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中川彰平翁(勝沼町出身)明治十年山梨県東八代郡相興村(現在・勝沼町に編入)出身
『中部文学』の周辺(四)承前 (『中部文学』 昭和46年 第6号 甲陽書房発行 一瀬稔氏著)

中川彰平翁は、昭和三十二年六月二十日、八十一歳の高齢で逝くなった。『中部文学』へ参加した昭和十五年といえば、翁が六十四歳の時である。中川翁はそれ以前に、『蟹の眩き』という感想集と、『墨を吐く』という詩集を出している。その後間もなく、中部文学杜から『酢の綿』という詩集を出し、戦後、『大乗遊戯』、『埋葬の詩』という二冊の詩集を上梓した。
『蟹の眩き』は、昭和二年の十月に東京神田の文化学会から出版されたもので、この著書の出版については、故人になった川合仁、望月芳郎、大木直太郎氏らの陰の尽力があったということである。序文を加藤一夫と、島中雄三の両氏が寄せ、望月芳郎氏が敏文を書いている。
翁の思想はこの一冊の著書の中に充分尽されていて、その後発表された何百篇かの詩作品は、詩の形式(むしろアフオリズムといった方がいいかも知れない)を借りて、その思想や、人生観を断片的に吐露したものである。
ぼくたちが、『文化人』という文学を中心にした総合雑誌を出していた昭和三十一年に、つまり翁が逝くなる一年前、翁の第四詩集ともいうべき『埋葬の詩』を文化人社から刊行したが、その奥付に、次のような翁の略歴が載っている。
翁は「明治十年山梨県東八代郡相興村(現在・勝沼町に編入)に生まれる。十五才のころ基督教に入り、十八歳で洗礼を受ける。三十歳の時、木下尚江、内村鑑三に私淑、社会主義的思想を植えつけられる。その間、徳富盧花、石川三四郎等と交遊、三十三歳で結婚、四十歳前後、キリスト教会の異端者となるも宗教の世界から離れなかった。 
第二次世界大戦で三児を喪う。現在、老妻と二女に守られながら農事にたずさわり、かたわら詩作に専念する。
中川翁の生前の業績や、人となりについては、ぼくはかっていくどか書いたことがあるが、翁は、加藤一夫氏も書いているように、
「宗教的信仰者といっても少しも抹香臭かったり、バタ臭かったりするところがなかった。」田舎の一百姓であり、一介の野人、俗人に過ぎなかった。教養的に貧しい農村にあって、無理解な隣人から変りものとか、すねものとかいわれて一向に気にとめず、あくまでも孤独で大胆に自己の信念を押し通した。そんな中でよくあれほどに真実な、翁独自の思想をはぐくみ、それを実生活の上に貫いてきたものだと驚かれもする。
島中雄三氏は次のように翁の風貌を語っている。
「叔父(中川彰平)さんは確かに一介の野人に違ひない。甲州の山奥から掘り立ての自然薯を見るやうに、何の飾りもない野生そのままの姿と心と、そして想想の持主である。
バプテスマのヨハネのような熱情は或は無いかも知れぬ。しかし新鮮恋土の香があくまで人夫の心をそゝる。そこにこの叔父さんの実にいいところがある。
叔父さんは甲州の百姓である。しかし成るべく働かない百姓だといふ。働いても働いても貧乏する。否、働けば衝くほど苦しくなる田舎の百姓の惨めな生活が、叔父さんにこうした思想を抱かせたのである。聞いてみると一々成程とうなづかれる。曽ては変人とか奇人とか指さししていた人たちも、今ではだんだん『彰平さん』にかぶれて、ぼんやり桑摘む手を休めて此の変人表見直している形である。(後略)
翁の略歴をみると、四十歳ころキリスト教会の異端者となったということだが、それは教会側度と、教会の内面の資本主義的であることに愛想をつかしたのであって、翁の思想はあくまでもキリスト教に根ざしているが、それはむしろ道義的であるよりも人生観的、世界観的な面において生きているといえるのではないかと思う。
『墨を吐く』の中から左に二、三篇を抄出してみよう。
馬と人間
完全なる馬とはただ馬でありさえすればいいのだ。
人間は食慾のない食事をしたり、生えもしない種を播いたりする。

