芭蕉が甲斐谷村に流遇したと確説に近くなったのは、勝峯晋風氏の『芭蕉の甲斐吟行と高山麋塒』の次の記述にあると思われる。
天和二年師走の振袖火事は、突如芭蕉庵包んで一瞬の裡に拝燼とした。其角の「芭蕉翁終焉記」(枯尾花所載)は最も正確な芭蕉傳の第一文献であるが、「天和三年の冬深川の草庵急火にかこまれ」て、芭蕉は「潮にひたり」岸に舫ふ「苫をかづきて、烟のうちに生のびけん」と叙する九死に一生を迯れた。「爰に如火宅の變を悟り」て落延び、「無所住の心を發して行く所を定めず」流竄した。「其次の年、夏半に甲斐が根に暮らし」と述べるから、天和三年の夏は甲斐の国で暮らした譯である。其の「甲斐が根」は通説の初雁村(成美及び湖中説)よりは、「富士の雪みつれなければ」の文に徴して、もっと岳麓地方であらねばならぬ。郡内の城を擁する谷村は秋元藩の麋塒が、国詰の邸を構へたので、芭蕉はその谷村に客寓した新説を提出する。江戸から二日路の猿橋を通って、初雁村(今の初狩)立寄ったかは知れない。こゝに寄宿したのではない。
と記されている。これ以来芭蕉の甲斐谷村流寓説は高まる。
秋元家の谷村城の地図によれば、高山傳右衛門の家は特別な位置にはなく、(註…地図参照)城を囲むように、正面には高山五兵衛の屋敷があり、右には安中大兵衛・高山源五郎の屋敷、その間の町屋に囲まれた通りを出て、土田見徳の屋敷があり、その隣が高山傳右衛門の屋敷である。地図は寛永十年から宝永元年までの絵図とされているので、家屋敷は秋元家が武州川越に移封する末年のものと思われる。
屋敷の位置から推察すれば、この時期の伝右衛門は国家老の屋敷の場所としては城中より離れていて、いささか疑問が残る。
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