|
昨年は明治維新150周年ということで山口県や県内各市で様々な記念行事が開催されました。
萩市でも萩博物館で長州ファイブ展が10月27日から一ヶ月開催されました。
言うまでもなく、萩市は吉田松陰先生はじめ多くの維新志士を輩出致しました。
なかでも、伊藤博文公は、大日本帝国憲法を制定し立憲国家として明治維新の仕上げをしまし
た。松陰先生は松下村塾で塾生を育てましたが、そのいずれも大きく成長し、明治日本建設に
多大な貢献をしました。僅か2年余りの期間、塾生90人を此処迄育てた秘密は、どんな教育を
したのか?不思議なことです。教育ということから言えばこんな高効率の人物を輩出できる
方法があれば、何処の学校も採用している筈だと思います。勿論、現代の高級教育からみれば
一時的で稚拙ではありますが、松陰先生は自由に討論させる中で塾生を育んだであろうことは
判ります。伊藤公などは、討論して相手を論破して負けることがなかったと言われています
が、討論すると塾生同士の向上が図られ、目的意識もハッキリし、自分の言動にも責任を持ち
ますから塾生全員が向上します。試験制度など採用しませんでしたが、高得点は松陰先生には
判ります。ランク付けなど必要ありません。全員で討論していると自ずと ”あいつは出来る”、
”あいつはよく判っている” と共有できますから暗黙の序列も出来ます。まさに、松下村塾の
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一などがそれでした。多分、熱意も意欲も人一倍
で不正は決して許さないという気概は、生まれつきに持っていたのでしょう。
まあ、それはともかく、今回の絵でたどる吉田松陰の生涯は枚数も多いので、松陰先生の
教育や理想とする世界の一旦が見えて来るかも知れません。 《2019.8.23 周南市 東郭》
松陰先生遊学出立の像
絵図の解説
1.松陰の生家 東光寺の道を隔てた南側に生家の遺構が残されています。
近年、大きな先生の像が建てられています。金子重輔と一緒です。
ここには、吉田家墓地・玉木家墓地など多くのお墓もあります。
松陰先生初め、高杉晋作や塾生のお墓もあります。皆、質素なものです。
2.素読の稽古 玉木文之進(叔父)の厳しい教育
3.剣術の稽古 松陰先生は山鹿流兵学師範の家に生まれ、文武不岐の士道を
目指して、藩剣術指南役平岡弥三兵衛(柳生新陰流)の入門を乞うたそうです。
しかし、平生は松陰先生の考えと体力のなさを見抜き、武道は真の人間を作る
ためのもので、貴殿は学問に専念したほうが良いと断ったそうです。
幕末の長州藩で剣の達人は、桂小五郎(木戸孝允)でしょうね。神道無念流の
免許皆伝で斎藤弥九郎の練兵館塾頭でありました。次は高杉晋作で柳生新陰流の
免許皆伝です。次は、吉田稔麿で宝蔵院流槍術の達人でした、また、神道無念流
剣術も修行していました。
4.御前講義 松陰先生9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。
11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことに
より、その才能が認められた。13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習
を実施など、藩内では屈指の秀才と認められました。藩主毛利敬親公は、松陰
先生をことのほか可愛がりました。もともと、長州藩は日本三大学府の明倫館
を1718年に起こし、人材育成に力を注ぐ気風も備わっていました。
※日本三大学府・・・長州の明倫館・水戸の弘道館・岡山の閑谷学校
5.赤間硯を買う 日本では筆、墨、硯、紙の四種を「文房四宝」といい、とくに
硯を中心として文房具を愛蔵してきました。硯が文房四宝のうちでも長命であ
り、寿であるといわれ、長く愛用できる故です。赤間硯は質が固く緻密で、
石眼や美しい紋様があり、しかも粘りがあるため細工がしやすく、硯石として
優れた条件をもっています。また、むらなく鋒鋩があり密立しているので、
よく磨墨、発墨し、得墨も早く、さらっとのびの良い墨汁を得ることができ
ます。《出典:宇部市HP》
6.平戸へ遊学 嘉永3年(1850年)、松陰先生21歳のとき、アヘン戦争で
清が西洋列強に大敗したのを知り、山鹿流兵学は時代遅れと悟り、西洋兵学を
学びに長崎に遊学します。アヘン戦争(1840年〜1842年)後の清は、惨めでし
た。治外法権・関税自主権放棄・最恵国待遇など英国らと不平等条約を結ばされ
たからです。香港の割譲もこの時からでした。
|
全体表示




