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周南市 東郭の世界
9/2日本時間 6:00 周南23℃東京25℃ 奈良23℃台湾25℃上海25℃ “ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ”

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昨日の続きですが、大畠駅を通過して坂を下ると信号機があります。

其処を左に回ると、大畠港です。大島大橋が出来る前は、此処から周防大島へ渡る連絡船が

出ていて、ミカン狩りなどに行ったものです。

ここから、大島大橋の絶景を真近に眺望することが出来ます。

大畠瀬戸は、幅750m、深さ20m、潮流約7ノットだそうです。

関門海峡の早鞆の瀬戸が約幅600mとなっていますから、広いといえば広いです。

話は逸れますが、山口県で一番人気の橋は、角島大橋ですね。それから歴史的には、錦帯橋

だと思います。関門橋は、別格で山口県というより日本全体での番つけが適当です。

それから、今年の話題性では、この大島大橋でしょうね。今回の衝突事故で、40日間も断水が

続くという、前代未聞の事故です。それに、周防大島の2歳児行方不明事件や富田林署の逃亡

犯も周防大島で一週間くらい滞在し、この大島大橋を通って上関へ行ったようです。

今年の漢字は「災」でしたが、まさに、周防大島も随分迷惑を被りました。

島民の方も送水再開がなったとき、”もうこれくらいにして欲しい” と仰っていましたが、

明年は、平穏な年になって欲しいものです。

                           《2018.12.16 周南市 東郭》


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周防大橋(大畠側)







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周防大橋








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周防大橋(周防大島側)








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大畠側の橋脚は、補強してあります。大畠側の橋脚と比べると塗装も違うし、リベットのよう

な物が一面に見えています。橋自体も相当な被害を受けていたことが判ります。

垂れ下がっている黒いパイプは、以前の送水管でしょうか?(12月12日)







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大島側の橋脚付近と黒いパイプ






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高潮時中央桁下29Mの文字が見えます。ここを高さ40mの貨物船が衝突して通過しました。







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現在の貨物船 航行






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現在の防予フェリー 

初冬の虹(岩国市)

こんばんわ!

昨日(12月13日)、岩国市門前川の処で虹を見ました。

時刻は、13時15分頃の約10分間くらいです。

晴れているのに、北西の上空に黒い雨雲が東へ流れているとき、薄い虹が出ました。

それも、地上から円弧を描き、また、地上まで伸びていて、スケールの大きな虹でした。

家人は、それを観て、”なにかいゝ事があるょ!” と喜んでいましたが、そんなことはありませ

ん。単なる自然現象です。

しかし、この後、初めての野鳥タゲリを観ることが出来たのは、幸運でした。

                          《2018.12.13 周南市 東郭》


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岩国市の虹







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岩国市の虹







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岩国市の虹(門前川と岩国基地)

旧萩藩校明倫館(4)

旧萩藩校明倫館は、明倫小学校を経て、今、明倫学舎として偉容を保っています。

萩市は、明治維新胎動の地として位置づけ、その長州藩志士を多く輩出した明倫館を此処で

顕彰し中心的な拠点として、また、世界遺産都市としてアピールしています。

多くの尊い命を維新の為に失いましたが、今では、旧幕府方や維新雄藩とも貴重な彼らの命

が今日の日本の礎を創ったと共通の認識を持つようになりました。明治維新150年経過し、

改めて平静に明治維新を見る時代になったことは、幸せなことです。

会津藩に於いても長州藩を恨んでいると、いろいろ喧伝されて来ましたが、近年両市の市長も

握手して理解を示すようになりました。東郭も逆に鶴ヶ城や飯森山に行った時は、その風土を

想い、理解してあげようと改めて思いました。若林の松蔭神社で毎年開かれる松陰・維新祭な

どには、この旧両藩?の主役たちが仮装で時代まつりをしたり、会津名産品も萩名産品も土産

として地元からやって来た人によって販売されています。

そして今回明倫学舎見学で、150年前の彼らを冷静に見、又、彼らの国の為に尽くす熱気を

じました。

                         《2018.12.11 周南市 東郭》



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スナイドル銃






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大砲






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砲弾







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鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応413 - 6日(1868127 - 30日))は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。
戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。《出典:Wikipedia》



