|
さらに、
18.本山桂河氏…一時甲斐の国に退遁し仏頂和尚の弟子六祖五平方や初雁村の万福寺に仮寓して越年した。云々
19.吉本燦浪氏…芭蕉は甲州に赴きて杉風の姉、又は仏頂の弟子六祖五平などを頼りていたりしが。
20.沼沢竜雄氏…天和二年の暮、江戸の大火にて芭蕉庵焼失の時、杉風の勧めにて、正月から五月頃まで、初雁村の杉風の家に滞在、その間に東山梨郡等々力村万福寺にも仮寓、云々
--------------------------------------------------------------------------------
二、芭蕉の再来甲 貞享二年
芭蕉と甲斐郡内のかかわりはもう一件ある。『芭蕉年譜大成』によると、
貞享二年四月中旬頃 甲斐の山中を訪れる
甲斐の山中に立ち寄りて 行く駒の麦に慰む宿り哉
甲斐山中 山賎のおとがひ閑づる葎かな
貞享二年四月末甲州街道経由で江戸に帰省。(木曾路経由の予定を東海道に変更)
とあり、この「山中」についても「さんちゅう」か地名「やまなか」と読むかが論争点になっている。
四月九日には鳴海の知足亭を訪れ一宿、四月十日には知足亭を出発、帰路は東海道を下った可能性が大である。と今栄蔵氏は推察されている。がこれさえも定かではない。諸説があり又、芭蕉の身辺についても記述された部分(甲斐の)が少なく推論でしか語れない事になる。「推説」は「定説」にはならない。
今氏によると東海道から甲斐山中に立ち寄ったことになり、天和三年(1683)に続いて貞享二年(1685)の甲斐入りは年代も近く、全く無関係ではあるまい。天和二年の甲斐流寓が確実なものであれば貞享二年の芭蕉の行動も先年の謝礼のために甲斐山中に立ち寄る事情があった事は人間としてごく自然であり、その関連を追求すれ天和三年の甲斐逗留も明確になる可能性が有り、研究の余地が残されている。絶対的な資料が無い限りは今後も定説はないままに諸書に著述されて行く事になる。是非小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』赤堀文吉氏の『研究紀要』所集の「天和三年の芭蕉と甲州」の御一読をお薦めする。
天和二年の『武蔵曲』・『錦どる』には芭蕉・麋塒・素堂翁も参加している。芭蕉と麋塒もだが麋塒と素堂翁も前述の谷村城主秋元但馬守と素堂の関係も官職を通じ深い繋がりがあったと思われる。素堂は晩晩年、川越を訪れている。この天和二年当時は芭蕉・三十九歳。麋塒三十四歳。素堂四十一歳である。もっとも芭蕉の生まれたとされる正保元年(1644)は寛永二十年十二月十六日に改元があり十二月十六日〜三十一日までの十六日間が正保元年となり、芭蕉はこの間に生まれた事になるとの見解を示す研究者もおられる。
『夏草道中』では貞享二年の芭蕉の甲斐入を次のように明言している。
《芭蕉の第二回の入峡は、貞享二年初夏四月ことである。貞享元年八月から二年四月までの「野晒紀行」
の途次で、二年の春「思ふ立つ木曾や四月の桜狩」と熱田で吟じて、木曾路に入り塩尻、諏訪を経て、甲州道中信州路を東に下った。初狩村の杉風の姉の許に立ち寄って、一昨天和三年暫く世話になった礼をも述べたことであろう。
追而申入候。此中にふじに長々逗流、其上何角世話に成候へば、別而御内方御世
話に候。いそがしき中に、うかうかいたし居候而きのどくに候。長雨にふりこめられ候事、とかうに及びがたく候。
行駒の麦になぐさむやどりかな
いずれへもよろしく御まうし可被給候。くはしきは重而々以上
十三日 桃 青
空 水 様
そして(書簡の日付は)帰庵後の五月十三日と思われる甲斐の俳人、空水宛ての此の書翰でも明らかのように、空水(『夏草道中』筆者注−不明)のところで、雨に降りこめられなどしたが、今度は、甲州道中二十五次を踏破して、四月末に深川の芭蕉庵に帰った。》
とあるが、その論拠は何を基にしているであろうか。
芭蕉は熱田からの帰路に木曾路から甲州街道に入り、郡内に至る道筋を踏破した事は文献資料には見えず、諸説混迷しているのが現状である。
『芭蕉傳記考説』「行實編」(阿倍正美氏著)によると、芭蕉は四月九日熱田を出立して、鳴海へ、十日江戸へ下る(『知足齋々日記』)。その後の芭蕉の行動は不明である。木曾路なのか、東海道を通ったかは資料不足で決定していない。それに関する書簡などがあっても、『野晒紀行』には甲斐の途中吟などは見えず、
甲斐の国山中に立寄て
行駒の麦に慰むやどりかな
の記載となる。阿倍正美氏『芭蕉傳記考説』によると、この「山中」のは
