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今日は
「本は10冊同時に読め」 成毛 眞 (著)
を読んだ感想、
そして、アマゾンのレビューについてもコメントしてみたい。
【ラキヤの感想】
この著者は癖が強い。
それが鼻に付くという人もいるかもしれない。
この人、何となく嫌い。
そういう印象を持つ人もいるのかもしれない。
「あそこの社長だったときさー、酒の飲み過ぎで次の日出社できなかったよー♬」
「でも、俺は他の奴等とは違って、仕事ができたからなー♬」
確かに下品なので、それに対して嫌悪感を催すのかもしれない。
しかし、そういう感情は読書には無駄だと思う。
嫌いならば、その部分は戦後の炭塗り教科書のように消しちゃえば良い。
そして、それ以外の部分を読めば良いのだ。
(勿論、残りの部分に読む価値が見出せればの話ではあるのだけれど)。
この本を手に取って、そんな風に思った。
というのは、アマゾンのレビューを予め見て、不思議に思ったからだ。
この本、かなり評判の善し悪しが分かれている。
評判の悪さは著者の下品さで盲目になっちゃった人が悪口を書いているようだ。
一番下に例として2つばかり他人のコメントを転載したけれど、
的外れというか、事実と異なることが書かれている。
それは実際にこの本を手に取って明確に分かった。
例えば、
> そもそも本書自身が、著者が読んでもたいした意味がない
> と指摘する「ハウツー本」「ビジネス書」の典型だ。
という部分、これは全く違う。
例えば、「水滸伝」を薦める件では、
中国で失敗するビジネスマンが多いのは何故か?
多分、中国への考え方が偏っているのではないかと推測している。
彼が挙げた偏った型の例は以下のような感じだ。
01.中国礼讃型(中国の古典が好き。中華料理が好き。)
02.歴史だの何だので謝罪型
03.経済格差を小馬鹿にしている差別型
04.共産党一党独裁への恐怖型
なんだかんだ・・・。
そして、どのように中国人に接すれば良いのか。
それが絶望的に分かっていないのではないか。
性善説で「言えば分かる」し、理解し合えると思っているのではないか。
例えば、「水滸伝」。
茶屋に泊まった旅人が饅頭の具にして食われてしまう残酷さだとか、
梁山泊に集まる英雄が次々と潰し合う豪快極まりない話だとか、
そういう衝撃を受けざるを得ない本を読んでいると、
中国人というのは日本人とは根本的に違う異次元の生物なのだと思い至る。
こういうものを読んでいれば、中国での対処の心構えも自ずと違ってくる。
一寸極端な感じもするけれど、それはそうだという気もする。
また、礼讃とか謝罪とか、そういうものは余程中身が無い限り、
軽くしか受け取って貰えない。
これは万国共通だ。
しかし、ペコペコ謝罪する人や無闇矢鱈に誉めちぎる人達の多くは
そういうことを全く分かっていない。
「謝れ!」と言ってもいないのに謝ってくる。
コンプレックスを持っているのか。
じゃあ、それを含めて、都合の良いように利用してやれ。
この点、日本人は言葉をそのままの形で受け取りがちだ。
中国人の発想はここでも日本人とは違う。
発想が違うことを認めた方が相互理解もし易い気がする。
大雑把に言って、こんな紹介があったと思う。
これは陳腐なハウツーではなく、中身のある古典なども読んで、
その上で中国を眺めると色んな本質的なことが見えてくるという助言だ。
本質的かどうか。役に立つかどうか。
功利主義ということになってしまうのかもしれないけれど、
そういう視点を全く抜きで選り好みするのは、
それは損をしてしまうことが多いと思う。
鼻に付く部分は無視して、中身のありそうな部分を読めば良いのだ。
著者がアドバイスしている通りに。
> 本を読まない人はサルである!
