子供達へのアドバイス

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暫く「今の小中高の子供達にアドバイスできること」というタイトルの記事を書かなかった。
アメリカに行ってから、そんなタイトルで書くのを止めてしまっていた。
別に深い理由は無かった。
あるとすれば、少し仕事が忙しくなったからというのと、
誰かに薦める前に独りで本を読んだ方が楽しいという理由と、
後、理工学系の本を読み出すと時間も掛かるし、その読み方も牛歩になるので、
お薦めすることも無くなってしまうというのもあった。

例えば、足立修一さんという慶応大学の先生がいて、
その人のビデオ講座で制御工学の話題を紹介されているものがあった。
それをラキヤは全部見て、その話題に関連した本も買った。
ケチケチしないで続きのビデオもあるのだから、全部公開して欲しいな・・・と思った。
そういうケチ臭さは日本の極めて悪い部分だと思う。
どうせ日本語の講義なんだから見るのは日本人ばかりなんだし、
見せて減るモノでもないだろうに・・・。
それで稼いでいる訳でも無いんだから。
でも、工学系の場合、そういう講座を有料でやって金を稼ぐ人もいる。
だから全部は見せないということなのかな?
東大とか主要大学の講義を全部公開しちゃえば良いんだよ。
どうせ日本語なんだし、基礎教育なんだから、日本人でシェアして何がいけないの?
大学教授が副業でまで儲けを考えて、著作権とか言うのはな・・・。
セコいな・・・。本当にセコいな・・・。
そんなセコいことをしている一方で飛び級云々の制度だとか何だとかで
金を溝に捨てる有識者対策会議とかを延々とやっている。
それで大したことは何も決まらないし、できない。

そんなことをしたら質の低い大学が潰れちゃうって?
潰れれば良いじゃん。
既得権益を守るよりも、新しい形のより効率的な教育体系を作った方が良いじゃん。
そうでもしないと教育の割高傾向だけが進んで、日本全体の教育水準は下がっちゃうよ。

「良い大学に入れなかった」「試験で落ちちゃった」ということは起こり得る。
そうした場合、大学に行けなくなる確率が増える。それは良くないのか?
何とも言えない。
その受け皿がラーメン大学だというのであれば、それは不要だと思う。
また、浪人するだけの経済力も無いのかもしれない。
大学受験の予備校として有名な大手の駿台・河合塾・東進といった会社を国有化して、
有名講座の全国無料配信を推進するなんてのも良いと思う。
それで塾が廃れる?
廃れて良い気もするし、廃れない気もする。
そういう制度を作っても、ビデオじゃ分からないという人もいるだろう。
そういう人への個別指導という形態で生き残れば良いのだと思う。

これで教育に掛かるコストは物凄く下がるので、子供を育て易い環境も大いに整う。
また、金持ちの子供が有利という環境は消えて、実力本位にもなるだろう。
ドラスティックな改革をやって日本の人材を育てて、増やしていくことを考えないと・・・。

足立修一さん個人がケチなのではなく、慶応大学がケチ臭いのだろう。
「慶応は」をあまりに連呼する体質は宗教団体かと思ってしまう。
日本のエリートを育てるのが設立目的なのだと自己中心的に主張するのではなく、
日本人全体の教育環境を底上げする音頭を取れって。
それから初めて「慶応は」を連呼しろって。
セケーオーを慶応が卒業できる日は来るのだろうか?

論文審査の能力も疑わしい早稲田よりは慶応は健全なのかもしれない。
公開講座にしても早稲田より慶応は充実しているとも思う。
ただ、如何せん物足りないし、これは日本全体的に言えるけれど、ショボい。セコい。
オナって全体的に沈むノアの方舟なのか、それとも日本は不沈艦になりつつあるのか。

ラキヤは日本には不沈艦になるだけの底力があると思う。
これは民族主義者のオナニー妄想ではなくて、
過去の日本人の科学での業績を鑑みて、本当にそう思う。

ただ、最近のゆとり教育だとか、
2位じゃ駄目なんですかの阿呆オバサンへの「彼奴は阿呆だ」としか言わない姿勢とか、
教育関連に従事する人達全体の怠慢、既得権益への甘えがラキヤには気に入らない。
お前等はバックレ成功組だよ。
でも、次世代はどうなる?

少しは考えようよ。

これは子供達へのアドバイスというより、
世の中は理不尽だということを紹介しているだけなのかもしれない。

できれば10代の人達や現役の大学生から
「全大学の講義の可視化」とか「主要予備校の講義の可視化」とか、
そういう主張が大きくなっていくことがあっても良いと思う。

そうでもしないと老害に食われ続けて若い人達がジリ貧に追い遣られる傾向ばかりが続く。
そういうことになってしまう。

教育の可視化がラキヤの妄想するように実現すれば、
海外からの留学生の優秀な人達が日本に来る確率も増えると思う。
教育のソフトを可視化すれば、その可視化された内容への批評も出て来る。
それがソフトそのものへの切磋琢磨にも繋がると思う。
また、研究者の多くが研究の時間をより多く確保することにも繋がるだろう。

また、社会人の再教育といった側面でも何もしないでも構わないとなるだろう。
会社にしても「これを見ろ!」とだけ言えば、従業員に必要な知識を提供できるようになる。
それがどれだけ社会的に好循環を生み出すことに貢献するか。

シンクタンクの暇人達は計算してみたら?
もっと社会貢献しろよ。

教育ビジネスに携わる人達は大反対するかもしれない。
総論賛成,各論反対かな。
ただ、あんたらの雇用よりも日本の将来の子供達のことをもっと考えたらどうかな?

昔は徳川家康はリストラで忠義の侍に切腹させた。
世の中の歴史は時々そういうことが必要なんだよ。
パソコンで言えばゴミであるデータを消去してメモリを確保するような仕組みが
世の中には無くなっている。
そして、ゴミデータを既得権益として必死で守る。
それじゃ駄目だよね。
日々の生活で大変で、それ以外のことには頭が回らない???

そればかりを錦の御旗にするのはイイカゲン止めない???

