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「元気を出してね」
伏し目がちにそう云う彼らに、玲は玄関先で目を伏せて礼をする。
衣擦れを起こすと鼻腔を擽る匂い。 その同じ匂いを纏った彼らはそのまま出て行った。
しばらくすると、砂利の上をタイヤが滑る音が聞こえ、数台の車の姿が擦りガラス越しに塀を曲がって行った。 夕刻の暖かな日差し。 南向きの玄関の床に、草履の斜めに走る影。 靴箱が不意に目に映る。 その中には数日前に急遽片づけた靴たちが窮屈に入れられている筈だ。
玲の履き古したスニーカーと偶に履くブーツ。 長靴もあったような。
きっとそれよりも数の多い、男性用の革靴。
年の割にお洒落だった祖父の愛用の靴たちは、きっと磨き上げられていて、出番を今か今かと待ち受けているに違いない。
主の訃報を知ってもなお。
――カチカチ
廊下の先にある古い振り子時計。
毎日欠かさず螺子を巻いていた祖父が、いつだったかその仕事を孫に替わった。
そのときは面倒な仕事を押し付けられたと思ったが、今思えば随分と助かった。
こうして最後の家族を失った家で、自分の心臓以外の音が聞こえてくるのが何よりもの救いに感じられる。
どうしようか。 玲は着慣れない黒い着物を纏ったまま、玄関で立ち尽くしていた。
いろいろな書類をどうにかしなければ。
まだ社会人駆け出しの自分には分からない単語だらけが並んだ紙切れたちに、使命感だけが先走る。
同じ使命感だけでここ数日の葬儀屋の手配や遠縁への連絡、葬儀を過ごしたのだから、やれるはずだ。
うむうむ、と頷きながら、玲は帯に手をやる。
「まずは客間の片づけ。 それから葬儀屋さんにお金を振り込まない、とっ。 なかなか取れないなぁ」
帯を引くがなかなか取れない。 袷に手をやり引くがそれも固い。
「ああ、それから、仕出し屋さんに連絡をして」
指先で袷を引く。
「――それから、四十九日のこと、ご住職さんと相談、し、ないっ、とッ」
指先が白くなるほど引っ張り、引っ掻くように。
爪先が布の上を滑る嫌な感触が手を伝わる。
帯が崩れ緩むと、今度はそれが胴に纏わりつき、足元を滑る。
なかなか体から離れないそれらを、玲は荒々しく蹴散らそうとした。
「――それ、からッ」
それから。
それから、それから…何かあるはずだ。
それから、それから…。
――それから…――。
「――邪魔すんでぇ」
ガラガラと引き戸が開く音がすると同時に、暢気な声が室内に響いた。
黒いニット帽に、ダボダボの黒いスーツと黒ネクタイ。
そしてその細い首の上に乗っかっている、見慣れた血色の悪い顔が、こちらを見下ろしていた。
「何してんお前。 新手のストリップかいな」
心底不思議そうな同僚が、着物と格闘をしていた玲に独特のイントネーションで問いかける。
「…先輩こそ、何してんの」
もともと細目の彼はさらににっかと笑って線のようなそれで、玲の目の前に白いビニル袋を差し出した。
「腹減ったやろ。 牛丼買うて来たったで」
革靴の音を響かせて彼はしゃがみ込むと、帯を握っていた玲の手を取った。
その上にゆっくりとビニル袋を乗せる。
温かい牛丼の熱が手のひらにじわりと響き、鼻から甘い醤油だれの匂いが入ってくる。
生姜の匂いもするから、この分だと大盛りで入っているはずだ。
ビニル袋が僅かにかさりと音を出す。 かさり。
かさり、かさり。
「生姜大盛りにしてもろたぞ、お前好きやろ」
ほらね。
玲は思わず小さく息を吐いた。
「お前器用やなぁ。 泣くか笑うかどっちかにしぃや」
呆れたような彼の言葉に、玲は唸り声を上げる。