かひの国山家に立ちよる ………… 真蹟長巻
甲斐の国山家にたちよりて ………… 泊舶集
甲斐の山中に立ちよりて ………… 真蹟絵巻本
甲斐の国山中に立寄て ………… 濁子絵巻本
とありその読み方も「やまなか」か「さんちゅう」か意見が別れる所ではあるが、芭蕉が鳴海から東海道経て、御殿場から須走を通り籠坂峠 山中 谷村(流寓か) 甲州街道を通過して江戸に戻ったか、木曾路をへて諏訪から甲州街道を経て郡内谷村に入ったのか、資料文献からは決定することはできない。
しかし先述の『夏草道中』には芭蕉は甲州街道を利用し江戸へ戻ったと明記してある。こうした確説のような話は、後に比較資料を持たずにその書を読む人には真実として伝わる事となるのである。
『芭蕉年譜大成』(今栄蔵氏著)には、
四月中旬頃、甲斐の山中を訪れる(経路未詳)
甲斐の山中に立ち寄りて
行駒の麦慰む宿哉 (紀行)
甲斐山中
山賤のおとかひ閉づる葎かな(『續虚栗集』)
《註…葎やえむぐらなど、繁茂してやぶをつくるつる草の総称》
四月末、甲州街道経由で江戸に帰着。
卯月の末庵に帰りて、旅の疲れをはらすほどに
夏衣いまだ虱を取りつくさず (紀行)
資料を繕いながら推説を広げることは小説ではよくあるが、史実を伝える事蹟文献については、一考を要するのではないか。
萩原蘿月氏著の『芭蕉の全貌』には次の記載がある。
『芭蕉翁略傳』には
自書云、甲斐の国郡内と云所に至る途中の苦吟
夏ほくほく我を繪に見る夏野哉
此句ばかりかと存候
柏水丈 はせを
又、松瑟の「水の友」(享保九年刊)には畫讃と題してこの句が出ている。
『句選年考』には芭蕉の、
瓜の花雫いかなるわすれ草
を掲げて、その註に、
天和末、貞享の初の吟なるや。類柑子に其角が瓜の花の一花の文あり。其文に曰、河野松波老人(宗対馬守公の茶道)一物三用の器をもてあそべり、長嘯子のめで給へる記あり、ほとゝぎすまた聞はえする此、かの鉢たゝき所望して見んと、芭蕉翁高山何がし言水等是かれ訪ひ侍りけるに云々。
とあり、この句は貞享元年か二年の句としている。
さらに芭蕉の
木曾の情雪や生えぬく春の草
の句の註には
『芭蕉傳』を見るに、深川六間掘と云ふ所に庵を設けて、天和二年迄在住ありしに、其冬回禄の災にあひて、暫く甲州に赴き、彼国に年を越え、翌三年の夏末ならんか、深川の舊地へ帰ぬ。もしや此甲斐遊杖天和三年の春の吟なるや。
『枯尾花』序には、天和三年深川庵焼亡、翌年(四年)夏甲斐が根、帰府、庵再建芭蕉野分けしての吟有りと記せり。是を見る時は夏秋のみにして、春甲斐遊杖あらざる故春の句有る可きにあらず。又『枯尾花』の天和三年焼亡翌年とあるは天和四年即ち貞享改元の年なり。此元年の秋は古郷伊賀へ旅立ち「野ざらし紀行」あり。是を見彼れを察するに、秋庵再建直ちに旅立もいぶかし。もしや『枯尾花』に、天和二年を三年と印板を書損にや。
この様に芭蕉句の解説文には様々な文言が飛び交い、読む人はどの説が正しいのか悩むばかりである。
『續虚栗集』には甲斐を詠んだ歌が記載されている。そして山中も
甲斐山中にさまよひける夜、宿かりぬべき
かたもなくて
刀さげてあやしき霜の地蔵哉 破笠
雪消を出る甲斐の馬工郎 其角
秋 山
甲斐がねも見直す秋の夕哉 露沾
秋山や駒もゆるがぬ鞍の上 其角
『續虚栗集』「春の部」改正には
年の富士はつぼめるすがたかな 麋塒
《連衆…釋任口・芭蕉・自悦・杉風・・去来・千春・其角・以下略》
安部正美氏著の『芭蕉伝記考説』「行実編」は芭蕉の生涯を克明に浮かび出しているが、このあたりの行実解明は捗々しくない。
元禄三年四月二十四日附、北枝宛。芭蕉書簡の、
「池魚の災承、我も甲斐の山ざとにひきうつり、さまぐ苦労いたし候へば、御難儀の程察申。」
や其角の『芭蕉終焉記』には、
「……爰に猶如火宅の變を悟り、無所住の心を発して。其次の夏の半に、甲斐が根にくらして富士の雪のみつれなければと、それより三更月入 無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしければ、……」
とあり、芭蕉が甲斐に行ったのは夏の半とあるから五月のことである。芭蕉の甲斐逗留の時に秋元藩国家老高山傳右衛門(麋塒)がどう関与したかは後説であり、史実とするには資料が足りないことだけは間違いない。
また当期間に芭蕉の詠んだとされる句や、地域に残る芭蕉句を無理に谷村逗留中の句とすることもどうかと思われる。芭蕉の甲斐谷村逗留を史実としたい研究者の意図が見え隠れして気になる。
|