こういう発言は余計なお世話だとも思う。
ラキヤならば、ここまでは言わない。
確率的に言えば、本を読まない奴とは口を聞きたくないかもしれない。
でも、稀に面白い人もいる。
だから、こういう過激なことはラキヤは思っていても、言わない。
その点、金持ちの強みなのか、言いたい放題の強みを利用して
極めて親切をしてくれているのだとも思う。
読書は大切だ。
でも、恨まれそうなキャッチフレーズ(猿)を混ぜてまで言いたいか?
この本の印税で稼げる額はマイクロソフトの元社長からすればハッキリ言って端金だ。
要するに、この台詞は稼ぐために書いたものではないということだ。
では、何故?
これが言いたいのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
> 生き方に差がつく
これはそうかもしれない。
ただ、断定はしない。
読書なんかする暇が無い程に勉強したり、狂ったように遊び呆けたり、仕事だけに埋没する時期。
それはそれであって良いと思う。
ただ、そんな集中力も気力も長くは続かない。
それに引き際というのもあり得る。
勿論、頑張っているうちに成果が出ちゃって、それを更に続ける。
そういうケースについては、読書も糞も無い。
唯我独尊で更に頑張って欲しい。
ラキヤもそうありたい。
でも、残念だけれど、そんな豊かな才能はラキヤには無かった。
とすると、何所かでノウハウをドーピングしないといけない。
ノウハウ?
別にこれはハウツーという訳ではなく、
知的好奇心だったり、
教養だったり、
自分の全くの無知を補うものだったり、
世の中の真理に触れる内容だったり、
色々とある。
それに凡庸でツマラナイ人と接するよりも、
何かしら魅力のある人と日頃から付き合っていたい。
そのためには自分が魅力的でなければならない。
読書はサプリメントのようなものでもある。
しかも、健康被害が出難い。良いこと尽くめだ。
(読書は暗いところでなく、明るいところで読みましょうね。目の健康も大切♬)
当然、生き方に差がつく。
> 恥ずかしいから古典には意味がないなどと書かないで欲しい。
こんなことを著者は全く言っていない。
こんな主張は嘘だ。
まあ、これを書いた人は感情的に書いたのであって、嘘を吐いたつもりはないのだろう。
しかし、こんなコメントを読んでも、害があるばかりで意味は無い。
ただ、著者は好き嫌いをハッキリと言っている。
彼は夏目漱石の「吾輩は猫である」を得るところの無い小説だと思っているようだ。
これは彼が猫好きでないからかもしれない。
また、森本哲郎さんの本を読んでいないからかもしれない。
ラキヤ個人は「吾輩は猫である」も森本さんの「吾輩も猫である」も好きだ。
猫好きなこともあり、ヘラヘラと読めてしまうからだ。
また、猫目線での風刺も結構好きだ。
アレルギーでなければ、著者にも猫目線の習得をお薦めしたい位だ。
また、意外なことにファーブル昆虫記もダメだそうだ。
奥本大三郎さんの翻訳のファーブル昆虫記にある糞転がしの紹介とか、
何と言う鋭い観察眼!
