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周南市 東郭の世界
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旧萩藩校明倫館

萩博物館で「長州ファイブ幕末・海外留学生の軌跡」の見学を終え、当時の長州藩の壮大な

志を持って新たな日本を創る為、「生きたる器械」たらんとした五傑の心意気を感じながら

萩・明倫学舎へ赴いた。全国屈指の規模を誇った萩藩の明倫館が(旧)明倫小学校となり

平成26年まで、その校舎を萩・明倫学舎として我々に伝えようとの試みているのである。

パンフには、藩校跡に建つ日本最大の木造校舎とあり、本館・2号館の各教室を利用して

藩校明倫館展示室・幕末ミュージアム・世界遺産ビジターセンター・復元校長室や復元教室

を設けてあり、膨大な資料やビデオ放映、素読教室などで「伝えたい物語」をアピールして

いる。余りに広く、余りに多い展示品を丹念に見ると、一日では覚束ないと思われるが、今年

は明治元年から150年、維新胎動の地で明倫館の面影を偲ぶのも悪くはない。

                           《2018.12.6 周南市 東郭》


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旧萩藩明倫館(明倫学舎)は、山口県萩市江向江向3区の1にあります。

北国街道(国道191号)線に接しており、萩市役所の北側に位置します。

敷地は、50,000m2あるそうで、東京ドーム(面積4,6755m2)より大きいですね。

西側に、広大な駐車場(180台)があり、バス停もあります。

普通乗用車1回¥310ですが、萩博物館で払ったので2回からは無料でした。

尚、明倫学舎本館の見学は無料ですが、2号館見学は¥300となっています。




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明倫館 南門(表御門)

この門は、嘉永2年(1849)江向に新築された新明倫館の正門として建てられたものです。

門は切妻造り本瓦葺きで桁行3.94m、梁間3.15mの一間一戸の四脚門で、左右に袖があり、

潜門があります。

この門は、藩主が聖廟を拝する春秋の「釈菜(孔子祭)」や公式行事のみ開かれました。





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南門の明倫館(表御門)扁額 







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南門前横に井戸がありました。






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明倫学舎 西側からの校舎風景


明倫館(めいりんかん)は、長州藩の藩校。水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、

日本三大学府の一つと称された。





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説明板





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明倫館碑
明倫館碑 (旧萩藩校明倫館)
 

並んで建つ左側の碑は、元文6年(17416代藩主毛利宗広が創建の由来を記して建てたもので、旧明倫館から移したものです。
右側は嘉永2年(184913代藩主毛利敬親が新明倫館の開校を記念して建てたものです。幕府に対する忠心を意味する箇所(幕命而)が削られた跡があります。(国指定史跡)





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幕命而が彫られていた部分






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                   明倫館石碑







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明倫学舎


明倫館概要
1718年(享保3年)、萩藩5代藩主・毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建(敷地940坪)。1849年(嘉永2年)には、13代藩主・毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下江向へ移転(敷地15,184坪。建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪)。
図書館としての機能も持っていた。
1863年(文久3年)、藩庁の山口移転により、上田鳳陽が1815年(文化12年)に山口市中河原に開設していた私塾山口講堂(後に山口講習堂)を山口明倫館と改称、藩校に改め、萩・山口の両明倫館が並立することとなる。
責任者として明倫館総奉行の職が設置され、加判役支配下であった。






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明倫学舎

旧萩藩校明倫館
萩明倫館は、敷地内に明倫小学校が建設され、1929年(昭和4年)1217日、国の史跡に
指定されている。敷地内には、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。

明倫小学校の木造校舎は2014年(平成26年)3月まで使用され(隣接地に新築移転)、
2017年(平成29年)3月に敷地一帯が明治維新150年記念事業として設置された萩市の観光拠点施設「萩・明倫学舎」となっている。
萩藩校明倫館は、享保3年(1718)、家臣の文武修業を目的に、萩藩5代藩主毛利吉元により萩城三の丸の平安古惣門西隣(追廻し筋)に建設されました。

その後、嘉永2年(1849)、13代藩主毛利敬親により江向の地(現在の萩市立明倫小学校敷地)に移転・新築されています。

これまで、明倫館に関しては、「水練池」(すいれんいけ。水中騎馬の練習場)、「有備館」(ゆうびかん。剣術と槍術の稽古場)、「明倫館碑」(明倫館創立の由来などを記した石碑。2基)が国史跡に指定されていました。

今回、新たに聖廟の跡地や発掘調査で確認された南門跡と既指定地を結ぶ地域9,570,07
が史跡地として追加指定され、あわせて、史跡の名称が「旧萩藩校明倫館」に変更されました。 なお、指定地内に建つ明倫小学校本館は国の登録有形文化財となっています。
また、南門など明倫館遺構5件が市の有形文化財(建造物)に指定されています。



