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山映の女 詩人竹内てるよと山梨県大月市
中込友美氏著(『中央線』1968 中央線社 掲載 一部加筆)

詩人竹内てるよがどうして山梨の山狭に住みつくようになったのか、ぼくは知らない。「松本へ疎開するつもりで新宿を発ったんですよ。そしたらここまできて空襲で汽車はストツプ。それから荷物をかかえてうろついて、一時の宿を借りた。そのままここに住みついてもう何年になるでしよう」
彼女はくったくもなくそう言って笑った。
偶然はそうであったかも知れない。しかしもう二十数年も、あの山里に詩人竹内てるよを住みつかせているものは、決してそんな単純なものではないだろう。
もう数年もまえのことになるが、ぼくは竹内てるよを訪ねることを主な目的にして、同じ晩秋のころ二年ほどつづけて中央線鳥沢周辺の山歩きをしたことがある。鳥沢駅でおりて街道を西の方へしばらく行き線路を南に横切って、畑の中の路を歩いてゆくと、農作業や山仕事で通行もかなり多いとみえて頑丈な桂川の吊り橋がある。吊り橋を渡りきったところで磧におりる。碧い澄みきった流れの指のしびれるような冷たさ。あたりのしんしんとしたしずかさの中で礫と白い砂のうえに坐していると都市生活のねばねばした汗もすっかり洗われる。そこから竹内さんの住む山添いの部落の方へ上っていく。小学校の分校と小さい寺院と一軒のよろず屋のある小さい部落だが石ころの多い村道がうねってつづき、家々の庭には赤く熟れた実をたくさんつけた柿の木が多い。よろず屋のわきを奥へ入ったところに、門塀の傾いた竹内さんの住む古い家があった。がらんと広い農家づくりで農繁期の時だけ持主の人がそこに泊まったり、庭も土間も農作業につかうのだという。
はじめに訪ねたときはそこに竹内さんの生活のことを何かとめんどうをみているKさんが待っていてくれて、ぼくと連れとを近くの仙人山に案内してくれた。それは登りに一時間はたっぷりかかる眺望のいい山で、頂上にはこんどの戦争で一人息子を失ったという老人がひとりで住んでいた。山の上に苺をたくさん植えて登ってくる人たちに食べさせたり、話しこむ人があれば小舎に泊めたりという生活をしていた。一人息子を失ったのが動機で、どうしてこんな生活に入ったかという話を長々ときいたが、どうム俗っぽい印象の仙人だった。
翌年の秋、鳥沢の山峡に竹内てるよさんを訪ねたときは妻とその友人の女性と三人連れだった。このときは竹内さんのところでゆっくりするのがかなりの目的で、昼食のためのすき焼用の肉や野菜や米まで持ちこんだ。来訪者たちが縁側で七厘に炭火を起こしたり、米を磨いだりするのを竹内さんは、
「きようは私はお客さんになりましよう」と言って、笑いながら眺めていた。
畳は古ぼけて傷んで襖は破けているが、その家は幾間かあってかなり広い。

北海道の辺地で生まれ、二十歳の頃結婚をするが病弱で、ひとりの息子をおいて婚家を去る。東京へ出て長い闘病生活。そうした苦しい生活の中で、「静かなる愛」や「生命の歌」などのすぐれた詩集を出す。戦後長い間探していた息子に再会するが、息子は不良化していて心は通わない。ようやく懐ろにもどった息子は間もなく死ぬ。
竹内てるよさんの容子から、そうした不遇や苦労のかげりはまるでみえない。底抜けに明るくて、いつもにこにこ笑っている。「私は山姥ですよ」というが、私には山峡の女神という印象しかのこらない。
竹内さんは鳥沢の山暮らしの生活に入ってからも、いのちを鼓舞するたくさんの詩をかきつづけ、その他の作品も多く世におくっている。竹内てるよを慕いよる人々を中心とした雑誌も出しつづけている。竹内さんはぼくらが訪ねた間もなくのあと、またまた大病をしてその病後は、もとの不自由な部落の生活にはもどれず、大月市の方に転居しているようだ。
二度目に竹内さんを訪ねたときは、そのあとは鳥沢の町の方にもどり、知人の家に寄り、猟銃を下げたそこの主人に案内されて、減多に人の通らない間道から峠を越えて梁川駅の方へ下りた。その山道の紅葉の美しさと空の深さをいまも忘.れない。
ぼくの手許に一冊だけある二十数年まえの竹内てるよの小さい詩集に、

