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今日は学校から電話がかかってこない。どうやら無事に一日が過ぎたようだ。表の戸を開け放していると遠くの方から子供達の声が聞こえる。もう下校時間らしい。甲高い声は町の騒音をつきぬけて、近づいてくる。運動靴の軽い足音といっしょにけんちゃんが飛び込んできた。 |
小説
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クレーム品を交換してついでに閉まりかけた店からフライドチキンとサラダをかって帰って来たが、純はまだ帰っていない。どこへ行ったのだろう。また下におりて、事務所に行ってみたが純はいない。帳簿を点検し、パソコンのデータをだして今日の売上を確認して、もう一度部屋に上がってみた。純はひとりでご飯を茶碗によそって食べ始めようとしていた。七時だ。新規店に行くまでにまだ三十分以上はある。わたしもご飯をよそって座った。 |
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純が生まれたばかりのことを思い出す。夜中、純がおなかをすかせて泣き声をあげる。夫は全く気づかない。わたしはなき始める前のくすくすというかすかな声でもう目が覚める。どんなに熟睡していても目が覚める。声で目が覚めるのではなく、純がお乳を求める気持ちがつたわってそれで目が覚めるのではないかと思った。 |
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仕事が終わって、夕食の後、純とアオに留守番をさせて商品の配達に回った。このごろはほとんどの主婦が昼間家にいない。働きに出ているか遊びに出ている。特約店への配達は宅配便を使ったり、山口さん、榛名さんがセールス活動をかねてまわる。個人のお得意さんへの配達はたいてい夜でなければいけないから、わたしが自分で回る。電話さえしておけば十一時ごろまでは起きていてくれる。十軒程の得意先を回りながら、わたしは考えにふけった。 わたしはいま下着の代理店をしているが、わたしの代理店の下に二十数軒の特約店がある。それぞれの特約店が二十人から百人くらいの個人の得意先をもち、わたし自身も二百五十人の直接の個人の得意先をもっている。この商売のやり方では売上を上げるためには特約店の数を増やすことだ。メイトさんと呼ぶ個人の得意先を回りながらホームパーテイの開催を依頼する。ホームパーテイが開かれれば、わたしか、山口さんか、榛名さんかが行って、下着を部屋一杯に広げて試着し、下着の着け方や、体型の矯正のしかたを指導する。パーティの参加者が皆下着だけになると妙に親密感が増して、下着は飛ぶように売れる。 このとき商売気のありそうな人、友達の多そうな人に目をつけて、またパーティを開くように持ちかけ、その利益をいくらかずつ落としておく。こうして商売の面白さを教え込み、夢を描いてみせて、特約店へ育てて行くのだ。しかし特約店から上がる売上は大きいが利益は少ない。小口で面倒だが直接の個人の客が一番利益が大きい。メーカーは特約店を増やせと指導するが、自分の会社の利益を考えると、しこしこと個人の客を追っているほうが得かもしれない。 メーカーの本山さんはわたしを煽り立てる。 「社長、夢をもたなあきまへんで。商売人は夢追い人でっせ。はよう一億円の売り上げあげて、株式会社にしまひょうな。今年の代理店大会ではなにがなんでも社長に一億円達成の株式会社代理店として壇上に上がってもらわなあきまへん」 本山さんは代理店大会が近づくと「どんなべべ着て行かはりますか」と聞く。だれだれさんはイッセイ・ミヤケのドレス、たれそれさんはディオールのカクテルドレス、だれそれさんはなんと別注の辻が花染の小袖、これ、何百万としたそうでっせ。山口さんも榛名さんもええドレスつくらなあかん。今年はミキちゃんも連れて行ってもらいなはれ、一億円突破して、社長に御祝儀出してもろて、それでドレスつくって、みんなでいきまひょうな。 本山さんは煽り立てるのがうまい。ドレスつくってええかっこするために働いているのじゃないわ。