乱暴な持論だと自分でも思うが、ラキヤはそんな風に考える。
まあ、こんな鼻糞ブログで何を言っても何も変わらないのだけれどね。
今日は
「今日から使える電磁気学」竹内淳(著)
について書いてみたい。

ラキヤは世間的に言えば、個人的に数学に強い。
(プロを目指すのには能力的に胆力が足りなかったけれど・・・)

半導体とか液晶ディスプレイについて学ぶ必要があって、
でも、原理的なことが分からないと何も頭に入って来なさそうだったので、
何所まで振り返れば良いかと思い、手にしたのがこの本だった。

電磁気。
そして、半導体や物性の本。
そして、液晶の本といった感じで進むのだけれど、
それは別の機会に。
(YouTubeでビデオ講座を探すと結構便利。
 全部は見てないんだけれど、慶応大学の伊藤公平さんの講義は面白いと思った。
 また、三上勝大さんのざっくりイメージで半導体物性のイメージが掴めて、
 視野がパッと開けた気がしたし、慶応の講義を探すキッカケにもなった。
 感謝しても足りない位に感謝しています。
 今の学生さんは良いね。こういう便利な環境で。)

さて、電磁気。

この竹内さんの本は簡単に分かり易く書いてある。

ただ、難点があると言えば、日本語が少し変な所がある。
例えば、「これはこの原理により」みたいに書かれているのは、
「これは定義により明らか」と書かないと意味が通らないとか。
(でも、まあ、何にせよ明らかではあるのだけれど)。
そんなことが少しだけ気になったけれど、国語力の不足は理系の人に残念ながらよくある。
(ラキヤも他人のことを言えたものではないけれど)。
なので、その程度のことには読者は慣れないといけない。

最初の章は歴史的に電磁気学を紹介している。
これは高校生で習う順番なのかな。
高校の頃に習った電磁気なんて忘れちゃってて、この本で改めて全部習った気がする。

で、改めて思ったのが、
「実験によりこの法則が得られる」
という件に物理現象に関心が必ずしも高くないラキヤはどうしても唐突な感じを受ける。

そう、高校生の頃、ラキヤは物理があまり好きじゃなかった。
使っている数学は分かるのだけれど、物理現象に興味が無かった。
これは今でもそうかもしれないけれど、今は少しだけ興味が湧いている。
必要に迫られていることもあるけれど、昔と違い、何だか面白いと思えるようになった。
昔の人達の努力を垣間見ることに価値を見出す感覚が自分の中に出て来たからかな???

ということは、若い頃はそんな感覚は無かったってことで・・・。
不遜だったな。(汗)

実際に読んでいて、気付いたことは・・・。

部分的に少し微積分の計算をやった方が理解が進むというところはあるけれど、
それだって別に大して難しくないし、
分からない部分は実際に計算してみて、「そうなるね」と確認すれば良い。
飛ばして読み進めて、後で振り返るというのも必要だと思う。

電流の定義が無い気がしたのは、
「電子が流れるのの逆方向で電荷の秒辺りで観測したもの」
と少し後まで読むと分かる気がする。
電子の発見とかブラウン管テレビの紹介を兼ねて話をしているのとか、
そういうのを読むと、「そっかぁ」と分かった気になる。

また、V=−EL(22ページ)のマイナスは負電荷のマイナスだと理解しておかないと、
後になって、「あれ?どうしてマイナスが消えたの?」とか迷ったりもする。
ラキヤは2〜3分迷った。

後は?
どうしてローレンツ力はマクセルさんの方程式に入らなかったのか?
そんなこと知らんがな。

この本を読むと、大雑把な電磁気のイメージが沸くと思う。
もっと進んだ本を読むと良い気がする。

でも、物性とか化学とか、具体的な例を見て、
電磁気の活かされている様子を少し知ると、もっと学ぶ意欲が出て来るかもしれない。
最近のラキヤはそんなことを楽しんでいたりする。

物理現象のイメージを数学で説明するのが物理。
今更って感じもするけれど、大切なのは、
01.物理現象のイメージを持つ。
02.物理現象のイメージを数学で説明するのを理解する。
の01だと思う。

02は「物理をちゃんと勉強する」という意味。
でも、これは物理を勉強する人は誰でもやらなきゃいけない。
他方、01は本末転倒ながら忘れられがちになるように思う。

学生の頃のラキヤは01が出来なくて、「ツマラナイな」と思って、
物理も化学も勉強が止まってしまった。
今にすると、こんなに面白いのに勿体無いことをしたなと後悔している。

後悔先に立たず。

でも、数学をやっておくと、後から物理や化学の勉強ができる。
これだけはアドバンテージかな。

あまり金稼ぐ役には立たないけれど・・・。(涙)
(プログラマーと塾講師、サラリーマン以外で何かある?うーん・・・)。

研究者になりたい人は良質なイメージ(01)を沢山多く持つこと。
「大体こんな感じ」というのが大切なのだと思う。

三上勝大さんのざっくりイメージを見て、イメージを持つこと、
その大切さを良く分かった気がした。

例えば、電子は原子の回りにフラフラしているのだけれど、
その配置というのはエネルギー次第でエネルギーの無い電子から原子の近くに納まる。
そして、外の核(軌道)になればなる程、エネルギーは高くなる。
そして、エネルギーが高過ぎれば、納まっていられない。
原子がハーレムを作ると、エネルギーの弱い奴等が集まるってことだね♬

ラキヤはこんなことも知らなかった(のか、忘れちゃっていたのか・・・)。

そういうことが分かってみると、
> p型半導体(高濃度のシリコンにホウ素をドーピングしたもの)について
> 「ホウ素の不純物準位」が価電子帯の近くにある
という同ビデオの内容で「でも、それってどうして?」と思って、
何か専門書を見ると、その理由が分かっちゃったりもした。
(小長井誠さんの「半導体物性」という本。
 ピョンと移動する電子の満たす波動方程式を解くとその理由が分かる♬
 納得することは、「まあ、そんなもんか」というだけだけれど、
 正しいイメージを持つと、新たなことをすんなり学べる良い例だと思う。
 そういう「分かった♬」を一つずつ増やしていくと、ある日、結構分かったと進化できる)。

厳密に学ぶこと(02)は誰でもやるので、差が出るのは01だと思う。
勿論、02があってこその01ではあるのだけれど。

そういう勉強を繰り返すのって、結構楽しい。
まあ、こんなことを考えた。

話が発散している気もするけれど、物理とか化学って面白いよ。
そういう話。

そういう内容で仕事ができたりすると一番幸せじゃないかな。
ラキヤはもうオッサンだから、今更・・・だけど、
若い人達には応用のある話を何かしら学んで、楽しい仕事を出来るととても良いと思う。

勿論、何が楽しいかは個人差があるので、一概には言えない。
でも、理系、工学系の楽しみって、もっと広く知られた方が良い。
これは本当にそう思う。
今日は
「本は10冊同時に読め」 成毛 眞 (著)
を読んだ感想、
そして、アマゾンのレビューについてもコメントしてみたい。


