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2006.6.6
平成18年6月6日夕方5時頃、直径1cmほどの大粒の雹(ひょう)が降りました。畑の野菜はほぼ全滅。庭の蕗(ふき)の葉にも大きな穴が無数に開いてしまいました。大きな被害です。白馬新聞の1面に我家の被害状況が掲載されました。
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新聞報道
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1999.7.10
大糸タイムスの平成11年7月10日号の中の、「白馬・小谷この里にこの人あり」というコーナーで「いろり火燃える民宿」というタイトルで父のインタビュー記事が掲載されました。
記事の内容は概ね下記のとおりです。
かやぶき屋根といろりは日本人の郷愁を誘う。白馬村南部の東山山麓にある小さな集落内山で、かやぶき屋根を守り、かたくなにいろりの火を燃やし続け、「白馬らしさ、田舎らしさ」を守り続けて、お客さんを迎えている民宿がある。(聞き手・大糸タイムス社水久保節記者)
−大きな家ですね。
大正9年に建てられたものです。建坪は80坪あります。養蚕農家でしたので、いろりのある家としては珍しく総2階造りです。2階も65坪あります。このような形の民家の中では、新しいほうなのです。今では、村一番の“おんぼろ民宿”ですが・・・。
村には宿泊施設が850軒程ありますが、そのうちペンションなど洋風の宿が260軒ほどあります。昭和50年代から急速に都会化され、閑村が一気に観光の村に変貌しました。
−かやぶき屋根にいろりが似合いますね。
今、かやぶき屋根やいろりがちょっと見直されています。白馬の良さや白馬らしさということでしょうか。都会の人は、白馬に来て泊まるだけでは満足できないのでしょうか、ここに来ると田舎を体感できるのだと思います。
−いろりのある家はほんとうに珍しくなりました。
白馬村には三千数百軒ありますが、昔のままいろりが残っているのは4軒だけと聞いています。しかも日常的に使っているのは我家だけだと思います。
−いろりに対してここまでこだわるのは何故ですか。
昔はいろりの回りに、年寄りも、若夫婦も、孫もいて、一家団欒の場でした。お客さんも一緒にいろりを囲んでいました。村の公民館長をしていたとき、“いろり”という事を盛んに言ったものです。“公民館は村のいろり”だと。
それと終戦の年の9月1日、夜の11時頃、戦地から帰宅し、玄関の戸を開けると、祖父も祖母も母も部屋から飛び出してきて、すぐに囲炉裏の火を焚きつけてくれました。その時の囲炉裏の温かさは一生忘れることはできません。今、いろりの温かさが忘れ去られているのではないでしょうか。
−かやぶき屋根の維持管理には大変なご苦労があるのでしょうね。
かやぶき屋根の職人さんはまだいらっしゃるのですが、かやが無いのです。昔はかや普請があり、集落内で順番に葺き替えをしていました。どの家でも秋になるとかやを刈って葺き替えのために蓄えていたのです。21件あるこの集落のかやぶき屋根も年々減り、今は2軒だけです。
−今、一年にどのくらいのかやを確保されているのですか。
せいぜい二百束です。この家を全部葺き替えると、五万束ほど要るでしょう。一度に全部葺き替えるのは不可能な事です。今では親戚のかやぶき屋根と1年おきに交互で部分補修をしています。
−大変ですね。
正直言って大変な事です。白馬のよさ、田舎らしさをいつまでも残したいのです。もっぱら観光用という事にもなりますね。
宿泊客は50歳から70歳の中高年者が多いですね。若い人が電話で予約を問い合わせてきて、「農家ですが、いいですか?」と聞くと、「農家ですか。」と電話を切る人もいるのです。寂しいですね。
−公民館長はどんなきっかけで?
戦後、青年団活動をやっていまして、34歳の時、村議会議員に推薦されて、一期で辞めた年に副館長に命ぜられ、翌年から12年間、公民館長を務めました。公民館活動は大衆にあまねく陽を当てるようでなければならないと努力しました。日陰の草までと。
−どんなことを?