牛は牛でいい。
馬は馬でいい。
鴉は鴉でいい。
皆宿命的な強さを持っている。

猫はいい爪を隠している。

晩年の中川翁は月に一度か二度漂然と街へ出かけてきては、友人たちの家を訪ねて歩いた。たいがい白分の家で採れた季節の野菜や、葡萄など手土産に持参して少しずつ置いていくのだった。いつも形のくずれた黒のソフト帽を被り、着古した黒の背広によれよれのネクタイをしめ、竹の太いステッキをついていた。翁はひょっこり玄関先に姿を見せると、きまって、「どうだなあ、みんな元気でやっているかなあ?」と、いかにも打ちとけた言葉で呼びかけるのだった。
つるりと禿げ上がった頭、鼻下の白い髭、度の強い眼鏡の奥の小さな眼を絶えず人なつっこそうにしばたたかせていた。翁は口数は少ない方だったが、ぽつりぽつりと語りかけては時おり、前歯が一本だけ残っている口を大きく開けて、いかにも屈託なさそうに笑うのだった。年に似合わず元気で、会って話していると何か青年のような若
々しい情熱が感じられた。
翁は逝くなる四、五年前から神経痛のため歩行が困難になり、「そこし」を患って眼も悪くなった。それでお百姓仕事の手伝いもできなくなり、家に引込んで、毎日詩ばかり書いていたようだ。
翁の詩はせいぜい三行か四行のフラグメント風の短詩で、詩想が、頭に浮かぶと即座にその場にあり合わせの紙切れへ鉛筆で書きとめるといったようなもので、日に十篇や二十篇はたちどころに出来上るのだった。眼がよく見えないので判読に苦しむ文句がかなりあった。
翁はこんどの戦争で三人の息子を喪った。ぼくなど、病死ではあるがかけがえのない年ごろの子供を一人喪っただけで、言語に絶する痛手を受けたが、その上、三人とも戦死された翁の気持ちはどんなであったろうかと、まったく察するに余りあるものがある。
ところが、翁はぼくらの前で決して泣きごとをいわなかった。ことさらそのことに触れるのを避けているのか、いつもけろりとした顔をして、とぼけたようなことをいって済ましていた。
キリスト教徒としての信仰の世界に生きている翁が、現世的ないとなみのはるか彼方の至上的なものにあこがれていたことはわかるのだが、翁の作品に見られるあの痛烈な風刺、アイロニカルな現世批判の裏がわに、人間や、人間生活に向けられた翁のあたたかい優しい眼差しがぼくにははっきり読みとれるように思う。一言も語らず、文字にも表現しなかったが、戦死した三人の愛児に対する翁の内面の慟哭が、ぼくにはいたいたしいほどよくわかるのだ。
詩集『埋葬の詩』は、その殆どが死とあそび、死に憧れ、死をたたえる作品で占められている。ここにある「死」のイメージには少しも暗さがない。明るくユーモラスで、カラッとしている。あるいは、翁はすでに「大乗遊戯」の境地にいて、死を達観していたのかも知れない。だがぼくにはある意味で、この詩集は、戦場の露と消えたわが子への「鎮魂のうた」とも受けとれるのである。
死後
俺が死んだ後も目が出る
豚もなく
推肥は匂う
人は損得で争う

古い倦怠は麻癖し
新しき感覚をあたるものは死なり
死なば多くの人が助かる

道楽のように死んだ
葬儀は宴会のように面白かった
古典音楽も
雲にのって行くようだ
革命
昨目は生き
今目は死す
何という
大きな革命だろう

昭和十六年五月発行の『中部文学』第五集の《文芸消息》に、「中川彰平氏の『酢の綿』の出版記念会は『中部文学』『山梨詩人会』の共同主催で開峡楼に於いて開催、参会者四十九名にて盛会であった」という記事が載っている。
『酢の綿』は翁の第二詩集で、その出版記念会は、多分、四月に催されたのではないかと思う。
昭和十六年といえば翁がまだ六十五歳の時で、たいへん元気なころだった。詩集の出版記念会で五十名近い参会者が集まったのもめずらしかったし、当時、甲府で一流のレストランでそうした会を催したことも今までに例のないことだった。その記念会で現在記憶にのこっているのは、発起者の提案で、翁に記念として黒のソフト帽を寄贈することにした。翁は外出の折りにはいつも古びて形のくずれた黒のソフトを被っていたので、この機会に新品にとりかえて上げようではないかという主催者の心尽しだった。
戴冠式ならぬ戴帽式が、参会者全員の抽手のうちに行なわれた。帽子を翁の禿頭に載造たのは、石原文雄氏だったか、山内一史君だったか忘れてしまったが、その帽子を頭にいただいた翁は、いかにもうれし気に表情をくずしながら、「ありがとう、ありがとう」と御礼の言葉を述べて着席した。今でもその時の情景がありありと、ぼくの眼底にのこっている。

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