【ラキヤの感想】

この著者は癖が強い。
それが鼻に付くという人もいるかもしれない。
この人、何となく嫌い。
そういう印象を持つ人もいるのかもしれない。

「あそこの社長だったときさー、酒の飲み過ぎで次の日出社できなかったよー♬」
「でも、俺は他の奴等とは違って、仕事ができたからなー♬」

確かに下品なので、それに対して嫌悪感を催すのかもしれない。
しかし、そういう感情は読書には無駄だと思う。

嫌いならば、その部分は戦後の炭塗り教科書のように消しちゃえば良い。
そして、それ以外の部分を読めば良いのだ。
(勿論、残りの部分に読む価値が見出せればの話ではあるのだけれど)。

この本を手に取って、そんな風に思った。
というのは、アマゾンのレビューを予め見て、不思議に思ったからだ。


この本、かなり評判の善し悪しが分かれている。
評判の悪さは著者の下品さで盲目になっちゃった人が悪口を書いているようだ。

一番下に例として2つばかり他人のコメントを転載したけれど、
的外れというか、事実と異なることが書かれている。
それは実際にこの本を手に取って明確に分かった。


例えば、
> そもそも本書自身が、著者が読んでもたいした意味がない
> と指摘する「ハウツー本」「ビジネス書」の典型だ。
という部分、これは全く違う。

例えば、「水滸伝」を薦める件では、
中国で失敗するビジネスマンが多いのは何故か?
多分、中国への考え方が偏っているのではないかと推測している。

彼が挙げた偏った型の例は以下のような感じだ。
01.中国礼讃型(中国の古典が好き。中華料理が好き。)
02.歴史だの何だので謝罪型
03.経済格差を小馬鹿にしている差別型
04.共産党一党独裁への恐怖型
なんだかんだ・・・。

そして、どのように中国人に接すれば良いのか。
それが絶望的に分かっていないのではないか。
性善説で「言えば分かる」し、理解し合えると思っているのではないか。

例えば、「水滸伝」。
茶屋に泊まった旅人が饅頭の具にして食われてしまう残酷さだとか、
梁山泊に集まる英雄が次々と潰し合う豪快極まりない話だとか、
そういう衝撃を受けざるを得ない本を読んでいると、
中国人というのは日本人とは根本的に違う異次元の生物なのだと思い至る。

こういうものを読んでいれば、中国での対処の心構えも自ずと違ってくる。
一寸極端な感じもするけれど、それはそうだという気もする。

また、礼讃とか謝罪とか、そういうものは余程中身が無い限り、
軽くしか受け取って貰えない。
これは万国共通だ。
しかし、ペコペコ謝罪する人や無闇矢鱈に誉めちぎる人達の多くは
そういうことを全く分かっていない。

「謝れ!」と言ってもいないのに謝ってくる。
コンプレックスを持っているのか。
じゃあ、それを含めて、都合の良いように利用してやれ。
この点、日本人は言葉をそのままの形で受け取りがちだ。
中国人の発想はここでも日本人とは違う。

発想が違うことを認めた方が相互理解もし易い気がする。

大雑把に言って、こんな紹介があったと思う。

これは陳腐なハウツーではなく、中身のある古典なども読んで、
その上で中国を眺めると色んな本質的なことが見えてくるという助言だ。


本質的かどうか。役に立つかどうか。
功利主義ということになってしまうのかもしれないけれど、
そういう視点を全く抜きで選り好みするのは、
それは損をしてしまうことが多いと思う。

鼻に付く部分は無視して、中身のありそうな部分を読めば良いのだ。
著者がアドバイスしている通りに。


> 本を読まない人はサルである!

こういう発言は余計なお世話だとも思う。
ラキヤならば、ここまでは言わない。
確率的に言えば、本を読まない奴とは口を聞きたくないかもしれない。
でも、稀に面白い人もいる。
だから、こういう過激なことはラキヤは思っていても、言わない。

その点、金持ちの強みなのか、言いたい放題の強みを利用して
極めて親切をしてくれているのだとも思う。

読書は大切だ。

でも、恨まれそうなキャッチフレーズ(猿)を混ぜてまで言いたいか?
この本の印税で稼げる額はマイクロソフトの元社長からすればハッキリ言って端金だ。
要するに、この台詞は稼ぐために書いたものではないということだ。
では、何故?

読書は大切だ!!!


これが言いたいのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。


> 生き方に差がつく

これはそうかもしれない。
ただ、断定はしない。
読書なんかする暇が無い程に勉強したり、狂ったように遊び呆けたり、仕事だけに埋没する時期。
それはそれであって良いと思う。

ただ、そんな集中力も気力も長くは続かない。
それに引き際というのもあり得る。
勿論、頑張っているうちに成果が出ちゃって、それを更に続ける。
そういうケースについては、読書も糞も無い。
唯我独尊で更に頑張って欲しい。

ラキヤもそうありたい。
でも、残念だけれど、そんな豊かな才能はラキヤには無かった。

とすると、何所かでノウハウをドーピングしないといけない。
ノウハウ?
別にこれはハウツーという訳ではなく、
知的好奇心だったり、
教養だったり、
自分の全くの無知を補うものだったり、
世の中の真理に触れる内容だったり、
色々とある。

それに凡庸でツマラナイ人と接するよりも、
何かしら魅力のある人と日頃から付き合っていたい。

そのためには自分が魅力的でなければならない。
読書はサプリメントのようなものでもある。
しかも、健康被害が出難い。良いこと尽くめだ。
(読書は暗いところでなく、明るいところで読みましょうね。目の健康も大切♬)

当然、生き方に差がつく。


> 恥ずかしいから古典には意味がないなどと書かないで欲しい。

こんなことを著者は全く言っていない。
こんな主張は嘘だ。
まあ、これを書いた人は感情的に書いたのであって、嘘を吐いたつもりはないのだろう。
しかし、こんなコメントを読んでも、害があるばかりで意味は無い。

ただ、著者は好き嫌いをハッキリと言っている。

彼は夏目漱石の「吾輩は猫である」を得るところの無い小説だと思っているようだ。
これは彼が猫好きでないからかもしれない。
また、森本哲郎さんの本を読んでいないからかもしれない。

ラキヤ個人は「吾輩は猫である」も森本さんの「吾輩も猫である」も好きだ。
猫好きなこともあり、ヘラヘラと読めてしまうからだ。
また、猫目線での風刺も結構好きだ。

アレルギーでなければ、著者にも猫目線の習得をお薦めしたい位だ。

また、意外なことにファーブル昆虫記もダメだそうだ。
奥本大三郎さんの翻訳のファーブル昆虫記にある糞転がしの紹介とか、
何と言う鋭い観察眼!
しかも、糞転がしの生体をここまでドラマチックに語れるとは。
純粋に小説としても楽しめる。
ラキヤは全巻は読んでないけれど、結構好きな本だ。
なので、著者とラキヤの好みは違う。