病が五つあるとも七つあるともどの一つもが不治なりとも死んではならないときに死ぬまい
生きたるは一つの責務正しく死せむための一つの証(あかし)また、詩こそ私の生活の行路である。

などということばがみえる。
ぼくは詳人竹内てるよを二度も中央線鳥沢の山峡に訪ねた。しかし、まだその二十余年の「山ぐらしの秘密」を解いていない。(昭和四三・四月)

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%AB%B9%E5%86%85%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%82%88&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

山梨県関係サイト
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%AB%B9%E5%86%85%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%82%88%E3%80%80%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

茅点景(茅ケ岳)太宰治の死
多田莞氏著(『中央線』1968 中央線社 掲載 一部加筆)

茅に金峰に秋たちて里に流るる七草よ

子供のころこんな歌を聞いたことがある。しかしこれ以外に茅が歌われていることを聞いたことがない。名画や名文の中に茅のいることを知らない。
茅ケ岳、一七六四メートル。古い休火山である。竈二重火山で外輪山の火口壁は破壊せられ、芽ケ岳とその北方の金ケ岳は旧火口を破ってできた新しい火山と聞く。新火山といっても、もちろん富士や八ツとは比較にならないずっと昔にできあがっているのだ。あの謙虚な稜線がいい。それにあの裾野、悠然とした傾斜に従って南に登美の高地をつくり、北は浅尾の広野をつくって八ツの裾野に連接している。あの規模は茅ケ岳だけのものだ。大きいのだ。古いのだ。大家である。老成しているのだ。だがちょっと誤れば、老獪(かい)、老醜のそしりを免れなくなりそうだが、そんな危険には無頓着で、おのれの天分とおのれの運命を信じきって、追随せず、妥協せず厳然としているのがいい。
孤高である。いや孤高というには低すぎるか。とにかく孤独。毅然とした孤独。ひとりでよくやっているなあというあの感じ、そんなものが茅の個性なのだ。
小学六年生の秋、ぼくは修学旅行に旅立った。熟田神宮にお参りし、名古屋城を眺め、翌日二見浦の日の出を拝んでから内宮に参拝するというコースで、ぼくにとって修学旅行と名のつく、最初の旅行であると同時に最後の旅行でもあった。日本が戦勝気分に酔っていた時代である。
早朝の韮崎駅。汽車は媒煙を吐き吐き七里岩をのぼる。俯瞮すると駅広場。人がいる。見送り人がいる。車窓の少年たちは喚声をあげ手を振る。ぼくも手を振った。だがぼくを見送ってくれる人はいない。母親という贅沢な存在は失われていたのである。しかたなくぼくは手だけそのままにして、視線を移した。その視線の中に茅(茅ケ岳)がいた。そう、まさにいたという感じー寝冷えしないよう、腹をこわさないよう、新調した帽子を飛ばさないよう、そう言っている慈母の姿だった。だがぼくはすねた。泣いた。しかし茅はどう見ても慈母の姿などというロマソチツクな存在ではない。山の中のすねものだ。ぼくのすねた心はあの時茅から移植されたのかもしれない。當士に見おろされているからいけないのだ。にせ八ツなどと軽蔑されているからいけないのだ。だが茅がいかに山の中のすねものだろうと、けっして下品でないからいい。冷厳なまでの気品、風格、
そんなものを備えている。
昭和二十三年六月十五日、ぼくは玉幡の釜無川原の木陰に寝そべって、遠くに霞む小さい茅ケ岳を眺めていた。そして茅のあの諦めきつた表情は辟易だ。茅のあの老成した風貌はやりきれない。もつと酷しいもの、もつと峻厳なもの、死と対峙した冷酷なものが欲しい。そんなことを考えながら、少年らしい深刻な表情をつくっていたのである。それというのも、朝教室へはいったとたん眼にはいった黒板の落書きが大きな心の衝撃になっていたのである。