苦笑しながら先輩はビニル袋を傍に置くと、反対の手でニット帽と額の間をぽりぽり掻いた。
「っん、先輩…なん、で」
喉をつっかえつっかえにそう訊くと、片眉を上げてこれか、と帽子を摘まんだ。
「いやぁさすがに同僚の身内の葬儀に、金髪ライオンヘアで登場するわけにいかんやろ」
ぺろりとニット帽を退ける。 その向こうに見えたのは、見事なスキンヘッド。
「急やったからなぁ。 ストレートいうても色直すいうても、元々天然パーマやしどうにも収まりつか
んくて。 そんなら剃れやってなったら、今度は似合い過ぎてこれなら葬儀場でほんまもんに間違えら
れたら適んわってなって」
「…だから、ニット帽」
「せや」
至極当然とばかりに頷く先輩。
「黒の帽子いうたかて、キャップ被るわけいかんし、ハンチング帽もちゃうやろ」
「――…だからって、ニット帽も違うと思う」
玲の言葉を聞いて、彼は立ち上がるとニット帽を手のひらで遊ばせる。
「いいと思うたんやけどな」
先刻まで冷たい玄関には線香の匂いと冷たい空気、一つの草履、振り子時計の音だけ。
遠縁の親戚たちは元気を出して、と云った。
けれど誰も連絡をして、とか、相談に乗る、とか云ってはくれなかった。
見知らぬ縁者とはそういうものなのだろうと思った。
家族はもういない。 身を置く場所がない。 物質的なことじゃない。
帰れる場所がない。 帰りたいと思う場所が、もうない。
広い野原で放り出された針のようだ。
誰かに見つけられる気がしないし、誰かを見つける気もしない。
「―――お前、案外考えなしやな。 云うとくが、俺にはかわいい嫁がおんねんぞ」
けれど今は、妙な関西弁の男と牛丼の熱と匂い、それに角ばった革靴の音。
少なくとも、自分を心配して頭を丸めるくらいに思ってくれていた人がいる。
玲は気が付けば、足元に溜まっていた帯と黒い着物を置いて一歩進み出ていた。
「知ってる。 先輩には勿体ないを通り越してあり得ないと思わせるめちゃな可愛さを持つ愛妻姿と、せんべい布
団かと思うくらい容赦なく先輩を尻に引く賢妻姿を併せ持つ幸子ちゃん」
「余計なお世話や。 お前そんな風に先輩夫婦を見とったんか」
「これは例えるならばサッカーでゴールを決めた選手を迎えるようなハグ」
「分からんわ」
「先輩が五連続でソリティアをノーアンドゥでクリアできたときに賛辞を求めるハグ」
「それならしゃーないな。 今だけやで」
抱きついた玲を呆れたように迎えた片手。 スーツの肩から線香の匂いがしたけれど、頬に触れたつるつるの後頭部に涙も何も引っ込んだ。
■■◇
人は突き詰めると、独り。
それは変わらないけれど、だからこそ結びつく縁というのは大切なんでしょうね。
と思ったお話(笑)。 |
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黒い着物をスルスル。そりゃ女房もちだろうとそそるでしょうね。
血縁者よりも身内な人たちがいるのが救い。普段のあいさつだと言ってハグできる日常。
独りだけど一人じゃない。大切なあたりまえ。
[ イカダ ]
2015/5/24(日) 午後 0:54
イカダさんへ。ありがとうございます。
恋愛感情があればよかったのですがね。
ここでは、身内としての扱いということで(笑)。
実際にこんなことやってたら、ダメです( ゚Д゚) 不倫ダメ絶対。
そうですね。大切なあたりまえって、本当に。
意識できるときは、そのあたりまえを失ったときだったりする。
いつもきちんと意識できたらいいのに、と私も思います。
2015/5/25(月) 午後 10:43