好みの違いというのは得てして良くある話だ。
それ自体、別に何も悪いことは無い。
それに好みを語る場合、著者は「この本は無駄だ」とは言っていない。


おっと、少し言っていたかな。
ここは誤解を解く意味で原文をそのまま引用する。

> 司馬遼太郎の「龍馬がゆく」のような本は読んでも意味はない。
> 若いときはもっとスケールの大きな本を読むべきである。

この発言、万人に向けではなく、「もっと他の本を若い人は読むべきだ」というだけだ。
個人的な好き嫌いで言えば、嫌いに属するのだろう。


この感覚はラキヤが井上靖さんの小説が眠くなるのと似ているかもしれない。

井上さんの「蒼き狼」を読んでいて、
これでは最近のゲームソフトで
「勝った。ライフポイントが20上がった!」
というのを繰り返す奴と何等変わらないと思ってしまったのを思い出した。

勿論、チンギスハンの伝記として読めば、
また、モンゴルの人達が英雄として描く人物について知ると考えれば、
違った意味合いが出てくるとも言えなくもないのだけれど。

ある人には宝石。別の人には石っころ。
よくある話だ。
尤も、井上さんの描写は真に迫っていて、読んでいて苦痛には感じない。

同じ井上さんの本で「おろしや国酔夢譚」は一気に読んだ。
これはラキヤが個人的にロシアと深く関わり続けていて、
主人公である大黒屋光太夫やその連れ達に感情移入することもあった。
この作品はゲームでライフポイントを積み重ねるような感じは無く、
様々な描写がとても生き生きと丁寧に描かれている。

海洋での光太夫達の船の遭難、
彼等の日本への帰国を思う願い、
それら旅行を重ねる過程で失われていく仲間の様子、
異国の言葉を学びつつ人間として理解し合おうとする交流、
極寒の地でも逞しく生きる様とそれを嘲笑う自然の残酷、
日本の身分制度から解放されたロシアの特権階級との知的交流、
苦悩の末に救いを求め、ロシア正教に入信した者の帰国を諦める様子、
再三地方官僚に要望を握りつぶされる理不尽、
知的階層に寄る異国人の望郷への理解と支援、
ロシア政府に帰国への正式に許可と支援を約束されたことの驚きと感動、
それを祝福しつつも、己の決断を一人重苦しく思う様、
あれ程に帰国を願っていた光太夫(ともう一人)を待ち受ける断固として変わらぬ祖国、
そして、異国の(特権階級としての)自由を味わった人に再び訪れる望郷の類似、
等々。

もっと書き出そうと思えば、細かな主題は幾つも見つかる。
そういう一つの物語を描き切った。
個人的には好きな本だ。
ただ、ロシアに馴染みの無い人は、
或いはラキヤが「蒼き狼」に感じた退屈をこの名作にも見出してしまうのかもしれない。

なので、と説得するのも変だけれど、
この著者の好き嫌いにも理解を示せそうな気もする。


ところで、「水滸伝」は古典に入る。
古典を全否定なんかしてないぞぉ〜!!!

著者は「水滸伝」の翻訳はヘッポコ作家のものを除いては全て読んだそうだ。
きっと彼は張平さんの「十面埋伏」も面白いと言うと思う。
同じ類の激しい躍動の連続がそこにもあるから。

山崎豊子さんの「華麗なる一族」というのも好きだそうだ。
好みの傾向が何となく分かる気がしないだろうか。


ちなみに著者は
「タオ自然学」フリッチョフ・カプラ(著)
という本も薦めている。

タオとは中国の道教の「道」のことだ。
現代物理学を突き詰めると登用しそうに近くなるといったことが書かれているそうだ。
これなんかは面白そうだね。
この著者は中国への関心が強いね。
それはビジネスだけが動機なのではなく、読書や個人的な経験が背景にある。
自らの教養が中国への関心を自分に焚き付けている。
そういう感じもする。

ラキヤはまだ読んだことが無いので、近いうちに図書館であれば見てみたいな。


また、個人的には著者が村上春樹さんの「海辺のカフカ」を正当に評価しているのにも、
とても好感を持った。
あの作品は色んな意味でとても奥が深い。

「エディプス・コンプレックスなんて書きやがって。けっ!」
と無碍に言い捨てるポン助評論家などが結構いるけれど、
それは文芸評論という淀んだ溝の悪臭のようなもので、
無視していても全く構わないと思う。
(日本の文芸評論の内輪で生きるのであれば、それはNGかもしれないけれど・・・)
単なる読者としては、ああいうものは害毒でしかない。
脱線した。


この本は座右の銘とはならない。
しかし、読書の手引きの一つとしては良いのではないだろうか。

彼のお薦めする読書法もユニークだ。
その読書法についてはここでは紹介しない。
是非この本を手に取ってみてはどうだろうか。

彼自身も常にそればかりやっているとは思えないのだけれど、
そのようにして読む本というのを選択するのも人生に潤いを与えてくれる気がする。


最後に特に若い人にアドバイス。
また、アマゾンのコメントを始め、ネットでの他人の意見が参考になるかどうかは、
時と場合に寄って微妙だ。
(勿論、ラキヤの世迷い言も含めて!)
ネット上で得られる情報を何でも鵜呑みにしてはいけない。

その典型的な事例を見つけた気がした。
お終い♬


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【他人のコメント(アマゾンより)】

182 of 201 people found the following review helpful:
「本を読め」という主張はよいのだけど、各論があまりにお粗末
By ny on May 1, 2008

成毛氏はいろいろな場で自分が読書家であることや読書に対する思い入れに
ついて語っている。本書はそれらの主張の集大成のようなものだと思う。

ただし、目を通せば分かるが本書にはたいした内容はない。
「本を読まない人はサルである」「本を読まないとまとまともな経営者には
なれない」「本を読まないと低所得層に没落する」といった主張を繰り返し
まくしたてている。この文章を読む限り、皮肉ではあるが、著者が優れた本を
広く読んで教養を身につけた人だということを垣間見れない。

そもそも本書自身が、著者が読んでもたいした意味がないと指摘する「ハウ
ツー本」「ビジネス書」の典型だ。

「本を読め」という主張はよいのだけど、各論があまりにお粗末。

— — — — — — — — — — — — — — —

【他人のコメント(アマゾンより)】

233 of 258 people found the following review helpful:
外資系で出世するのは、こういうタイプ
By ビスマン on March 5, 2008