12年間に、特に力を入れてやってきた事は2つです。ひとつは村内めぐり、ふたつめは生活改善による公民館結婚式です。
まず村内めぐりですが、昭和40年代、村民が村内28集落をバスで巡るという企画が、意外と受けたのです。この時代の村内の急激な変わりように村民自体が追いついていけなかったのか、新しく村に来た人たちが、白馬の事を知りたかったのか−だったのでしょうか。
2番目の公民館結婚式ですが、式場でやる結婚式は当初、家でやるよりは余計に人を呼ばなくてはならなくなり、費用がかかると反対されました。しかし公民館でやる公営結婚式は、費用も安く済み、家の中を準備する労力や料理の心配もしなくてすむので評判となり、私の在職中に、486組が式を挙げました。春と秋に集中し、一日に4組やった事もありました。
−戦後50年の平成7年には、村内の戦没者の事を記録した「国の鎮め」を発刊されましたね。
明治27年の日清戦争、37年の日露戦争、そして昭和の日中戦争、第二次世界大戦で亡くなった村内関係者は215柱です。
−どういうきっかけで?
父親が昭和13年10月3日、北支(中国北部)で39歳で戦死しました。私が12歳の時でした。村の遺族会長を務めたりしてきたのですが、何か胸につっかえたままでした。父の供養と、後世に戦争の事を残そうと思ったのです。
始めたのは昭和60年でした。当初は戦歴と顔写真だけ載せる予定でしたが、それでもなかなかはかどりませんでした。途中で、戦死者の遺族や親戚、知人を一人づつ訪ね、さらに思い出も綴ってもらうようにしました。
しかし従軍慰安婦や南京大虐殺がクローズアップされ、どう考えれば良いか分からなくなり、しばらく全く書けなくなってしまいました。
ある遺族に「父は被害者であり、加害者でもあった。もう絶対に戦争をやっちゃいけない!」との悲痛な叫びに励まされ、10年かかってようやく発刊にこじつけました。
世界では、今でもどこかで戦争が起きています。もう決して戦争に巻き込まれてはなりません。
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1987.1.1
昭和62年1月1日大糸タイムス社発行の「グリーンL」に父が囲炉裏の思い出を書いた文章が掲載されました。内容は下記のとおりです。
この囲炉裏の一角に、丁度ゴムまりくらいの大きさの石が置いてあります。私が子供の頃から、あったので、いつから置かれていたものかわかりませんが、もう手垢がいっぱいついていて、新しい石と並べてみるとその古さが良く分かります。そしてよくもまあこんなにまんまるな石があったものだと思うほど、丸い石です。
私が幼い頃、年寄りに聞いたところによると、これは「囲炉裏の守り神」だというのです。私の民宿に泊まられたお客さんも、十人中、八、九人は、「これは何ですか?」と聞いてきます。私は最初の頃、とっさにうまく説明できずに困っていましたが、今では、「あの野口英世の家にもこの石があったら、大やけどをしなくて済んだかもしれませんね。」とお話しています。
はっきりしたいわれは分かりませんが、囲炉裏の角に「守り神」が置いてあれば、「守り神」をまたいで歩くような事は誰もしませんし、その石を見るたびに囲炉裏に落ちないように気をつけることでしょう。そんなことから派生したものであり、言い伝えだと思います。
つい20〜30年前までは、白馬村のどこの家にも囲炉裏があり、朝起きるとすぐに囲炉裏を焚き付け、お湯をわかして、鍋をかけたものでした。食事をするのも囲炉裏をかこみ、近所の人たちとの話も、お客さんを迎えるときも、いつも囲炉裏の火を囲んでいました。囲炉裏が生活の中心だったのです。
長い年月のうちには、どこかの家で赤ん坊が囲炉裏に転んでやけどをしています。転んだひょうしに鍋をかぶって命を落としたという、なんとも痛ましい話も聞いています。囲炉裏の火は、山村の文化を築き、重要な役割を担ってきましたが、反面、時としてこのようなやけどの原因となる、非常に危険な火でもありました。そんな危険から、長い間多くの人を守ってきてくれたこの石は、我家の宝です。
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