尖閣列島ブログ

尖閣列島の日本の領有権を中国側史料で証明します(日中両文)
台湾の北限
 2005年秋、中国の古書市場において清朝時代の“浮生六記”の逸文書と見られる“海国記”が発見された。
 この書籍の中に“十三日辰の刻、魚釣島を見る”との記述があり、中国側はそれを尖閣列島が中国に属することの動かぬ証拠としている。
 
 しかしながら、“海国記”の記述を以て尖閣列島が中国に属することにも正当性を欠く。
 
 “海国記”はもともと、“浮生六記”の主人公が1808年に冊封使斎に伴って琉球へ渡ったときの記述である。 冊封使斎は、嘉慶13年(1808年)閏5月上旬、福州(訳者註釈:中国福建省)より出発し、五虎門、鶏籠山(現在の台湾基隆)、黒溝洋、久米島(中国名:姑米山)、慶良間島(中国名:馬歯山)を経て、閏517日夜に那覇港へ入港した。
 
 斎の文集である“東瀛百詠”の“航海八咏”に、太平港(訳者註釈:中国福建省福州)から那覇に至るまでのが詠まれ、その中の台湾付近においては“鶏籠山(山、台湾府の後方に在り)”と題した五言律詩を残しており、その中で台湾府の鶏籠山を“猶これ中華の界の如し”としている。 つまり、台湾府の鶏籠山が清朝の界だということである
 
 船が琉球に接近した後、斎は“姑米山(久米島)”を詠んでいる。 そして、その標題の注釈に“この山より琉球に入る”と書いている。 つまり、鶏籠山と久米島の間にある魚釣島と大正島(中国名:赤尾嶼)の間は、必然的に清のものでもなく、また琉球にも属さない無主の地であることになる。 鶏籠山を中華の界とした斎の認識は、“航海八咏”に続く“渡海吟用西題乗風破浪図韻(渡海、西の乗風破浪図に題するの韻を用いて吟ず)”の中の“鶏籠山、中華の界を過ぎる”という記述でも確認できる。(写真3)
イメージ 1
 
 

 それでは、何故斎は台湾の鶏籠山を中華の界(=境)としたのであろうか?
 清朝の康熙皇帝の23(1684)、清朝は台湾を領土として編入し、台湾府を設けた。 その康熙年間に刊行された蒋毓英の“台湾府志”の中に“北至鶏籠城二千三百一十五里(北、鶏籠城に至る二千三百一十五里)”の記述があり、更に康熙35(1693)に刊行された“重修台湾府志”)(高拱乾等撰)(写真)には、“北至鶏籠城二千三百一十五里、為界(北、鶏籠城に至る二千三百一十五里、界と為す)”とある。 つまり、現在の基隆市付近の鶏籠城と鶏籠山が台湾の北限ということとなる。 斎が“東瀛百詠”において鶏籠山を“猶これ中華の界の如し”としている依拠がここにある。 つまり、鶏籠山を清朝の界とし、久米島を琉球国の界とした斎の認識こそが不動の証拠なのであり、“海国記”中の“十三日辰の刻、魚釣島を見る”は尖閣列島が中国に属するという証では決してない。
 

 台湾府の界域は“台湾府志”に収められた“台湾府総図”においても見ることができるし、清朝が、その編纂した官撰“欽定古今図書集”(1782年刊行)に収めた“台湾府疆域図”(写真4)には尖閣列島は無く、台湾府北限の鶏籠山までしか描かれていない。 
(写真4)
イメージ 2
 
 
 清の乾隆9年(1744年)に刊行した“大清一統志”(写真)においても、台湾府の北限は鶏籠山であり、その“大清一統志”の“台湾府図”にも尖閣列島は入っていない。 
 “海国見聞録”(1793年序)でも同様で、これらのことは尖閣列島が台湾府の一部分でも、中国の領土でもないことを説明できる。
(写真5)
イメージ 3
 
