古池や 蛙飛び込む 水の音 芭蕉 ばしょう

芭蕉は庶民の俳諧師、文学者により聖人へ昇格

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芭蕉と甲斐

 松尾芭蕉と云えば、江戸時代俳文学の中心に居た人物である。しかし全く同時代に活躍し芭蕉を始め多くの俳人を助け立机させ、さらに新風を提示してその地位を確立した山口素堂(甲斐出身とされる)については、山梨県内に於ても全国的にもその評価が低い感がする。
  確かに後期の作品のでは芭蕉の方が上かも知れないが、漢学・和歌・能・書・琴等その趣の深さや、儒学の林家の門人(元禄六年入門)として、さらに類を見ない教養の深さは群を抜いていて、芭蕉を凌ぐことが諸書から十分窺う事が出来る。
 山口素堂の研究は荻野清先生(故)や清水茂夫先生(故)の労作が有るのみで、他は『甲斐国志』の記述をそのまま鵜呑みに記述し、有効な資料の無い「濁川改浚工事」を中心に自説を上乗せして展開したものが多く見受けられる。
 県内各地には芭蕉の句碑が林立するが、芭蕉がその地で詠んだ句と確認できるものは殆どなく、それは芭蕉門を名乗り芭蕉を崇め奉る事で、自らの俳諧の地位を誇示する為の建立が圧倒的に多いと思われる。
 芭蕉以後、俳諧を業とする人たちは芭蕉門を名乗り、芭蕉を崇め、芭蕉に近づくことが名声と実益をあげる手段ともなる。研究者にしてしかりである。
  門外漢の私には「古池や蛙飛び込む水の音」がなぜ秀句なのか理解できないでいる。
 さて本題の芭蕉と甲斐についてであるが、通説では芭蕉は二度甲斐に来ているが、その時期や場所については諸説ありいまだに定まらない。
  芭蕉書簡や高山傳右衛門繁文(麋塒)の遺族の記録では、芭蕉の甲斐入りは数度に及ぶとも伝えられ、死去した後の元禄名七年以後も甲斐を訪れる考えがあった事が書簡に見え、紹介している書も多い。
 歴史上の人物を追求する人は、有効な資料を収集し的確に判断することが必要になる。最も危険な行為は少なくあやふやな資料の上に私説や仮説を展開して、恰も読む人に史実のように伝えることである。
 芭蕉の来甲は間違いないが、その時期と世話をしたのが高山傳右衛門繁文(麋塒)であったかは資料から読み取れない。
 当時は、春一〜三月で夏は四〜六月である。また其角の『みなし栗』の芭蕉の跋の日付が「天和三癸亥仲夏日」とあるので、この跋が江戸で為されたものとすると五月以前には江戸に戻っていたことになる。
  不思議な事に優れものの芭蕉門人の俳諧師其角が著した『芭蕉終焉記』には、芭蕉が火事にあったのは天和三年の冬と記してある。私には間違いと断定できないが、上野館林松倉九皐が家に蔵されていた素堂の『芭蕉庵再建勧化簿』の日付が天和三年九月であるので、やはり其角の記憶違いであったのであろうか。
  芭蕉研究の第一人者の今栄蔵先生の『芭蕉年譜大成』によれば、

天和三年一月歳旦、「元日や思へばさびし秋の暮」。
春、五吟歌仙成る。連衆は芭蕉・一晶・嵐雪・其角・嵐蘭
であるがこの「春」の日時が定かではなく、夏に甲斐国谷村に高山麋塒を訪ねて逗留し、五月には江戸に戻る。とある。

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素堂と芭蕉それに甲斐

素堂、芭蕉関連の句文(抜粋)

炎天の梅花、雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せん。
されどもかの翁に、生きのこりて証人たらんも
のは我ならずしてまたたそや。
               しもつかさの散人 素堂

我友はせを老人、ふるさとのふるきをたつねん
ついてに、行脚の心をつきて、それの秋、江上の
庵を出、またの年さ月待ころに帰りぬ。

今はむかしの友はせをの翁、十暑市中に風月を語、 
七霜かつしかのかくれ家にともなふ。ことし十七回
にあたりぬれば、門人したしき友、かつしかの志を
つかんと、日頃は名をたにしらね所々を、句につゝ
りて手向草となしぬ。
芭蕉庵六物 素堂著

