古池や 蛙飛び込む 水の音 芭蕉 ばしょう

芭蕉は庶民の俳諧師、文学者により聖人へ昇格

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多くの俳人や門弟の中でこれだけ芭蕉を慕った人物がいただろうか



  素堂、芭蕉追善句文(刊行年による)

元禄七年(1694) 『枯尾花』


  深草のおきな宗祇居士を讃していはずや、友風月

  家 旅泊 芭蕉翁のおもむきに似たり。

旅の旅つゐに宗祇の時雨哉

雲水の身はいづちを死所


元禄九年(1696) 『翁草』


頭巾着て世のうさ知らぬ翁草


元禄十年(1697) 『陸奥鵆』


  亡友芭蕉居士、近来山家集の風体をしたはれければ

  追悼に此集を読誦するものならし。

あはれさやしぐるる比の山家集

茶の羽織おもへば主に穐もなし 『柱暦』


元禄十一年(1698) 『続有磯海』


  ばせを墓にまうでて手向草二葉

秋むかし菊水仙とちぎりしが

苔の底泪の露やとどくべし


元禄十二年(1699) 『芭蕉庵六物』


  予が家に菊と水仙の畫を久しく翫びけるが、ある時ば

  せををまねきて、此ふた草の百草におくれて霜にほこ

  るごとく、友あまたある中にひさしくあひかたらはん

  とたはぶれ、菊の繪をはなして贈る時、

菊にはなれかたはら寒し水仙花


元禄十三年(1700) 『はだか麦』

  芭蕉庵三回忌

歎とて ぞ残る垣の霜 ナゲク フクベ


元禄十四年(1701) 『冬かつら』 

  ことしかみな月中の二日、芭蕉の翁七回忌とて、翁の
  住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひ入て、堂あれど
  も人は昔にあらずといへるふるごとの、先思ひ出られ
  て涙下りぬ。空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、猶人
  がらのなつかしくて、人々句をつらね、筆を染て、志
  をあらはされけり。予も又、ふるき世の友とて、七唱
  をそなへさえりぬ。

   其 一

くだら野や無なるところを手向草


   其 二

  像にむかひて

紙ぎぬに侘しをまゝの佛かな


   其 三

像に声あれくち葉の中に帰り花


   其 四

  翁の生涯、風月をともなひ旅泊を家とせし宗祇法師に

  さも似たりとて、身まかりしころもさらぬ時雨のやど

  り哉とふるめきて悼申侍りしが、今猶いひやまず。

時雨の身いはゞ髭なき宗祇かな


   其 五

菊遅し此供養にと梅はやき


   其 六

  形見に残せる葛の葉の繪墨いまだかはかぬがごとし。

生てあるおもて見せけり葛のしも


   其 七

  予が母君七そじあまり七とせに成給ふころ、文月七日

  の夕翁をはじめ七人を催し、万葉集の秋の七草を一草

  づゝ詠じけるに、翁も母君もほどなく泉下の人となり

  給へば、ことし彼七つをかぞへてなげく事になりぬ。

七草よ根さへかれめや冬ごもり

  といふものはたそや武陽城外葛村之隠素堂子也


元禄十四年(1701) 『そこの花』

  芭蕉の塚に詣して

志賀の花湖の水それながら


  芭蕉塚にて 『きれぎれ』

志賀の花湖の水それながら


  芭蕉居士の舊跡を訪 『渡鳥集』

志賀の花湖の水それながら


  此句粟津翁塚に手むけぐさとなん 『追鳥狩』

夢なれや梅水仙とちぎりしに

 

元禄十五年(1702) 『三河小町』

ちからなく菊につゝまるばせをかな

  

宝永 元年(1704) 『木曾の谷』

  あはづ芭蕉塚にて

志賀の花湖の水それながら

しぼミても命長しや菊の底 (前書、本文参照)『千句塚』


  去来丈追善の集編せらるゝのよし傳へ聞侍りて、風雅 『誰身の袖』 

  のゆかりなれば、此句をあつめて牌前に備ふ。元察子

  執達給へ。

枯にけり芭蕉を学ぶ葉廣草


宝永 三年(1706) 『東山萬句』

 前のとしの春ならん湖南の廟前に手向つる句をふた

  ゝびこゝに備るならし。

志賀の花湖の水それながら

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素堂よもやま 「芭蕉画素堂賛」
「芭蕉の漢学は素堂が源流」
「奥の細道解」
「江戸の四哲 素堂・嵐雪・杉風・桃隣」