外資系IT会社に籍を置いたことがある。社内でよく聞かされたのは「出世できる奴は気××いか、ロボット」という言葉。いい意味もこめて、著者は典型的な前者のタイプであろう。外資系企業というところは、マスター(外人)とスレイブ(現地人)から成り立っている。マスターがおっしゃる理不尽なことにストレスを感じない気××いか、何でも仰せの通りと頭を下げられるロボットしか上に行けないということだ。

少しこの本を読めばわかる通り、著者は思いっきり独善的で、はっきり言ってKYである。日本人の友達は少ないだろうが、外人のエグゼクティブには結構ウケるのだ、こういう押しが強いタイプ。あなたのクラスにも一人はいたでしょ?こんな嫌な奴。

読書本のわりには、たいした本を紹介していない(読んでいないのか?)。各分野で「超入門書」としか言えないものばかり。ちょっと底が浅すぎじゃないとツッコミを入れたくなる。あと、恥ずかしいから古典には意味がないなどと書かないで欲しい。数十年、数百年もの「時の選別」を経た書物を軽々しく扱うなよな。それでも読書家か?志賀直哉の文章が下手だって?内容が面白いかどうかは別にして、あの文を下手だとか言う人が本を書いてはいけないだろう。

あと頑張って働いてくれる社員のおかげで社長をやっていられるのだから、「働きアリ」などと侮蔑するのもいかがなものか。品性を疑う。

という具合にたくさんツッコメる楽しい本です。ぜひご一読を。

— — — — — — — — — — — — — — —


【追伸】

以下のブログでもこの本について論評している。


最初のブログは若い人が書いているようだけれど、良い目を持っているなと思った。
読書には色んな方法がある。


01.単純に全てを呑み込むように読む。

これは例えば評価の極めて高い古典であるとか、
自分のお気に入りの本はこのように読むと良い。
これは自分の思想的な背骨を築くための本を読むときの方法だから。

ただ、これを一回全部に目を通すことだと誤解している人が殊の外多い。
それは多くの場合、読んだうちには入っていない気がする。

読んだというのは、最低でもその本の内容を何時でも要約して喋れる。
そうでないと読んだとは言えない。


02.自分に役立つ情報だけを拾い上げる。

これは今回紹介した本の著者(成毛眞さん)が自書で紹介している方法論でもある。
もう少し詳しい「10冊同時に読む」などは彼の本を読んで下さい。
決して無茶苦茶なことを言っている訳ではないです。
ラキヤはとても貧乏なので、本を大量に買い込む場合はブックオフかオークションばかり。
古本屋は自分の近所しか回らないが、古本屋が本の価値を知らないことは稀。
ブックオフの方が本の価値を知らないこともあるので、
時々は掘り出し物(安くて良い本)が店舗で見つかることもあるので、
日本にいるときは時々行く。
何も見つからないと、値段の安くない良い本を立ち読みして買わずに帰る。
・・・というつもりだけれど、時々手元に置きたくなる本は買ってしまう。
数百円の差と今のその情報を得ることを天秤に掛ける。

例えば、中村文則さんの小説はラキヤにとっては読んでおきたい対象だけれど、
これは急がないでも全く構わないので値段が高ければ買わない。
安くなってから買えば良い。
というのも、世間の話題性とは全く関係無く、そのうち読めば良いからだ。
それに1〜2年後の方が、発行部数の関係もあって、絶対に値段は下がる。
それから読んでも全く遅くはない。
「教団X」とか読んでみたいなと思うけれど、
別に急がないでも内容が陳腐化することもないし、全然後でもOKだと思う。
それまでに彼の種本(古典)でも読んでいれば良いのだ。
ゲーテ?カミュ?ドストエフスキー?ラディゲ?

それに比べて、例えば、絶版を危惧するが、中身は充実している本。
こちらは将来的に手に入り辛くなるかもしれないし、
転売野郎が絶版後に不当な値段で売っている以外に買う手立てが無くなるかもしれない。
図書館で読めれば良いのだけれど、そうとも限らない。
数時間で読破できる本とも限らない。

世の中には時間を掛けて読むべき本というのが多数ある。
こういう本を読むのに成毛眞さんの方法は実はとても役に立つと思う。
これが自然科学の専門書となると話は全く変わってくる。
それらはそれだけをじっくりと、毎日4〜5時間は掛けて、
半年とか一年掛りとかで読むのが普通だ。
これは理解するのに4ヶ月〜10ヶ月。
残りの2ヶ月で具体例を計算したり類似したことを考えたりする。
そうやって漸く分かった気分になれるし、その分野の基礎が少し身に付く。

まあ自然科学の本でなくても、そのようにして時間を掛けて、
それこそ何度も読んだ方が良い本もある。

そんな訳で、今読みたいという要求を優先した方が良いこともある。

例えば、ヘーゲルの「歴史哲学講義(上)」岩波文庫が
ブックオフ店舗で108円(税込)で売っていた。
こういうのは速攻で買った。
これが100円で買えてしまうのは、文化的衰退なのか、単なるデフレなのか。
長谷川宏さんという人の翻訳なのだけれど、
分かり易く翻訳することを意図していて、とても読み易くなっている。
高校生には慣れない文章になるかもしれないけれど、
読めないこともないと思う。
ヘーゲルさん自体、昔の人なのだけれど、未だに有名な人だし、
そこらのポン助が書いた歴史の本よりも学ぶべきことは多い。
それに大昔の話を昔の人が書いたのと、今の人が書いたのと、どちらが良いのか。
これはどちらが面白いのかと言えば、昔の人だ。
今の人の話は生きていさえすれば聞く機会がある。
昔の人の話は本でしか出会うことはできない。
ヘーゲルさん、どっかの国防総省長官だった人じゃないよ。昔のドイツの学者さん。

これなんか、トイレにおいて、トイレに入ったときに10分とか読む。
半年間、そこに置きっぱなしで、繰り返し読む。
何回読んだか忘れちゃった位に。

宗教を信じる人が枕元に聖書を置いているとか、コーランを置いているとか、
そういうのを真似て、読書家としての習慣を得るのは賢い方法だ。
別に聖書じゃなくても良い。

何度読んでも味わいがある古典の中でも最良のものをそんな風に読むと、
これは体に染み渡るようになって、血となり肉となり、教養となる。

成毛眞さんは本を書いて、金を取っているけれど、ラキヤは無料だ。
凄い気前が良いな。はっはっは!


