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真言律宗 海龍王寺

海龍王寺は、奈良県法華寺北町にあります。

前回、法華寺を紹介しましたが、海龍王寺はすぐ近くにあります。

ここも藤原不比等邸宅跡だったとは、法華寺同様、納得するしかないですね。

何故なら、藤原不比等の娘「光明皇后」の皇后宮だったのですから。

ところで、此処の開基は、玄靴箸いΔ坊さんです。

このお坊さんは、養老元年(717年)第9次遣唐使船に乗っています。

玄靴気鵑箘で榁臻穗・吉備真備など総勢557名だったようです。

その遣唐使船の復元が平城京に浮かんでいますね。

遣唐使船といえば、第18次遣唐使船(延暦23年西暦804年)の空海・最澄さんが有名ですが、

玄靴気鵑燭舛蓮87年も前に唐に渡ったのですねぇ〜

これらの事業は、古代日本の壮大な歴史ロマンであります。

                           《2019.7.17 周南市 東郭》



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海龍王寺山門

海龍王寺の歴史

七一〇年(和銅三年)、平城京に都が移された時、藤原不比等が、ここに邸宅を構えるにあたり、付近一帯を治めている土師氏から土地を譲り受けた際、土師氏ゆかりの寺院がありましたが、寺院を取り壊さなかったので、邸宅の北東隅に残ることとなりました。

七二〇年(養老四年)、藤原不比等が亡くなり、娘である光明皇后が邸宅を相続したので、邸宅は皇后が起居する皇后宮となり、北東隅の寺院は『光明皇后宮内寺院』となりました。
七三一年(天平三年)、遣唐留学僧として唐に渡っていた玄靴竜国をひかえ、無事に帰国を果たし、最新の仏教・仏法を我が国に伝えることを願われた光明皇后は『皇后宮内寺院』の伽藍を整えられます。隅寺(海龍王寺)としての歴史は、ここから始まりました。

七三四年(天平六年)唐を出発した玄靴蓮東シナ海で暴風雨に遭遇いたしますが、狂瀾怒濤に漂いながらも海龍王経を一心に唱えたことで九死に一生を得て種子島に漂着し、翌七三五年(天平七年)平城宮に戻ってまいります。

聖武天皇・光明皇后は、最新の仏教・仏法のみならず、鎮護国家の基礎となる仏教政策も学び取ってきた玄靴ら、いつでも自由に意見を求めるため、内裏に近く、自身が起居する皇后宮内にある海龍王寺の住持に任じます。住持に任じられた玄靴蓮唐の洛陽宮にならい、海龍王寺を『平城宮内道場』と定め、伽藍の拡充および収蔵する経典などを充実させる一方、密教にも通じていたことから、聖武天皇・光明皇后、聖武天皇の生母である藤原宮子のために祈願・祈祷を修したことで、天皇家との関わりが非常に深くなった海龍王寺は『天皇家の私寺院』となり『宮廷寺院』として天皇家を支えてゆきます。《出典:海龍王寺HP》





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築地塀


    壁の漆喰は落ちても土とカワラでしっかりと形状を保っています。

    日本建築や建造物の掲示変化も美の一つと捉える幽玄の世界を感じます。









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海龍王寺本堂



所在地     奈良県奈良市法華寺北町897
宗派      真言律宗
本尊      十一面観音(重要文化財)
創建年      8世紀前半
開基      伝・玄掘光明皇后(発願)
別称      隅寺
札所等     大和北部八十八ヶ所霊場 19

文化財     五重小塔(国宝)
西金堂、木造十一面観音立像ほか(重要文化財)





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              本尊 十一面観音(重要文化財)