出席している特約店やメイトさんに、たくさん売ればこんなにすてきな高価なドレスや指輪が買えますよ、とアピールする動く広告塔になるのが目的なのよね。その仕組みは分かっているのだが、結局、自分達の利益にもなるので同調してしまう。実際、代理店や特約店の中には高価な服や指輪を買うことが目的で必死になって商売している人もいる。 このやり方、すこしえげつないのじゃないかと思いつつも、高価なドレスの形の良いカット、しなやかで、しかもしっかりとした生地の手触りなどを心に浮かべると、みんなもドレスを新調したいだろうな、そのためにはしんどくても特約店をふやすか、売上をふやすか。やはり頑張ろうかな。 しかし、純は今日も一日中なんの言葉も口に出さなかったなあ。まだ起きているのだろうか。アオと一緒に寝ただろうか。もうすこし、配達の軒数が少なければ、純も一緒に連れてくるのだったけど。 十一時半、家に帰ると、純はもう寝ていて、アオが飛び付いてきた。ミキちゃんに借りた『ぼくが猫語をはなせるわけ』が家を出たとき、そのままのかたちでソファーの上に乗っていた。熱いお茶をいれて、ソファに座ると体中に溜まった疲れが浮き上がってくる。わたしはアオをひざにおいて話しかけた。 「アオちゃん、本山さんもわたしも、夢を偽造しているんじゃないかしら。売上をふやし何十万円のドレスをきて大会で壇のうえにあがるのがわたしの夢だなんて。でも、わたしがドレスや指輪の話をすると、そうだそうだって乗ってくる人が現実にいるのよね。またそう思い込むと、結構そのひと、売上を上げて、服をじゃんじゃん買って喜んでいるの。売っている下着の品質は良いし、そんなに高くもないから、べつに悪いことをしているわけではないのに、ときどきいんちきしてるみたいな気になるの。今日みたいに遅くなって疲れてくると一億円も株式会社もドレスもみんなどうでもよくなって、とにかく純とふたり食べて行ければそれでいいっておもうのよねえ。純も今日はなんにもしゃべらなかったし」 「ママは忙しすぎるから純ちゃんがしゃべらなくなったって気にしてるの」 アオがひざのうえで円い目を大きく開いていった。 「そうねえ。何度も何度もそれは考えたわ。始めはそんなに気にしていなかったの。もともと、あまり口数の多い子じゃないし、あまりしゃべらなくても、純がなにを考えているかは、わかってるって思っていたのよ。ほら、小さいときなんか、ぎゅっと抱き締めるだけで、話しすることなんか、いらないじゃない。小学生になってからでも、顔を見るだけで、純が楽しいのか、悲しいのか、わたしに何をいいたいのか、わかったし。事務所で仕事してても椅子のとこに寄り掛かってきて体くっつけてきたりしてね」 「どうしてしゃべらないことが気になりだしたの」 「学校の先生に注意されたのよ。純があまり黙っているから、先生もどうしていいのか、困ったのよねえ。仕事が忙しすぎて、子供と接する時間が少なすぎるからじゃないですかって」 「ママは仕事が好きなんだ」 「そうねえ。仕事は好き。純もかわいい。でも、純は好きっていうより、もっと違うわね。だって、自分が好きなんて思わないのと同じよ。純は自分自身と同じみたいで、もっと大事っていうのかなあ。それもちょっと違う。仕事は好きとかおもしろいとか、言葉で言えるけれど、純のことは言葉でいうと、どれもちょっと違うような気がする」 「そうねえ。仕事も子供と同じようなところがあって、いったん作ってしまったものは、簡単に捨てられないのよ。毎日、手抜きができないし。お得意様にも従業員にもメーカーにも責任があるし、かわいくもあるの。一生懸命になってなにかをやり遂げるのもすきよ。去年の八千万円の売上だって、毎日毎日一生懸命仕事してきたことの結果だっただけなの。だけど一億円が夢だとか、ドレスだとか指輪だとかになると、ちょっとこれ、違うわね。疲れてくると、とりあえず暮らして行ければそれでいいと思うし」 「ドレスなんか買わなかったらば?」 「それがそういうわけにもいかないのよ。わたしがドレスをつくらなかったら、山口さんも榛名さんもミキちゃんもつくれないでしょ。みんな新しい服っていうのは、やっぱりなにか嬉しいし、楽しみなのね。 