無用の人、日々の戯れ、上等ですよ。

今日も生き伸びた、人をして語るにまかせよ

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生きる知恵

棒ほど願って、芯ほども叶わない。

だからといって、絶望したり、悲観したりするには及ばない。

うまくいくとき、いかぬとき、くりかえし、
人の一生、波形を繰り返して、最後は、ちょうど、独楽がその動きを止める前に、繰るくるっと回って、首をうなだれるようにして臨終。私も、福田も、小沢も、今、幼稚園に通園している子供だろうが、みな遅かれ早かれ同じようなプロセスをたどります。

人としてやさしい心を持ち、正義感が強く、不正を憎み、
そして、「人が、人でありたい」と願えば願うほど、ふさぐこと多い世の中です。

テレビや世間で、「おもしろい」といわれるもの、心を高鳴らせるものはありません。
そんなところに人間の幸せがありえないことは、みな知っています。

金持ちだろうが貧乏人だろうが、一日の行動は似ています。
朝目覚めて、洗顔して、トイレに行って、現役は仕事、学生は学校、リタイア人は、人それぞれ。
一日なぞ、意識しないと、あっという間に終わります。

私は、一日一日をそれなりに、終われば、それは、それで望外の喜びとおもうようにしています。その中でも、たまには、自分の努力を感じるとき、期待をしなかった良い出来事に出会うと、生きているということは良いことだ、生きる喜びを感じます。

悪い機嫌のときままあります。
あっても、長引かせないことだとおもいます。

心の換気をすることは、生きる知恵のひとつです。

戦後体制その軍事的側面が日米安保であり、そのイデオロギー的側面が、自由民主主義、とお書きになれてていますが、私が、自問するのは、戦後日本にその支配的なイデオロギーとして、あるいは、支配の道具としての「自由と民主主義」が貫徹していたのかということです。

端的に書くと、
自由と民主主義=戦後民主主義という等式は成立しないと思います。
そして、(私の感傷?で書くならば)、左辺と右辺に、交互にゼロを代入することを潔しとしない。

戦後を支配したイデオロギーは、健全な自立的個人主義を原基とした自由民主主義ではありません。

かいつまむと、あいもかわらずの、
1.滅私奉公の伝統的な、集団主義
2.歴史との葛藤を回避した平和主義
3.そして金儲けが関与できる限りの自由の謳歌(消費の自由、営業の自由)

それらをミックスさせたものが、日本の戦後の「自由と民主主義」の大いなる部分ではないでしょうか。

過労死、連赤、オーム、時津風、いじめからは、とても、「最低質の自由」、「最低質の民主主義」という言葉すら出てこない。

そこから、「素因数」として現れるものは、相変わらずの、集団優先、滅私奉公、しかし実際は一部のものの利益確保であることは言うまでもありません。

私は、伝統的な集団主義を、建設的な個人主義に転換できなかったところに、今の閉塞状況に大なる責任があると思っています。

つまり、百歩譲って、自由と民主主義が、支配の道具であったとしても、
「そこにすら到達できていない」というのが現状に近いのではないでしょうか。

言い換えると、被支配者(支配者)が、自由民主主義という言葉から想起される、建設的、かつ精神的な緊張感を持ちえず今日まで来てしまったゆえ、この政官経マスコミの理不尽な支配、それに寄生する、大小の利権享受者を許してきたと思います。

うんざりするかもしれませんが、国民の一人一人が、その自由と民主主義の価値と葛藤することによって、その支配の道具としての「スローガンだけの自由と民主主義」を凌駕する、それしか今日の閉塞の出口がないと思います。

百年単位の仕事になるかもしれません。

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