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茅点景(茅ケ岳)太宰治の死
多田莞氏著(『中央線』1968 中央線社 掲載 一部加筆)
茅に金峰に秋たちて里に流るる七草よ
子供のころこんな歌を聞いたことがある。しかしこれ以外に茅が歌われていることを聞いたことがない。名画や名文の中に茅のいることを知らない。
茅ケ岳、一七六四メートル。古い休火山である。竈二重火山で外輪山の火口壁は破壊せられ、芽ケ岳とその北方の金ケ岳は旧火口を破ってできた新しい火山と聞く。新火山といっても、もちろん富士や八ツとは比較にならないずっと昔にできあがっているのだ。あの謙虚な稜線がいい。それにあの裾野、悠然とした傾斜に従って南に登美の高地をつくり、北は浅尾の広野をつくって八ツの裾野に連接している。あの規模は茅ケ岳だけのものだ。大きいのだ。古いのだ。大家である。老成しているのだ。だがちょっと誤れば、老獪(かい)、老醜のそしりを免れなくなりそうだが、そんな危険には無頓着で、おのれの天分とおのれの運命を信じきって、追随せず、妥協せず厳然としているのがいい。
孤高である。いや孤高というには低すぎるか。とにかく孤独。毅然とした孤独。ひとりでよくやっているなあというあの感じ、そんなものが茅の個性なのだ。
小学六年生の秋、ぼくは修学旅行に旅立った。熟田神宮にお参りし、名古屋城を眺め、翌日二見浦の日の出を拝んでから内宮に参拝するというコースで、ぼくにとって修学旅行と名のつく、最初の旅行であると同時に最後の旅行でもあった。日本が戦勝気分に酔っていた時代である。
早朝の韮崎駅。汽車は媒煙を吐き吐き七里岩をのぼる。俯瞮すると駅広場。人がいる。見送り人がいる。車窓の少年たちは喚声をあげ手を振る。ぼくも手を振った。だがぼくを見送ってくれる人はいない。母親という贅沢な存在は失われていたのである。しかたなくぼくは手だけそのままにして、視線を移した。その視線の中に茅(茅ケ岳)がいた。そう、まさにいたという感じー寝冷えしないよう、腹をこわさないよう、新調した帽子を飛ばさないよう、そう言っている慈母の姿だった。だがぼくはすねた。泣いた。しかし茅はどう見ても慈母の姿などというロマソチツクな存在ではない。山の中のすねものだ。ぼくのすねた心はあの時茅から移植されたのかもしれない。當士に見おろされているからいけないのだ。にせ八ツなどと軽蔑されているからいけないのだ。だが茅がいかに山の中のすねものだろうと、けっして下品でないからいい。冷厳なまでの気品、風格、
そんなものを備えている。
昭和二十三年六月十五日、ぼくは玉幡の釜無川原の木陰に寝そべって、遠くに霞む小さい茅ケ岳を眺めていた。そして茅のあの諦めきつた表情は辟易だ。茅のあの老成した風貌はやりきれない。もつと酷しいもの、もつと峻厳なもの、死と対峙した冷酷なものが欲しい。そんなことを考えながら、少年らしい深刻な表情をつくっていたのである。それというのも、朝教室へはいったとたん眼にはいった黒板の落書きが大きな心の衝撃になっていたのである。
太宰治死す
戦後特異な作風をもって将来を嘱望されていた人気作家太宰治は、十四日未明、山崎富栄と連れだって玉川上水に入水情死せり。
辞世の詠、
池水は濁りににごり藤波の影もうつらず南降り続く。
誰かが新聞記事を披き書きしたものである。もちろん辞世の詠というのは自作ではなく、伊藤左千夫の作で、短冊にして伊馬春部に贈ったものだが、こんな文句が達筆で大書されていたのは大きな驚きだった。驚きというのは太宰治の情死ということばかりでなくこの新聞記事をいち早く読み取って「嘱望」だの「惜死」などというぼくのよく知らない熟語を書き慣れた筆致で書いている級友がいるということであった。
ぼくは興奮した。熱力学の講義が始まってからも、その跡を喰い入るように見つめていた。もちろん講義は耳にはいらない。ぼくはそっと教室を抜け出て来たのであつた。山梨工専が玉幡の飛行場跡の兵舎を使っていたころである。
太宰治という作家はぼくの記憶の底にあった。それより一月ほど前古本屋で求めた「展望」の前年二月号に「ヴィヨソの妻」というのがあって、漫然と眼を走らせていたが、読み終わってガクソと一撃をくらった。それは人生の深淵を覗いたような、大げさに言えば少年の人生観を根底からくつがえすような打撃であった。小説というのはリリシズムかロマンチシズムの上塗りにしかすぎないというようにしか思っていなかった十八歳の少年にとっては、それは魅力というよりは蠱惑的で倫理を越えた人間の美というようなものを感じたのだった。
あの作者が自殺する。やっぱりなあーだが情死とは句を意味するのだろう。そして実生活と小説との連りはどうなっているのだろう。ぼくはまじめに考えたのである。あの時の茅は忘れられない。けっして俗流に妥協せず、不遜なまでの矜持をもって聲えていた。
太宰治なんてわからない。だが人問にとって死と直面するような、何か魂を凝結させるような緊迫したものがあってもいいではないか。人類のためだの社会のためだのと大げさなことは言わない。ただ十八歳の少年の小さな魂を燃焼させるもの、そいつが欲しい。そう思って茅ケ岳を見ると、芽は淡雲に包まれて、冷淡に暖昧な微笑をもって見おろしていた。あの冷淡さ、あの無関心、あの茅はすばらしかった。
それから何年か経ってぼくは東京の病院にいた。大手術をしたのである。文学的想像力と実感とははたしてどの程度の距離があるものかと、その手術に触れた文学書を読みあさり、自分でも、もし助かった場合、自分の想像がどの程度正鵠を得たものになるか、というような意味で、術後の苦痛と生活とをあらかじめ書き綴っておいたのであるが、事実は想像の及ぶところではなかった。いかなる文学もいかなる想像も、けっして実感を的確に表現するものでないことを知ったのである。
ぼくは迷った。人生というのはこれほどの苦痛をためてもなおかつ生きるに価するものなのだろうか。そして文学はその人生のどこに位置するものだろうか、と。
そんなくだらないことを考えているある日、甲府の友人から駒ケ岳と茅ケ岳の二葉の写真が届いた。ぼくは嬉かった。すぐ病室の壁にはってもらった。いずれも早春のもので、駒には険しい雪が、茅には暖い雪が光っていた。かねがねぼくは雪の茅は気にいらなかった。あれは俗である。人まねである。みっともないと思っていた。だがその写真の茅は違っていた。等高線と平行して潔癖なまでの一線を画し、その上が雪。夕陽を反射しているのである。ぼくはやっぱり生きようと思った。
その日の夕方、主治医とは違う当番医が回診に見えた。
「ほほう、これは甲斐駒だね。ぼくも二回登ったことがある。フィアンセとね。全くすばらしかった。こちらはどこの山かね。裾野は小諸から見た浅間山麓に似ているが。」
ぼくはその日からその医師を軽蔑することにした。駒ケ岳に二度登った人が、どうして茅ケ岳の存在を認めないのだろう。爾来、いい山と見れば登りたくなり、いい女と見ればものにしたくなる男とはつきあわないことを決心した。
いい山でたくてもいい。いい男でなくてもいい。とにかくおのれの位置に不動の根を張り、高潔に生きるのが人の生活というものだ。ぼくはいまだに茅に登っていない。
太宰治 山梨県関係サイト
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