02の方法論から入って、結局は01になることもある。
それはそれで良いのだ。
今回は(毎回かもしれないが)個人的好みが少し入った本を紹介してみたいと思う。

「異星人伝説 20世紀を創ったハンガリー人」
という本だ。

ジョルジュ マルクス (著)というハンガリー人が
ハンガリーの科学者を何人か選んで紹介している。

確かにハンガリー人の有名な科学者は国の規模と比較すると多い感じがする。
国の人口は1千万人弱。日本の10分の1にも満たない。


ラキヤが少しは知っている数学でも複数の名前が簡単に挙げることができる。

ノイマンさんはコンピュータの仕事は有名で、
今でもノイマン型のコンピュータとか言ったりする。
このノイマンさんは数学の分野でも沢山仕事をしている。

他にもエルデシュさんとか、日本が大好きなピーター・フランクルさんもハンガリー人。

他にもいるけれど、数学を知っている人は圧倒的少数だし、
知っている人達の前で偉そうなことを言うのも恥ずかしいので省略。
でも、本当に多くの人が輩出されている。


個人的には最初にエルデシュさんの紹介の部分を読んだ。
細かな中身については何時も通り言わない。読んでね。

エルデシュさんはエルデシュ語というのを作っていたようだ。
自作の英英辞典で、
epsilon = child
SF (Supreme Fascist) = god
boss = woman
slave = man
captured = married
liberated = divorced
noise = music
poison = whisky
preaching = lecturing
trivial people = non-mathematician
plus sign = catholic cross
he died = gave up doing math
he left = he died
Sam = the USA
Joe = the Soviet Union
long wave length (red) = communist
なんてのがあったそうだ。

ちなみに、Sam は Uncle Sam のことで、Joe はスターリン(ヨセフ)のこと。

こういうことを数学を専門に勉強している人達は言い出しがちだ。
特に、trivial people = non-mathematician とか。

ただ、
> 学校教育から「疑わしい要素」をすべて排除したい「純粋」数学信奉者は、
> 偶然や無限などに関心を向けるエルデシュに言及することすらしない。
とか書いている部分を21世紀の感覚で読むと、
「そんなことは全然無いよね・・・」
となってしまう。

「純粋」数学信奉者とか変な言葉を使うと、誰のことなのか分からない。
数学基礎論信奉者とでも書いた方が、まだ現実味がある気もする。
でも、彼等にしたって、偶然や無限への関心はある。

凄い基礎的で疑い様の無い公理系に無限の臭いのする公理を加えるのと加えないのと、
それはどちらでも矛盾が無いという結果を数学基礎論は導いてしまった。
乱暴に言うと、それってのは無限をどう扱っても良いけれど、無限はあるという感じがする。
これを一体どのように理解すれば良いのだろう?
こういった疑問をより深く理解しようと試みる方法すら未だに無い気がする。
(これはアメリカのコーエンさんの結果なんかを鑑みるとそんな風に思える。)

多分、この本を書いた人はエルデシュさんの特異性を強調したかったんだろうね。
それで変な作文をしちゃった。
その程度に理解して、変な感じの部分は読み飛ばした方が良いね。

これは伝記の読み方として必要な心構えだと思う。
(ただ、そういう部分が多過ぎる伝記はクズだ。その場合は投げ出すこと)。


また、以下のゴシップにも個人的には驚いた。

「N>0 における素数の平均密度は、およそ1/lnNである」という定理の証明は
19世紀に関数論を用いて証明されたのだけれど、
関数論を用いない初等的な証明をエルデシュさんとセルバーグさんが証明したのだけれど、
セルバーグさんは自分独りで証明したと自分の名前だけで発表しちゃった。
それでセルバーグさんはフィールズ賞を取った。

そんな紹介があって、「へー」と驚いた。
でも、この場合、小保方さんの嘘吐きとは全く事情が違うし、科学者としての質も違う。
セルバーグさんはフィールズ賞を取る位に凄い数学者だというのは疑う余地が全く無い。
この証明以外にも沢山の凄い仕事をしているから。
この両者とも、とても凄い数学者。それは間違い無い事実。

それに大昔のことなので、当時の事情なんて知り様も無いけれど、
別に「独りでやったぜ!」と抜け駆けする気もセルバーグさんには無かったように思う。
本人に聞いた訳でも無いけれど。

良いじゃん。証明自体は正しいんだし。
正しいかどうかの方が余程問題だよ。

それにエルデシュさんは別段そのことで恨みがましいことは言わなかったと思う。

だって、他の賞を貰ったエルデシュさんはそのお金(5万ドル)から720ドルを抜いて、
その残りを全部奨学金や数学コンクールの賞金にプレゼントしちゃったとかあるし。

エルデシュさん自体、お金が無くても、
「よっ、来たよ。今日は泊めてね。数学の話をしよう!」
とフラフラしていて全然困らなかったし、どちらかと言えば、周囲の人間が
「あいつは何処に行った?数学の話がしたい(大学に招待したい)のに・・・」
と彼を捜すのが殆どだったのだから。

恨みがましいことを言いたいのは、
「大学での自分の職を保持し続けられるか?」
とか悩んでいるような凡庸な人達の悩みであって、
エルデシュさんはそういう世俗のゴタゴタからは解放されていたのだから。


うーん。
こんな本の日本版をこのレベルで面白く書けるだろうか。
曾野綾子のような頭の中に虫が入ったようなのが筆者ではダメだ。

こういう本の日本版というのは存外難しいのかもしれない。
でも、どうしてかな?

例えば、文学の分野だと訳の分からない偉そうにしている評論家が有象無象いる。
ああいうのは百害あって一利無しなのだけれど、そんなことを言うと噛み付かれそうだ。
君子危うきに近寄らず。
でも、ラキヤは君子じゃないから、こういうことを指摘する。
まあ、無名の凡人の戯言だから、御聞き流しを。はっはっは。

好き嫌いを超越して、取り敢えず読んで、感情抜きに評価する。
そんな当たり前のことがこれらの評論家は出来ていない。
例えば、村上春樹さんの本を貶している多くは、如何にもポン助が多い。