 1、「芭蕉画素堂賛」


 (前文略)一つは芭蕉が守武の像を畫き(「鳳尾」の印があるのみで署名はない)、

  素堂がそれに、

  荒木田千町吟   滑稽風冠古今

  後學為拾落葉   成稻雀入俳林

 葛飾隠士素堂賛

  印 印

 の如く奇抜な讃を書いてゐるもので(神宮文庫蔵)芭蕉と素堂の合作である事が頗る珍とすべき所であるが、畫・讃共に果たして眞筆であるか、私にはどちらとも云へないものであった。伴しいづれにしても、素堂の讃は頗る面白くこれはこれとして珍とするに足るものであらう。  (『芭蕉前後』「守武と宗鑑」志田義秀氏著。昭和二十二年刊)


 2、漢詩の源流 「芭蕉と中国文学」〔五山の遺産と平安朝の遺産〕 神田秀夫氏著

 (前略)芭蕉の読んだ漢籍には二つの系統がある。一つは「白氏文集」の蒙求のような平安朝の昔から読まれて来たもので、この方は多分、北村季吟から承け継いだものであろう。他の一つは杜詩のような、五山文学の時代から読まれだしたもので、この方は多分、山口素堂から啓蒙されたものであろう。(中略)

 そこで想像ではあるが、芭蕉に杜詩や東坡・山谷を読ませたり、荘子の思想を滲透させたりした源流は山口素堂にあるのでなかろうか。もちろん素堂だって信章の時代は、桃青時代の芭蕉とともに『江戸両吟』『江戸三吟』と談林風に遊んだわけで、当時は彼も「古文眞寶氣のつまる秋」と附けていた(『両吟』)のだが、芭蕉が深川に移って以後、彼のために、あの四山の瓢銘を作ったり、蓑蟲の説をなしたりした「隠士素翁」は、わずか二歳の年長であるが、芭蕉より早く唐宋詩文の世界に深入りしていたらしく見えるからである。その意味では、この稿の主題「芭蕉と唐宋詩文との交渉」も、「芭蕉と素堂の交渉」と改めるべきかもしれない。(『日本古典鑑賞講座』井本農一氏編)


 3、『奥のほそ道解』 後素堂(馬場錦江)著、天明七年(1786)成。


(前略)さてこの紀行は、芭蕉の翁、一生の紀行、品々ある中に、この紀行はみつからもいみしと思われけるにや、後世の褒貶をも恐れて、予か先師葛飾の隠士素堂へも相談有りて、文章とゝのをりければ、素龍といふものに浄書させて、小冊子となし、外題は自筆に書て、生涯頭陀袋に納めて、明暮玩弄秘蔵せられけると云傳ふ。云々


 4、江戸四大家 『桃三代』…宗端の序文中に


 素嵐杉隣の四哲は世に江戸の四大家と尊んで、云々

 素(素堂)・嵐(嵐雪)・杉(杉風)・隣(桃隣)

  (『芭蕉前後』「桃隣評傳」志田義秀氏著。昭和二十二年刊)


 <私のホームページ>

 素堂と芭蕉について

 ◎http://homepage3.nifty.com/hakushu/sodou-bashou_tomo.htm

さらに、

18.本山桂河氏…一時甲斐の国に退遁し仏頂和尚の弟子六祖五平方や初雁村の万福寺に仮寓して越年した。云々
19.吉本燦浪氏…芭蕉は甲州に赴きて杉風の姉、又は仏頂の弟子六祖五平などを頼りていたりしが。
20.沼沢竜雄氏…天和二年の暮、江戸の大火にて芭蕉庵焼失の時、杉風の勧めにて、正月から五月頃まで、初雁村の杉風の家に滞在、その間に東山梨郡等々力村万福寺にも仮寓、云々

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二、芭蕉の再来甲  貞享二年
 芭蕉と甲斐郡内のかかわりはもう一件ある。『芭蕉年譜大成』によると、  

貞享二年四月中旬頃 甲斐の山中を訪れる  

 甲斐の山中に立ち寄りて   行く駒の麦に慰む宿り哉

 甲斐山中    山賎のおとがひ閑づる葎かな

  貞享二年四月末甲州街道経由で江戸に帰省。(木曾路経由の予定を東海道に変更)