当寺の本尊で、光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造立されました。
檜材で金泥が施され、条帛・天衣を掛け、裳・腰布をつけており、頭に天冠台・冠帯・左右垂飾、身は頸飾り・垂飾・瓔珞、手には臂釧・腕釧をつけています。衣の部分の彩色は朱・丹・緑青・群青など諸色の地に唐草・格子に十字などの諸文様を切金で表したもので、縁取りや区画の境界線に二重の切金線が多用されています。頭飾および装身具は精緻を極め、すべて銅製鍍金で透彫りを多用し、垂飾には諸色のガラス小玉と瓔珞片を綴ったものを用いています。像は精巧入念な作で、頭・体のプロポーション、頭部の自然な俯きに優しい手の動き、腰のひねりに巧みに応ずる右足の遊ばせ方など彫刻としての基本的なデッサンは確かなものがあり、衣の文様表現では彩色より切金が主座を占め、頭飾装身具では、透彫りの技巧の細かな点に注目できます。《出典:海龍王寺HP》




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西金堂






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五重小塔



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一切経経蔵


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光明宗 法華寺

奈良県の光明宗法華寺に参拝しました。

総国分尼寺として光明皇后が建立されたそうです。

光明皇后は、聖武天皇の后で藤原不比等の娘です。

また、光明皇后は仏法を篤く信仰し、夫の聖武天皇とともに東大寺の大仏造立に力を尽くし

たほか、50巻に余る経典を書写しました。皇太子妃時代から、悲田院を設けて貧しい人たち

を救済しています。

                           《2019.7.9 周南市 東郭》


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法華寺 赤門



法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。

奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。

本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。

元は真言律宗に属したが、平成11年(1999年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。



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歴史
光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。この宮寺を「法華寺」と称したことが文書で確認できるのは、2年後の天平19年(747年)からである。



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聖武天皇は天平13年(741年)214日、国分寺・国分尼寺建立の詔を発した(詔の日付は『類聚三代格』による)。法華寺は、この詔に基づいて建立整備された国分尼寺である。ただし、前述のように、法華寺の前身である皇后宮を宮寺としたのは4年後の天平17年(745年)5月のことであり、国分尼寺を意味する「法華寺」の寺号の使用が確認できるのは、天平19年(747年)正月の「法華寺政所牒」(正倉院文書)が初見である。国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられてからの数年間、大和国の国分尼寺は存在しなかったのか、存在したとしたらどこにあったのかなど、創建経緯の細部については不明な点が多い。福山敏男は、天平1668日付けの「金光明寺写経所文書」(正倉院文書)に「法花寺」という寺名が見えることに着目し、現・法華寺の創建以前に別の場所に「法花寺」すなわち国分尼寺が存在したこと、それは東大寺の前身寺院である金鐘寺に属していた阿弥陀堂であろうという説をとなえた。




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鐘楼(鐘楼堂)(重要文化財)

鬼瓦に慶長7年(1602年)の刻銘があり、形式や細部からみてその頃の再興と考えられる。ただし、本堂と同様に、前身建物のものとみられる古い部材も混在している。二層建てとし、上層に鐘を吊る「袴腰付き鐘楼」であるが、上層に縁や高欄を設けない、珍しい形式とする。



法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。天平宝字6年(762年)の「作金堂所解(さくこんどうしょげ)」および「造金堂所解案」という文書を見ると、この時点で金堂の建立工事がまだ続いていたことがわかる。なお、法華寺造営のための役所であった造法華寺司は延暦元年(782年)に廃止されており、遅くともこの頃までには伽藍整備が完成していたと見られる。

発掘調査の結果、奈良時代の法華寺の境内は平城宮東宮の東に接し、北は一条条間路、南は二条条間路、東は東二坊大路、西は東一坊坊間路を境として、南北3町、東西2町に及んでいたことがわかった。創建当初の金堂や講堂は、現・法華寺南門のさらに南に位置し、金堂の南に中門、その南には東西両塔があったことがわかっている。さらに、境内南西部には天平宝字3年(759年)から翌年にかけて建立された阿弥陀浄土院があった。阿弥陀浄土院は、丈六の阿弥陀三尊像を本尊とし、『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761年)、光明皇太后の一周忌がここで営まれている。