あら、アオちゃん、あなたお話しできるの。驚いたわねえ」 アオの話し方があまり自然だったので、猫が話をしているというとんでもない出来事がわたしにはあまり不自然なものと思われなかったのだ。 「話ぐらいできるよ。ママだって、さっきそう思っていたんじゃないの」 「さっき? あ、そう言えばそうね」 「でも、ぼくの声、ぼくの言葉がわかると思わないで聞いてみて。ただごろごろ喉を鳴らしているとしか聞こえないと思うよ。ママがぼくをほんとに話相手だと思っていたから、ぼくのことばが聞こえるんだ」 「へえ、なんだか信じられないみたい」 「現実にこうしてぼくと話しているじゃないの」 「じゃ、庄司薫さんや、中村紘子さんもあの大きな猫と話してるのかしら」 「さあ、話してるんじゃない。人に言うと気が変だって思われるから黙っているだけで」 こうしてわたし達は友達になった。 純が学校から帰ってきて、黙ったまま封筒を差し出した。開いてみると、お話ししたいことがありますので、明日午後四時学校へお越し下さい、と書いてある。呼び出しだ。 「純、あなた何をしたの」と聞いてみても純は黙って首を傾けるだけだ。何か悪いことでもしたの。いじめられたの。純は黙って首を傾ける。わたしの顔を見て、にこっと笑って外に飛び出して行った。 三年生のころ先生に注意された黙り癖はだんだんひどくなっているようだ。今年の春頃まではわたしには話をしていたが、このごろは家でもほとんどしゃべらず、身振り手振りで用を足す。しかし、暗く沈んでいるわけではない。話しかけるとにこにこ笑っているし、一人でいるときもどことなく楽しげだ。一人のときには小声ではなうたを歌っているときさえあり、なにか小声でぶつぶつひとりごとを言っているときもある。そっと聞いていると一人二役でごっこあそびをしているようだ。友達もいる。友達のなかでもやはりほとんどしゃべらないが、やはりにこにこと楽しげだ。 純が話をしないことについては、もう何度も先生と話し合い、教育相談所にも行った。結局、あまりかまいすぎるとかえって悪い影響が出るから、当分は黙って様子を見ましょう、ということになっている。 それなのに、学校からの呼びだしって何だろう。 仕事を早く片付けて、ゆっくり夕食をとりながら純にたずねてみようと思っているのに、こういう日に限って客がきたり、電話の注文が次々にかかってきたりして、結局家にかえって食事の支度が終わったのは十時過ぎだった。 「純、学校の先生の用事ってなにかしら」 純はかれいの煮付けを箸の先でていねいにほぐして食べている。白い骨を一本一本皿の縁にきちんと並べて、背骨も関節毎にはずしてぐるりときれいに並べながら食べている。 「ねえ、純、なにかしたの。だれかにいじめられたの。テストの点がうんと悪かったの」 純は相変わらずなにもしゃべらない。かれいの骨だけが白く皿の縁に円をかいてならぶと、こんどはきゅうりもみにとりかかった。うすい胡瓜の切れを一枚ずつ箸でつまみあげて前歯でかりかりと噛む。しかし意外な早さで胡瓜を食べてしまうとそれからごはんをたべはじめた。ご飯は茶碗の縁をゆっくり回しながら食べ、真ん中にご飯の山を残す。ご飯の山がだんだん痩せ細って危うく崩れそうになるところをすっと箸の先ですくいとって食べてしまった。お茶をごくりと飲んで、にこっと笑って席を立つ。 「純ちゃん。ね、純ちゃん。ちょっと話してちょうだい。学校でどうしたの。話してくれないと分からないじゃないの」 しかし、純は黙って自分の部屋に入ってしまった。わたしは諦めて茶碗を洗いながらアオに話しかけた。 「アオちゃん、純は学校でどうしたのかしら。なんにもいわないからわからないのよ。どうしたものかしらねえ」 「ママにはわからないのかなあ」 「アオにはわかるの? 純はなんて言っているの」 「純ちゃんのママだろ。ぼくの言葉がわかるのに、どうして純ちゃんの言葉がわからないのかなあ。変だなあ」 「アオがわかってるんだったら、教えてよ」 アオはしっぽをすっと立てて、気取った足取りで歩いて行き、ソファの上でまるくなって寝てしまった。
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青い目の仔猫 |





