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周南市 東郭の世界
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比叡山の横川エリアに道元禅師の得度霊跡がありますが、バス停から下る参道に下載のパネル

があります。よく、こういった生涯を描いたパネルを目にしますが、比叡山は、日本仏教の

各宗各派の高僧祖師を輩出しただけあって、特に多いと感じました。

曹洞宗の開祖である道元禅師も、また、ここで修行されました。

                          《2018.11.4 周南市 東郭》



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道元(どうげん、正治212日(1200119)- 建長5828(1253922))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた。《出典:Wikipedia》






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教義・思想
ひたすら坐禅するところに悟りが顕現しているとする立場が、その思想の中核であるとされる。道元のこの立場は修証一等や本証妙証と呼ばれ、そのような思想は75巻本の「正法眼蔵」に見えるものであるとされるが、晩年の12巻本「正法眼蔵」においては因果の重視や出家主義の強調がなされるようになった。
成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。
鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、『正法眼蔵随聞記』には「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎないとして、末法を否定した。
道元は易行道(浄土教教義の一つ)には、否定的な見解を述べている。《出典:Wikipedia》







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主な活動
 
建暦3年(1213年) 比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ねる。
建保2年(1214年) 天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。
建保3年(1215年) 園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める。
建保5年(1217年) 建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事。
貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り
南宋の宝慶1年(1225年)、天童如浄の「身心脱落」の語を聞いて得悟。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継いだ。曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。その際の問答記録が『寶慶記』(題名は当時の年号に由来)である。
安貞2年(1228年) 帰国。帰国前夜『碧巌録』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある。(一夜碧巌)《出典:Wikipedia》









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