とあり、この「山中」についても「さんちゅう」か地名「やまなか」と読むかが論争点になっている。    

 四月九日には鳴海の知足亭を訪れ一宿、四月十日には知足亭を出発、帰路は東海道を下った可能性が大である。と今栄蔵氏は推察されている。がこれさえも定かではない。諸説があり又、芭蕉の身辺についても記述された部分(甲斐の)が少なく推論でしか語れない事になる。「推説」は「定説」にはならない。

 今氏によると東海道から甲斐山中に立ち寄ったことになり、天和三年(1683)に続いて貞享二年(1685)の甲斐入りは年代も近く、全く無関係ではあるまい。天和二年の甲斐流寓が確実なものであれば貞享二年の芭蕉の行動も先年の謝礼のために甲斐山中に立ち寄る事情があった事は人間としてごく自然であり、その関連を追求すれ天和三年の甲斐逗留も明確になる可能性が有り、研究の余地が残されている。絶対的な資料が無い限りは今後も定説はないままに諸書に著述されて行く事になる。是非小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』赤堀文吉氏の『研究紀要』所集の「天和三年の芭蕉と甲州」の御一読をお薦めする。

 天和二年の『武蔵曲』・『錦どる』には芭蕉・麋塒・素堂翁も参加している。芭蕉と麋塒もだが麋塒と素堂翁も前述の谷村城主秋元但馬守と素堂の関係も官職を通じ深い繋がりがあったと思われる。素堂は晩晩年、川越を訪れている。この天和二年当時は芭蕉・三十九歳。麋塒三十四歳。素堂四十一歳である。もっとも芭蕉の生まれたとされる正保元年(1644)は寛永二十年十二月十六日に改元があり十二月十六日〜三十一日までの十六日間が正保元年となり、芭蕉はこの間に生まれた事になるとの見解を示す研究者もおられる。

 『夏草道中』では貞享二年の芭蕉の甲斐入を次のように明言している。

    《芭蕉の第二回の入峡は、貞享二年初夏四月ことである。貞享元年八月から二年四月までの「野晒紀行」

 の途次で、二年の春「思ふ立つ木曾や四月の桜狩」と熱田で吟じて、木曾路に入り塩尻、諏訪を経て、甲州道中信州路を東に下った。初狩村の杉風の姉の許に立ち寄って、一昨天和三年暫く世話になった礼をも述べたことであろう。

 追而申入候。此中にふじに長々逗流、其上何角世話に成候へば、別而御内方御世

話に候。いそがしき中に、うかうかいたし居候而きのどくに候。長雨にふりこめられ候事、とかうに及びがたく候。

  行駒の麦になぐさむやどりかな

   いずれへもよろしく御まうし可被給候。くはしきは重而々以上

   十三日 桃  青

     空 水 様

 そして(書簡の日付は)帰庵後の五月十三日と思われる甲斐の俳人、空水宛ての此の書翰でも明らかのように、空水(『夏草道中』筆者注−不明)のところで、雨に降りこめられなどしたが、今度は、甲州道中二十五次を踏破して、四月末に深川の芭蕉庵に帰った。》

 とあるが、その論拠は何を基にしているであろうか。

 芭蕉は熱田からの帰路に木曾路から甲州街道に入り、郡内に至る道筋を踏破した事は文献資料には見えず、諸説混迷しているのが現状である。

 『芭蕉傳記考説』「行實編」(阿倍正美氏著)によると、芭蕉は四月九日熱田を出立して、鳴海へ、十日江戸へ下る(『知足齋々日記』)。その後の芭蕉の行動は不明である。木曾路なのか、東海道を通ったかは資料不足で決定していない。それに関する書簡などがあっても、『野晒紀行』には甲斐の途中吟などは見えず、

甲斐の国山中に立寄て 

  行駒の麦に慰むやどりかな

 の記載となる。阿倍正美氏『芭蕉傳記考説』によると、この「山中」のは

かひの国山家に立ちよる  ………… 真蹟長巻
甲斐の国山家にたちよりて ………… 泊舶集
甲斐の山中に立ちよりて  ………… 真蹟絵巻本
甲斐の国山中に立寄て   ………… 濁子絵巻本
 とありその読み方も「やまなか」か「さんちゅう」か意見が別れる所ではあるが、芭蕉が鳴海から東海道経て、御殿場から須走を通り籠坂峠 山中 谷村(流寓か) 甲州街道を通過して江戸に戻ったか、木曾路をへて諏訪から甲州街道を経て郡内谷村に入ったのか、資料文献からは決定することはできない。