しかも、糞転がしの生体をここまでドラマチックに語れるとは。
純粋に小説としても楽しめる。
ラキヤは全巻は読んでないけれど、結構好きな本だ。
なので、著者とラキヤの好みは違う。
好みの違いというのは得てして良くある話だ。
それ自体、別に何も悪いことは無い。
それに好みを語る場合、著者は「この本は無駄だ」とは言っていない。
おっと、少し言っていたかな。
ここは誤解を解く意味で原文をそのまま引用する。
> 司馬遼太郎の「龍馬がゆく」のような本は読んでも意味はない。
> 若いときはもっとスケールの大きな本を読むべきである。
この発言、万人に向けではなく、「もっと他の本を若い人は読むべきだ」というだけだ。
個人的な好き嫌いで言えば、嫌いに属するのだろう。
この感覚はラキヤが井上靖さんの小説が眠くなるのと似ているかもしれない。
井上さんの「蒼き狼」を読んでいて、
これでは最近のゲームソフトで
「勝った。ライフポイントが20上がった!」
というのを繰り返す奴と何等変わらないと思ってしまったのを思い出した。
勿論、チンギスハンの伝記として読めば、
また、モンゴルの人達が英雄として描く人物について知ると考えれば、
違った意味合いが出てくるとも言えなくもないのだけれど。
ある人には宝石。別の人には石っころ。
よくある話だ。
尤も、井上さんの描写は真に迫っていて、読んでいて苦痛には感じない。
同じ井上さんの本で「おろしや国酔夢譚」は一気に読んだ。
これはラキヤが個人的にロシアと深く関わり続けていて、
主人公である大黒屋光太夫やその連れ達に感情移入することもあった。
この作品はゲームでライフポイントを積み重ねるような感じは無く、
様々な描写がとても生き生きと丁寧に描かれている。
海洋での光太夫達の船の遭難、
彼等の日本への帰国を思う願い、
それら旅行を重ねる過程で失われていく仲間の様子、
異国の言葉を学びつつ人間として理解し合おうとする交流、
極寒の地でも逞しく生きる様とそれを嘲笑う自然の残酷、
日本の身分制度から解放されたロシアの特権階級との知的交流、
苦悩の末に救いを求め、ロシア正教に入信した者の帰国を諦める様子、
再三地方官僚に要望を握りつぶされる理不尽、
知的階層に寄る異国人の望郷への理解と支援、
ロシア政府に帰国への正式に許可と支援を約束されたことの驚きと感動、
それを祝福しつつも、己の決断を一人重苦しく思う様、
あれ程に帰国を願っていた光太夫(ともう一人)を待ち受ける断固として変わらぬ祖国、
そして、異国の(特権階級としての)自由を味わった人に再び訪れる望郷の類似、
等々。
もっと書き出そうと思えば、細かな主題は幾つも見つかる。
そういう一つの物語を描き切った。
個人的には好きな本だ。
ただ、ロシアに馴染みの無い人は、
或いはラキヤが「蒼き狼」に感じた退屈をこの名作にも見出してしまうのかもしれない。
なので、と説得するのも変だけれど、
この著者の好き嫌いにも理解を示せそうな気もする。
ところで、「水滸伝」は古典に入る。
古典を全否定なんかしてないぞぉ〜!!!
著者は「水滸伝」の翻訳はヘッポコ作家のものを除いては全て読んだそうだ。
きっと彼は 張平さんの「十面埋伏」も面白いと言うと思う。
同じ類の激しい躍動の連続がそこにもあるから。
山崎豊子さんの「華麗なる一族」というのも好きだそうだ。
好みの傾向が何となく分かる気がしないだろうか。
ちなみに著者は
「タオ自然学」フリッチョフ・カプラ(著)
という本も薦めている。
タオとは中国の道教の「道」のことだ。
現代物理学を突き詰めると登用しそうに近くなるといったことが書かれているそうだ。
これなんかは面白そうだね。
この著者は中国への関心が強いね。
それはビジネスだけが動機なのではなく、読書や個人的な経験が背景にある。
自らの教養が中国への関心を自分に焚き付けている。
そういう感じもする。
ラキヤはまだ読んだことが無いので、近いうちに図書館であれば見てみたいな。
また、個人的には著者が村上春樹さんの「海辺のカフカ」を正当に評価しているのにも、
とても好感を持った。
あの作品は色んな意味でとても奥が深い。
「エディプス・コンプレックスなんて書きやがって。けっ!」
と無碍に言い捨てるポン助評論家などが結構いるけれど、
それは文芸評論という淀んだ溝の悪臭のようなもので、
無視していても全く構わないと思う。
(日本の文芸評論の内輪で生きるのであれば、それはNGかもしれないけれど・・・)
単なる読者としては、ああいうものは害毒でしかない。
脱線した。
この本は座右の銘とはならない。
しかし、読書の手引きの一つとしては良いのではないだろうか。
彼のお薦めする読書法もユニークだ。
その読書法についてはここでは紹介しない。
是非この本を手に取ってみてはどうだろうか。
彼自身も常にそればかりやっているとは思えないのだけれど、
そのようにして読む本というのを選択するのも人生に潤いを与えてくれる気がする。
最後に特に若い人にアドバイス。
また、アマゾンのコメントを始め、ネットでの他人の意見が参考になるかどうかは、
時と場合に寄って微妙だ。
(勿論、ラキヤの世迷い言も含めて!)
