「最後の晩餐」への熱い想い
今回のイタリア旅行を締めくくるにあたってレオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作と言われる
「最後の晩餐」の絵を紹介させて頂きます。
今回のイタリア旅行は、家内がイタリアへ行きたと言うことから始まったのですが、私にとってはイタリアは5回目になり、南部のアルベロベッロ等の一部を除いては殆ど行ったことのある場所です。
しかし色々パンフレットを見ていたら、「最後の晩餐」鑑賞確約と書かれたパンフレットが目にとまり
このツアーを選択次第です。
と言いますのも、今から40年近く前の1971年に私が一人旅で最初にヨーロッパを周遊した時に
ふらっと一人でこの絵を鑑賞に行き感動した思いが今でも残っていたからです。
もう一度「最後の晩餐」を見たい!!!この思いでこのコースを選んだと言っても過言ではありません。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」があることで有名な教会です。
教会左手にあるドメニコ会旧修道院の食堂の壁にこの絵は描かれています。
この絵は1495年〜97年に描かれた絵で
キリストが弟子たちに向かい、「汝らの中の一人、我を売らん」と言った瞬間の、12人の弟子たちの驚嘆んと動揺が生き生きと捉えられている壁画です。
右手の教会と左手の黄色い建物が旧修道院の食堂です。
1971年に見た「最後の晩餐」(絵葉書)
壁画は無論当時から撮影は禁止でしたので、絵ハガキで見て下さい。
この絵は「最後の晩餐」の壁画の対面の壁に描かれている壁画です。
【最後の晩餐がたどった受難の歴史】
この壁画の歴史をたどれば、正に修復の歴史と言っても過言ではありません。
当時の壁画にはフレスコ画が一般的でしたが、この技法は壁が乾燥するまでに手早く描く必要があり
又繊細な光や影を描き出すのに難点がありました。
そこでダ・ヴィンチは石膏に樹脂製溶剤を加えた下地にテンペラと油彩を混ぜた画材を考案し
この新技法で壁画を描き切ったのです。
しかし、数年を経無い内に、石膏の水分が画材の油に反応し、カビが発生。
完成から20年後には損傷が目立ち始め、50年後にはほぼ半分が破損。150年語には「シミにしか見えない」状態になっていたと言われています。
そこで修復作業が何度も繰り返され、又第2次世界単線では修道士たちが壁画の前に土嚢を積み上げ必死の努力で壁画は守られました。焼け野原の真ん中にぽつんと建つ壁の写真が印象的でした。
1970年以降は現代技術を駆使して1999年にようやく元の姿に近い状態になりました。
壁画がどれほど傷んでいたかを示す例として、キリストが立っているテーブルの下の部分に扉の跡が残ってますね。これは当時テーブルの下には何も描かれて無いと思われていたので、教会と食道を繋ぐ扉をこの部分に作ってしまったのです。しかし後の修復で、この部分にも絵があったことが判明、しかし気がついた時は後の祭り、その部分を修復すことは不可能となってしまったのです。
2009年に見た「最後の晩餐」(絵葉書)
この絵ハガキの状態は見た目とほぼ同じでした。
(絵はクリックすれば大きくなります)
最後の晩餐鑑賞への苦難の道
最後にこの壁画の鑑賞は大変難しくなっています。
完全予約制は無論ですが、15分毎に25名しか中に入れません。
流れはこうなっています。予約時間の30分前になると入口に並び、キップを確認して第一の控室に入り入口は閉められます。そして15分語には第2の控室に入って又待ちます。
そして定時になると今まで鑑賞していた客は外に出されて25名のみが中に入り15分間存分に鑑賞できます。撮影も禁止だしおしゃべりも禁止ですから只、黙々と絵画を見入っているだけです。
ところで我々のツアーは総勢29名。ですからちょっと大目に見て団体はまとめて入場させてくれるのかと思ったら大間違い。きっちり25名で終了。
しかも予約時間が連続では無く、最初の25名が午後4時半、後の4名が午後6時なのです。
添乗員に聞くと、相当頑張ったが無理だっと言うことです。
ということで最初の25名が終了した時点で一旦全員が近くのスフォルツエスコ城に移動し
ここで散策しながら時間をつぶして、再び6時前に教会に移動すると言う行程です。
長い間イタリア旅行記に付き合って下さりありがとうございました。
最後の方は少し急ぎましたが、その理由は後ほど申し上げます。
この後は再びクロアチア旅行記を再開したいと思います。
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