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本堂

法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたことが当時の記録から伺える。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。
鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・重源は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊によって本格的な復興がなされた。



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その後、明応8年(1499年)12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされると、永正3年(1506年)7月、再び攻め込んできた赤沢朝経によってまたも焼き討ちされた。そのうえ慶長元年(1596年)には地震にもあって、最終的には東塔以外の建物を失った。現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601年)頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。なお、兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔は宝永4年(1707年)の地震で倒壊した。




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本堂

本堂(重要文化財)
寄棟造、本瓦葺き。正面7間、側面4間。慶長6年(1601年)、豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建された。堂内厨子に本尊十一面観音像を安置する。高欄の擬宝珠(ぎぼし)に慶長6年の銘があり、当時は「講堂」と呼ばれていたことがわかる。前述の慶長元年(1596年)の地震の復興事業として建てられたもので、再建にあたっては、地震で倒れた前身建物の2棟の部材が再利用されている。部材に残る痕跡から復元される前身建物は、1棟が鎌倉時代、もう1棟が室町時代の建物で、前者が旧・金堂、後者が旧・講堂にあたると推定されている。




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本尊 十一面観音像 

国宝。法華寺の本尊。像高1.00メートル。本堂の厨子内に安置する。平素は非公開で、春と秋に期日を限って開扉される。「天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった」という伝承をもつが、実際の制作は平安時代初期、9世紀前半と見られる。この伝承は『興福寺濫觴記(らんしょうき)』にみられるもので、それによると、乾陀羅国(今のパキスタン北部、ガンダーラ)の見生王は生身(しょうじん)の観音を拝みたいと熱望していた。王はある夜の夢で「生身の観音を拝みたければ日本の光明皇后を拝めばよい」と告げられたので、問答師という仏師を日本へ遣わした。問答師は光明皇后をモデルに3体の観音像を造り、そのうちの1体が法華寺の観音であるという。

像はカヤ材の一木造。保存状態もよく、平安時代彫刻を代表する作品の1つである。制作当初から彩色や金箔を施していない素木像で、髪、眉、ひげなどに群青、唇に朱、白目に白色を塗り、瞳、肩に垂れる髪、冠や腕釧などに銅板を用いるほかは、木肌の美しさを生かした素地仕上げとする。両手首から先や天衣の遊離部分など、ごく一部を別材とするほか、頭・体の主要部から、蓮華座の中心部分、その下の心棒まで一材から彫り出した一木造である。経典には十一面観音像は檀像、つまり香木のビャクダン(白檀)を用いて造るべきことが説かれているが、ビャクダンを産しない日本では、カヤ材で素木仕上げの像を檀像とみなしていた。本像も檀像として造られたものと思われる。台座は像の蓮華の下を1本の細い茎で支える、珍しい形式のものである。光背も他にほとんど例をみない形式のもので、ハスの未開の花と葉を表している。この光背は明治38年(1905年)の補作だが、古い光背を踏襲して造ったものである。

像は左脚に重心を置き、右脚を遊ばせ、右足の第1指がやや持ち上がって、歩み出そうとする瞬間を表現したかのようである。右腕を極端に長く表現するのは、仏の三十二相八十種好の一つである「正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましつそう)」を表したものである。本像の顔貌表現、胸部と大腿部の量感を強調したプロポーション、太いひだと細く鋭いひだを交互に刻む翻波式衣文(ほんぱしきえもん)などは平安初期彫刻特有の様式である。和辻哲郎(『古寺巡礼』)、亀井勝一郎(『美貌の皇后』)はいずれもこの像の表現を豊満な女体に例えて賛美している。


本像は当初からの本尊ではなく、近世初頭に本堂が再興された際に本尊とされたものと考えられている。建保4年(1216年)頃成立の『諸寺建立次第』という史料によると、当時法華寺の本尊は大日如来であり、その背後に白檀の観音像があると記されている。近世の地誌である『和州寺社記』(寛文6年・1666年)には、現在と同様、本堂の本尊とされている。《出典:Wikipedia