ネット上で得られる情報を何でも鵜呑みにしてはいけない。
その典型的な事例を見つけた気がした。
お終い♬
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【他人のコメント(アマゾンより)】
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「本を読め」という主張はよいのだけど、各論があまりにお粗末
By ny on May 1, 2008
成毛氏はいろいろな場で自分が読書家であることや読書に対する思い入れに
ついて語っている。本書はそれらの主張の集大成のようなものだと思う。
ただし、目を通せば分かるが本書にはたいした内容はない。
「本を読まない人はサルである」「本を読まないとまとまともな経営者には
なれない」「本を読まないと低所得層に没落する」といった主張を繰り返し
まくしたてている。この文章を読む限り、皮肉ではあるが、著者が優れた本を
広く読んで教養を身につけた人だということを垣間見れない。
そもそも本書自身が、著者が読んでもたいした意味がないと指摘する「ハウ
ツー本」「ビジネス書」の典型だ。
「本を読め」という主張はよいのだけど、各論があまりにお粗末。
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【他人のコメント(アマゾンより)】
233 of 258 people found the following review helpful:
外資系で出世するのは、こういうタイプ
By ビスマン on March 5, 2008
外資系IT会社に籍を置いたことがある。社内でよく聞かされたのは「出世できる奴は気××いか、ロボット」という言葉。いい意味もこめて、著者は典型的な前者のタイプであろう。外資系企業というところは、マスター(外人)とスレイブ(現地人)から成り立っている。マスターがおっしゃる理不尽なことにストレスを感じない気××いか、何でも仰せの通りと頭を下げられるロボットしか上に行けないということだ。
少しこの本を読めばわかる通り、著者は思いっきり独善的で、はっきり言ってKYである。日本人の友達は少ないだろうが、外人のエグゼクティブには結構ウケるのだ、こういう押しが強いタイプ。あなたのクラスにも一人はいたでしょ?こんな嫌な奴。
読書本のわりには、たいした本を紹介していない(読んでいないのか?)。各分野で「超入門書」としか言えないものばかり。ちょっと底が浅すぎじゃないとツッコミを入れたくなる。あと、恥ずかしいから古典には意味がないなどと書かないで欲しい。数十年、数百年もの「時の選別」を経た書物を軽々しく扱うなよな。それでも読書家か?志賀直哉の文章が下手だって?内容が面白いかどうかは別にして、あの文を下手だとか言う人が本を書いてはいけないだろう。
あと頑張って働いてくれる社員のおかげで社長をやっていられるのだから、「働きアリ」などと侮蔑するのもいかがなものか。品性を疑う。
という具合にたくさんツッコメる楽しい本です。ぜひご一読を。
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【追伸】
以下のブログでもこの本について論評している。
最初のブログは若い人が書いているようだけれど、良い目を持っているなと思った。
読書には色んな方法がある。
01.単純に全てを呑み込むように読む。
これは例えば評価の極めて高い古典であるとか、
自分のお気に入りの本はこのように読むと良い。
これは自分の思想的な背骨を築くための本を読むときの方法だから。
ただ、これを一回全部に目を通すことだと誤解している人が殊の外多い。
それは多くの場合、読んだうちには入っていない気がする。
読んだというのは、最低でもその本の内容を何時でも要約して喋れる。
そうでないと読んだとは言えない。
02.自分に役立つ情報だけを拾い上げる。
これは今回紹介した本の著者(成毛眞さん)が自書で紹介している方法論でもある。
もう少し詳しい「10冊同時に読む」などは彼の本を読んで下さい。
決して無茶苦茶なことを言っている訳ではないです。
ラキヤはとても貧乏なので、本を大量に買い込む場合はブックオフかオークションばかり。
古本屋は自分の近所しか回らないが、古本屋が本の価値を知らないことは稀。
ブックオフの方が本の価値を知らないこともあるので、
時々は掘り出し物(安くて良い本)が店舗で見つかることもあるので、
日本にいるときは時々行く。
何も見つからないと、値段の安くない良い本を立ち読みして買わずに帰る。
・・・というつもりだけれど、時々手元に置きたくなる本は買ってしまう。
数百円の差と今のその情報を得ることを天秤に掛ける。
例えば、中村文則さんの小説はラキヤにとっては読んでおきたい対象だけれど、
これは急がないでも全く構わないので値段が高ければ買わない。
安くなってから買えば良い。
というのも、世間の話題性とは全く関係無く、そのうち読めば良いからだ。
それに1〜2年後の方が、発行部数の関係もあって、絶対に値段は下がる。
それから読んでも全く遅くはない。
「教団X」とか読んでみたいなと思うけれど、
別に急がないでも内容が陳腐化することもないし、全然後でもOKだと思う。
それまでに彼の種本(古典)でも読んでいれば良いのだ。
ゲーテ?カミュ?ドストエフスキー?ラディゲ?