太宰治死す

戦後特異な作風をもって将来を嘱望されていた人気作家太宰治は、十四日未明、山崎富栄と連れだって玉川上水に入水情死せり。
辞世の詠、
池水は濁りににごり藤波の影もうつらず南降り続く。

誰かが新聞記事を披き書きしたものである。もちろん辞世の詠というのは自作ではなく、伊藤左千夫の作で、短冊にして伊馬春部に贈ったものだが、こんな文句が達筆で大書されていたのは大きな驚きだった。驚きというのは太宰治の情死ということばかりでなくこの新聞記事をいち早く読み取って「嘱望」だの「惜死」などというぼくのよく知らない熟語を書き慣れた筆致で書いている級友がいるということであった。
ぼくは興奮した。熱力学の講義が始まってからも、その跡を喰い入るように見つめていた。もちろん講義は耳にはいらない。ぼくはそっと教室を抜け出て来たのであつた。山梨工専が玉幡の飛行場跡の兵舎を使っていたころである。
太宰治という作家はぼくの記憶の底にあった。それより一月ほど前古本屋で求めた「展望」の前年二月号に「ヴィヨソの妻」というのがあって、漫然と眼を走らせていたが、読み終わってガクソと一撃をくらった。それは人生の深淵を覗いたような、大げさに言えば少年の人生観を根底からくつがえすような打撃であった。小説というのはリリシズムかロマンチシズムの上塗りにしかすぎないというようにしか思っていなかった十八歳の少年にとっては、それは魅力というよりは蠱惑的で倫理を越えた人間の美というようなものを感じたのだった。
あの作者が自殺する。やっぱりなあーだが情死とは句を意味するのだろう。そして実生活と小説との連りはどうなっているのだろう。ぼくはまじめに考えたのである。あの時の茅は忘れられない。けっして俗流に妥協せず、不遜なまでの矜持をもって聲えていた。
太宰治なんてわからない。だが人問にとって死と直面するような、何か魂を凝結させるような緊迫したものがあってもいいではないか。人類のためだの社会のためだのと大げさなことは言わない。ただ十八歳の少年の小さな魂を燃焼させるもの、そいつが欲しい。そう思って茅ケ岳を見ると、芽は淡雲に包まれて、冷淡に暖昧な微笑をもって見おろしていた。あの冷淡さ、あの無関心、あの茅はすばらしかった。
それから何年か経ってぼくは東京の病院にいた。大手術をしたのである。文学的想像力と実感とははたしてどの程度の距離があるものかと、その手術に触れた文学書を読みあさり、自分でも、もし助かった場合、自分の想像がどの程度正鵠を得たものになるか、というような意味で、術後の苦痛と生活とをあらかじめ書き綴っておいたのであるが、事実は想像の及ぶところではなかった。いかなる文学もいかなる想像も、けっして実感を的確に表現するものでないことを知ったのである。
ぼくは迷った。人生というのはこれほどの苦痛をためてもなおかつ生きるに価するものなのだろうか。そして文学はその人生のどこに位置するものだろうか、と。
そんなくだらないことを考えているある日、甲府の友人から駒ケ岳と茅ケ岳の二葉の写真が届いた。ぼくは嬉かった。すぐ病室の壁にはってもらった。いずれも早春のもので、駒には険しい雪が、茅には暖い雪が光っていた。かねがねぼくは雪の茅は気にいらなかった。あれは俗である。人まねである。みっともないと思っていた。だがその写真の茅は違っていた。等高線と平行して潔癖なまでの一線を画し、その上が雪。夕陽を反射しているのである。ぼくはやっぱり生きようと思った。
その日の夕方、主治医とは違う当番医が回診に見えた。
「ほほう、これは甲斐駒だね。ぼくも二回登ったことがある。フィアンセとね。全くすばらしかった。こちらはどこの山かね。裾野は小諸から見た浅間山麓に似ているが。」
ぼくはその日からその医師を軽蔑することにした。駒ケ岳に二度登った人が、どうして茅ケ岳の存在を認めないのだろう。爾来、いい山と見れば登りたくなり、いい女と見ればものにしたくなる男とはつきあわないことを決心した。
いい山でたくてもいい。いい男でなくてもいい。とにかくおのれの位置に不動の根を張り、高潔に生きるのが人の生活というものだ。ぼくはいまだに茅に登っていない。

