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周南市 東郭の世界
7/23日本時間 6:00 周南25℃東京27℃ 奈良26℃台湾24℃上海27℃ “ゆうぜんしてほろ酔へば雑草そよぐ”

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柳井市遠崎の妙円寺に生まれた僧 月性は、目の前の瀬戸内海から世界の大海を観て、国防の急

を叫んでいます。国道188号線ぞいに、近年その像が建てられています。

外冦を憂いて、人心を鼓舞しと云われますが、海を見ながら剣舞する姿は海防僧と云われた

月性に相応しい姿であります。

                           《2018.7.2 周南市 東郭》


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月性は、安政5年5月11日に42歳で病死しました。安政の大獄の始まりは、安政5年7月5日

井伊直弼が一橋派の徳川斉昭、徳川慶篤、徳川慶勝、松平慶永を隠居謹慎などに処した

ところからで、安政6年には、梅田雲浜や橋本佐内、吉田松陰先生らも処刑されますから

もし、海防僧 月性が存命であれば、当然、安政の大獄に引っ掛かった筈です。



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海防僧 月性 像

吉田松陰先生(安政6年10月27日没)は、明治維新の精神的指導者として知られていますが、

月性先生も西の松下村塾に対して東の時習館を開いて赤根武人や世良修蔵など育てています。

特に久坂玄瑞に対しては、兄玄機と簡単相手らず仲でありましたが、海防策を藩命でたてて

いて過労死したので、月性が面倒を見た経緯があります。


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清狂傳のなかに、月性先生の講演を記した部分があります。

至誠懇到、言與泣共、民皆感激趨之、城中傳聞、爭請以聽其講、□者常數千人、藩老益田福原

浦三氏、尤愛之、

”しせいこんとう、げんとともになき、たみみなこれにおもむきかんげきす、じょうちゅうでん

ぶん、そのこうきくをもってあらそいこう、しゅう?しゃつねにすうせんにん、はんろうます

だふくはらうらさんし、ゆうにこれをあいす” というような読みですが、彼の講演は非常に

心がこもった懇切丁寧なもので、言と共に泣き、民衆は皆感激しました。城中の伝聞では

その講演を聞くのは爭って請うとほどのものでした。九に集まるの漢字は判りませんが、

集まったものは、常に数千人に上りました。萩藩家老益田弾正・福原越後・浦靱負の三氏も

僧月性の説く「海防論」の秀でた点を認めました。この時代の最新の「時局講演会」と

言うべきものであったろうことは、想像の難くないですが、吉田松陰先生も村塾を休校して

門下生たちに聞かせたそうです。この海防論が長州藩の攘夷論になり、遂には明治維新に

なるわけです。

月性の号は、清狂ですが、その謂れは、清而狂であり、清狂草堂(時習館)もその学び舎と

いう意味です。

吉田松陰先生が、「諸君、狂い給え!」と言った同じ意味の狂です。

松陰門下も山県有朋は山縣狂介、山田顕義は、狂痴(きょうち)、高杉晋作は、東洋一狂生と

しました。

松陰先生の『講猛余話』で説かれる「狂」とは、常識を超える新たな発想・行動を起こす

時、ひとは「狂愚」の境地に辿り付きます。即ち「狂の様に積極的に進み、愚の様に逃げる

事を忘れなさい」と説明されます。

故にこの道を興すには、狂者にあらざれば興すこと能わず。この道を守るには、狷者にあら

ざれば守ること能わず。すなわち狂狷を渇望すること、またあに孔孟と異ならんやと説きま

す。

論語のなかに「子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎。狂者進取、狷者有所不爲也。」とあり

狂の文字が出て参りますが、読み下すと、”子日わく、中行を得て之に与せずんば、必ずや

狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有るなり。” となります。

要は、物事を興す発端となる心情は「狂」であるとなります。この「狂」を以って長州藩の

下級武士や農民などが立ち上がって行動を起こしました。日頃、議論好きでワイワイガヤガ

ヤの長州人(今もそうですが・・・)も攘夷回天という同じベクトルを「狂」で団結したと

言っても過言ではありません。

柳井遠崎の清狂草堂の月性先生も将に、「狂」の人でありました。



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