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現在は岩手県の中尊寺境内を観光中です。
本堂の参拝を終わり、いよいよ月見坂を下って行きます。
こちらは本堂前にあるお土産屋さん。
イチョウが綺麗でした。
この後も沿道には沢山のお堂があるのですが時間の関係でパス。
周りの紅葉を眺めながら歩きました。
綺麗な杉木立の中の坂を下って行きます。
こちらが月見坂の最終地点。
以上で中尊寺の観光は終わりましたが、最後にもう一つだけ紹介したいものがありますが、それは次回に書きますので待っていてください。
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東北地方の旅
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詳細
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現在は岩手県の中尊寺境内を観光中です。
中尊寺の主な部分の観光は終わりました。
そろそろバスの待つ駐車場に帰ろうかと思うのですが、その途中の月見坂沿いにも
沢山のお堂がありますし、この辺りの紅葉も綺麗ですから、それ等を見ながらゆっくりと坂を下りて行きたいと思います。
大日堂(詳しくは分かりません)
この辺りの紅葉も綺麗です。
峰薬師堂
御本尊は丈六(約2.7m)の薬師如来の座像でカツラ材の寄木造り、金色に漆を塗り金箔をおいたもので、藤原末期の作で現在重要文化財として讃衡蔵に安置されています。
不動堂
中尊寺の祈祷道場です。御本尊の不動明王はどんな邪悪でも取り除いてくれます。
ここでは色々な種類のお札を受ける事が出来ます。
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現在は岩手県の中尊寺境内を見物中です。
【松尾芭蕉と中尊寺】
源義経が平泉に自害し、藤原氏が滅亡して500年目に当たる元禄2年(1689年)、
松尾芭蕉は門人の曾良と2人、「奥の細道」の旅に出ました。時に芭蕉46歳、曾良41歳の春です。
江戸を発ってから44日後の5月13日、平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居館があったと伝えられる高館の丘陵に登ります。
そこには当時の栄華は無く、旧跡は田野となって広がっているばかりです。
夏草や 兵どもが 夢の跡
「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という杜甫の句を思い起こしながらしばし佇んだことでしょう。
続いて中尊寺を訪れた芭蕉は、かねてより伝え聞いていた金色堂に参拝します。
鎌倉北条氏によって建てられたと言われる覆堂の中で、朽ち果てた金色堂はかろうじて光を投げかけます。
五月雨の 降残してや 光堂
金色堂を光堂と称したのも、仏と人との間に介在する光と、その光の彼方にある盛衰の歴史に、芭蕉のまなざしが向けられたいたからに相違ありません。
(以上、中尊寺のホームページより抜粋いたしました)
金色堂を出て左へ進むと重要文化財の経堂があります。
そこを過ぎると芭蕉の銅像が立っています。
芭蕉像の横には奥の細道の一文が書かれた石碑があります。
芭蕉像の向こうに見えるのは重要文化財の旧覆堂です。
昭和38年に現在の鉄筋コンクリートの覆堂が完成するまで、金色堂はこの中におさまっていました。
1288年に鎌倉幕府によって建てられたこの覆堂は5間四方の堂で、古くは「鞘堂(さやどう」)と呼ばれたそうです。
芭蕉もこの堂内に入って金色堂を拝観したんですね・・・。 昭和38年に新覆堂が建設されて役目を終わり、ここに移築されたのだそうです。 |
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現在は岩手県の中尊寺を見物中です。
【金色堂(国宝、世界文化遺産)】
平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂である。堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂(おおいどう、さやどう)内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されている。
(館内は撮影禁止ですから、下の写真は中尊寺のホームページより拝借しました)
中尊寺創建当時の姿を今に伝える唯一の建造物で、1124年に上棟されました。
堂の内外に金箔を押してある「皆金色」の阿弥陀堂です。
(屋根の部分は元々金箔が無かったので修復時にも金箔されませんでした)
金色堂は、長年の間にネズミなどの害にあったり、金箔が剥げるなど劣化が進んでいたため1962年から1968年にかけて解体修理が実施され、建立当初の姿に復元されています。
【藤原4代のミイラと副葬品】
金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められている。金色堂には「中央壇」「左壇」「右壇」の3つの須弥壇があり、各壇に1体ずつの遺体を安置されています。
(下の写真はパンフレットからコピーしたものです)
金色堂内は大変な混雑で、ベルトコンベヤーに乗っているように順に送りだされます
金色堂を出た後は綺麗な紅葉を眺めながら次なる目的地に向かいました。
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