も又、子供の靴が五、六足脱ぎ捨てられている。純の友達が来ているらしい。鳴き声は子供の部屋から聞こえている。戸を開けると、子供たちがベッドのうえで頭を寄せあって、段ボール箱のなかを覗きこんでいる。鳴き声はその中だ。

「どうしたの。その猫」
 灰色の子猫が痩せこけた手足で、段ボールの壁をよじ登ろうとして盛んに鳴き声をたてている。体のわりに大きな口を精一杯開けて、力を振り絞って鳴いている。
「おばちゃん、この猫飼ってよ」
 階下のけんちゃんがいった。純はひとり黙ったまま猫のあたまをなでている。子供達は一斉にシュプレヒコール。

「おばちゃん、この猫飼って、この猫飼って」
「ちょっと静かにして、耳がおかしくなりそうよ。その猫みせてごらん」

 手に乗せると、猫はしばらく口で、てのひらをあちこち探っていたが、親指の付け根の膨れた部分を探り当てると、いきなりちゅうちゅう吸い始めた。

「お母さんのおっぱいとまちがえているんだわ。おなかがすいているのね」
 純が黙って冷蔵庫からミルクと皿をもってきた。子猫はミルクをピチャピチャと音を立てて飲んでいる。

「でもねえ、このアパートでは動物は飼えないのよ」

 黙っている純のかわりにけんちゃんがわたしを説得しようと口火を切った。
「今井さんちじゃマルチーズ飼ってるよ」
「たかくんの家は黒い猫飼ってる。くろこっていう名前なんだよ」

 子供たちは規則に違反して動物を飼っているうちを数え上げた。猫が吸ったてのひらの生暖かい感触がわたしの感傷を誘い、今更捨てるわけにいかない気持ちになっていることを、子供たちはよく感じとっていた。

「あのね、あのね、純ちゃんがね、この猫みつけたの。そんでね、ずーっとだっこしてるの。そんでね、あたしね、あたしのうちに連れてかえってね、お母さんに飼ってもらおうっておもったんだけど、純ちゃんがだっこしたまんまだから、みんなでね、みんなで純ちゃんちにきたの」
 一年生の敬子ちゃんがかおを真っ赤にして一生懸命、事情を説明した。

「シャム猫ね、これは。ほんとに捨ててあったのかしら、どこかのおうちから迷いでてきたのじゃないかな」
「この箱にいれて、蓋してあったんだよ」
「蓋に穴開けてあった。にゃーにゃー大きな声で鳴いてたの」
「目が青いんだぜ。かわいい顔してる」
 子供たちは大声で口々に猫をアピールする。純だけが相変わらず黙りこくって子猫の柔らかな灰色の毛を撫でていた。




「カオルさん、猫までお飼いになったのですか、お忙しいのにだれが世話をするんですか」
 我が社の経理担当の社員、ミキちゃんが帳簿を抱えてやってきて、なじるようにいった。我が社の社員といっても女性ばかり僅かに三人、営業部長の山口さんと営業部員の榛名さん、それに経理のミキちゃんだけの小さな会社だ。夫が交通事故であっけなく死んで、それからはじめた下着の訪問販売が少しずつ軌道に乗り、税金対策で有限会社組織にしてやっと六年になる。事務所はこのアパートの一階にある。

 一昨年ごろから仕事が急におもしろくなり、いま、四人とものりにのっている。去年は八千万円以上の売上を記録した。今年は一億円に挑戦して、有限会社を株式会社にするのが四人の夢だ。そのときは四人ともに株主になって、給料のほかに株の配当も入るようにする。こんな計画を我々の売っている下着のメーカーの指導で描いているのだ。この忙しい大切な時期に猫なんか飼っている暇があるのかとミキちゃんは言いたいようだ。