太宰治 山梨県関係サイト
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB%E3%80%80%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

江戸上納米の記
文政八年十二月
御廻米御用中日記
蒲原浜
壱番     出役名主
《資料文献 小沢文夫氏著(『中央線』 1968 爽涼号 中央線社)》(一部加筆)

 古い車箪笥の片すみに残っていた古文書中の一冊がこの御廻米御用日記である。武川米と藤井米は一時河原部河岸から船に積んだこともあるが、鰍沢河岸の反対にあって中止となり船積みはすべて鰍沢より下流となったので鰍沢までは馬で運ぶようになった。
 この御廻米は大変な苦心のすえ、江戸蔵前の蔵差に渡された。無事納米して帰国し、御役完了を甲府御役所へ報告してようやく大任を果したわけである。その実録がこれである。(役所役人名等を記した前文を省略)


十二月十二日、
村方出立鰍沢宿江戸屋杢兵衛方に一宿致夫より船にて南部駅まで九里乗たり。右宿みなとや郷右衛門方に止宿。
十二月十四日、
南部出船にて岩淵河岸迄九ツ時乗付御出役御見舞相済蒲原間屋に一宿。
十二月十五日、
浜詰所へ引帰ス。
十二月十五日、
林金五郎様御支配所青柳岸船積御廻来、岩淵尼ケ淵と申所にて破船仕蒲原御懸リ故御出役様一同岩淵迄参リ岩淵宿出役名主と懸ケ合
十二月十五日・十六日・十七日・十八日迄、
岩淵に滞留仕種カ掛合是迄之振合格別相違にて蒲原出役名主取計方宜敷相成候。
十二月十八日、
蒲原へ帰り十八日夜雨降。
十二月十九日、
天気尤蒲原ニ浜漁士共甲州より出侯材木いかだ引船に乗り夜九ツ時より風烈難風故破破致し任夫損し残もの共半死半生にて而豆州小津浦へ上り申候
十二月廿日、
甲州御廻米間屋清水初次郎方へ参り被積り出懸之儀府中へ(中)川陸功様御出之時府中へ参り買物いたし候・郷宿浅田屋に泊リ申し候亭主至て発明人と見請申候。
十二月廿一日、
府中出立清水へ廻行候、はりまや初次郎殿方にてちそう(馳走)に相成同日七ツ時より中川様御帳面にて江尻宿早籠に乗リ夜四ツ時蒲原迄帰り申候尤御御定賃銭にて
十二月廿二日、
高崎兵吉様蒲原問屋着御出向に武井久蔵参リ、間屋一泊
十二月廿三日、
初メ清水湊へ小廻し乗人久蔵間屋五左衛門朝五ツ時出船。
十二月廿四日、
諾所日待御出役間屋後見差添一同振舞祭之蒲原宿法印相頼酒肴吸物弐つ大平どんぶり取肴さしみ硯蓋本膳菜飯共廿八人斗御小屋人足共に
十二月廿五日、
天気尤ひるよりならべ風ありくもり、法印へ謝礼久蔵両人にて参候豆州大浦よりさゞい貝多分来ル。
十二月廿六日、
夜七ツ時より柄ふり岩淵附送り一向無之手透候や
十二月廿七日、
町雪降申候尤浜辺ハ一向に溜リ不申蒲原駅後の山は雪少々積り伊豆浦山も一面に雪と相見申候。
十二月廿八日、
上天気に相成岩淵河岸汐御米参ル、平川仁右衛門清水湊へ御前備に参、問屋後見伊兵衛も一同也。問屋常右衛門方もちつき也。海上去ル十四日着此方大荒にて浪至て大きく船共不残陸に上ル人数凡そ百五十人斗中ニハはだかになり浪の中入て船引揚る躰誠にかんじ入ル、問屋五左衛門へもちそ而呼れ申候、蒲原にてハ節ち餅の事をあんもといふ名を付たり。
十二月廿九日、
岩淵より御米附送なし蒲原宿松のや江旦那一同そばくいに参り帰りにめしもり共をそ上り大さわぎにて五左衛門方迄帰り夜八ツ時迄遊申候。
十二月大晦日、
一日且那屋敷へ参り茶酒吸物三四ツ取肴さしみ硯蓋にて楽し、晩には命そばくいくらいたし申候屋く払かずかず来り漸々十三年来此方面白き筆を取間屋其外油十所々詰所出入もの、歳幕肴青物類沢山にもらい申候。
文政九年一月
正月元日、
先早朝起て雑煮をくひはかまで御蔵台へ一礼いたし夫より間屋へ参り朝湯へ入り、旦那へ年始の寿申上間屋より吸物三つ肴硯蓋等にて桜飯之振舞也。
夫より氏神すわ明神へ参詣且那とさいか宗之寺へ参問屋場所々年始相廻り詰所へ帰旦那間屋一同詰所へ年礼詰所にて吸物弐つ硯蓋にて年酒出ス、其夜ハ大さわぎにて踊り、