 
 
中華民国は清国台湾の領界を継承している
 台湾が中国の領土として編入されたのは、清朝が台湾府を設置した後のことである。
 明の時代に編纂された官撰地誌“大明一統志(外夷)”によれば、台湾と福建省の中間にある澎湖島も琉球の属領であった。
 
 “大清一統志”においても台湾は“古より荒服の地、中国に通ぜずして東蕃という。 明の天啓の初、日本国の人ここに屯聚し、鄭芝龍これに附す。 その後、紅毛荷蘭夷(筆者註釈:荷蘭はオランダ)の拠る処となる”としており、初版の“大清一統志”では、この後に“日本に属する”の一文が続いている。
 
清朝時代になって領有した台湾に尖閣列島が属していなかった以上、明朝中国において尖閣列島を領有していなかったことは明らかである。
 

 この鶏籠城と鶏籠山が台湾の北限とする認識は、中華民国の時代に編纂された“皇朝続文献通考”(1912年)と“清史稿”(民国16年、1927年)においても、継承されている。
 清朝時代であれ、中華民国の時代であれ、尖閣列島は台湾の一部になることはなかったのである。
 
 既に述べたように、中国の歴史に対する認識は、井上氏の“尖閣列島-魚釣諸島の歴史的解明”を根拠としている
 早い時期に、井上氏のかかる研究に反論したのが、国士舘大学の元教授奥村敏雄氏である。
 奥村市は彼の専門の国際法上の観点のみならず、歴史的な観点からも“台湾府志”と“基隆(キーロン)市志”に基づき、尖閣列島が台湾の一部ではないという事実を明確にされた。 しかしながら、奥村氏の反論が出た後、日本における歴史研究の上での進展はなかった。 従って、国際法に基づき尖閣列島の領有権を主張する日本と、明朝時代から中国領であったとする歴史認識を根拠とする中国側とは争点がかみあわず、今に至っても井上氏の著作を金科玉条とする中国の主張を覆すことができなかったのである。
 

 ご紹介したように、鶏籠山(基隆)を中華の界とし、久米島を琉球の界とする中国側文献をよく読めば、井上氏の研究は明らかに独断的なものであることが分かる。
 
 再度申し上げるが、日本が領土として編入する前の尖閣列島は無主の地であった。 中国側には尖閣列島領有権に主張できる歴史的依拠はないのである。
 

 尖閣列島が“明朝以来中国の領土であり、中国の核心的利益”とする中国側の主張だが、この発想は竹島を韓国領土とする韓国側主張に近いものがある。 この点から見ると、中国漁船の衝突事件の直後、香港の亜州週刊(2010926日)に掲載された“韓国が竹島を奪った例を学び、我々も尖閣列島を選挙すべきである”という論評は研究に値する。
 日本と他国の間に存在する領土問題を自己の領土問題に利用するという考え方であるが、こうした考え方は、関東学院大学の殷燕軍教授が20101214日の“青年参考(電子版)”で主張している“領土問題上、中国とロシアは協力して日本に対し、強力な圧力を加えるべきだ”、また中国海洋発展研究センターの郁志栄氏が2010221日の多維網(ネット)上で主張した“必要に応じて、韓国、ロシアなど日本と領土問題が存在する国家と連携して….”等からも見ることができる。 尖閣列島にせよ、北方領土、または竹島にせよ、絶対に隙を見せてはならない。
 
 
二、 もうひとつの重要な証拠(来源 20062月 “諸君”)
 日本人が魚釣島に居住を開始した経緯は以下の通りである;
 1884年、冒険心に溢れた九州福岡の商人、古賀辰四郎は人跡未踏の尖閣列島へ探検隊を派遣し調査を行なった。 結果、魚釣島周辺海域には、とりわけ付近を回遊するカツオなどの魚影が非常に濃いこと、そして人間に対して警戒感を持たず、簡単に捕獲できるアホウドリも多かった。 古賀辰四郎 は、調査結果に喜び、魚釣島への移民開拓を決心した。
 古賀が魚釣島の開拓に着手する以前、どこの国も尖閣列島の詳しい情況は知らなかった。
 
