一、芭蕉の甲斐入り 天和三年春(?)
松尾芭蕉の谷村流寓については未だに諸説があり確定されていないが、明治三年、大虫の稿本『芭蕉年譜稿本』それに勝峯晋風氏の『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒(びじ)の研究』、近いところでは小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』や赤堀文吉氏『天和三年の芭蕉と甲州』(都留高等学校・昭和四十三年度版)らが見受けられる。研究者の中には資料や自説を織り交ぜて定説化を急いで居る人もおられる。
芭蕉の甲斐入りの概要は凡そ次のようである。
天和二年(1682)の江戸大火の後、天和三年正月頃から五月頃まで、甲斐谷村秋元藩の国家老の高山傳右衛門の世話で甲斐谷村に来て暫く静養したと云うもの。
享元年(1684)から二年にかけて俳諧行脚、『野晒し紀行』の帰り芭蕉は再び甲斐に入った。
歴史上の人物の事蹟を追求した先人の研究には、諸説があり、どの説が正しいのか混乱するばかりである。読んで見ると解明よりさらに謎が拡大する書に遭遇する場合も多い。こうしたことは、歴史研究にはよく見られることで決して珍しい事ではない。これは資料不足の中で研究者の知識と推説が多く含まれるからで、歴史研究や、芭蕉の研究にもこれは言えることである。
さて芭蕉の来甲のことに戻るが、最初に芭蕉の天和二年〜三年の動向について考察してみたい。天和二年(1682)の冬十二月、芭蕉庵は焼失したというが、芭蕉死後の最も近い年代で芭蕉の優秀な高弟、宝井其角の『芭蕉翁終焉記』の記述では天和三年冬の事としてある。(註…宝井其角(蕉門十哲の一人・山口素堂とも漢学を始め俳諧でも深い関わりがある)
当時江戸での火事は頻繁に起こり、調べて見れば枚挙に暇が無いし、芭蕉の動向も天和三年それに天和四年の春頃までは不詳なのであり、安部正美氏著の『芭蕉傳記考説』「行実編」では、
天和三年(1683) 五 月 甲州から江戸へ帰った。
九 月 山口素堂の「芭蕉庵再建勧化簿」成る。
十二月 不詳。
天和四年(1684 ) 六 月 風瀑の『丑寅紀行』(貞享三年六月刊)入集。
八 月 〜十二月、門人千里を伴い近畿地方巡遊の途につく。
八 月 中旬頃、『野晒紀行』(『芭蕉年譜大成』今栄蔵氏著)
十二月 故郷、伊賀で越年。
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