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山崎合戦官軍大勝利之図

経過
鳥羽・伏見での戦闘
3日午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触した。街道の通行を求める旧幕府軍に対し、薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答、交渉を反復しながら小枝橋付近で両軍は対峙した。通行を巡っての問答が繰り返されるまま時間が経過し、大目付の滝川具挙の家臣が騎馬で駆け抜けようとするも阻まれ断念、業を煮やした旧幕府軍は午後5時頃、隊列を組んで前進を開始し、強引に押し通る旨を通告した。薩摩藩側では通行を許可しない旨を回答し、その直後に銃兵、大砲が一斉に発砲、旧幕府軍先鋒は大混乱に陥った。この時、歩兵隊は銃に弾丸を込めてさえおらず、不意の攻撃に狼狽し、滝川具挙の乗馬は砲撃に驚いて暴走、滝川を乗せたまま前線から走り去った。奇襲を受けた形になった旧幕府軍の先鋒は潰走し、見廻組など一部が踏みとどまって抗戦していたところ、後方を進行していた桑名藩砲兵隊等が到着し反撃を開始した。日没を迎えても戦闘は継続し、旧幕府軍は再三攻勢を掛けるが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やし、ついに下鳥羽方面に退却した。
一方、伏見でも昼間から通行を巡って問答が繰り返されていたが、鳥羽方面での銃声が聞こえると戦端が開かれた。旧幕府軍は陸軍奉行竹中重固を指揮官として旧伏見奉行所を本陣に展開、対する薩摩・長州藩兵(約800名)は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖し、奉行所を包囲する形で布陣していた。奉行所内にいた会津藩兵や土方歳三率いる新選組が斬り込み攻撃を掛けると、高台に布陣していた薩摩藩砲兵等がこれに銃砲撃を加えた。旧幕府軍は多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返したが、午後8時頃、薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中し奉行所は炎上した。新政府軍は更に周囲の民家に放火、炎を照明代わりに猛烈に銃撃したため、旧幕府軍は支えきれず退却を開始し、深夜0時頃、新政府軍は伏見奉行所に突入した。旧幕府軍は堀川を超え中書島まで撤退して防御線を張ったが、竹中重固は部隊を放置したまま淀まで逃げ落ちた。
この時の京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。
3日、朝廷では緊急会議が召集された。大久保は「旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、徳川征討の布告と錦旗が必要」と主張したが、春嶽は「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘であり、朝廷は中立を保つべき」と反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。《出典:Wikipedia》