 しかしながら、古賀が移民する13年前の1871年、牡丹社事件が発生する。 この事件は宮古島の献納船(納税物資を運ぶ船)が暴風に遭遇、遭難し台湾南部へ漂着した後、“牡丹社”という原住民の村落に救援を求めたところ、却って66名の乗員のうち、54名が殺戮されてしまった事件である。 
 日本政府は、清に対して謝罪と賠償を求めたが、清朝政府は“台湾は中華の外の地であり、清朝皇帝の教化及ばぬ地”として拒絶された。 つまり、当時の中国政府(清)は、台湾さえ支配できないでいた。 (ついでに説明すると、この事件は日本帝国の初めての海外出兵となった“征台の役”に発展した。)
 
 古賀辰四郎にすれば、尖閣列島は絶海の無人島であり、100年以上たって、日中間の領土問題に発展するとは思いもしなかったであろう。
 古賀の魚釣島における事業は成功した。
 豊富なカツオなどの海産物を缶詰、干物などに加工した。 そして無尽蔵と見えるアホウドリなどの海鳥の羽毛も古賀に莫大な利益をもたらせた。  当時発生した義和団事件(1900年)、日清戦争、日露戦争は、主戦場が寒冷地帯であったため、古賀は巨額の特需の恩恵を受けた。
 
 尖閣列島開拓の父である古賀辰四郎は、日本軍がシベリア出兵を開始した1918年に逝去した。
 その後、古賀の子息、古賀善次が事業を継承発展させたが、太平洋戦争末期、沖縄近海の制海権を奪われ、油、糧食の輸送が困難となり、やむなく魚釣島を離れるまで事業は続いた。
 
 古賀善次が “島主”となった翌年(1919年)、ある事件が起こった。
 福建省からやってきた中国漁船金合号が暴風に遭遇し、魚釣島へ漂着、座礁した。 この漁船には、福州の船主兼船長である郭合順を始めとする31名の乗員がいた。 尖閣の周辺海域は風強く、浪高く、潮流が激しい状況下、船の操作ができず、座礁した。 そこで、魚釣島の住民が救助にあたった結果、古賀善次の采配の下、金合号の全部の乗組員を救助できた。 保護を受けた遭難漁民は、まもなく石垣島へ送られ、約半月の後台湾経由、無事に福建へ帰り着いた。
その後、中国(中華民国)駐長崎領事馮冕より魚釣島にて中国漁民を救った
古賀善次ら7名に対し感謝状を贈ったのであった。
(写真6、7)
イメージ 4
 
 
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その感謝状には、具体的に海難の起こった場所、つまり日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島と書かれている。 感謝状中の和洋島とは、魚釣島の別称である。
 
以下の写真を拡大してご覧あれ。
その1で紹介した写真2の人民日報の内容を見て2010.9.21に中国のブログ世界時事論壇二」掲載されたものだが、赤で囲んだ小さな字は何が書いてあるのか、内容は以下通り;
イメージ 6
 
 
赤枠部分の訳;
魚釣島(台湾では釣魚台列嶼、日本では尖閣列島)の争いについての文章を書いていたところ、あろうことか、全く信じられぬような中国の官による報道にぶつかった。 私が見てきたあの多くの資料も意味をなさなくなってしまった。 
更に私が不思議に思うのは、このような重要な資料が、我々の国でかくも多くの魚釣島を研究する学者や専門家が、誰も引用
していないことだ。 私は日本語の資料を読んでいる時、日本の右翼が(この報道のことを)述べているのを見て、デマかと
思っていた。 人民日報のデータを見たところ、すぐに以下の報道が見つかった。 悲しい! こんな研究、いっそしなければよかった。
 