 しかし先述の『夏草道中』には芭蕉は甲州街道を利用し江戸へ戻ったと明記してある。こうした確説のような話は、後に比較資料を持たずにその書を読む人には真実として伝わる事となるのである。

 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵氏著)には、

 四月中旬頃、甲斐の山中を訪れる(経路未詳)

甲斐の山中に立ち寄りて

  行駒の麦慰む宿哉  (紀行)

甲斐山中

  山賤のおとかひ閉づる葎かな(『續虚栗集』)

《註…葎やえむぐらなど、繁茂してやぶをつくるつる草の総称》

 四月末、甲州街道経由で江戸に帰着。

 卯月の末庵に帰りて、旅の疲れをはらすほどに

  夏衣いまだ虱を取りつくさず  (紀行)

 資料を繕いながら推説を広げることは小説ではよくあるが、史実を伝える事蹟文献については、一考を要するのではないか。

 萩原蘿月氏著の『芭蕉の全貌』には次の記載がある。

 『芭蕉翁略傳』には

   自書云、甲斐の国郡内と云所に至る途中の苦吟

  夏ほくほく我を繪に見る夏野哉 

   此句ばかりかと存候

柏水丈   はせを

 又、松瑟の「水の友」(享保九年刊)には畫讃と題してこの句が出ている。

 『句選年考』には芭蕉の、

  瓜の花雫いかなるわすれ草

 を掲げて、その註に、

 天和末、貞享の初の吟なるや。類柑子に其角が瓜の花の一花の文あり。其文に曰、河野松波老人(宗対馬守公の茶道)一物三用の器をもてあそべり、長嘯子のめで給へる記あり、ほとゝぎすまた聞はえする此、かの鉢たゝき所望して見んと、芭蕉翁高山何がし言水等是かれ訪ひ侍りけるに云々。

 とあり、この句は貞享元年か二年の句としている。

 さらに芭蕉の

  木曾の情雪や生えぬく春の草

 の句の註には

 『芭蕉傳』を見るに、深川六間掘と云ふ所に庵を設けて、天和二年迄在住ありしに、其冬回禄の災にあひて、暫く甲州に赴き、彼国に年を越え、翌三年の夏末ならんか、深川の舊地へ帰ぬ。もしや此甲斐遊杖天和三年の春の吟なるや。

 『枯尾花』序には、天和三年深川庵焼亡、翌年(四年)夏甲斐が根、帰府、庵再建芭蕉野分けしての吟有りと記せり。是を見る時は夏秋のみにして、春甲斐遊杖あらざる故春の句有る可きにあらず。又『枯尾花』の天和三年焼亡翌年とあるは天和四年即ち貞享改元の年なり。此元年の秋は古郷伊賀へ旅立ち「野ざらし紀行」あり。是を見彼れを察するに、秋庵再建直ちに旅立もいぶかし。もしや『枯尾花』に、天和二年を三年と印板を書損にや。

 この様に芭蕉句の解説文には様々な文言が飛び交い、読む人はどの説が正しいのか悩むばかりである。

 『續虚栗集』には甲斐を詠んだ歌が記載されている。そして山中も

 甲斐山中にさまよひける夜、宿かりぬべき

 かたもなくて

刀さげてあやしき霜の地蔵哉  破笠
雪消を出る甲斐の馬工郎    其角
 秋 山

甲斐がねも見直す秋の夕哉   露沾
秋山や駒もゆるがぬ鞍の上   其角
 『續虚栗集』「春の部」改正には

年の富士はつぼめるすがたかな 麋塒
 《連衆…釋任口・芭蕉・自悦・杉風・・去来・千春・其角・以下略》

 安部正美氏著の『芭蕉伝記考説』「行実編」は芭蕉の生涯を克明に浮かび出しているが、このあたりの行実解明は捗々しくない。

 元禄三年四月二十四日附、北枝宛。芭蕉書簡の、

  「池魚の災承、我も甲斐の山ざとにひきうつり、さまぐ苦労いたし候へば、御難儀の程察申。」

 や其角の『芭蕉終焉記』には、

  「……爰に猶如火宅の變を悟り、無所住の心を発して。其次の夏の半に、甲斐が根にくらして富士の雪のみつれなければと、それより三更月入 無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしければ、……」

