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「萬里平原」 【伊藤博文】 【解説】
伊藤公の功績は、大日本帝国憲法を制定し、アジア史上初の立憲国家を形成したことにある。
伊藤公の明治維新では、最後の仕上げ段階まで生き残り甘い汁を吸ったなどと戯けたことを
言う人もいるが、維新3傑(西郷・大久保・木戸)の死後、日本を国際社会の水準まで引き上げ
たのは、伊藤公である。日清・日露戦争の勝利によって、明治政府の最大の懸案事項であった
不平等条約解消もなった。明治38年1月ロシアの根拠地旅順を陥落させ、奉天会戦(3月)で
ロシア軍主力を撃退し、日本海海戦(5月)では、バルチック艦隊を壊滅させた。いまでも
勝利を賛美するだけの風潮はあるが、当時日本戦力は限界に達し、ポーツマス条約を結ばざる
を得なかった。日本はロシアから韓国の保護権を認められ、旅順・大連の租借権、南樺太や
東清鉄道南部支線、沿海州・カムチャッカ沿岸の漁業権を手に入れたが、国民は物価高や増税
などで苦しめられ賠償金も得られないことで反発した。伊藤公は明治42年10月、ハルピンに出
発した、ロシアの最有力閣僚ココーフツォフ大蔵大臣と極東問題について意見交換し、同地域
の平和維持を目的とするところであった。10月20日、日露戦争の激戦地旅順の官民歓迎会で
「戦闘の屡々起こるは国家の不利益のみならず、人道のためにも好ましからず。平和の裡に
必要の設備を為して国連の伸張を計るは最も努べきとなります。」を極東の平和を演説した。
翌、21日列車は奉天・長春を経てハルピンに向かった。車窓に広がる南満州の大地を見ながら
一首詠んだ。冒頭の漢詩がそれである。伊藤公は戦跡を見てやり場のない怒りと憂いに鬱々と
した心境であった。この一首が伊藤公の絶筆となった。26日9時ハルピン駅に降りた伊藤公に
数発の弾丸が発砲された。2発が肺を貫通していたと言う。10時には息を引き取られたとい
う。犯人は、韓国人の独立運動家安重根という。伊藤公が韓国統監時代には「韓国人の自発性
を重視し、近代化政策を進める」ことであった。公は韓国大臣と「韓国施政改善に関する協議
会」を主宰し、農事改良・治道工事、仁川・平壌・釜山水道整備、学校建設などの事業他、警
察力の拡張、地方制度改革、司法制度改革、宮中改革など広範な統治政策を展開した。
伊藤公は韓国の独立を前提とする「自治育成論」者であり、陛下からも”国相依り、相輔け
その権利と利益とを増進せしむるに外ならず”と賜っているので、韓国併合論者ではなかった
のです。
今、慰安婦問題や対韓輸出規制措置で日本政府を非難する10万人規模のデモが起きている
そうですが、相変わらず韓国の大統領は事態の収拾が出来ません。寧ろ、それに乗っかてい
る感じもあります。
若し、伊藤公が韓国人に狙撃されなかったら、伊藤公の努力で韓国人同士で物事を解決する
努力をする事や国際社会においても互恵関係で望むという根本精神を学んだかも知れないと
思います。
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