 つまり、この1953.1.8の人民日報の記事の見出しは、琉球群島の人民が米軍が基地建設を行うことに反対していることをとりあげたものだが、その中に“琉球群島は我が国台湾の東北と日本の九州西南部の間の海上に散在しており、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、トカラ列島、大隅諸島などの7つの島嶼から成り......”というものであり、言うまでもなく、中国は尖閣諸島が(米軍統治下の)琉球諸島に属するもの、と認めている。 仮に、中国領であれば、このような記事になるはずがない。 米国が尖閣列島を含む琉球諸島を日本に返還したのであるから、尖閣列島は当然日本の領土である。
 
 縁あって北京にて10カ月間の語学研修を受けてより、日中間を行ったり来たり、あっというまに30数年がたってしまった。
 中国には友人も多く、もしかしたら日本人の友人より多いかもしれない。
 この期間において、両国国民を不愉快にさせる多くの問題があったが、
国の情況も異なるので、極く自然なことであろう。
 しかしながら、とりわけこの数年、中国の海軍力の増強に伴い、中国は魚釣島を含む尖閣列島を中国の領土と看做し、頻繁に日本の領海に対して脅威を及ぼしていることに、私は心を痛めている。
 私と年齢の近い中国の友人達は、尖閣列島が中国の領土であることを強行に主張しおらず、結局のところ中国領なのか、日本領なのか分からぬ、という態度である。
 しかしながら、江沢民から始まった愛国教育(抗日教育)を受けた若い非常に多くの人達は、断定的に尖閣が古来より中国領であると主張する。
 
 更に、少なからぬ人達が“尖閣列島は第二次世界大戦後のヤルタ会議において中国領となった”としているが、ヤルタ会談は実際には日本が降伏する以前の1945.2.4から2.11までの8日間、連合国の主要なメンバーである米、英、ソ連が第二次大戦後の処理につき話し合ったものであり、尖閣列島の問題については話し合われてはいない。 この期間中において、米ソ両国が単独で、ドイツが降伏の後、90日以内にソ連が対日参戦すること、及び北方領土の処理の問題につき話あいを持った。 従って、“尖閣が第二次大戦後のヤルタ会談によって中国領となった”というのは、明らかに誤りである。
 この他に、1943年のカイロ会議において、ルーズベルト大統領が蒋介石に対して中国(中華民国)により琉球群島を管理するよう水を向けたものの、蒋介石はこれを拒絶したのである。
 
それでは、中国側が言う明朝以来、中国の領土という根拠は?
 
 さて、尖閣問題は、史実を世界に発信する会の茂木氏の文章によく纏められているので、引用させていただこう。
 そもそも中国は1970年以前において、国家の公認する地図や人民日報(1953.1.8)などにおいても、尖閣列島は沖縄に属するとしている(写真1.2、つまり日本の領土と認めている。
(写真1)
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(写真2)
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  然るに、1968年国連の極東経済委員会の報告書の中で、当該海域に膨大なる地下資源があるという可能性を述べた後になって、台湾、中国が突然、領有権を主張しだしたのである。
 その論拠や証拠はまったく根拠がなく、例えば明朝の琉球冊封使の記録の中に尖閣につき記載がある、また清の西太后が大官である盛宣懐に下賜したときの詔書が残っている等等である。
この詔書が偽物であることは完全に証明されており、明朝時代に沖縄(琉球)に派遣された冊封使が残した記録中に記録が残っていたとて、これが領有権主張の根拠にはならない。
 明朝時代、冊封使の記録に琉球の領土は久米島まで、と書いてはあっても、これも尖閣が明の領土ということを証明するものではない。 当時の尖閣列島は無主の地だったのである。
 明朝においては、台湾ですら明(中国)の領土ではなかった。
 台湾は清朝になってから、初めて清の領土となったのであって、清の“海国記”には尖閣列島に関する記載はある。 しかし、海国記の著者と同行した冊封使が記録の中に、鶏籠(現在の台湾の基隆:キールン)のことを“中華の界(境)の如し”と記している。 更に、清朝の公文書である台湾府志にも、鶏籠が中華の界であるとする記載がある。 尖閣列島には全く触れていない。
 