 とあり、芭蕉が甲斐に行ったのは夏の半とあるから五月のことである。芭蕉の甲斐逗留の時に秋元藩国家老高山傳右衛門(麋塒)がどう関与したかは後説であり、史実とするには資料が足りないことだけは間違いない。

 また当期間に芭蕉の詠んだとされる句や、地域に残る芭蕉句を無理に谷村逗留中の句とすることもどうかと思われる。芭蕉の甲斐谷村逗留を史実としたい研究者の意図が見え隠れして気になる。

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 さて、甲斐出身とされる山口素堂はこの芭蕉の最も親しい友である。『甲斐国志』の記載以来、素堂の伝記は大きく歪められてしまっているが。

 国志によれば素堂の家は甲府でも富裕の家柄であった云う。弟に家督を譲り、江戸に出たとされる素堂ではあるが、芭蕉庵を再建する発起人となるのであれば、何故芭蕉の甲斐流寓の手助けをしなかったのであろうか。

 素堂側に立って「素堂と芭蕉」の親密さを見れば、素堂は芭蕉の甲斐流寓の目的を十分理解していたと思われる。芭蕉が江戸に戻り参加した其角の『虚栗』編集には、素堂は中心的存在で参加している。後の『続虚栗』(其角撰)には素堂は「風月の吟たえずしてしかもゝとの趣向にあらず云々」で始まる序文を与えている。

 素堂は、この序文の中で、諸先生方が芭蕉の唱えた説と指摘する、「不易流行」説を既に提唱している。(本文参照)

 其角にとっても素堂の存在は大きなものであったのである。もちろん高山麋塒は、幕府儒官林家に出入りする素堂の知識と俳諧に於ける先駆者としての位置づけを承知していた筈である。

 九月、江戸に帰リ、住む所が定まらない芭蕉をみかねて、親友素堂が呼びかけで芭蕉庵を再建する。

 山口素堂の『芭蕉庵再建勧化簿』(天和三年秋九月)。

 芭蕉庵裂れて芭蕉庵を求む。力を二三生にたのまんや。めぐみを数十生に待たんや。広く求むるは却って其おもひ安からんと也。甲をこのまず、乙を恥づる事なかれ。各志の有る所に任すとしかいふ。これを清貧とせんや。はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、ただ貧也と。貧のまたひん、許子の貧。それすら一瓢一軒のもとめあり。雨をささへ、風をふせぐ備へなくば、鳥にだも及ばず、誰かしのびざるの心なからん。  是草堂建立のより出づる所也。
    天和三年秋九月 竊汲願主之旨 濺筆於敗荷之下   山素堂

さらに、芭蕉庵の造作は進み、

冬、ふたたび芭蕉庵を造り営みて(年不詳)
霰聞くやこの身はもとの古柏  
 芭蕉(下里知足『知足齋々日記』記載)
  となっていく。

又芭蕉の甲斐流寓に同道したとされる芳賀一晶は、天和三年、歳旦帳を出してその春に江戸に下り、芭蕉等と一座し誘われてその夏を甲斐国に過ごした(『俳文学大辞典』、一晶の項……白石悌三氏著)と記載されている。

 芭蕉の甲斐流寓について触れている研究文献は多く見られるので、ここでそれ等を整理してみたい。

 芭蕉の谷村流寓については次の地域の研究文献がある。それは『都留高校研究紀要』である。

 都留高校『研究紀要』(「天和三年の芭蕉と甲斐」)によると、  

六祖五平を頼る。『随斎諧話』(夏目成美著・文政二年・1819刊)
杉風の姉を頼る。『芭蕉翁略伝』(岡野湖中・弘化二年・1845刊) 
麋塒を頼る。(但し、六祖五平を麋塒とする)『奥細道管菰抄』(安永七年・1778刊)
又、研究者の論議については、 