「純がいつもひとりでしょう。あのとおりほとんど話をしない子だから、わたしも気になってねえ。学校からもいわれて、教育相談所にも連れていったし、精神科のお医者さんのカウンセリング受けたりしたのが、かえって悪かったのかしらねえ。よけいにしゃべらなくなったみたい。これからはもっと難しい時期になるしねえ。ペットでもいれば少しはいいかと思ったの」
 わたしはいそいで弁解した。

「それもそうですね。カオルさんも大変ですよね。まあ、猫は純ちゃんにはいい友達になるでしょうね。人間でないから、純ちゃんもしゃべりやすいかもしれない。犬みたいに散歩に連れていかなくてもいいし、餌はキャットフードやっときゃいいし、トイレの砂もスーパーで売ってるのだから」
 ミキちゃんはあっさり納得して、わたしはほっとした。

 山口さんにも、榛名さんにも、メーカーのスーパーバイザーの本山さんにも同じ説明をして、青い目のアオという名前をつけた子猫はようやく我家の一員として世間に認知された。猫一匹飼うにのも、なかなかたいへんな手続きが必要だということをわたしは知った。 

猫は好奇心が強い。いたずらざかりの子猫のことで、スーパーのビニール袋にも紙袋にももぐりこむ。下着を詰める段ボールが空いていれば必ず中に入ってみる。下着を畳んで積んでおくと、その底になにがあるのか引っ掻き回して探している。包装に使う薄紙やセロファンはパリパリ音を立てるのがおもしろいのか見付けしだい頭から突っ込んで掻き回し、くしゃくしゃにしてしまう。パソコンのキー、ワープロ、動くものはみな触ってみたくて仕方がない。だめっと禁止されると、そのときだけ首を縮めて済まなさそうな顔をするが、ちょっと注意をそらすと禁止されたものにそれっとばかり飛び掛かる。こっぴどく叱られると、すねて段ボールの角をかじり散らしたり、スリップの薄いレースを爪で引っ掻いて破ったりして反抗する。しかし、アオちゃん、いい子ねえ、美人ねえ、かわいいねえとほめられると手でしなをつくってひっくりかえって見せ、あまいこえで鳴く。人の言葉がよくわかっているらしい。

 忙しい最中に純が猫を事務所に連れてくると大騒ぎになって、家へ連れて帰りなさーいと叫んでしまうが、暇なときに純の顔を見ると、榛名さんも、ミキちゃんも、アオどうしてる? 連れておいでよというわけだ。純はそのたびにだまってアオをだいてアパートの階段を上り下りしている。本好きのミキちゃんが文庫本を一冊もって来た。庄司薫著『ぼくが猫語をはなせるわけ』

「なによ、ミキちゃん、この本は」
「カオルさん、読んでごらんなさい。ほら、この猫、アオそっくりですよ」
「読めば猫語が話せるようになるのかしら、まさかね」

 ぱらぱらめくってみると、アオとそっくりの毛並みの、しかしむやみに太った猫の写真が何枚もある。シールポイント種のシャム猫であるらしい。小説ではなく太った猫との暮らしを書いたエッセイだ。

「猫語ねえ」 
 わたしはいくつかの外国語体験を思い出した。まったく言葉の通じない相手とでも会話が成立することがある。夫が海外に出張している間に夫の友人のフランス人夫妻がたずねて来たことがあった。わたしは片言程度のの英語は話せるがフランス語ときたらアン、ドウ、トロワまでしか数えられない。あとは僅かにメルシ、ボンジュールくらいのものだ。ところがそのフランス人夫妻ときたら英語はハウアーユーでおしまい。このフランス人を夫が帰って来るまで十日ばかりも家に泊めて、京都や奈良を連れて歩き、白鳳時代の仏像の特色、平安朝の貴族の生活、京の町衆の力などの話をした。勿論わたしは英語と日本語のちゃんぽんで話し、かれらにはフランス語で質問をした。彼らはわたしの言葉など、何も分からなかったかもしれない。しかし、わかったのと同様、十分にたのしんでいた。言葉はわからなくとも不思議に通じるものだ。人間が犬や猫と話ができないわけもないだろう。

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