さて、それでは中国側の資料を見ながら、改めて尖閣の歴史を研究してみよう。
一、明朝、清朝から現代
 拓殖大学教授下條正男氏が雑誌“正論”に発表された文章中に、歴史的背景を詳細に記しておられるので、その大部分を紹介する。
 
緊張を増す尖閣情勢
 20109月7日、尖閣列島海域において発生した中国の漁船が日本の海上保安庁の巡視船にぶつかった事件から、日本人はやっと中国の覇権主義に注目しだした。 中国の歴史において、新しい王朝が成立し、一定の国力を有した後になって、武力侵攻によって近隣諸国を服属させ、冊封体制の確立を迫ることは常にあった。 (筆者註記:冊封関係は冊封された国が中国の領土となることでは決してない。冊封の関係があったとしても、中国の皇帝はその国の独立性を尊重していた。 冊封されたとはいえ、国主と臣下との関係は変わらず、それら国主の臣下と中国皇帝の間においても関係はない。 冊封は一種の外交関係と言え、中華帝国を中心として外交秩序を形成するという関係である。)
 
 現在、中国は尖閣列島、南沙諸島などの領有権を主張し、韓国とは韓国の排他的経済水域内の離於島(海面下4.6メートルの暗礁、中国では蘇岩礁という)をめぐって鍔迫り合いをしている。
 
 尖閣列島は1895114日、内閣の閣議によって日本の領土に編入されて後、第二次大戦後のアメリカによる占領時代を除き、日本が実効支配してきた。
 19716月、日米間において沖縄返還協定が締結された後、中国、台湾は尖閣列島に興味を抱き始めた。
 台湾政府は、同月、協定の対象に含まれる沖縄諸島の尖閣列島につき、外交部(筆者註記:日本で言う外務省)を通じて“当該列島は台湾省に属するものであり、中華民国の一部分である”との声明を出した。
また、中国政府も、同年1231日、“尖閣列島は台湾に付属する島々であり、これらの島は台湾と同様、古来より中国の不可分の領土である。 日米政府が沖縄返還協定において、我が国の魚釣島などの島嶼を、勝手に返還区域に編入したのは不法行為である。”、“中国人民は絶対に魚釣島等の台湾に付属する島嶼を取り戻す。”との声明を発表した。
 
 今日、中国政府は沖縄諸島を第一列島線とし、尖閣列島を台湾と同様、中国の核心的利益としているが、このことは、前述の外交部声明が未だに有効であることを説明するものである。
 
 それ以来、しばしば発生した外交的懸案は、一昨年の中国漁船衝突事件を機にヒートアップしている。 日本は、中国の伝統的な外交的姿勢を見極め、戦略的対策を講じなければならない。
 
 今年、131日、日本が尖閣列島を含む日本の排他的経済水域内の無人島に対して命名してから、中国国家海洋局も33日、岩礁を含む71の島嶼に対して命名し、公表するという報復的措置を講ずるに至った。
日本の藤村官房長官が無人島に対しての命名を発表した翌日、中国は、117日の人民日報において、歴史的認識を発表した、即ち、“尖閣列島は、チベット、台湾と同様、中国の安全保障上、譲ることのできない国家の核心的利益であり、中国固有の領土である。
 
 更に、315日、沖縄県那覇検事審査会の決定により、漁船衝突事件の中国人船長が強制起訴されると、中国外交部の劉為民報道官は、“尖閣列島及びその付属の島嶼は、古来より中国の固有の領土である。”、 “日本は当該海域においては、如何なる公務をも行う権利はなく、日本側が中国国民に対して採用する如何なる司法手続きも違法であり、無効である。”と主張した。
 
