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ひろしの旅日記
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ウジジ浜

沖永良部島観光2日目、最初に行った所はウジジ浜です。
石灰質の岩が、長い年月波や海水による侵食を受けてできた「奇岩」が立ち並ぶ岩礁海岸。歴史的には、1890年9月カナダ船リージ・トゥループ号がウジジ浜沖で座礁した際に島民が乗組員を一生懸命救助にあたったことから、たいそう感謝された歴史があり、 記念碑や船のモニュメントがあります。

今日も元気でカンナちゃんがガイドをしてくれました。
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ウジジ浜に到着しました。奇岩が一杯です。
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浜の横にはリージ・トゥループ号の模型がありました。
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田皆岬

沖永良部島の観光を行っています。
次に来たのは田皆岬です、奄美十景に入っている景色の綺麗な岬です。
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奄美十景と書いてありますね。
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場所は左上の赤い矢印の所です。
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この岬は周りに手すりや囲いが無く、その先は断崖となっています。
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見えている海は東シナ海で、この日も風が強く大変しけていました。
おそるおそる近づきながら写真を撮りました。
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1日目の沖永良部での観光は終わりフローラルホテルに入りました。
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ここでの夕食は珍しく写真に撮りました。今回の奄美の旅では何処に泊まってもこのような和食の懐石料理でした。今回はご飯の代わりにミニステーキが出ました。
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この席で添乗員から重要な発表がありました。
明日の午後には次の徳之島へ渡るのですが、徳之島で1泊した後の次の日の便が欠航するので明日は徳之島で下船せずに奄美大島まで行きたいとの事です。
鹿児島と奄美諸島の間は2隻のフェリーがグルグル回っているのですが、何処かでシケの為に待機すると後の行程が全て狂ってしまうそうです。
最終日の帰りは奄美大島から大阪への直行便が取れてますのでこれには乗りた。
そうすると徳之島観光を諦めて奄美大島での観光を2日間にする変更です。
来れには我々全員ガッカリしました。何故なら奄美諸島の中で最も観光地が多いのが徳之島で、最も見所が少ないのが奄美大島だからです。
大阪の本社の人も後の手配を色々しているのですが、この案以外は無理とのことだそうです。

越山公園

沖永良部観光で次に訪れたのは越山公園でした。
和泊町で最も標高の高い越山公園は島内を一望できる公園として人気があります。
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丁度い月末から2月にかけては彼岸桜が咲くとのことで、あちこちで少し咲いているのが見受けられました。彼岸桜は全て下を向いて咲き、散る時は花弁が散るのではなく花ごとポトンと落ちます。
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越山公園には沢山のモニュメントがありますので紹介しましょう。
『和泊町戦没者慰霊の塔』は日清戦争・日露戦争・第二次世界大戦等に、祖国の安泰と、家族の幸福を願って出征し、不幸にして戦死・戦病死された、和泊町出身673柱の御霊に対し、慰霊と感謝の誠を捧げると共に、戦没者の功績を後世に顕彰するために建立されました。
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終戦50周年記念碑
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奄美群島が昭和28年に日本に復帰した「日本復帰記念碑」
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一番変わっているのがこの「モニュメント」です。
碑文から抜粋しますと「このモニュメントは町制施行50周年を記念して和泊の悠久の繁栄と新しい町づくりのシンボルとして制作されたものです」。
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この越山公園からは沖永良部が一望できます。
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世之主の墓

沖永良部に着きましたので直ぐに観光が始まりました。
最初に行ったのは「世之主の墓」ですが、私は琉球王朝の歴史は殆ど知りませんので島の観光案内の文章を引用させて頂き説明します。

「世之主の墓」
沖永良部島は、1266年から琉球の北山王国に属し、薩摩藩が侵攻して直轄領とするまでの 340余年を「那覇世」の時代と呼ばれています。
世之主(真松千代)は西暦1400年ころ、沖永良部島を統治していた島主である。
真松千代の母は美しい沖永良部の娘。琉球が北山、中山、南山と別れていた時代に
北山に働きに行ったとき、北山王に気に入られ、妾となり子供を身ごもってしまった。母は沖永良部へ帰り、真松千代を生む。真松千代が17歳になったとき、北山王に会いに行き、子供として認められ、沖永良部島の世之主となった。
世之主のまつりごとは、優秀な四天王と呼ばれる家来もあり、民衆に慕われる立派なものだった。世之主は中山王の姫を奥方(真照間慕之前)をもらい、嫡子を1人もうけた。しかし、琉球の北山、中山、南山の戦いが激しくなり、中山は南山を陥れ、北山も滅ぼした。中山は世之主の奥方が中山王の姫であるため、沖永良部島へ和睦の船を差し出したが、 世之主はこれを軍船と勘違いし、大国には勝てないと判断し、自害してしまった。
世之主の墓には、中央に世之主と、殉死した奥方、嫡子の3名が、四隅には殉死した家来四天王の4名(後蘭孫八、屋者真三郎、西目国内兵衛、国頭弥太郎)が眠る。
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背に低いお墓の門を開けて中に入ります。
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中に入ると少し広い中庭のような場所が有り、その奥の岩山をくり抜いてお墓は造られていました。お墓の扉を恐る恐る開けるガイドのカンナちゃん。以前に開けた時にトカゲが飛び出してきた経験があり嫌がってました。
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今回は何も飛び出してきませんでした。
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中には3つの骨壺が有り、中央に世之主と、殉死した奥方、嫡子の3名が眠っています。
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沖永良部島へ移動

与論島観光を終えお昼頃与論港に向かいました。
フェリーは定刻より30分遅れでやってきました。大きな8000トンクラスの船です。人の乗り降りはそれほど多く無く我々のグループには20人位入る大きな部屋が用意されていました。フェリーですから車も積めるのですが、殆どが島の生活品を積んだコンテナの積み荷が多くフォークリフトで次々と降ろしていました。
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作業は手際よく30分位で船は次の寄港地、沖永良部島へ向かいました。所要時間は1時間30分ほどです。この船は沖永良部島を経て徳之島→奄美大島→鹿児島と渡ってくのですが船内アナウンスで、徳之島までは予定通り運航しますが、そこで天候の回復を待って待機するとのことです。船は与論島を離れました。
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船内では乗船時にもらった昼食のお弁当を食べました。
暫くすると沖永良部島が見えてきました。
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沖永良部島に到着、階段を下って下船です。
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港には大きな観光バスが迎えに来ていました。これに我々8人と添乗員が乗りますから一人4席はあります(笑)
それでは早速島の観光へと向かいましょう。
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