正月二日、
岩淵へ旦那問屋我等共一同駕籠にて四挺一匹乗出ス、岩淵問屋伊右衛門にて種々ちそう出ス、是も吸物四つ斗酒肴出ス、河野様十三ぼん福引をいたし、壱番勝がおかめの面に、すりこぎへしめをかざり壱番勝ちにあたるものハおかめの面をかむり踊を始る約談也。問屋壱番におどる大踊り不残相仕廻し踊り不致ものハ吸物椀にて三盃宛ヲいきなし呑取定也。中郡万歳村土井茂兵衛様と申人は六十余りにておかめの面をかむり踊申、又ハ河内領車田村儀右衛門といふ人ハ踊り不相成三ばいいきなし呑申候、其外拾ま三人一同に踊り大さわぎにて夜に入一同駕籠にて帰り、其夜ハ蒲原宿にて御勘定御普請御泊りにて清水より高崎兵吉様御勘定御機嫌伺出候、夜四ツ時参り出役名(主)善右衛門御供也

正月三日
天気蒲原之古城跡へ登り旦那一同、石のに貝のかたちの石不残り有、中を割て取なり、此城はかんばら城主北条新三郎と申人也、武田信玄公之為に落城也。夫より下り蒲原本陣屋敷見物いたし、帰り留主之内岩淵より且那問屋出役名主一同年礼問屋五左衛門宅にて大さわぎし、大踊不残四人にて踊くるい御仕廻、岩淵且那一同宿へ出女郎共をひやかし帰る、山田屋文四郎案内也誠に大さわぎ面白事也。

正月四日
上天気、海上静出御米三千五十俵出帆上乗久蔵某弐人也、朝七ツ時より船数十三艘人足大勢出テ船へ米を入船出ス比は日之出也。
清水湊着之比四ツ時也向嶋へ行米揚いたし、はりまやにて御年始相済種々吸物三ツ酒肴数々出ルなり。向嶋御廻しの様子昼時より見物に致て其日はりまやに泊り帰り陸路を岩淵出役、名主一同にてゆるゆる帰り也、清見寺参詣さった峠倉沢と一見いたしたのしみ帰り相話也。

正月五日
所々宿めしもりひやかし八ツ時かんばらへ帰り、八ツ半時より雨ふり也、朝は天気、船ニハい御米積出帆上乗仁右衛門也。海陸行違也仁右衛門又はりまやに泊り也。

正月六日
天気に相成、岩淵より御送申御米引も不切附送り有り、旦那清水へ年始御出也、其昼そばいだし申候。
正月七日迄安心に正月いたし申侯、
六日岩淵尼ケ淵にて北組御米拾五俵破侯に付東組岩淵出役万歳茂兵衛殿御届として清水参也。
同日久蔵ふじ郡元市場参申候。

