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つづきです。
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祖父との散歩は、場所を移動すること以上の意味があった。あれから五十年経って私自身が祖父の年齢に近づいている今、「私は祖父と歩く時、英知と歩いていたのだ」とわかった。
祖父の名前はアルバートで、Sicangu Lakota族である。
最近、私はテレビの選挙のCMで激しく敵の候補者をけなし、名声をずたずたにしようとしているのを何度も見た。それらのCMを見ながら昔、祖父が言った言葉を思い出した。
「本当に謙虚な人は、歩く時にめったにつまづかないものだ。謙虚な人は頭が下がっていて、常に地面の方に顔が向いているからな。だが、ごう慢な人は、今現在の栄光の光の中で日向ぼっこをしようと、頭をいつも上げて歩く。だからつまづくんだ。ごう慢な人はこれから先のことよりも、今現在のことの方に関心があるのだ。」
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他にも祖父からすばらしい教えを受けた。例えば、アイデンティティについてだ。
私たちは個人として、集団として、社会として、国家として、誰なのか、またどのような人間なのか、といったことが、私たちの人生の中での強さになり、また弱さになる。また、それらのどのアイデンティティーにも貢献できるものが、個人としてのアイデンティティーであるというものだ。
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また、祖父と歩いた「道」そのものも、私の人生の中でいくつかの困難を乗り越える時に助けになった。幼い私との散歩の時、アルバートじいさんは時々立ち止まって、今来た道を振り返る習慣があった。私を肩車して歩きながら、私にも何度も振り返るようにと指示した。
「今来た道を覚えておけ。そのうち、お前はひとりでこの道を帰る日が来る。その時に自分がたどってきた道を覚えておかなかったら、道に迷うだろ。」
実はこれは、祖父からのアイデンティティーについての教えでもあった。自分は一体誰なのか、どういう人間なのかということは、人生の道の中で少しずつ作られていく。来る日も来る日も、自分の人生が、絶えることなく私たちを形作る。その人生の道を振り返らないと、自分のアイデンティティーはしっかりつかめないのだ。
祖父はこのようなことも教えてくれた。
「周りの人たちや環境は、わしらのアイデンティティーを変えようとしてくる。そんな時に、一番いい方法というのは、自分はどういう人間かを思い出すことだ。そしてそれ以外に、良い方法など無いのだ。」
私の祖父母は、非常に苦しい時代に生きた人たちだが、自分が誰で、どういう者か、といったことについて決してぐらつくことがなかった。彼らは、様々な困難に直面した時に一番良い方法は、自分は誰なのか、どのような人間なのかを粘り強く持ち続けることだと理解していた。
現在ラコタの人たちは、インディアン社会と白人社会の二つの世界の中で生きている。その中でインディアンがたどった道を振り返らないラコタの人は、混乱し、途方にくれている。
ラコタの人々が、英語を話し、白人の習慣に適応するということは、ラコタ族であることを捨てなければいけないということではない。必要なのは「適応すること」だけだ。適応するということは、無差別に変えてしまうことではない。
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つづく。
私も人から勝手な憶測や非難を受けます。「あなたは○○な人間なのだ」とか、「あなたがそんな風なのは、きっと〜だからだ。」とか。自分で違うと分かっていても、いろいろ周りから強く断言して言われるとやはり混乱します。そんな時、「自分はどんな人間なのか」を改めて思い出そうと思います。それこそ自分が人生の道に迷わない唯一の方法なんですね。。
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