|
絵でたどる吉田松陰の生涯も最終回です。
前回、安政6年5月25日(1859年)萩から江戸へ護送され、6月24日江戸に到着、まず、長州藩
邸江戸屋敷牢で待機。7月9日、評定所に呼び出され最初の吟味、伝馬町牢獄へ繋がれます。
以後9月5日、10月5日、10月16日と3度の取り調べを受け、幕府方の容疑はほゞ晴れた感触が
あったようで、この時点では松陰先生も内心喜んで、一段落したと思いこんだようです。
”さて、これで一応お主の詮議は晴れたも同様、ところで、この前、小耳に挟んだアメリカ使節
との交渉やご政道の向きについて、お主の考えを聞かせては呉れぬか?” と世間話風に評定所の
松平宗平らに聞かれとき、先生持論の正義感を滔々と述べました。老獪な幕府奉行の罠とも知
ってか知らずか先生は、至誠通天の人です。老中間部詮勝(尊王攘夷派弾圧)の要撃計画まで
も喋ってしまいました。先生は、この要撃計画を幕府は把握していると思い込み、喋ったの
ですが、全く初耳で知らなかった幕府にとっては衝撃で面目丸つぶれでした。
事態は急転回、10月27日死罪をもう渡され、武蔵野の露と消えました。享年満29歳でした。
しかし、これが時代を変える契機になりました。”死せる孔明、生ける仲達を走らす” の故事
がありますが、先生は留魂録などで、弟子たちにやるべきことを適確に残していました。
伝馬町牢獄で、処刑を察した先生は、10月25日から一日半かけて留魂録を書き上げました。
万一を想い2部用意する周到さでありました。一通は、弟子の飯田正伯に渡され、高杉晋作
など回し読みされ現在残っていません。私達が見るのは、牢名主沼崎吉五郎に頼み、彼は
遠島になり、その後明治9年に野村靖(弟子)に渡されたものです。
《2019.8.27 周南市 東郭》
吉田松陰先生
絵でたどる吉田松陰の生涯の解説
12.評定所での宣告
13.小塚原墓所 先生の死刑は、斬首で切腹も許されませんでした。
10月27日 午前10時 山田浅右衛門の手であの世に旅立ちました。
先生の最後は立派だったと、浅右衛門などが言っています。
遺体の引き取りには、弟子たちが苦労したようです。
4人の牢役人に1両ずつ渡し、遺体の尊厳と引き渡しを頼んだのです。
牢役人にとっては只の犯罪者扱いで、そのまゝだと、法的に取り捨て扱い
であり無名で穴に埋めるだけです。遺体引き取りは、桂小五郎・飯田正伯・
伊藤博文・尾寺新之丞の4人で行いました。4人は4斗樽の遺体を清め、髪も
整え、羽織を着せて、大甕に入れて埋葬したそうです。
14.若林に改葬 文久3年(1863年)1月5日 高杉晋作を中心に堀真五郎、
伊藤利助(博文)、山尾庸三、白井小助、赤根武人、遠藤貞一らが
回向院から大夫山(世田谷区若林四丁目)へ運び改葬しました。
明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰先生を
祀る神社が創建されました。現在の社殿は1927年から1928年にかけて
造営されたものだそうです。 15.萩の松蔭神社 1890年(明治23年)、松陰の実家・杉家の邸内に松陰の
実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯
と松陰の書簡とを神体として祀ったのが当社の創建である。
1907年(明治40年)、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって
神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造
りの本殿に付し、同時に県社に列格した。《出典:Wikipedia》
吉田松陰先生辞世
弟子宛
”身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”
家族宛
”親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん”
|
全体表示