正月八日
清水より且那御帰りにてすし三筋土産にもらい申候、夜は酒ゑんにて夜の八ツ時間屋にあそび申候、夫より且那ハ岩淵参申候、御送人ハ久蔵也。

正月九日
清水湊三艘小廻し仁右衛門参り上乗仕候而日戻り帰り道々面白き事御申候、興津より由井迄駕にのり申候、且那岩淵、御帰り同十日小廻し有上乗伊兵衛一人也、同より大熊様岩淵御着御きげんに仁右衛町乗参り帰り金毘羅様へ参詣蒲原岩淵在役不残参詣夜入帰候。蒲原宿屋にて泊りとて留られ宿賃杯取定候、家へ行はへられ候事面白く新ら屋といふ宿屋にてつい泊詰所出役方とて顕れおかしく問屋迄もと申候吉田重蔵様相咄御笑候。

正月十一日
大熊健吉様蒲原浜御見分間屋へ御泊り海上之あミ引之躰を見分いたし候得共魚一向に取不申。

正月十二日
御米おひ山之処送りにて甲州上曽根村仁右衛門殿舎弟無蔵殿乗申候而清水へ参申候、清水出役へ小状出ス。

正月十三日
岩淵より川内領出役儀右衛門殿是より当詰合也。同人より国元内方教来石(現在の白州町集落)より之書状請取披見いたし悉く存候、家内村方之衆に相し心ちいたし、同日清吉様より書状申候書状到来、大小間屋出役名主あらそいもらハれ申候、誠身面白とよろこび一人嬉しくぞんじ候。

正月十四日
岩淵御米送り有之清水より仁右衛門殿弟舞蔵殿帰り宿中連あるき楽しミ申候。

正月十五日
御普請役様旦那様へ御礼に差上り申候。

正月十六日
大雨ふり
正月十七日
儀右衛門立戻久能山参詣仁右衛門岩淵へ北村様御所に付門屋一同御機嫌窺に参申候、上天気に成海上漁船出て漁有。

正月十八日
小廻し久蔵儀右衛門上乗清水湊へ行

正月十九日
小廻し佐重郎仁右衛門渚水湊行、海上ならへ風にて浪荒船に酔い申、其前日夜清水湊唐船入津唐より壱丁斗離れ乗込商船叉ハ海船などは一円御差留にて御番船己たれ共御城米故日丸幟卸故御組無御座候、清水より府中へ買物に参り、儀右衛門殿二泊り、明日清水湊いりまや迄帰り泊り。

正月二十日
小廻儀右衛門上乗り日戻りにかえり申候。

正月二十一日
小廻し不残相済申且那一同久蔵上乗り、同日市川御出役総江一次様御出。

正月二十二日
岩淵河野様出役名主一同清水湊へ仕揚行申候、同日御普請様並びに総江様吉田様一同清水へ御出御送り、五左衛門儀右衛門同日長門様御通り見物いたし候、本陣にて御小休御家老国司信濃也

正月二十三日
勘定しらべ申候

正月二十四日
清水へ一同参申候

正月二十五日
清水はりまや大こんざついたし申候、料理人五人女中八九人也

正月二十六日
府中へ御戻り矢入屋買物浅問様へ参申候、二丁町見物いたし前にて河野様吉田様総江様浅問へ附二町にて御あそび、

正月二十七日
御帰り被成候仕揚帳印形相済申候、同日夜分に蒲原迄吉田様御帰り、御供久蔵儀右衛門御普請様も大熊様北村様御帰り被致申候。

正月二十八日
二十八日も仕揚下済中川様より金子請取清水宿戻り、暇乞いいたし罷帰申侯、同日御立会様方不残ら御引払吉原宿御帰り故御見送人儀右衛門久蔵也、諸勘定いたし候故手間取通りかごに乗り急ギ申候。

正月二十九日
田河野両且那引払岩淵迄仁右衛門某御見送申候、清水湊問屋善右衛門、所太郎左衛門、同晦日出立支度にて甚世敷中の衆孫兵衛庄八荷物手伝いたし、いとま酒買八都右衛門江遣し申候。