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明倫学舎
周防大島の給水が本日午後5時までに全世帯に給水が再開されました。

10月22日に大島大橋に貨物船が衝突し、高いマスト部が船に横倒しになったまゝ航行していたの

も驚きましたが、あれって車なんかの当て逃げと同じじゃないですかね。

それに、衝突した影響で周防大島への送水管が切断されて、そのパイプが海面迄垂れ下がっていた

のにも驚きました。大島大橋も強度面で問題が発生したようで、当初、通行止めになったり、

そのうち片側交互通行は出来るようになりましたが、車は2㌧車までとなりましたが、物流など

大渋滞です。その後8㌧車まで緩和されたようですが、島民の生活は水道水が使えないので、

大変でした。9,046世帯が断水の憂き目にあったそうで、察してあまりあります。

テレビなども何回も不自由な生活の実態を放映していましたが、だれもこんなことが起こる

なんて想像だにしなかったに違いありません。

当局も随分努力はされたのでしょうが、11月28日から徐々に給水が再開され始まました。

そして、遂に本日午後5時までに全世帯で給水が再開の運びとなりました。



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大島大橋

大島大橋の通行についても11月27日 午後3時から全面解除されました。

山口県は、重機を積んだ40㌧トレーラー2台を走らせて橋のたわみなど分析したとの事です。

この度の事故は想定外のことと捉えるのは、無理からぬことでありますが、島民の生活を

1ヶ月以上苦しめた付けは一体どうなるのでしょう。

周防大島島民にとっては、先の2歳幼児行方不明の捜索や逃亡犯の立ち寄った報道もあり、

なにかと人騒がせな事件が続きました。

これからは、危機管理という側面からも自ら毎日の生活を見直して、より安全にすることを

教訓としなければなりません。どうか、ゆっくりお風呂にでも入って、これまでの垢を落とし

て下さい。来年こそは、いゝ年になりますようお祈りいたします。

                           《2018.12.2 周南市 東郭》


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大畠瀬戸潮流

一昨日、島田川へ行って来ました。

7月6日の西日本豪雨で島田川は各地で氾濫し、川沿いは未曽有の被害を受けました。

人家には溢れた濁流が浸水し水が引いた後、畳から食器からすべてを洗わなければなりません

でした。家の中も泥がいっぱいで、これも乾けば粉塵となって空中を漂います。中には、住む

事を諦めざるを得ない家や地域もあり、後かたずけには2ヶ月も3ヶ月も要しました。

田んぼの稲も災害時には大分大きくなっていましたが、浸水すると多かれ少なかれ泥が入って

成長が止まります。農家は、少しでも稲を救おうとゴミを片づけたり泥を取り除いたりしまし

たが、もと通りにはなりません。多くは、土砂で埋まって田んぼ全体が白く整地したような泥

で覆われていたのです。

島田川のなかも様相が一変しています。

護岸は崩れ、増水時の水面の爪痕は、川底から4m〜5mの位置にまで塵が付着していることか

らも判ります。

沈下橋も流されてはいませんでしたが、ガレキなどが引っかかって埋まっていました。

現在は、かなり取り除かれていますが、当初は住居などへ人手が要りますので、当分そのまゝ

でした。また、川底の様子も激しい水流で掘り返されたり、流れが変わったりしてガタガタで

す。もう、野鳥は戻っているかも知れない?と久しぶりに探鳥にいったのですが、冬鳥も

やって来ていて、昨年と変わりがありませんでした。

でも、竹藪も水分荒れて、刈られていましたので、警戒心の強いオシドリは見なかったです。

                           
                           《2018.11.29 周南市 東郭》




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川岸のノコンギク







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アオサギが川を見ています。







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ニゴイだと思います。





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       ニゴイは居ましたが、お魚も鮎などは随分流されたと思います。







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アオサギ






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アオサギ








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マガモの群れ








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マガモの群れ、塵が引っかかっています。







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マガモの群れ







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イチョウ






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カイツブリ








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カイツブリ

山口県萩市で明治維新150年記念特別展第2弾が開催されたので、参観に行って参りました。

開催は、萩博物館です。萩博物館は、萩市堀内の伝統的建造物群保存地区内の大野毛利家の

屋敷跡に建設したというのも、江戸時代の街並み(武家屋敷など)のまゝであること、歴史

資料が町全体であるという考え方からです。創設は、1946年ですが、現在の萩博物館は

2004年に開設されました。

ところで、長州五傑(ファイブ)というのは、江戸時代末期(幕末)の1863年に長州藩から

清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに

留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)