ラキヤは村上信者という訳でもない。
音楽の知識をひけらかす(とラキヤには感じられる)部分なんかは好きじゃない。
勿論、これはラキヤ個人のコンプレックスでもあるのだけれど、
ああいうのを文学に引き摺り込むというのはアンフェアだとさえ思う。
20世紀にそういうことをしていた彼は鼻に付く。
しかし、時代が彼を救済した。
高速インターネットの普及のお蔭で彼のそんな性癖(とラキヤが勝手に呼んでいるもの)は、
別に何にも気にならなくなった。
逆にそういう紹介が音楽の世界への誘いにさえなったのだ。
以前は彼の本で蘊蓄を垂れられると、
「何だよ。それ?CD買うのに3千円も掛かるぞ・・・。」
となっていた。しかし、今ではググれば直に視聴出来る。
そんなことがキッカケでラキヤはジャズコンサートに出掛けたりもした。
20世紀には鼻に付いたものが、21世紀には感謝の対象にすら変質した。
そういうものを以て、村上作品を云々するのはアンフェアだと思う。

それ以外で文句を垂れているって?
「海辺のカフカ」をエディプスコンプレックスとだけ言い放って、
「だから、僕はあの作品は下らないと思うんだよね♬」
とか上から目線でシタリ顔で語っていたオッサン(名前は忘れた)など、
ラキヤの視点からすれば、論外だと思う。

そうなんだよ。
こういう人達が跋扈する土壌が日本には結構ある。
それの悪影響で「日本の偉人」という本が出難い。

そんな気がする。


それにハンガリーの当時の時代背景が偉人紹介の際に面白さのアクセントになっている。
他人の不幸を面白いと言うのは不謹慎ではあるけれど、不謹慎な面白さというのは確かにある。

日本では大戦の苦しみはあったにせよ、ハンガリーよりはずっと事情が恵まれていた。
もしくは、日本人は戦争の苦しみをハンガリー人程には口に出さなかったのかもしれない。
兎も角、エピソードはハンガリー人のそれと比べると少ないように思う。

これでは紹介する方も困ってしまう。


この本を読んでいて、ラキヤはそんなことを考えたりしていた。
若い人には是非読んでみて欲しい本の一つ。
こういう本はラキヤのような中年が読んでも、正直もう知的刺激にならない。
哀しいがな、頭脳は半分死んでいるし。

例えば、
「N>0 における素数の平均密度は、およそ1/lnN」という定理は初等的に証明出来るって?
じゃあ、俺が挑戦してやろう!

そんな風に考える中学生や高校生が出て来ても良いと思う。
それで一夏を無駄に過ごしたなんてのも悪くない。

同じ一つの問題についてだけ四六時中考え続ける。(※※※)
それは存外大変な作業だ。
そういう経験をしているのとしていないのとでは、その後の人生が大きく変わって来る。

挑戦して夢破れて、「エルデシュさんはどうやったのだろう?」と
その証明を勉強してみるのも若い頃であればこそ、学ぶ価値がある。
中年になってからそんなことをしても、単なる趣味で終わってしまう。

この意味合いは(※※※)といったことを若いときに経験していないと分からないと思う。

それは大学の受験勉強を頑張ったといった程度の世俗的な努力とは質が違う。
もっと根源的に深い努力が要求されるから。

でも、世の中にはそういうのを苦と感じないで自然と取り組んじゃう人種もいる。
そういうのを世間は天才と言う。


段々余計なことを言い始めている気がするので、これでお終い。読んでね。


【追伸】

> でも、世の中にはそういうのを苦と感じないで自然と取り組んじゃう人種もいる。
> そういうのを世間は天才と言う。

「これって違うんじゃない?」とある人に言われた。
そうかもしれない。

世間では秀才を天才と勘違いしている場合が存外と多い。
それに凡人が天賦の才のことを云々するなんて烏滸がましい気もする。

ただ、読書は凡人が才能ある人達の本質的な何かを垣間見られる絶好の機会だ。
面と向かっては大嫌いであろうタイプの人でも本ならば気にしないで読める。
アポイントを取って話を聞こうとすれば数百万円は掛かる。
でも、本の価格は高が知れている。

読書ってお薦めだよ!
『コーラン』を読む (岩波現代文庫) 文庫 – February 16, 2013
井筒 俊彦 (著)

今日はこの本をお薦めしようと思う。
この本は極めて面白い。
この本を復刊してくれた岩波は日本に誇れる立派な会社だと思う。


この本を読めば、コーランの翻訳を読む準備が出来たと言える。
いきなりコーランを読めば良いと思うかもしれないが、それはそうではないのだ。

実際、コーランを開くと分かると思う。
一見すると、とてもツマラナイからだ。訳が分からないのだ。

では、どのように読めば良いのか。
そもそも読むとはどういうことなのか。
更にはコーランを読むとは。


日本でも「論語」や「般若心経」の素読というのが以前は教育にあった。
内容の理解は二の次にして、文字だけを声に出して読むこと。それを素読(そどく)という。

以前というのは戦前なのかもしれない。
ラキヤは安保闘争が終わって、若者が去勢された頃に生まれた世代なので、
周囲には素読なんてしている人はいなかった。

ラブ&ピース。ビートルズの素読が精々なものだ。
これをセックス&V(写真撮るときの指で作るマーク)と誤解する間抜けな世代だ。
ラキヤが大学に入学した頃は
丁度トヨタが猫でも杓子でもホテル代と新幹線代を払って面接ツアーにご招待とやっていた。

下らない英文を少し暗誦しても、大したものは頭に残らない。
でも、それだってサブプライムならぬサブカルチャーで塗り固められ、
本来のカルチャーを道端へ追い遣るようになった。
昔の良き時代は教育から早々に失われたようだ。

読むとはそもそもなんだったのか?
この問いを少し考えるだけで、実は自分達が如何に何も分かっていないのか、
そういうことが見えて来る。


さて、「コーランを読む」に話を戻そう。
素読が「コーラン(の翻訳)」の読み方の一つだということも紹介されている。
兎に角、声に出す。繰り返し暗誦する。
頭の中で諳んじるだけではなく、声に出すことが大切なのだ。
それが「コーラン」という単語の語源のようであったりもする。

ここで(の翻訳)と書いた。その説明は後で。


また、言語テクストとしての「コーラン(の翻訳)」。
これはそもそもどのようにして得られたのか。

預言者。これは予言者ではない。「予め」何かを言う人ではない。
未来を先取りして喋る人という意味ではない。
「預かった」何かを言う人という意味だ。

そのために選ばれたのがムハンマドということになっている。
この人があるときには寝言で、あるときには突如語り出して、
それが周囲の人達に書き留められたり、記憶されたりしていたそうだ。

最初の頃は素読で大丈夫さと思っていたのかもしれないけれど、
世の中の常として、「あれ?何だっけ?忘れてしまった・・・」という奴が複数出て来る。
折角「預かった」何かをムハンマド経由で伝えて頂いたのに、
それを忘れてしまうなんてのは以ての外だ。何とかならないものか?
そして、暫くして、それらを喪失しないために掻き集め始められ、
最後にはそれが一つの本の形になった。
それが「コーラン(の翻訳)」だ。