二月朔日
宿内いとまこひいたし候、間屋五左衛門後見伊兵衛、親類七兵衛、山田文左衛門、油屋重五郎宿ハつれ千年屋迄送リ別れの酒肴にて大さわぎにて引払申候、夫より岩淵にて人馬継立人足才領孫兵衛也、松野村迄着き同村にて昼飯いたし、夫より万沢宿に着き御関所へ御届ケ申、問屋吉田屋に泊り、

二月二日
道中筋御用人足馬故恐入万沢宿にてハ軽尻四疋之所へ馬八疋差出荷物分合南部宿迄継送申候。

二月三日
南部より人足拾八人出下山迄送り、同日身延山参詣孫兵衛を駿河へ返ス、せんべつ遣し申候、同日車田村儀右衛門殿へ泊リいろいろちそうに相成申候。

二月四日
かじか沢江戸屋杢兵衛殿江泊り申候。

二月五日
上河東村久蔵殿に泊り、

二月六日
上曽根村仁右衛門様に泊り、久蔵様一同に参申候、早々ちそうに相成申候、滞留いたし、

二月八日
 下小河東村久蔵殿先へ御出張御待請被成候。

二月九日
 甲府へ出張申候。

二月十日
御役所へ御届ケ奉申候

二月十一日

二月十二日
滞留

二月十三日
帰村〔原文のまま〕

「西花輪の俳人 秀和」 「藤井町出身 須玉町の俳人 須玉町多麻東向の不老軒汀亀」
韮崎市藤井町の俳人 当麻戸神社の献額について
上野辰雄氏著(『中央線』 1968 爽涼号 中央線社)》(一部加筆)

『俳諸白根嶽』の貞享の昔から天保に至る迄数ある甲州俳書の中に遺憾ながら藤井町の人の名を見出せない。
藤井の梅童は勿論祝村の浄山房であり、下条の紀梅は中巨摩の旧二川村であり、『天明俳書』に見ゆる和秀に期待を掛けたが之も西花輪の人であった。
然らば藤井は元来俳句不毛の土地かと云うと決してそうではない。昔から県下に知られた藤井五千石の沃野であり、天明天保の両飢饉も他に比して被害は軽微にすみ、当時の百姓としては比較的経済にも恵まれて居たであろうし、叉江戸未期松坂三郎代官の奨励した辺見の郷学の時代に於いては、下条に里仁舎あり、駒井に行余館あり、尚叉それ以前稲倉の生山正方塾の出身老もかなりある筈、当時の学者即ち俳人である時代、俳人が育たない訳はない。
当麻戸神杜随神門の献額は、明和二年催主林李帯雲に依って納められた物である。明和二年と云ふと山県大弐が処刊されたのが明和四年で、今年から丁度二百年前であるから、二百二年前である。私の知って居る範囲こんな古い句額は近隣に見当らない立派な文化財であると同時に、郷土の当時の文化を知る貴重な資料である。
撰は羽揺である。羽揺は裏見寒話巻の四に府の俳諸師として蘭舟、白芳、一喋、調之、排之、星舟、洞佐と共に挙げられる正保時代から町名ある宗匠である。南下条・北下条比較的地域の人達の多い句の中に、和秀の句が催主林李帯雲の句を凌いで拾句以上も載せられている。