5名の長州藩士の事です。

                           《2018.11.25 周南市 東郭》


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今展のテーマは、「生きたる器械」が特に取り上げられていました。写真の手紙左3行目を

四角で囲んでみました。「生きたる器械」と手紙を書くに至った理由は、下記によります。

文久3418日(186364日)、井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命を受ける。428日(614日)には洋行のため、井上は野村と共に京都を発ち、56日(621日)に江戸に到着した。
57日(622日)、駐日イギリス総領事エイベル・ガウワーを訪ね洋行の志を述べ、周旋を依頼する。ガウワーからは船賃が700ドル(約400両)、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされる。江戸到着後さらに2人(伊藤・遠藤)増え、5人分つまり5000両が必要になった。洋行にあたって藩主の手許金から1200両(井上・伊藤・山尾の3人で600両)を支給されたが当然足りなかった。そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた1万両の準備金があったので、佐藤は「藩邸の代表者が保証するなら5000両を貸す」ということになり、藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決してもその志を遂げたいと半ば脅迫的に承諾させ、5000両を確保することができた。
《出典:Wikipedia》

井上(聞多)は、長州ファイブを代表して、毛利登人・楢崎八十郎・周布政之助(麻田公輔)・桂小五郎ら藩政府の重役にあてて、長文の手紙を書きました。
その最後に、”勝手な金策を行ったことをくり返し詫びた後で、「これも不様よければ、生きたる器械を買い候よう思し召され、御緩容願い奉り候」”と、書いているのです。
当時の武士というものは、なんて律儀なんでしょう。
現代風に考えれば、如何に藩命とは言え、藩主敬親公から賜った600両では、渡航費用や
滞在費用は足りないとすれば、足りないと藩庁に言えばいゝ筈ですが、5,000両の先行投資
を許してくれるよう詫びています。
しかし、5,000両と言えば、現代の貨幣価値で5〜6.5億円になりますから、彼らの志に照らしてみれば考えられない高額であり、判るような気がします。
西洋の軍事技術と西洋事情に通じて藩のために尽くすことは、「生きたるの器械」になることです。こうして、ヨーロッパの政治・社会制度・技術等を学んで帰り、明治時代に貢献することになります。
元々、優秀であったとは思いますが、英語なんて全く知らなかった幕末の日本武士がそれらの難関を退けて、その学問を極めるまで習得し、更には、日本に帰ってその技術を一から
普及したことは、誠に美談であります。
高杉晋作は、功山寺で”これより長州男児の肝っ玉をお見せ申す” と決意を表明しましたが、
”生きたるの器械” となるのも長州男児の決意でありました。
同時期に、薩摩藩も英国へ留学生19人を派遣しましたが、後に活躍した人物は五代友厚くらいしか知りません。昨日、2025年の大阪万博開催地が決定しましたが、彼は大阪経済の基礎を
造った人物です。
しかし、長州ファイブのそれぞれの仕事を見事に成し遂げたのは、まさに、奇跡に近い人材
登用と言っても過言ではありません。
現代、彼ら長州ファイブは、それぞれ、外交の父「井上薫」、造幣の父「遠藤謹助」、工学の父「山尾庸三」、内閣の父「伊藤博文」、鉄道の父「井上勝(野村)」と呼ばれています。



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萩博物館東口






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萩博物館東口横厠所







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萩博物館





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萩博物館正面入り口







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萩博物館(長屋門から)






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萩博物館(長屋門から)







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萩博物館長屋門外塀







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隣屋敷塀







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隅矢倉







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隅矢倉







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多くの夏ミカン樹がありました。







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長屋門内の休憩所や案内など(江戸時代の城下町絵図)






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長屋門内(城下町地形)