岩田九郎氏…『芭蕉の俳句俳文』 仏頂和尚の弟子六祖五平を頼る。翌年夏まで逗留。 
小宮豊隆氏…『俳句講座』  同内容 
山本健吉氏…『芭蕉』  同内容 五月まで滞在。 
荻野 清氏…『俳諧大辞典』  塒麋に伴われて谷村逗留。 
飯野哲二氏…『芭蕉辞典』  同内容 仏頂和尚の紹介で五平の許に身を寄せる。
穎原退蔵氏…『芭蕉読本』    『随斎諧話』を引き、夏目成美の学識を重視する。
目黒野鳥氏…『芭蕉翁編年誌』  三、四月の交り、六祖五平を頼る。
高木蒼梧氏…『俳諧人名辞典』  甲州谷村の城代家老高山繁文(麋塒)を頼 る。
『校本芭蕉全集』  罹災後のある時期、甲斐谷村の高山麋塒(秋元家家老)を頼り、翌年五月頃まで逗留す る。
高木蒼梧氏…『俳句講座』    杉風の家系には姉は居ない。万福寺は初狩では無く勝沼町等々力村である。
勝峯晋風氏…『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒の研究』 
萩原井泉水氏…『芭蕉風景』  芭蕉庵焼失後、彼は一時、二本榎の上行寺
(其角の菩提寺)に厄介になり、間も無く杉風の紹介でその姉の所の逗留する。『芭蕉略伝』による。そこに六祖五平というものが居て、その家を宿としたと言う説もある。としている。
麻生磯次氏…『芭蕉‐その作品と生涯』  芭蕉は堀江町の其角の家に身を寄せたり、その菩提寺である二本榎上行寺に厄介になった。(中略)芭蕉は谷村の麋塒の次男五兵衛の所に宿し杉風の姉にも世話になった。
井本農一氏…『芭蕉評伝』  谷村秋元国家老の高山麋塒を頼ったことと思われる。
安部正美氏…『芭蕉伝記考説』  谷村流寓説は何の根拠も無く、六祖五平は全くの架空もの。
杉浦正一郎氏…『芭蕉研究』  六祖五平は高山麋塒の次男と思われる。麻生氏と同説。
菊山当年男氏…〔芭蕉研究家〕  庵類焼後、直ちに甲斐に逃れた芭蕉は『虚栗』の跋文を書いているから甲斐からは五月頃江戸へ帰ったらしい。
 前述、 赤掘文吉氏『都留高校研究紀要』の論述のまとめとして、 

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 当時は春(一月〜三月)夏(四月〜六月)秋(七月〜九月)冬(十月〜十二月)であり、『芭蕉年譜大成』の夏、甲斐谷村に高山塒麋を訪ねて逗留。五月江戸に戻るので、芭蕉の逗留期間は非常に短期間と云う事になる。さらに先述した『虚栗』には、麋塒の句も入集しているが、これらの句が甲斐に居て詠まれた句かは定かではない。さらに『虚栗』の編集期間の問題もあり、芭蕉が五月に跋文を書して、又入集句に目を通し板行する期間も短期間となり、ましたや『虚栗』は弟子其角のはじめての選集である。刊行なったのは六月であっても、準備は以前から進められていたとするのが自然で、当たり前の事であるが句作は刊行より以前となる。  

私には句作の季節や句意などは分からないが、芭蕉が跋文のみで終わるという事はなく、『虚栗』の末では其角と芭蕉の連歌が記載されている。両者の句作はどの時期に行われたのであろうか。

 『虚栗集』所載の句  酒債尋常往ク處ニ有人−生七−十古来稀ナリ

詩あきんど年を貪ル酒債(サカテ)哉 其角
冬-湖日暮て駕(ノスル)レ馬ニ鯉 芭蕉

(以下略)

 改夏

ほとゝぎす正(ム)月は梅の花 芭蕉
待わびて古今夏之部みる夜哉 四友
山彦とナク子規夢ヲ切ル斧 素堂

(以下略)

○ 憂テハ方ニ知リ 酒ノ聖ヲ 貧シテハ始テ覚ル 銭ノ神ヲ

花にうき世我酒白く食黒し 芭蕉
眠テ盡ス陽炎(カゲホシ)の痩 一唱

(以下略)

《連衆…芭蕉・一唱・嵐雪・其角・嵐蘭》

○ 素堂荷興十唱(略)

  ○ 改秋

  臨 素堂秋−池ニ

風秋の荷葉二扇をくゝる也 其角

  『芭蕉年譜大成』によると、一月、歳旦吟。春、五吟歌仙  憂方知 酒聖 ・貧始覚 銭神

花にうき世我酒白く食黒し 芭蕉
眠ヲ尽す陽炎の痩せ 一晶

 『虚栗』所収の秋冬の句は、刊行が天和三年六月であるから、前年、天和二年以前の秋冬(七月〜十二月)の句である。

 芭蕉は夏、谷村逗留の後に五月江戸へ戻る。五月其角編『虚栗』の跋文を草す、六月刊。

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