文台  西行法師二見の浦にて、
大瓢  ある人芭蕉庵にひさこをおくれり
小瓢  許子は捨て、顔子は用う。
檜笠  甲斐の山人にこひもとめて
畫菊  予か家に、菊と水仙の畫久しく
茶羽折 此翁行脚の頃、身にしたかへる
芭蕉行脚の出て久しく帰らさりし頃
いつか花に小車見ん茶の羽織 

はせを庵に帰るをよろこひてよする詞
むかし行脚のころ、いつか花に茶の羽折、と吟じて  
まち侍し、其羽折身にしたひて、五十三驛再往来、

芭蕉曾良餞別
松島の松陰にふたり春死なん

芭蕉居士の舊跡を訪ふ
志賀の花湖の水其なから 

芭蕉庵再建歓化簿

芭蕉庵やぶれて芭蕉庵を求む。力を二三生にたのまんや。めぐみを数十生に侍んや。

烏巾を送る
もろこしのよし野の奥の頭巾哉


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素堂と芭蕉の相愛

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素堂と芭蕉

 私の研究する山口素堂と芭蕉の関係は蜜月時代に入っている。延宝三年に「西山宗因歓迎百韻」に同席し、延宝四年には信章(素堂)との「天満宮奉納二百韻」、延宝四年には出入りする内藤風虎主催の「六百番俳諧発句合」、冬には京都の伊藤信徳・信章との「三吟百韻」を興行、延宝六年春には「三吟百韻二巻」を興行している。さらに『江戸広小路』。『江戸新道』にも両者が入集、延宝七年か八年には「両吟発句脇二組」や夷宅を交えての「三吟三物一組」成る。天和元年には木因との素堂亭訪問の打ち合わせをし、七月には素堂・木因・芭蕉との三物、天和二年春には京都の望月千春が東下、十二吟百韻に同席、同じ頃の「七吟世吉」にも同席している。二年八月十四日には高山麋塒の主催の「月見」に京都の信徳、素堂と共に臨み、素堂は「月見の記」を書く。そして大火災に遭遇する。素堂は天和三年九月には前述の「芭蕉庵再建勧進簿」と続く。風律の書には素堂は秋元但馬守に蚊足を世話している。素堂抜きには芭蕉の甲斐逗留は語れない。
 甲斐出身とされる山口素堂でさへ生まれた年は、一月四日(『連俳睦百韻』)、五月五日(『甲斐国志』)説があり定かではない。当時の著名人の生まれた年は没年より逆算して決めることが多く、生年が明確な人以外は殆どが逆算したものである。
 名前にしても『甲斐国志』は幼名重五郎、長じて市右衛門とあり『連俳睦百韻』では太郎兵衛、「とくとくの句合」では松兵衛の名も見える。この様に確定する資料のないまま素堂家は何時の間にか、巨摩郡字山口に生まれ幼少の頃府中(甲府)に移住し忽ち富豪になり人々に「山口殿」と称され、二十歳の時江戸に出て云々となってしまい、今では真実の如くに各書に引用され辞書類も殆どがこの説を引用し記載している。
 こうした仮説でも著名な人が書き、引用が度重なると、多くの庶民は洗脳されて真実の歴史と思ってしまうものである。
 秋元家、芭蕉、麋塒、杉風、素堂などは俳諧では語れない絆で結ばれていて、それが何であるか究明しないと真実に近づけないのではないかと思われる。

 尚、森島弥十郎基進の『甲斐国志草稿』には素堂の和歌が掲載されて居る。(『甲斐国志』には記載なし)

    P69 俳諧師素堂 此人手沢ニ希也故 此ニ出 歳暮 素堂

「春の日も夜も長月もあすか川 ながれて年のけふもくれぬる」

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蓑虫の音を聞きに来よ草の庵

   (『芭蕉翁の肖像百影』乾憲雄氏著)

   ★ 二人の隠者

 貞享の素堂の発句が、その気品の高遇さにおいて、当時の芭蕉をしのいでいるという評

価は、次の諸句に照らして、決して過褒ではない。

 市に入りてしばし心の師走かな

 雨の蛙声高になるも哀れなり

 春もはや山吹白し苣苦し

 この時期にこうした作品を残した最大の理由は、いうまでもなく芭蕉との交友が最も緊密に保たれたからである。両者の交友は、延宝三年の出会い以来終生のものであったはずであるが、貞享期の親密さは、思想的に一体であったという意味に於て、きわだった時期である。両者を結びつけた思想は、いうまでもなく隠逸への志向である。「甲子吟行」跋文をめぐる両者の態度に、思想的に一体であった二人を認めることができる。