 その翌日、中国国家海洋局所属の二艘の海洋調査船が尖閣列島付近の日本海域に侵入した。
 この海洋調査船は日本の海上保安庁の巡視船の問いかけに対して、“我々はこの海域において巡航任務を行っている。 魚釣島を含むそのたの島嶼も中国領土である。”と答えた。
 

井上清氏(訳者註:マルクス主義を信奉する歴史家)が発案した中国の尖閣領有論の論拠
 では、中国のかくまで強行に歴史認識を主張する論拠は、どこから来るのか?
 あろうことか、ある日本人が中国に提供していたのである
 当時、京都大学教授であった井上氏は1972年に刊行した[「尖閣」列島-魚釣諸島の史的解明]がそれである。
 彼は、その序文において“尖閣列島は日清戦争の結果、日本が中国から奪ったものではないか。 そうだとすれば、それは第二次大戦で、日本が中国を含む連合国の対日諸国にポツダム宣言を無条件で受諾して降伏した瞬間から、同宣言の領土条項に基づいて、自動的に中国に返還されていなければならない。 それを、今、また日本領にしようというのは、それこそ日本帝国主義の再起そのものではないか”と述べている。
 
 この内容は、197112月の中国外交部の出した声明と重複している。 
 つまり、中国側は、最大限度に井上氏の著作を利用していることが分かる。 そして、尖閣列島での衝突事件発生後、中国外交部の姜報道官は、井上氏の著作を引用して、尖閣列島は中国の領土という認識を強調したのである。
 
それでは、井上氏による[「尖閣」列島-魚釣諸島の史的解明]執筆の動機は何であろうか?
①魚釣島は、もともと無主の地ではなく、明朝時代からずっと中国の領土であった。
②日本が尖閣列島を領有しているのは日清戦争勝利に乗じた略奪である。
という二点の実証であった。
 
 これに類した見解は、もちろん台湾や中国にもあった。 しかしながら、日本の学者による研究ということで、早くから中国語に翻訳され、中国側では重宝している。
 それでは、尖閣列島を中国領とした井上氏の見解に、果たして歴史的正当性はあるのであろうか?
 

中国の主張の中に存在する問題点
 井上氏が尖閣列島を中国領と主張する根拠とは、冊封使を琉球国(現沖縄県)に派遣した明朝(14-16世紀)及び清朝(17-20世紀)において、尖閣列島を航路の指標としていた事実があり、明の航海ガイドブックである“順風相送”(1403年)に、尖閣列島の一つ釣魚嶼(魚釣島)の名が見られるからである。
 中国側は、尖閣列島が中国に属するという認識を主張するために、明以降に琉球国に派遣された冊封使たちの記録を根拠としている。
 陳侃の“使琉球録”(1534年)、郭汝の“重編使琉球録”(1562年)、揖の“使琉球雑録”(1683年)、徐光の“中山伝信録”、周の“琉球国志略”(1756年)、李鼎元の“使琉球録”(1800年)、斎鯤の“続琉球国志略”(1808年)などの記録中に尖閣列島(釣魚嶼、釣魚台)が登場する。
 また、“中山伝言録”と“続琉球国志略”には、魚釣島(中国名:釣魚嶼、釣魚台久場島(中国名:黄尾嶼)、大正島(中国名:赤尾嶼)が描かれた針路図がついている。
 
 そのうち、“使琉球録”には久米島を“琉球に属すなり”と書かれ、また“使琉球雑録”には久米島と大正島の間を“中外の界なり”と説明している。 中国側は、これを根拠として、久米島までの島嶼を琉球に属するもので、尖閣列島を含む大正島(中国名:赤尾嶼)以西は全て中国に属すると主張している。 (続く)
 

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