「コーラン(の翻訳)」というのは預言者の概念で説明した通り、
神様であるアッラーがムハンマドを預言者として選んで、何かを預けた。
それをムハンマドが20年だかの時間を掛けて、時には途切れ途切れに口に出した。
ムハンマドはアラビア語が母語だったので、その何かはアラビア語で語られた。
アッラーが何を与えたのかは私達は検証仕様が無いけれども、
兎も角、ムハンマドはアラビア語でそれらを語り伝えた。

それは一方的な会話だ。
普通、会話は双方向性があるけれど、神様との間にはそれは無い。


コーランの原典というのは、それがあるとすれば、神様の手元にあるだけで、
それを私達が見るということは未来永劫できないのだろう。

アラビア語の「コーラン(の翻訳)」が原典なんだとアラビア語が母語の人達は主張するけれど、
これは恐らく間違った解釈だ。
少なくとも「コーラン(の翻訳)」にはそんな明示的な解釈は何所にも述べられていない。
そういう解釈があれば、それはアラビア語を母語とする後世の人間に阿呆がいるということだ。
神様が人種間で差別を図るなんてセコいことをする理由は無い。
まあ、そのように理解するのが真っ当だとラキヤは思う。

とすると、アラビア語の「コーラン(の翻訳)」に至るまでに
既に2回も翻訳作業がなされていることになる。
一般的に言って、翻訳という作業は無ければ無い方が良い。
というのも、翻訳というのは既に解釈が介入していて、
元の原典から多かれ少なかれ乖離が生まれるからだ。

ムハンマドが能力の足りない人間で、神様から預かった何かを曲解して伝えている。
そういう可能性も無いとは言えないのかもしれないが、
そこはあまり疑わないというのがイスラム教の立場だ。


預言者というものの解釈自体はユダヤ教もキリスト教もイスラム教も全く大差無い。

ただ、ユダヤ教ではイエスというのは単なる変な人。
そして、その変な人から派生したキリスト教から更に派生して、
ムハンマドという変な人が預言者を名乗って、イスラム教が出て来た。

キリスト教ではイエスは預言者ではなくて、神様(の一種)。
誤った方向に流れていたユダヤ教の刷新のため、また、世界宗教として万人のため、
イエスが出現して、ユダヤ教の過ちの犠牲にまでなって、それを伝える。
そして、イエスは復活する。

それに対して、イスラム教ではイエスは預言者の一人で、神様(の一種)ではない。
単なる預言者が蘇るなんて無かった。
最後の預言者はムハンマドであり、全ての教えはその預言で完結した。

こんな風に同じ神様の一神教という設定でありながら、
細かな設定の違いのためにお互いが啀み合い、殺し合う歴史を持っている。


さて、私達日本人は更に一度の翻訳を経て、「コーラン(の翻訳)」を読む場合、
既に3回もの翻訳を経ていることになる。

また、これは言語学の見地からの話だけれど、話し言葉と書き言葉というのがある。
例えば、話し言葉で語られる方が書き言葉で書かれるよりも理解し易い。
そんな体験をした人達は結構多いはずだ。
それだからこそ人は誰かに教えて貰うことで教育を施される。
その現代的な仕組みが学校だ。

ムハンマドが語ったときには言葉の抑揚であったり、
その当時の時代背景、アラビア地域の特徴といった五感に訴える要素があったはずだ。
しかし、それらは言語テクストになる時点でかなり消えてしまっている。
更には書き言葉に書き改められたりもしているかもしれない。

翻訳時点でアラビア地域の文化背景が日本の文化背景に差し替えられている。
それだって日本語で言葉の置き換えをする時点で生じてしまう避け難い現象だ。

日本語の言語テクストで「コーラン(の翻訳)」を読む場合、
当然、「コーラン(の翻訳)」の背景を含めた上で、その経過を理解しているのと、
理解していないのとでは、読んだときに得られる理解にも相当の差異が生じるだろう。


「コーラン(の翻訳)」にある各々の文について、そんな一切合切を把握した上で読む。
これが「コーランを読む」ということになる。

とまあ、そんな説明が最初の章に成され、具体的に
「1 開扉」
という最初の章にある枕詞と7行の文章について残りの9章で説明を試みる。
そういう本がこの本だ。


慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において

讃えあれ、アッラー、万世の主、
慈悲ふかく慈愛あまねき御神、
審きの日の主宰者。
汝をこそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
願わくば我らを導いて正しき道を辿らしめ給え、
汝の御怒りを蒙る人々や、踏みまよう人々の道ではなく、
汝の嘉し給う人々の道を歩まし給え。


とても短い。
しかしながら、この文章を正確に理解しようと試みると、400ページの本になる。
(その詳細についてはこの本をじっくりと読んで欲しい。)


こんな短い文章に400ページ。
特に若い人達にとってはカルチャーショックなんじゃないかな。

この本を読むと、本というのは一度読んで、それきりお終いというものではない。
そういうことも良く分かるようになる。

ちなみに数学を学ぶときにも、一冊の本を読むというのは時間の掛かる作業だ。
一冊を読み終えるのに一年掛かるなんてのは極普通の話だ。
この場合、読むというのは一度目を通すことを意味しない。
同じ内容を何度も読むことであり、理解したと思ったことを再度疑って、
書かれていることを更に理解するために具体例を考えたりして頭を最大限に使うことだ。
そういう本の読み方を知ることは教養を身に付けるのに必須だ。

速読というのも必要かもしれないが、ラキヤはそれはあまり好きじゃない。
ショボい評論家になる必要は全く無いのだから。

教養を身に付けるために本当に必要なのは遅読だ。

ピアノを弾く人やスポーツを極めた人なんかも、この遅読の感覚が自分の経験で分かると思う。
遅読的な練習こそが才能を開花させるのに極めて必要だからだ。

「私はこの本が好きで、既に10回は読みました」なんていう人の方が
「私は10冊の本を読みました」という人よりも教養ある人になれる素質があると思う。


ちなみにこの本一冊の理解があれば、
イスラム教の人達とイスラム教やコーランについて語り合うことも出来る。

外国の人達と深く話し合うだとか、外国文学を読むといった場合、
宗教について考えることがどうしても不可避だ。
それも教養に含まれる。

幸い日本には教養のある偉大な先人が沢山いて、日本語で書かれた古典も沢山ある。

「30分で分かる」とか「猿でも分かる」とか「漫画で分かる」とか、
そういう下らないものではなく、本物に触れることをお薦めする。

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