和秀とは現代鳥居の保坂善三武(韮崎工業高校教論)の当時の祖先である。
明治四十三年発行町田柳糖著「山県大弐」に依るとかの有名な国学者加点美光章に細字の百人一首を贈っている。
和秀てふ人おひのてすみに百人一首いとささやかに水のうつまさ書めぐらしたるを贈られけるをさめて待りて
源光章
「めづらしとたれか見さらむ水くきのあとまくはしき老のすさみを」
(和秀は旧北巨摩郡役所課長保坂善作氏の高祖父なり)
とある。善作氏は現当主善三氏の祖父で郡役所市役所に奉職明治時代矢張り和秀の筆名で当時の「えびかづら」「百花園」「玉園遺光」「柳子招爽集」等に俳句よりむしろ和歌に於いて充分活躍している。
元に戻るが和秀が光章に贈った百人一首の書は其の後時移り人変って「おふどう呉服店」主大木喬作氏の手に渡り、昭和初期の何かの展覧会に出品されたのを、当時又新杜に勤めて居られた善三氏の母堂さかえさん(韮崎市婦人会長)が見られたとの事である。
幸いこれと同じ物が保坂家に現存し、昨年八月十六日筑摩書房にて発行の「宮沢賢治全集」の書翰集集録の打ち合せのため、城西高校の小沢卓郎氏を囲んで保阪嘉内氏を知る我々地元グループに親戚の内藤新三・石原保磨の両氏を交えての会合の折拝見させて戴いた。
直径十糎にも満たない円形に「秋の田の」に始まる秋の字を少し大きく後は虫眼鏡を頼らねば判読出来得ない細書の此の書物には、只々同感嘆する許りであった。加えて和秀老は八十何才の老齢に眼鏡なしの書き物との事である。ともあれ学問の上ではとにかく年齢的には光章よりはるかに先輩であった事はうかがえる郷土に於ける国学の第一人者であろう。

須玉町多麻東向の不老軒汀亀
寛政九年東向村(須玉町多麻東向)の不老軒汀亀が死去して居る。只それだけでは間題はないが、寛政十一年其の子伴七の出した追善句集に依ると此の人は同じ郡の不二井の里中込の家に産れ、明和の頃縁あって東向の宮崎家に入婿して居る。『峡中俳家列伝』は、北巨摩郡藤井村の産、東向村に婿に行き寛政九年十一月十六日七十余才にて死去とあり、和秀老よりいささか後輩的の存在である。試みに昭和十五年小沢柳涯主幹の俳誌所載の『葛飾派系譜集』を調べて見よう。

法印派
芭蕉―空―自在府砥徳―二時庵自徳―奥野(甲斐韮崎代官)―宇石(宮崎汀亀)
と有り別表には、
素堂―黒露
―小倉稲後―甲州辺見二世幸松庵利躬―幸
―松庵利躬―
―甲府 諸角梅英
―基蔵庵泉布
―嵐光亭均土
―甲斐韮崎 湖南亭宇石
とある。此所で奥野宇石の事に触れるが、同じく『俳家列伝』に依ると、奥野三右衛門宇津谷亀谷会久保寺平衛門の俳諸興行にて小倉稲後と会ふ。天明二年より寛政二年迄韮崎代官、二時庵自徳(諏訪の人)に師事するとある。勿論江戸の人であり一橋陣屋最後の代官であろう。現に七里岩上平和観音の裏に此の人の建てた芭蕉「木枯塚」の碑が残っている。
話を元に戻して(山口)素堂亡き後の正統派二世を継いだのは勿論長谷川馬光であり、三世が溝口素丸であり、下って小林一茶あたりも其の流を汲んでゐる事は衆知の事実であるが、我が甲斐に於いては素堂の甥山口黒露が稲中庵として後をつぎ、稲中庵二世の小倉稲後と同格の者に泉布宇石がある事になる。天明年間稲後刊の『甲辰歳且』其の他二三の俳書でも宇石の句は大きく取り上げられ其の下に汀亀を始め、西井出、錦翠、同妻はつ、小倉、剰志、神取、尺二、等の名が連ねている。之に依ると稲後宇石の交友は最も深く、汀亀以下の俳人達もあらゆる点で指導されている事が伺える。とに角俳諧の上であっても当時代官と交際の出来る人、叉追善集の序文に富田武陵の書(甲府学問所の学頭)を貰える人は少くなく、名主級以上相当格式の高い家の産であらう。南下条区の中込姓の旧家を二三当り尚二代に渡って俳諧の道を歩んで来られた中込塩水先生にもお尋ねしたが何しろ二百年近くたった今日汀亀の生家を探す手掛りは見出せない。近く須玉町誌発刊と聞く多麻の誰かが町誌で此の事にふれて呉れたら幸と思う。


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