 「甲子吟行」跋には長短二種のものが伝えられており、私は、長文は素堂の文章そのままであり、短文は芭蕉が手を加えたものではなかったかと考えている。この両者を比較してみると、素堂が「わたゆみを琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける、此の両句をとりわけ世人もてはやしけるとなり。しかれども、山路きてのすみれ、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべけれ」といっていることがまず注目される。一見素堂は、世評に抗してあえて隠逸の句を賞していないかのごとくであるが、素堂のこの一文は、「洛陽に至り三井氏秋風子の梅林をたづね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたゝんことかたかるべし」という文章を書くための行文でしかなった。

 素堂は世評以上に隠逸的世界を喜んでいたのである。

(中略)結局芭蕉は、「甲子吟行」の句を隠士の句だという素堂の言を認めており、また素堂と自分の間柄を、伯牙・鐘子期のそれにくらべることをよしとしていたのである

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山梨文学講座 山口素堂

素堂と芭蕉の交流略年譜 概略

詳細は近日公開の山口素堂の全貌」で

和 暦   西 暦  年   齢
           素堂 芭蕉
延宝 3年(1675) 34 32 素堂・芭蕉、宗因歓迎百韻の興行。
延宝 4年(1676) 35 33 天神天満宮奉納両吟『江戸両吟集』
延宝 5年(1677) 36 34 風流大名内藤風虎の『六百番俳諧句合』参加。
延宝 6年(1678) 37 35 前年から信徳を交えて『江戸三吟集』
延宝 8年(1680) 39 37 素堂、幽山『俳枕』に序文。
天和 1年(1681) 40 38 真筆 枯枝に烏とまりけり秋の声 芭蕉
                 鍬かたげ行霧の遠里 素堂
天和 2年(1682) 41 39 高山麋塒主催「錦どる」同席。
                 桃青八吟歌仙「月と泣く夜」同席。
                 芭蕉と木因、素堂訪問の打ち合わせ後訪問。
                 三者の三物。
                 素堂、芭蕉火災に遭う。甲斐流遇か。
天和 3年(1683) 42 40 素堂、芭蕉庵再建勧化文を作成。
貞享 1年(1685) 43 41 芭蕉、「野ざらし紀行」の旅に出る。
貞享 2年(1686) 44 42 芭蕉、旅から帰る。
                 素堂、芭蕉の帰庵を待って、
                 「いつか花に茶の羽織檜笠みん」
                 芭蕉『野ざらし紀行』
                 素堂『野ざらし讃唱』
                 『古式百韻』に同席。
                 素堂、風瀑『一楼賦』に跋を与える。
貞享 3年(1687) 45 43 素堂・芭蕉、芭蕉庵蛙句合衆議判同席。
                 素堂、芭蕉の瓢に四山の銘を与える。 
貞享 4年(1688) 46 44 『続の原』素堂、芭蕉判者。
                 芭蕉、『鹿島紀行』の旅立ち。素堂句餞別。
                 素堂、「帰郷餞別吟」
                 素堂、芭蕉「蓑虫」の遣り取り
元禄 1年(1689) 47 45 素堂・芭蕉、素堂亭十日菊    
                 素堂・芭蕉、芭蕉庵十三夜
元禄 2年(1690) 48 46 芭蕉、「奥の細道」へ旅立。素堂餞別句。
元禄 3年(1691) 49 47 芭蕉、曾良宛書簡、素堂への伝言など。    
                 素堂へ御伝へ下さるべく候。大津尚白大望の間、
                 菊の句芳意にかけられべくと。御頼み申すべく
                 候。云々
                 素堂なつかしく候。かねさねてひそかに清書御    
                 目に懸くべく候間、素堂へ内談承るべく候。
                 素堂文章、此近き頃のは御座無く候也。
                 なつかしく候。
元禄 4年(1692) 50 48 芭蕉曾良宛書簡、素堂の事。
                 「素堂なつかしく候」云々
                 素堂亭忘年会。
元禄 5年(1693) 51 49 素堂母喜寿の賀宴。
                 素堂・芭蕉和漢百韻。
元禄 6年(1694) 52 50 芭蕉許六宛書簡、
                 素堂に面会できずに名残りを惜しむ。
元禄 7年(1695) 53 51 芭蕉、十月十二日、大阪にて死去。
                 素堂、妻の喪中につき大阪へ不行。

 <写真は松尾芭蕉の生まれた場所の地図>

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