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庭園






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庭園






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庭園

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紫雲山満月寺は、大分県臼杵市深田に在る臼杵石仏群の守護寺です。

前回、その詳細を書きましたが、今回は2回目です。

                           《2018.12.23 周南市 東郭》


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満月寺のご本尊は、お釈迦様です。よく見ると、その前にも中国風の仏像が並べてあります。

また、その前のガラスケースの人物は、憶測ですが昭和25年に復興された藤井日達大上人では

ないかと思います。右に、古園石仏の大日如来様の写真?が見えるのも満月寺らしいです。

 



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満月寺正面入り口に奇妙な仁王石像があります。膝か下が地中に埋もれたまゝにしてありま

す。何故、そうなったか定かではありませんが、木原石仏と紹介されています。

”2基の仁王像は、左が口を閉じた吽形(うんぎょう)仁王像、右が口を開いた阿形(あぎょう)仁王像です。凝灰岩製で、膝から下が地中に埋もれています。仁王像の鼻を削って飲むと病気が回復するといった信仰があったため、鼻がかなり欠損しています。腰を強くひねった姿や顔の表情など、ユーモラスな印象があります。鎌倉時代後期から室町時代前期の間に作られたものであると推定されています。国指定特別史跡になっています。”





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満月寺入り口の右の小高い山の斜面に岩窟があり、3体の石仏があり臼杵石仏を造立した

関係者と伝えられています。左の人物像は、満月寺を創建し石仏を彫ったとされる蓮城法師

とされています。右の2体は、真名野長者(炭焼小五郎)とその夫人玉津姫です。

これらの作年は、平安時代後期〜鎌倉時代に製作されたようです。

真名野長者伝説は、大分県の民話ということですが、山口県人としても馴染みの姫島や周防

國大畠などの地名も出て、内容も面白いので、Wikiより下載します。


民話(真名野長者)として語られる伝説
継体天皇の頃、豊後国玉田に、藤治という男の子が産まれたが、3歳で父と、7歳で母と死に別れ、臼杵深田に住む炭焼きの又五郎の元に引き取られ、名前を小五郎と改めた。

その頃、奈良の都、久我大臣の娘で玉津姫という女性がいたが、10歳の時、顔に大きな痣が現れ醜い形相になり、それが原因で嫁入りの年頃を迎えても縁談には恵まれなかった。姫は
大和国の三輪明神へと赴き、毎晩願を掛けていた。

921日の夜、にわか雨にあった姫は拝殿で休養していた所、急に眠気を覚え、そのまま転寝してしまった。すると、夢枕に三輪明神が現れ、こう告げた。「豊後国深田に炭焼き小五郎という者がいる。その者がお前の伴侶となる者である。金亀ヶ淵で身を清めよ。」

姫は翌年2月に共を連れて西へと下るが、途中難に会い、臼杵へたどり着いた時には姫1人となってしまっていた。人に尋ね探しても小五郎という男は見つからず、日も暮れ途方に暮れていた所、1人の老人に出会った。「小五郎の家なら知っておるが、今日はもう遅い。私の家に泊まり、明日案内することにしよう。」

翌日姫が目を覚ますと、泊まったはずの家はなく、大きな木の下に老人と寝ていたのであった。老人は目を覚ますと姫を粗末なあばら家まで案内し、たちまちどこかへ消えてしまった。

姫が家の中で待っていると、全身炭で真っ黒になった男が帰ってきた。男は姫を見て驚いたが、自分の妻になる為に来たと知り更に驚いた。

男は「私1人で食べるのがやっとの生活で、とても貴女を養うほどの余裕はない」と言うと、姫は都より持ってきた金を懐から出し「これで食べる物を買って来て下さい。」と言って男に渡した。