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レオ消防ポンプ







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レオ消防ポンプ説明








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萩市長「あいさつ」文






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当日の展示品は、撮影禁止であり、写真はありません。

廊下に、「萩ゆかりの人々」の写真が40枚〜50枚くらいありました。

しかし、流石に萩市は奥が深いですね。文化も歴史も風景もあって、いゝ処です。

石油化学工業プラントの特徴の一つに、フレアースタックがあります。

下の写真のような炎の出ている塔のことや手法を指しますが、これがプラントを安全に保つ為

の重要な設備であります。石油を精製する製油所などの生産・処理プラントでは原油を熱分解

してガソリンや軽油を作る際にメタンなどの炭化水素ガスが発生する。しかし、これらのよ

うな余剰ガスは、そのまま大気中に放散すると、臭いも強く環境汚染につながり、特に硫化

水素のような有毒ガスを含むこともあり危険なので、生産・処理施設から十分安全な距離に

設置したフレアスタックに導き、煙突の先で燃やすことである程度無害化しています。

石油化学製造プラントのスタート・停止時、運転調整時などには、多くの余剰ガスが発生し

ます。この出光徳山事業所でも8月全装置の定期点検補修時のフレアスタックの増炎について

予め、”近隣の皆様へ” と称して知らせています。なにしろ、急にこのフレアスタックから

火炎が10m以上も立ち上り、夜中などにあっては工場全体が真っ赤になる程ですから、吃驚

します。当然、消防署や工場に問い合わせも殺到して関係者は対応に追われることになりま

す。いや、これも市民として当然のことですが、爆発などの心配は、まず、ありません。

寧ろ、それを防ぐための操作なのです。

ところで、地震などでも、地震感応システムにより、プラント緊急シャットダウンシステムが

働くことがあります。この場合は、誰でもびっくりします。地震で家などが揺れたと吃驚して

外を見ると、このフレアスタックから巨大な炎が噴き出しているので、更にびっくりしま

す。特に夜など遠くからだと徳山の町が燃えているように勘違いしてしまう程なのです。

近年では、私を含めた市民の方々も周知されていると思いますが、知らない人はびっくり

します。なにしろ、プラントは、内と云わず外も「火気厳禁」の標示ばかりですし、一番

 火気に気を付けねばならないところで、火が燃えているのですから・・・

                            《2018.11.9 周南市 東郭》

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周南コンビナートのフレアスタック


フレアスタック (flare stack) は原油採掘施設、ガス処理施設、製油所などで出る余剰ガスを無害化するために焼却した際に出る炎、また、その手法である。

概要
石油を精製する製油所などの生産・処理プラントでは原油を熱分解してガソリンや軽油を作る際にメタンなどの炭化水素ガスが発生する。しかし、これらのような余剰ガスは、そのまま大気中に放散すると、臭いも強く環境汚染につながり、特に硫化水素のような有毒ガスを含むこともあり危険なので、生産・処理施設から十分安全な距離に設置したフレアスタックに導き、煙突の先で燃やすことである程度無害化している。
余剰ガスの処理は、ガスを回収してリユースする方が良いという見方もあるが、技術的に高度で莫大なコストがかかるため、製品の値段を上げざるを得なくなる。また、本来排出するガスを溜めておけば、引火による爆発の可能性もある。高い塔の先で燃やすことで、工場内での引火の危険を減らし、コストを抑えることができるフレアスタックが主流となっていると考えられる。
フレアスタックには通常、黒煙防止の為頂部にスチーム(蒸気)を吹き込むことで、可燃性ガスと空気をよく混合するなど工夫がされている。黒煙の正体は、ガスの不完全燃焼によるカーボンの燃え残りである。そのため、余剰ガスと空気の混ざる量を調整することでガスが完全燃焼し、黒煙を発生しないようにすることができる。
また、このカーボンと以下の水性ガス反応を起こすことで火炎を無煙にすることができる。
 
その他
通常のフレアスタックが細長い塔状になっている理由は、狭い敷地でスペースを活用するとともに、燃焼ガスの輻射熱を高さ方向の距離で軽減させ、大気中に十分拡散するようにするためである。しかし、その反面、輻射熱・騒音・可視炎といった周辺環境への影響を、より広範囲に及ぼすという欠点がある。一方、バーンピットのようにガスの輻射熱を距離方向で軽減させる方法もある。

量の多少にかかわらず、ガスは常時燃焼を続けており、ガス供給が一時的に止まってもパイロットが着火しており、燃焼が中断しないようになっている。また、燃焼の炎が装置や施設内に侵入(逆流)しないように、フレーム・アレスター(flame arrester)が付いている。
他に停電などの緊急時に精溜塔内の圧力が急上昇して、ガスが異常発生する事があり、安全弁だけで賄え切れない場合にもフレアスタックを使い、ガスを放出させることもある。また、スタートアップ時など、大量の余剰ガスを放出させる必要がある場合にも使われる。                                                                                                   《出典:Wikipedia》



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周南コンビナートのフレアスタック

フレアースタック
 

石油精製・石油化学製造装置のスタート・停止時、運転調整時などに発生する余剰の燃料ガス、可燃性ガスを燃焼させて安全に排出する為の設備がフレアースタックです。当事業所では危険物・高圧ガスを多量に扱っています。余剰になる可燃性ガスをそのまま大気に放出すると、火災・爆発事故や環境汚染を引き起こす恐れがあります。設備にとっては重要な安全設備になります。
昔は赤々と燃えているのが製油所のシンボルでしたが、近年はフレアースタックに流していたガスを、燃料ガスとして回収し、有効利用しています。
CO2
の発生を抑え、地球温暖化防止にも貢献しています。《出典:出光興産HP》



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