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山崎合戦官軍大勝利之図


近江方面
一方、旧幕府軍では伊勢方面から京都に向けて援軍として騎兵1個中隊と砲兵1個大隊が発進していたが、3日夜になって大津に潜入していた偵察から既に大津には新政府軍が入っているとの報告が入った。これは大村藩兵50名のことであったが、旧幕府軍の援軍は大津に新政府軍が結集していると誤認して大津から京都を目指す事を断念し、石部宿から伊賀街道を経由して大坂に向かうことになった。4日になると、朝廷から改めて命令を受けた佐土原藩・岡山藩・徳島藩の兵が大津に入り、彦根藩もこれに合流した。これによって5藩合わせて700名となり、6日は更に鳥取藩兵と参謀役の木梨精一郎(長州藩)を大津に派遣するも、新政府側が危惧したこの方面からの旧幕府軍の侵攻は発生しなかった。
近江方面の戦況について、大久保は5日付の蓑田伝兵衛宛の書状で、井伊直弼などを輩出した譜代の大藩である彦根藩の旧幕府からの離反に皮肉を込めつつも、彦根藩が味方に付いたことで背後(近江側)の不安がなくなり、旧幕府軍支配下の大坂から京都への物資の流入が止まったとしても、近江から京都への兵糧米の確保が可能になったと記している。また、東久世通禧も後になって大村藩が素早く大津を押さえたことで、旧幕府軍からの京都侵攻とこの戦いで未だに態度を決しかねていた諸藩部隊の新政府からの離反を防いだこと、同藩が大津にある彦根藩の米蔵にある米の新政府への借上げを交渉したことなどをあげて、大村藩の功労が格別であったことを述べている。
淀の戦い
4日は鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すも、指揮官の佐久間信久らの相次ぐ戦死など新政府軍の反撃を受けて富ノ森へ後退した。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わり、旧幕府軍は敗走した。また同日、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、錦旗を与え、新政府軍がいわゆる官軍となる。
なお錦旗となる旗は岩倉と薩摩藩が事前に作成しており、戦闘の際にその使用許可を朝廷に求めた事から「薩長が錦旗を偽造した」とする説もある。しかし、朝廷の許可を得て掲げられた事は確かであり、天皇の許可を経たのかは定かではないが、朝廷はその旗を錦の御旗と認めている。
5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃した。一進一退の乱戦の末に旧幕府軍は敗退し、鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失う。そこで現職の老中でもあった稲葉正邦の淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。旧幕府軍は、新政府軍を足止めするため伏見の町一帯に放火すると、淀城へ向かった。しかし淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく、城門を閉じ銃口を向け旧幕府軍の入城を拒絶した(ただし、藩主である正邦は当時江戸に滞在しており、藩主抜きでの決定であった)。入城を拒まれた旧幕府軍は、男山・橋本方面へ撤退し、旧幕府軍の負傷者・戦死者は長円寺へ運ばれた。また、この戦闘で新選組隊士の3分の1が戦死した。
橋本の戦い
5日夜、勅使四条隆平は西国街道上の山崎関門(梶原台場)へ赴き、山崎一帯の津藩兵を指揮する藤堂采女を説得して、これらの津藩兵を官軍とした。
6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。
しかし、山崎の一帯を守備していた津藩兵は官軍となったため、淀川対岸の高浜砲台(高浜船番所)から旧幕府軍へ砲撃を加えた。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。また、この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(後に死亡)を負ったとされる。《出典:Wikipedia》





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山崎合戦官軍大勝利之図

影響
6日、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説いたが、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。際して会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容保に恭順策を進言したとされ、これが慶喜の逃亡劇の要因を作ったともいわれる。だが長輝にとっても、よもや総大将がこのような形で逃亡するとは思いもしなかったという向きもある。陣営には長輝が残ることとなったが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれる形となり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになる。
7、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となった。1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順する。25日、列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。2月には東征軍が進軍を開始する。
旧幕府方は15000人の兵力を擁しながら緒戦にして5000人の新政府軍に敗れたが、これは新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことが大きい]
両軍の損害は明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑』によると新政府軍約110名、旧幕府軍約280名といわれている。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。《出典:Wikipedia》




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萩藩藩士 久坂玄瑞(松下村塾 塾生)






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萩藩藩士 高杉晋作(松下村塾 塾生)・吉田松陰先生


※此処(旧萩藩校明倫館)には、いまも彼らの志が息づいている。




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有備館


有備館は、旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもので、木造平屋建入母屋造桟瓦葺、桁行37.8m、梁間10.8mの南北に長い建物である。内部の北半分は板の間で39畳の剣術場、南半分は土間で54畳の槍術場、各その西側を藩主の上覧場とし、中間に藩主臨場などの場合に使う控室がある。有備館は、藩士の練武のほか、他国からの剣槍術の修業者との試合場、すなわち「他国修業者引請剣槍術場」でもあった。坂本龍馬も来萩し試合をしたといわれる。《出典:旧萩藩校明倫館案内》




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有備館

旧萩藩校明倫館(3)