金を受取った男は不思議そうな顔をしながら出て行った。麓の村までは半日はかかるはずであるのに、半時もしないうちに手ぶらで帰ってきた男は言った。「淵に水鳥がいたので、貴女からもらった石を投げてみたが、逃げられてしまったよ。」

姫は呆れ返って言った。「あれはお金というものです。あれがあれば、様々な物と交換できるのです。」

すると男は笑いながら言った。「なんだ、そんな物なら、私が炭を焼いている窯の周りや、先程の淵に行けば、いくらでも落ちているさ。」

姫は驚き、男に連れて行ってくれるように頼んだ。行ってみると、炭焼き小屋の周囲には至る所から金色に光るものが顔を出しており、2人はそれらを集めて持ち帰った。

更に水鳥がいたという淵へ行ってみると、中から金色に輝く亀が現れ、そのまま水の中へと潜って行った。
「ここがお告げにあった『金亀ヶ淵』に違いない!」と思った姫は淵の水で身を清めた。すると顔の痣は瞬く間に消え去り、輝くばかりの美しい姿となった。

2人は夫婦となり、屋敷を建てた場所が真名野原(まなのはら)という所であったことから、「真名野長者」と呼ばれるようになった。

やがて2人の間には娘が産まれ、般若姫と名付けられた。姫は成長すると輝くような美女になり、その噂は遠く都にまで伝わって行った。多くの貴族たちが后にと使いを送って来たが、
長者夫婦は「大事な跡取り娘であるので」と断り続けた。

その頃、都では皇子達の間で後継争いが勃発していた。兄は有力豪族の支援を得て優勢であったが、弟はいつ暗殺されてもおかしくないほど危うい状況であった。弟は豊後国の美女の噂を聞き、「どれほどの美女かこの目で見てみたい」との口実を作り都を脱出する。豊後国に到着すると宇佐八幡宮へ参拝して皇位を預け、名も山路と変えて長者の屋敷の下働きとして潜り込んだ。

長者は使用人達や客人をもてなす為の建物を幾つも建てたが、これらが竣工する頃になって姫が病に臥せってしまった。長者はあらゆる名医やまじない師を呼んだが治る気配は無かったが、山王権現へ祈願したときに「三重の松原にて笠掛の的を射よ」とのお告げがあった。

長者の周囲の者は笠掛の的を知らず困惑したが、山路が知っているというので命じてみると直ぐに馬に乗り的を射て山王権現より錫杖の下賜を受けて戻って来た。

長者は姫が回復すると2人を娶わせ、新たな屋敷を建てて住まわせようとしたが、屋敷が完成する前に勅使が下向し兄天皇の崩御を伝えてきた。

山路は長者に本当の身分を明かし、都に帰らなければならないことを告げた。しかし、般若姫は既に皇子の子を身籠っており、共には上京できない状態であった。

翌年、般若姫は女の子を出産し、玉絵姫と名付けた。般若姫は玉絵姫を長者夫婦に預けると、千人余りの従者を引き連れて臼杵の港より都へ向けて出発した。

長者夫婦は山の上から船を見送り、その山は姫見ヶ岳と呼ばれるようになった。また、姫の一行は、途中豊前国の小さな島に立ち寄り、これが現在の姫島(大分県)である。

般若姫を乗せた船はしばらく順調に航海を続けるが、周防国田浦にて暴風雨に巻き込まれ遭難。大畠に漂着したところを地元の村人に救助され介抱を受けるが数日後に他界。享年19

姫の死を悲しんだ長者は姫の菩提を弔う為、中国の寺へ黄金三万両を贈った。すると中国より蓮城法師が長者の為にやって来た。

長者は満月寺を建立して法師の居とし、石仏の製作を依頼した。法師は数年の歳月をかけて深田の里一帯に石仏を彫った。これが現在の国宝臼杵石仏の由縁である。
その後、推古天皇の時代に長者は97歳で、玉津姫は91歳でこの世を去った。《出典:Wiki》