それに比べて、例えば、絶版を危惧するが、中身は充実している本。
こちらは将来的に手に入り辛くなるかもしれないし、
転売野郎が絶版後に不当な値段で売っている以外に買う手立てが無くなるかもしれない。
図書館で読めれば良いのだけれど、そうとも限らない。
数時間で読破できる本とも限らない。
世の中には時間を掛けて読むべき本というのが多数ある。
こういう本を読むのに成毛眞さんの方法は実はとても役に立つと思う。
これが自然科学の専門書となると話は全く変わってくる。
それらはそれだけをじっくりと、毎日4〜5時間は掛けて、
半年とか一年掛りとかで読むのが普通だ。
これは理解するのに4ヶ月〜10ヶ月。
残りの2ヶ月で具体例を計算したり類似したことを考えたりする。
そうやって漸く分かった気分になれるし、その分野の基礎が少し身に付く。
まあ自然科学の本でなくても、そのようにして時間を掛けて、
それこそ何度も読んだ方が良い本もある。
そんな訳で、今読みたいという要求を優先した方が良いこともある。
例えば、ヘーゲルの「歴史哲学講義(上)」岩波文庫が
ブックオフ店舗で108円(税込)で売っていた。
こういうのは速攻で買った。
これが100円で買えてしまうのは、文化的衰退なのか、単なるデフレなのか。
長谷川宏さんという人の翻訳なのだけれど、
分かり易く翻訳することを意図していて、とても読み易くなっている。
高校生には慣れない文章になるかもしれないけれど、
読めないこともないと思う。
ヘーゲルさん自体、昔の人なのだけれど、未だに有名な人だし、
そこらのポン助が書いた歴史の本よりも学ぶべきことは多い。
それに大昔の話を昔の人が書いたのと、今の人が書いたのと、どちらが良いのか。
これはどちらが面白いのかと言えば、昔の人だ。
今の人の話は生きていさえすれば聞く機会がある。
昔の人の話は本でしか出会うことはできない。
ヘーゲルさん、どっかの国防総省長官だった人じゃないよ。昔のドイツの学者さん。
これなんか、トイレにおいて、トイレに入ったときに10分とか読む。
半年間、そこに置きっぱなしで、繰り返し読む。
何回読んだか忘れちゃった位に。
宗教を信じる人が枕元に聖書を置いているとか、コーランを置いているとか、
そういうのを真似て、読書家としての習慣を得るのは賢い方法だ。
別に聖書じゃなくても良い。
何度読んでも味わいがある古典の中でも最良のものをそんな風に読むと、
これは体に染み渡るようになって、血となり肉となり、教養となる。
成毛眞さんは本を書いて、金を取っているけれど、ラキヤは無料だ。
凄い気前が良いな。はっはっは!
02の方法論から入って、結局は01になることもある。
それはそれで良いのだ。
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