萩市の明倫学舎へ見学に行ったときの、展示品など紹介しています。

吉田松陰先生の言葉の朗誦教室で約30分間受講したことは、前回紹介致しましたが、

DVDなども収録し、なかなか愉快でした。

”明倫館は、桂小五郎、吉田松陰、高杉晋作、井上馨らが学んだ長州藩の藩校でした。

水戸の弘道館、岡山の閑谷学校、鹿児島の造士館などと並び称される、国内でも有数の規模

を誇った藩校であり、創設は1719年(亨保4年)。五代藩主・毛利吉元が家臣の子弟教育の

ため、萩城の三の丸に設立したのがその始まりで、130年後の1849年(嘉永2年)に十三代

藩主・毛利敬親が、現在の江向の地に移し、それまでの敷地940坪から約15千坪へと拡

充、学問のみならず、武芸などの修練も行う総合的な学校として発展した。この時代の学生

の数は実に千人を超えていたという。

明倫館では、漢学をはじめ、音楽、医学、天文学、算術、地理、礼式、兵学、馬術、槍術、

剣術、騎術、大砲、柔術、游泳などの様々な学問、武術を教えていた” と申しますから、

世界でも有数の識字率の江戸時代にあっても優秀な藩と言えるのではないでしょうか?

尤も、2018年の山口県小学校の学力検査では、国語Aが12位、国語Bが6位、算数Aが17位

算数Bが12位、理科9位となっています。今度ノーベル生理学賞を受賞された本庶先生は、

山口県宇部市で少年時代を過ごし宇部高から京大へ入った経歴が紹介されて、県民は大喜び

です。しかし、昔は確かに、教師の教え方も伝統があって、それらが教育県としての誇りが

ありました。でも、今はそんな時代ではありません。学力でも本庶先生のように世界に

貢献できる人材となることを目標としなければなりません。

松陰先生は、”大事なことを任された者は、才能を頼みとするようでは駄目である。

知識を頼みとするようでも駄目である。必ず志を立てて、やる気を出し努力することによっ

上手くいくのである。” と述べられていますが、本庶先生は、”弁護士より医師の方が多く

の人を助けられる” と医学の道を選ばれました。志を立てて、粘り強く諦めない努力は、

同じ姿勢であります。”至誠天に通ず” は明倫館の松陰先生の教えですが、本庶先生も恐らく

吉田松陰先生の生き方を感じ取られておられるか、同じ考えとなったのか聞いてみたいもの

です。

                          《2018.12.10 周南市 東郭》


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明倫館 南門



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この説明板は、南門の裏側にあります。






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長州では、四境戦争と呼ぶ、大島口・芸州口・小倉口・石州口での戦いの勢力







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四境戦争のかぶりもの








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四境戦争のかぶりもの







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四境戦争のかぶりもの







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四境戦争のかぶりもの








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軍装のこと






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銃剣






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銃剣







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火薬







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長州鉄砲








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四境戦争時の武器・武具の差







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ライフル銃

旧萩藩校明倫館(2)

明倫学舎へ入ると、”今から朗誦の授業 があるので参加してみないか?" と言われ、何はともあ

れ授業を受けることにしました。東郭の小学校時代が再現されたような雰囲気です。

椅子も机も木製であり、机は天板を開けると物入れになっています。黒板も白墨を使用する

ものです。私の入学した徳山小学校では、論語の素読をしていますが、此処では松陰先生の

言葉を採用しています。時間は、およそ30分くらいでした。

”今日よりぞ おさな心を打ち捨てて 人と成りにし 道を踏めかし” 明倫小学校で実際に

朗誦している言葉だそうです。朗誦の言葉も小学生から大人まで色々あります。

最初に唱えた松陰先生の言葉は、しおりにもなっていて受講記念として拝領しました。


                           《2018.12.7 周南市 東郭》



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明倫学舎 本館 入り口







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朗誦教室 会場






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朗誦教室






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朗誦とは







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松陰先生辞世





萩明倫学舎(旧萩藩藩校明倫館)松陰先生の朗誦教室 動画

   ①先生と朗誦の紹介

  
   ②明倫学舎と松蔭神社など紹介
   


   ③志をたてて・・・


   ④親思う・・・








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玉木文之進(幼少期の吉田松陰を教育した。叔父。)






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 2F廊下






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特別応接室






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特別応接室







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「幕末・熱き心の女たち」 内田青虹 寄贈






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階段・手摺・窓枠・腰板など全て木製で非常に温かい雰囲気で往時が蘇る。

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