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「満月寺五重塔」

1315
年(正和4年)の作。作者は日秀という阿闍梨(あじゃり、あざり)です。臼杵市指定

文化財になっています。







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満月寺 鐘楼






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宝篋(ほうきょう)印塔


鎌倉時代後期(14世紀初頭頃)に造立された総高4.2メートルの凝灰岩製の塔です。

国指定特別史跡・重要文化財になっています。






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宝篋(ほうきょう)印塔








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釈迦如来像







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仁王像

臼杵摩崖仏は、大分県臼杵市深田にあります。

現在、石仏59体が国宝に指定されていますが、地名によって、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石

仏)、ホキ石仏第2群、山王山石仏、古園石仏と4群に分かれて鎮座されています。

地形が谷から山の斜面に沿っての摩崖を彫ったのですが、その全部を回るとかなり疲れま

す。最後に最大の古園石仏群を拝観しましたが、臼杵石仏を代表し、よく紹介されている

大日如来像の仏頭が繋がった御姿に接するとおおきな喜びと安堵感に包まれます。

何時、誰が創ったのか?詳細は一切記録に無いそうで謎の石仏群なのです。

しかし、石仏の作風などから凡その時代は判ったものゝ、約400年間忘れられていた間に

比較的柔らかな阿蘇溶結凝灰岩の石仏は風化され面影を留めていなくなりました。

昭和の時代になって、その歴史的価値や造形の優秀さが見直され、国宝として保護・保存

活動が行われるようになりました。現在も摩崖仏を風化から守るため、建屋などを建設中

です。

一応見学が終わって、古園石仏群の高台から前を見ますと、広大な平地です。今は、石仏

公園と言っているようですが、その向こうに紫雲山満月寺があります。

                          《2018.12.22 周南市 東郭》


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古園石仏の高台から前景、紫雲山満月寺が見える。






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紫雲山満月寺

満月寺は1562年(永禄5年)頃に焼かれ、復興されないままでしたが、1950年(昭和25

年)に現在の本堂が復興されたそうです。
 






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紫雲山満月寺

”深田の里には当時は多くの寺があり、祇陀院・療病院・施薬院・安養院・快楽院の5院と、河口坊・悟楽坊・岡坊・南坊・谷坊・東坊の6坊など、無数の小さなお堂があった。それらを総称して紫雲山満月寺と呼んだ。現在の満月寺本堂は、昭和25年に日本山妙法寺(山主)、故藤井日達大上人の手で祇陀院跡にこじんまりと復興された。満月寺は大友宗麟時代(永禄5年)頃に焼かれ、その後復興できず、ただ小さな御堂だけが明治の初め頃まであった。仏像をお守りする人がなくなり、部落内を持回りと成っていたが、臼杵市内の龍源寺が47年間ほど預かっていた。その後満月寺の復興と同時に還座したもので、ここの本尊は釈迦如来像である。”《出典:石仏観光センター》





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紫雲山満月寺本堂

※ 国宝臼杵石仏守護寺と表札が掲げてあります。






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満月寺 本堂 内陣








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満月寺 本堂 ご本尊 釈迦如来






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藤井日達大上人(扁額 立正安国)







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扁額 但行禮拜







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伝教大師最澄と比叡山

比叡山延暦寺は、延暦7年(788年)、伝教大師最澄上人が22歳の時に開かれ鎮護国家・人材

育成の根本道場と下記にあります。今回も ”祖師御業績絵看板” が12枚ありましたので、紹介

致します。

                            《2018.11.29 周南市 東郭》



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最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767 - 822年)。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。
 
最澄
法名      最澄
法号      福聚金剛
諡号      伝教大師(傳蛎膸奸
生地      近江国滋賀郡古市郷(現:滋賀県大津市)
没地      中道院(比叡山)
宗派      天台宗
寺院      一乗止観院(現:根本中堂)
師       道邃・行満・翛然・順暁
弟子      義真、円仁ほか
                                     《出典:Wikipedia》  



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